中央改札 交響曲 感想 説明

時の調べ 第四十九話 意思と意志と遺志
FOOL


 最初は、何も感じなかった。

 故郷も、友人も、家族も、何もかも奪われたと言うのに。

 喪失感を感じていたのは、確か。

 でも、感じていたのはそれだけで、他の感情は心の内には存在せず。

 空を見上げ、故郷を思った。

 途端に膨れ上がる郷愁。哀切。思慕。爆発する憤怒。

 失った。奪われた。壊された。

 故郷を。友を。家族を。約束を。

 さりとて、奪われたのは些細な事。壊されたのは些事。失ったのも小事。

 怒りの原泉はそこには無い。それらは全て、引き摺られた感情。

 更に奥深い場所、漆黒の深海から浮かび上がる気泡の如く。

 生々しい傷痕から滲み出る膿と血の混じり合った腐水の様に。

 復讐者。殲滅者。虐殺者。いずれの物か、混沌の泥から突き出る人の腕。

 混沌を掻き分けながらゆっくりとせり上がってくる『   』の腕。

 無数の傷が刻まれた腕。傷が化膿し膿んでいる腕。化膿した傷に蛆がひしめく腕。

 腐敗した肉がこそげ落ちている腕。蛆が成長し蝿になり、その蝿に卵を植え付けられる腕。

 ひたすら緩慢に食い尽くされて行く腕。食い尽くされる前に、再生してしまう、腕。

 混沌に沈めば楽になる。苦痛は消える。苦悩も消える。ただ、ただ永遠の安息のみがある。

 しかし『   』はそれを拒絶する。

 腕の全てがせり上がる直前、近くの混沌が盛り上がり人の顔の下半分が現れる。

 現れた口が動き、かすれ、罅割れ、血反吐を吐くような音がする。

 その音は幾度も繰り返された。全く同じ音を、繰り返し、繰り返し、繰り返す。

 狂気を流す壊れた蓄音機。一体何度繰り返したか、流れる狂気が鋭く、細く、明確な『声』になる。



 『―――ウばっ…タ―――』



 『奪った』。それが理由の全て。

 『奪われた』事など、どうでもいい。

 ただ、奴等は、『奪った』。たった一つの大切なものを奪った。

 自分を殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し続けて!

 常に持ち続けた、一切の情を差し挟まぬ『第三者の視線』。

 その視線から見た世界が、教えてくれた。

 奴等が、自ら『神』を僭称する奴等が奪ったもの。

 悪戯少年達から『悪友』を。

 死病を患う少女から『大好きな人』を。

 真面目な少年から『親友』を。

 そして、最愛の少女の、『兄』を。
















































「隙有りぃっ!!」

「ぐおっ…」

 シファネの突き蹴りががら空きだった一人の神の背中に突き刺さり、吹き飛ばす。
 勢い良く流れる飛影。その進路上に立ったレニスが真正面から神剣の刃を突きたてた。
 そのまま生まれる炎の渦が二人の姿を覆い隠し、戦場から隔離する。
 神剣技の一つ『紅三十二式・乱龍閃』。
 突き立てた剣をそのままに、その巨大な左腕で相手の上半身を鷲掴みにしたレニスが凄惨な笑みを浮かべた。

「燃えろ」

 零距離からの火属性高位中級魔法トリニティフレア。
 三匹の龍を象った白炎が狭い結界内を荒れ狂い神とレニスの身体を嬲り尽くす。
 神は渦巻く炎の中で絶叫を上げながら力を解き放ち、自らの両腕とレニスの左腕を消滅させる。
 しかしそれに構わずレニスは『紅四十四式・界斬』を発動。
 巨大化する剣に結界に押し付けられ、その苦痛に悲鳴を上げる前に神の体は結界を突き抜けた。

「シファネ!」

「言われなくても!」

 シファネの周囲を旋回していた円紋が二つ、その神を中心とした対角線上に配置される。
 間髪入れず放たれた『紅四式・飛炎昂』と『白銀五式・空冷盾』の炎刃氷刃が円紋の力で針の様に収束され神の身体に突き刺さる。
 更に内部でレニスの炎とシファネの氷が激突。相反する属性のぶつかり合いで発生した大規模な水蒸気爆発と
レニスとシファネの『力』のぶつかり合いで発生した超次元湾曲波が内側からその身体を引き裂いた。

