ボクサァ

 高橋いさをの脚本である。 戯曲が出版されているので(「ある日僕らは夢の中で出会う」に併載) 高校演劇などでも比較的好んで上演されている、 「タワーリングインフェルノ」などのパニック物の パロディーという印象の作品である。 私は最初この作品を戯曲で読んでそのときは面白いと思ったのだが、 その後これを高校演劇祭で実際に上演されたのを観て まったく面白いと思わなかった。 そういう性質の脚本なのかもしれない。 そのせいか今回観た芝居の批評もかなり辛くなってしまうのだが、 誰に責任のあるというものでもない。 強いて言えば脚本選択の失敗であろう。

 しかし、脚本選択の良否はともかくとしても、 総合的にあまり評価できるものではなかった。 特に役者達の滑舌の悪さは目に余るものがあった。 照明・音響も歯切れが悪く、 ミスってるのではないかと観る者を不安にさせるものであった。 特にラストは音響のレベルが低すぎた上に 照明とのシンクロが取れてなかったので、 芝居を「終わらせる」ことができなかった。 この脚本は、言葉で芝居を終わらせることを放棄しているため、 ここでのミスはまさに致命的。 役者にとっても、観客にとっても、スタッフにとっても、 その閉鎖空間にいるすべての人間達の間に 気まずい雰囲気が流れてしまった。

 さらに演出に統一感がなかった。 私はこの脚本をパロディーだと解釈したのだが、 はたしてそういうアプローチはなされていたのか甚だ疑問だった。 しかしこの脚本をパロディーだと意識しないで読むと 台詞の意味など訳が分からなくなってしまうのではないだろうか。 そのせいか役者がどうやってやったらいいか 戸惑いながら演じている印象であった。 もっともこれは好意的な解釈で、役者がずぶだったのかも知れない。 しかし、いずれにしろ演出の責任であると私は思う。

 演出に統一感がないというのは、 演出の意志というものを感じなかったということなのだが、 その根拠は役者達が好き勝手に演っていたように見えたということだ。 特にミウラという役を演った役者は台詞回しや動きなど なかなか面白いところもあったのだが、 それらは断片的で「舞台全体にわたる一貫性」が欠如していたため、 練習中のアドリブの域を出ていなかった。 また、他の役者達が平凡そのものだったため、妙にミウラが浮いてしまった。 もっとも、ミウラという役は脚本上でも少し浮いてはいるのだが、 それは質が違う。 それとも質が違うことを承知でミウラという役を浮かせるために こういうキャスティングをしたのだろうか…… するとそれが「演出の意志」ということになるのだが、 これは穿って見過ぎであろう。

 「舞台全体にわたる一貫性」の欠如は、他の役者たちにも見られた。 もちろんパロディーであるから 登場人物の心理の流れなどにこだわるのはナンセンスなのだが、 どうもパロディーである自覚があってやってるようには見受けられなかったし、 その割には断片的(ほんと断片的)に 明らかにパロディーでやっているようなシーンがあった。 そのせいで高校演劇などでよく見られる 「演出不在」の芝居を見ているような気分になった。

 もっともこの脚本に限って言えば、 役者が自由に「遊んだ」ほうが面白くなるであろう (その「遊び」を人に見せられる段階にまで 引き上げるのが演出の仕事になるが)。 そういう意味ではある程度まで役者に任せてしまってよい。 しかし、非常に疑問だったのが後半からラストに至るまでの脚本の解釈である。 パンフレットに載っていた演出の前書きから察するに、 人間の認知上の虚構と現実のあやふやさを テーマとして掲げていると思われるのだが、 そのテーマ性自体があやふやな舞台であった。

 好意的に見れば、恐らく演出が具体的にそれを どう表現したらいいか分かっていなかったのだろう。 演出が脚本にある程度与えていた解釈を、 演出自身がそれを表現する段階には至ってなかったということかもしれない。 漠然としたイメージがあっても、 それすら具象化できなかったのではないか。

 もちろん演出の考えが具象化されなかったことの責任の一端は 役者にもある。 そして演出自身が「これは違う」と思いつつ 本番を迎えてしまったであろうことは気の毒に思うが、 ラストの解釈だけは役者に任せてしまってはいけない。 一方役者はこの解釈を(本来それが演出の仕事なのだが) 演出に任せてしまっていたのではないだろうか。 結果、誰も支える人のないラストの解釈が空しく浮遊してしまった。

 結論めいたことを言えば、 今回の舞台は観客・役者・演出の三者が三者とも この脚本をどう解釈していいかわからない (わかっていない、自信を持っていない)舞台だった。

 まあ確かに、読んだだけじゃ訳が分からないラストではあるし、 作者の意図を無視して色んな解釈で 色んな舞台が作り上げられてきた脚本だけに、 脚本を解釈するってこと自体がナンセンスかも知れない。 そういう意味では色んなスタンスがあっていいとは思う。 「結果的に面白ければ善い」という類いの脚本ではある (もちろんこれも一つのスタンスに過ぎない)。 一応フォローのつもりで書けば、 単純にあんまり面白くなかったってことで 解釈について云々言ってるだけなので、 演出の解釈が的外れだとまでは言わない。 手法の問題だと割り切ってしまってもいい。

 それにしても、重ねて書くようだが、 裏方の手際の悪さはどういう訳だったのだろうか。 音響はレベルチェックをしていないかのようなていたらくであったし、 照明も自信がなさそうな感じ(と、この言い方は抽象的すぎるか)であった。 大道具・小道具は……それなりに作ってあったか。

 そういえば私は開演時間ぎりぎりに会場についたのだが、 まだ開場すらしていなかった。 開演が押すのは日常茶飯事だが開場が押したなんて、こんなことは初めてだ (しかし受付の女性は来た人ひとりひとりに声をかけて 事情説明と謝罪をしていた)。 それと上演前のアナウンスは 何を言っているかまったく聞き取れなかった。

 何から何までけなしてばかりで、 どこそこが良かったと書けないのはいささか心苦しいが、 たまにはそういう舞台もある。 もっとも、入場無料だったし、学内なので交通費もかかってないし、 もとより知人が出演するのを観に行ったというだけのことなので ここまで難癖ばかり書く筋合いはないのかも知れないが……。

以上
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Last modified: Fri Jun 25 15:30:44 1999