朝日新聞と清里の特殊な関係

朝日新聞と清里の特殊な関係


1996/4/23
法律用語でいうところの特殊とは、マイナーな意味を持っている(例 えば特殊浴場)。そういう特殊な関係に清里と朝日新聞が、いつから なったかは定かではない。日々購読している新聞記事を見ながら、い つからか、この新聞社と清里には特殊な関係があり、そこに疑惑の影 を感じたまでのことだ。

ある新聞社がある地域に特別な愛着を感じ、その地域を特権的に記事 化したところで、それはその新聞社の勝手である。書くことも、書か ぬことも新聞社の自由だ。書くことの選択、書かぬことの選択は、だ から当然、新聞社の好みのポリシーの問題だろう。

しかし、同時に新聞には、社会的に最低限の書かねばならぬ事柄を書 く義務と使命があることも常識だ。そのことを書くことによって多く の人命の、健康の危機を回避できる事柄を、もし故意に書かなかった としたなら、それは新聞社としては犯罪行為になるだろう。

データはないから説得力はないが、もし朝日新聞山梨版のCDーRO Mがあるなら、過去の記事からキーワード清里を検索したなら膨大な 記事を取り出せるだろう。それらの記事を幾つかのカテゴリーで分類 していく。山梨県の清里開発をどのように報じたか調べて見れば、多 分、県の開発を肯定支持する広報的な記事ばかりが出てくるだろう。 県の開発を疑問視、批判する記事がどれだけ見つかるだろうか。

清里は高根町の面積的にも、ほんの一角の地域で、その地域がその新 聞に載った記事量は、他の地域との比較統計的にも異常なほど膨大で、 その記事内容はその記事量を必要とするとはとても思えぬ話題ばかり で、そういう記事量・記事内容を持ちながら、山梨県の清里開発の問 題点を指摘・究明するというジャーナリズムとして決定的に重要な記 事を持ち得なかった(持つことを回避した)のは、相当に奇妙で異常 なことだろう。

それらの記事の総体を結論するなら、清里は素晴らしいところで、山 梨県の開発も素晴らしく、そこに住む人々も素晴らしく、その地域を よい子の住むモデルとして新聞社の記事埋め情報源として利用してい こうという新聞社の醜い戦略が見えてくるだろう。

その新聞社は、フィクションの清里物語を捏造し、そのフィクショ ンのコンセプトに適合しない情報をカットし出した。県の狂った開発 としか言い様のない様々な事実(大門ダム水源汚染など)を無視し、 書かないという形で、県の開発を肯定支持した。これは、清里以外の 地域に対しての決定的な背信・犯罪行為だろう。

こういう事はどうして起きたのだろう。つまり、清里物語を捏造す る根拠が何処にあるのかが問題なんだ。仮に、新聞というものが事実 をだしにしてフィクションを作るものとしても、そのフィクションを 作る動機なり目的を必要とするはずで、朝日新聞の清里物語りの動機 なり、目的とは何なんだろう。

この大新聞が社会正義という偽善を演じることが大好きなことは有名 で、山梨版も談合問題とかその他(環境問題も清里以外ではかなりし ている)の権力の監視と批判はある程度している。それ故に、清里で の山梨県の狂ったとしか言い様のない開発行為に対して、肯定的広報 記事は載せても批判的な言及がなされないのが、極めて不自然なのだ。 編集方針として、清里におけるマイナス情報・記事を書かない・載せ ないという、確固とした編集力学が機能していると言わざるを得ない。

では、そういう編集方針は何故作られたのか。それが問題だ。それが、 清里開発の主体である県企業局から金を貰っているとか、清里の観光 から金を貰っていると言うような単純な構図に収まってくれるなら、 単なる大スキャンダルで楽しい限りなのだが、そんな事は間違っても 有り得ない。天下の朝日がそんな事をするはずがない。では、何がそ うさせるのか。清里とその新聞社が特殊な関係にならざるを得ない、 その可能性の事柄。それが問題だ。

例えば、朝日新聞社が事業上、清里のある種の施設に人的物的に深く 関与がある場合。これは可能性がある。そして、それらの施設を支持 すべく、清里のイメージアップを図り保つために、山梨県の清里開発 の深刻なデメリットを無視した。そうだとしたら、これも相当のスキ ャンダルだろう。

次の可能性は一般的なものだ。女性週刊誌がある時期、清里を持ち上 げたように、流行情報の商業的価値からのみ清里を取り上げ、既に情 報価値が崩壊した今も惰性で取り上げている。清里との人的ネット ワークが形成され、それに深く関与し続けることによる泥沼化。ルー トセールスのように、形成された人的ネットワークからの情報源を確 保すべく、そのぬるま湯的な関係を傷つけ崩壊させるような、清里に マイナスの記事を控える。この可能性は大である。

最大の可能性は、面子説である。この新聞社は、ほとんど自社の面子 だけで記事を書いていると言ってもいい。希望と幻想とを傲慢と自惚 れだけで記事を書き続けてきた。ある人物、ある地域、ある国を一旦、 自分達が支持してしまうと、その人物、その地域、その国への希望と 幻想に反する事実に決して目を向けなくなるという、恐るべき習性を その新聞社が持っていて、それは結果としてその新聞社が自分達は絶 対的に正しく間違わないという傲慢さを、その面子を限りなく守ろう とする恐るべき醜い姿なのだ。面子を守るべく、厳粛な現実・事実か ら目を逸らすなら、それはジャーナリズムとしては、最大のスキャン ダルだろう。

新聞社は、記事という証拠を隠滅できない。書いたこと、書かなかっ たことも(記事の不在という形で)、記事として残っている。朝日新 聞山梨版の過去20年分の清里関連記事を解読・分析すると、疑惑の 影の正体が明らかになるだろう