「まずは一人」

 瞬時に復元させた左腕を一振りし、レニスは残りの三神に向き直る。
 先程から全く動かない老神とその傍に控える若神。
 共に攻撃を仕掛けてきていたもう一人の神。
 彼らの顔には同様は無く、むしろ余裕すら浮かべていた。

「……何となく解った」

「レニス、後ろ」

 シファネの忠告が終るか終らないかのタイミングでレニスの頭部が吹き飛んだ。
 倒したと思っていた神が、二人の後方で手をこちらに突き出していた。
 前方の空間にレニスの血肉と脳漿が撒き散らされ、神たちの顔に微かな愉悦が浮かぶ。

「ふふふ、どうした? その程度では我等は殺せぬぞ?」

「そうみたいだな」

 過程をすっ飛ばしてレニスの左腕と頭部が復元される。
 まるで悪夢のような光景だがこの場にこの程度の事を気にする者は存在しない。

「少し見ないうちにタフになったな」

 元通りになった頭部の調子を確かめるように首をコキコキ鳴らすレニス。
 近くのシファネが無雑作に手を振り、数百の氷槍を撃ち放つが、それらは命中すると同時に尽く砕け散る。

「効いてないな」

「ええ。前々から人間じみてると思ってたけど、ここまでとは」

 神を睨むシファネの瑠璃色の瞳に忌々しげな光が浮かぶ。
 右肩の白狼が威嚇するように唸り声を上げるが、神の方は何処吹く風とそれを受け流す。

「ふふふ…気付いたか」

「気付かない訳無いでしょう。でもまさか私達の複製を自分の器にするとは思わなかったわ。
 汚物以下とか豪語する肉体に自らの精神と魂を入れるなんて、ね」

「どれだけ汚れていようとも我等の高貴な魂が入ればすべからく浄化されるのだ」

「抜け抜けと…」

 若神は不快そうなシファネを見て満足げにワラった。
 そのままレニスのほうを見て嫌味ったらしく唇を吊り上げる。

「それにしても、あれだけの啖呵を切った割には無様ですなアークライト殿?
 御身体の具合でも悪いのですかな?」

「その名で呼ぶな」

「おや、アークライト殿の御機嫌を損ねてしまったようだ。これは困った」

「嫌がらせでその名を呼ぶのなら止めて置けよ。後で後悔するぞ」

「フッ、後悔するのはどちらでしょうな」

「…これは脅しじゃない。心優しい俺からの忠告だ」

 意味ありげな微笑を浮かべたレニスに怪訝な思いを抱いた瞬間、雪色の十二翼が大気を打った。
 神速の踏み込みで放たれた突きを若神は生み出した光剣で何とか受け止めるが、
勢い衰えぬ突進に力負けし轟音と多大な砂塵を巻き上げて大地に縫い付けられる。
 巨大な左腕が胸を押さえ、凄まじい握力で握りつぶそうと圧迫してきた。

「あまりムキになってもらっても困るな。服に皺が寄るじゃないか」

「あまりキザな口調で話されても困るな。嬲り殺したくなるじゃないか」

 雪が紅に変わる。激しく燃え猛る炎翼が蜘蛛の足のように折れ曲がり、その切先を若神に向ける。

「この程度で私が抑えられると」

「思っちゃいない」

 レニスの右腕の二翼が伸びた。
 天高く舞い上がったそれが神の一人に絡みつき、炎の繭となって拘束する。

「本命はこっちだ…!!」

 ニヤリと笑い、レニスは力を込めて右腕を引き跳躍する。
 炎の鎖と化した炎翼が音を立てて流れ、神を捕えた繭を鉄球さながらに叩き付けた。
 立ち上る火柱。穿たれる大地。だがレニスはその結果に満足せず、立て続けに炎の鉄球を振るい続ける。

「 う お お お お お お お っ ! ! !」

「舐めるなアークライトおおおおおっ!!」

 雄叫びと共に若神が炎塊を抱き止める。
 猛り狂う炎に手を置き、その一部を左右に引き裂いた。
 その隙間から神が脱出すると炎はすぐさま消えて元の雪色の翼に戻った。
 間髪入れずレニスの漆黒の腕から黒い炎が噴出し、一本の矢が生み出される。
 それを右腕の翼弓に番え、撃ちだした。

