芭蕉は生涯6度伊勢を訪れたという。伊賀と伊勢とは近くでもあり、最初は西行法師の遺跡、神宮参拝、二見浦などの名所見物が主で、勿論伊勢俳諧の祖荒木田守武の遺跡の訪問などもあったかも。名を上げた後は伊勢俳人との交流が活発になっていく、しかし伊勢での行動を見ると俳諧興行、名所見物を交互に行い、精力的な芭蕉の姿が見られる。伊勢への最終の訪問となった元禄二年では「奥の細道」の大旅行後でさえ、俳諧興行こそないものの遷宮参拝、二見浦見物などあちこちに出没している。今回俳諧興行がなかった理由として伊勢蕉門への失望論が取りざたされているがもっと単純に考えて遷宮の真っ最中とのことで伊勢の蕉門の中心の御師たちは忙しくてとても暇がなかったと考える方が妥当かな。
 芭蕉の後半よく口上にのぼった「かろみ」、その実践において、平易で俗語をふんだんに駆使した伊勢の俳人の句との共通性が窺える。とくに後に神風館3世を継いだ神職でもあり、のち蕉門に入った涼兎の句は調子も軽く伊勢俳諧の特徴を出している。伊勢の俳人との交流のなか芭蕉の「かろみ」が熟成されてきたかも。但し後半では何処までも軽い伊勢の俳風と自分の「かろみ」の奥にある独創性に富んだ俳風がかなりの食い違いを見たのは当然の結果ともいえる。
 江戸でも松葉屋風瀑など伊勢の俳人との交流も深い、晩年大阪でも一有、園女などとの交流。近江の俳人達との交流に比べれば少ないようだが、京、近江は生活の場でもあり伊勢は一時の出会いの場であったかも、伊勢で詠まれた発句に人の口に上る句が無いの残念だが、逆に伊勢では芭蕉はのんびりした日を送り、緊張感のある場を演出する事が出来なかったのかな。
 翁終焉の地、御堂の花屋仁右衛門宅にも伊勢の俳人も呼ばれており長い交流が窺える、そして墓地の義仲寺にも伊勢俳人の句碑も並んでいる?。
 芭蕉の生涯をいろんな本を読み、考えてみるとそこには現在の三重県人の性格が至る所に窺える、まず有名になっても俳諧を職業として生きるのに抵抗を感じている(もっとも生活力が無かったのではない、糧を他の道で得ていただけなのだ)、江戸に居ても常に故郷を意識している(芭蕉の故郷への帰郷回数については藤堂藩の厳しい取り決めによる5年に1回の帰郷、現在地、職業の報告の義務付けなどまじめにこなしていたとの報告もある)。弟子といえども頭ごなしに怒ったりせず丁寧に応対する、まじめに俳諧の道を邁進する、人との争いを好まない、結構気を使いこまめに手紙を書く、派手なことを好まない。こんな芭蕉がここまで有名になったのは不思議な気がする、やはり非凡な才が自然と押し上げたかな。