「舐めるなと言ったぞ!!」

 若神の力の一振りで炎矢は払われ、捕えられていた神が絶妙なタイミングで放った光の鎖がレニスの体を突き破って絡み付き、お返しとばかりに大地に叩きつける。

「取った!!」

 鎖を引き絞り、引き寄せたレニスの身体に右手に持った光の槍を突き立てた。
 それは内部で四散し、肉体と精神全ての結合部を破壊していく。
 尋常ならざる再生能力で辛うじて肉体を保ってはいるが、それ上回る速度で結合部を破壊していく光槍。
 このままでは遠からずレニスの心身はバラバラになってしまうだろう。
 精神を飲み込まんとする激痛の中、レニスは「ニイッ」と唇の端を吊り上げた。

「お化け屋敷って知ってるか?」

 レニスの身体が、黒い粘液と化して溶けた。









 時間は少し遡る。
 レニスが若神を大地に縫い付けたのを視界の隅に収めながら、シファネは素早く背後に円紋を回した。
 背後にいた神が長剣を振り下ろし、途端にぶつかり合った力が激しいスパークを放つ。
 振り下ろされた剣を受け止める円紋は波立つ水面のように揺らいでいた。

「円紋を力ずくで破れる程の力、か」

「『氷麗姫』御自慢の円紋もこの程度か。聞いたほどではないなぁっ!」

「……っ」

 神が力を込めて前に出ると、ぐぐっと長剣が円紋の中に押し込まれてくる。
 そして数秒の後、それは切り裂かれ、シファネの身体は袈裟懸けに切り裂かれた。

「この身体、ただの複製だと思うな。秘めし力はお前達の比ではないわ!」

「……ええ、よくわかったわ」

 シャリン、と、鈴の音のような音と共にシファネの神剣グロウスフィアが小さな弧を描く。
 神の剣を持っていた右手首が、音も無く落ちていった。

「なっ……なあっ!?」

「よくわかったわ、貴方達が私達よりも弱いってことが。
 あの程度の円紋、停滞無しで切り裂けなくて何を威張るのか」

 細かな風切り音が鳴る度に神の身体が小さくなっていく。
 傷口を覆う氷膜が再生を阻むが故に、その緩慢な速度は一向に衰えず。

「あ、あああっ、おおおおおおっッ」

 もう一人いた神はレニスが炎翼で捕え、持って行ってしまった。
 老神は何を考えているのか分らないが一向に動く様子が見えない。
 何か策でもあるのか、それともこの神ごときを助ける気が無いのか。
 しかし、動かないと言うならそれはそれで都合が良い。この神の相手をゆっくりできる。

「私達の身体の複製を使ってるんでしょ? だったら、初心者(ルーキー)に私達の戦い方、教育してあげるわ」

「まっ、まてっ! 貴様私を――」

「だーいじょぶだいじょぶ。取りたてだけど教員免許はちゃんと持ってるから。ね?」

 場違いに明るい口調と春の微風のような微笑に一瞬見惚れた神だったが、
傷口を覆っていた氷が砕け散った衝撃で我に返りその一瞬の隙を突いて一気に身体を再生させる。

「何のつもりだ。あのまま私を殺す事も出来た筈…」

「教育してあげるって言ったでしょ? 栄えある私の生徒第一号なんだからしっかりと勉学に励むのね」

 教鞭代わりの神剣をヒュッと神に差し向け、人差し指をクイクイッと動かし挑発する。
 神は、それを挑発と理解して尚シファネと相対し剣を構えた。
 裂帛の気合と共に残像も残さぬ神速の踏み込みで放たれる必殺の斬撃。

「せあああああっっっ!!!」

 しかし、それを嘲笑うかのようにシファネの掌打がカウンターで鼻っ面に叩き込まれる。
 手がそのまま首を掴み、背負い投げの要領で振り回して背中から地面へと投げつけた。
 隆起した地面が、天然の凶器となる。

「お見事。力、技、スピード、防御力その他諸々私やレニスよりも数段上ね」

 でも、と言いかけ上空から叩き落した神の上に『着地』する。
 衝撃で大地が隆起し、天然の凶器が神の身体を深く抉る。

「でも、そんなもの私達の戦いには必要無いの。重要ではあるけど、絶対のものじゃない」

 うつ伏せに押し潰された神の両手首を掴み、力強く背中を蹴った。
 岩の槍が胴体を貫いた。両腕が肩口から千切れ飛ぶ。
 彼女の美しい足が綺麗な弧を描き、延髄に斬り裂くような踵落しを突き立てる。

「必要なのは、自分以外の全てを捩じ伏せる――」

 続けて爪先を腹部へと食い込ませ、駆け出す動作をそのまま前方へ蹴り出す動作へと繋げる。
 それを追うように駆け出し、跳躍。右腕を大きく振り被り、拳を強く握りこむ。
 白狼の咆哮と共に、それは振り落とされた。

「――圧倒的な『暴力』のみ!!」

 大地に叩きつけられる頭部。
 潰れた頭蓋から飛び散った血飛沫が大地を濡らした。
 シファネは淡く明滅する翠の円紋を纏い、舞うように傍らの大地に降り立った。

「理解した? 私達と貴方達の違いが。ただ強いだけじゃ私達には勝てない。
 それだけで勝てるなら、私達はとっくの昔に死んでいた」

 神の身体が再生しない。加えられたダメージがあまりにも大きく、再生能力も著しく低下しているのだ。
 言葉が届いているのかどうかも怪しい神に更に何か言ってやろうと胸板に五指を突き立て、
持ち上げた所でシファネはもう一つの戦場で起こった異変に気が付いた。
 シファネは暫らくそのまま眺めていたが、突如クスリ、と口元に小さな微笑を湛えた。

「レニスが良い見本を見せてくれるみたいよ。ほら、しっかり見ておきなさい」

 彼女の生徒は、騒ぐ事無く授業を受けた。


















 その『闇』は、異常だった。
 溶け崩れたレニスの残骸であるそれは崩壊地点から周囲を侵食していた。
 分速3mものスピードで広がる『闇』の表面はただただ静かで、僅かな揺らぎすら生じない。

「なんだ、これは……?」

「…危険……だ…」

 足元まで迫ってきた『闇』を見て若神ともう一人の神が上空に退避する。
 すでに『闇』は大都市に匹敵するほどの面積を覆い尽くしていた。

「…危険……危険……」

「さっきから…一体何が危険だと言うのだ?」

「気、付かない、か…? 無数、の意思。無…数の生、命。無、数の、存在。この『闇』は…」

 言葉に出来たのはそこまでだった。
 何の前触れも無く『闇』の中心点が膨れ上がり、そこから長大な巨身が踊り出る。
 漆黒の闇炎で構成されたその巨身はギロリと真紅の眼で二人の神を視界に収めると、
その巨大な顎を開き、ズラリと並ぶ闇炎の牙を剥き出しにすると圧し掛かるように襲い掛かって来た。

「こ、これは…っ!? その身を構成するものは違えど間違い無い…」

 小島程度なら苦も無く圧し潰す巨身をなんとかやり過ごし、戦慄に慄きその名を叫ぶ。

「海王リヴァイアサンが、なぜッッッ!!」

「下を」

「下!? ――ッ、な、なんだと、いうのだ……」

 今度こそ、若神は完全に絶句した。
 大地を侵食し続ける『闇』から次々と生まれ出るおびただしい数の神獣、聖獣、魔獣、幻獣、ありとあらゆる獣の群。
 その背後からは魔界に住まいし悪魔や魔人、天界にて賛美歌を歌う天使の姿も垣間見える。 
 その全ての共通点はその身体を構成するものが血肉ではなく、漆黒の闇炎である事。全ての眼が真紅に彩られている事。
 そして、その眼に宿る荒れ狂わんばかりの敵意の全てが、若神達に向けられていることであった。

「何が起こっっつおっ!?」

 振るわれたガーゴイルの鋭い牙を辛くも弾くが、天を舞うフェニックスが降らせる劫火の雨にその背を焼かれる。
 空駆ける馬上からデュラハンの騎槍が襲い掛かり、大地からはケンタウロスの矢が射掛けられ満足に動く事も出来ない。
 マーライオンとスフィンクスが踊りかかるとその隙を突いてヘルピエロが致死性の猛毒の染み込んだ杖を突き出し、
さらにサイクロプスのの投げ放った岩石が大砲並の速度で飛来する。
 実際は、一体一体の能力は大した脅威では無い。
 だが、たとえどれだけの力で薙ぎ払おうと大地を侵食する『闇』から次々とその身を起こし、襲い掛かってくるのだ。
 吹き散らそうとも闇炎の破片が小さなインプとなって眼を潰そうとしてくる。体内に侵入して内側から破壊しようとしてくる。
 身の内から湧き上がるのは追い詰められる者の焦燥、未知の力に対する畏怖。そして、もっとも原始的な『恐怖』。
 それを自覚した瞬間、『闇』が大きく膨れ上がった。

「!! 逃げろおっっっっっ!!!!!!」

 膨れ上がった『闇』から、巨大な口が現れる。大きな、大きな、大陸すら丸呑みに出来よう巨大な口。
 異世界デルトニークに住まう、万物を喰らいし超々巨大生命体ドルン。通称『大口(ビッグマウス)』。
 その大口は他の闇炎の軍勢諸共に神二人をその口内に納め、閉じた。











 ドルンの口が閉じるのを眺め、シファネは薄っすらと笑った。

「向こうの世界じゃ滅多に出来ないレニスの荒技『戦場(ヴィグリード)』。
 希少価値は高いわよ。良い物見れたわね?」

 声をかけるが、手の中の神は一言も発さない。
 二、三回振り回してみるが何の反応も返さないので、シファネは呆れを全く隠さず盛大な溜息をついた。

「授業はちゃんと聴きなさい。そんな事も出来ない悪い子は――」

 ドルンの顎から逃れた一匹のケツァルクァトルが悠然と空を舞っている。
 シファネが軽く手招きをするとその有翼大蛇はスウッと近付いてきた。

「蛇の餌よ」

 ケツァルクァトルの口が開く。シファネが神を放り投げる。
 見事に口の中に収まった神は、そのままケツァルクァトルに飲み込まれていった。













 軍団の猛攻は続く。
 ドルンの輪郭が崩れるとその破片がまた新たな獣や魔に生まれ変わり、悠然と宙に佇む老神へと殺到した。
 だがその軍団は触れる事すら出来ずに次々と消滅していく。
 リヴァイアサンの巨身が圧し潰さんと迫るが、老神に触れる部分だけがポッカリと抉り取られたかのように消滅した。
 明らかに、この老神は他の三神よりもその身体の扱い方を理解していた。

 大地を侵食していた『闇』と闇炎の軍勢が一瞬燃え上がり、消滅する。
 そして『闇』のあった中央部、その大岩の上には瀕死の若神を踏みつけながら屹立するレニスの姿があった。
 雪色の十二翼と漆黒の巨腕は消えているが、その闇髪紅瞳は見紛う筈も無い。

「――――よお、爺さん。ようやくあんた一人だな」

「そのようだ」

 大地に立ち、真っ直ぐに老神を見上げるレニス。
 足の下の若神は時折苦しそうにうめくものの、身動ぎ一つできずにいた。
 しかし、次の老神の言葉にその表情が凍り付く。

「それは殺さんのか?」

「……っ!!?」

「ああ、これか? 殺しても良いんだけど…もう少し役に立ってもらってからな」

 他愛ない世間話を交わしながらグチッと若神の肩を踏み潰す。
 だが、若神は悲鳴を上げる事すら出来ない。
 精神と肉体が切り離されたかのように、その身が思うように動かなかった。
 出来るのは、疑問と救いを求める視線を老神に投げかける事だけだった。

「…なんだその眼は? 私に助けでも求めているのか? フンッ、己の様な役立たず、なぜ助けねばならん?
 それにもう手遅れだ。貴様は自ら破滅を選択した。もう後戻りは出来むよ」

 訳が解らず表情を歪める若神。
 そんな彼に、恐ろしい現実が襲い掛かってくる。

「立て」

 レニスの一言。その一言に驚くほど敏感に反応した若神の身体は素早くその場に立ちあがった。

「修復」

 今まで一向に再生する兆しの見えなかった傷が瞬く間に癒されていく。
 何が起こっているのか全く理解できぬ若神に、レニスは小さく笑いながら言った。

「だから言ったろ? 俺を『アークライト』の名で呼ぶなと」

「―――――『呪名』か!!?」

 若神は自らに降りかかった現実を理解した。
 神族や魔族に伝わる禁呪の中でも特に危険度の高い呪術の一つ。
 『呪名』と呼ばれるその呪術は、他人に特定の名で呼ばせる事により相手の真名を拘束し、完全に支配下に置く術である。
 元々使用できる術者は極めて少なかったが、その術の性質上あらゆる者達がその存在を恐れ、抹消した筈の呪術。
 その存在しないはずの禁呪が、このレニス・アークライト・エルフェイムの名に使用されていたのだ。
 『大口(ビッグマウス)』ドルンの顎から生還した理由を悟り、若神の精神は完全に恐怖に塗り潰される。
 この術に支配された者は、支配した者が許さない限り、死ぬ事すら出来ない。

「俺がそれを知る前だったら、ただの嫌がらせでしかなかったんだがな。―――突撃」

 若神の身体が浮き上がり突撃体制に入る。
 彼の意思など微塵も介入しない自滅行動。
 そんな事にお構いなく、レニスはそれを実行に移した。

 若神の身体が老神に向かい突き進む。
 老神がそれを阻むべく障壁を発生させるが、若神は肉体の損傷を無視してその障壁とぶつかり合う。
 そしてそのまま、

「――――ブラスト」

 空に爆炎の花が咲いた。
 若神の身を全てを破壊エネルギーに転換し、自爆させたのだ。

「よく燃えるわね」

「ああ。でも―――」

 隣りに下りたシファネに答えながらも、爆炎と煙の向こう。
 球状の結界に包まれた無傷の老神を見て、レニスは脱力した。

「見た目ほど役に立たなかった」

「強制的に支配下に置いた者を爆弾代わりに使うか。鬼畜じゃのう」

「それは誉め言葉だぜ、爺さん。さて」

 再度老神を見上げたレニスは神剣レヴィスフィアを抜き放ち、ズドンッと剣を大地に突き立て、震わせる。

「リクエスト通りに三人とも殺してやったぞ。そろそろ動いたらどうだ?」

「御苦労じゃったの……いやいや、貴様らに感謝する日が来るとは思わなんだ。
 そろそろあの三人も邪魔になってきたからのう…こうして連中の力を取り込めるのも貴様らのお陰じゃて」

 閃光が弾けた。
 三者が同時に放った巨大な力の余波が大地を薙ぎ払い空を引き裂き空間に罅を入れる。
 逆巻く劫炎と天流るる氷河が老神の力をぶつかり、数秒間拮抗した後吹き散らされる。
 咄嗟に後方に飛び退いて回避するが、そんな二人を追い立てるかのように立て続けに力が撃ち込まれる。

「脈絡も無く何気にヤバイぞ」

「そうね」

 淡白な言葉のやり取りの後、すぐにその場を飛び退いた。
 何時の間にそこに居たのか、老神がローブから覗く口元を歪め手にした尺杖を振るった。
 シファネは咄嗟に振り抜いたグロウスフィアで尺杖を受け止めるが、止める事すら出来ずに大きく吹き飛ばされる。

「必要なのは『暴力』じゃったな。いやいや実に分り易い授業じゃった。良い教師になれたかもしれんの」

「あら、PTA会長の御墨付き? あまり嬉しくないわね」

 シファネは軽口を叩くが、受けたダメージは今までの中で最大のものだった。
 今こうして立っていられるのは彼女が防御や回避という点でこの場にいる誰よりも長けていた為であり、
受けたのがレニスであれば今の一撃は逸らす事も受ける事も出来なかった。

「ほうらもう一度吹き飛べ!」

 地を滑るように滑空しながら肉薄して来る老神が顔面に向けて拳を振り上げる。
 それに対しシファネは円紋を全面に結集させ拳の軌道を逸らし、さらに発生する衝撃波も拡散させようと試みるが、

「っう!」

 全ての円紋が結集しきらぬ内に放たれた拳は軌道こそ逸らせたものの衝撃波の方は拡散しきれず、
それの直撃を受ける形になったシファネは再度木の葉のように吹き飛んだ。
 また岩盤に身体をぶつけるのかと覚悟を完了させた時、いささか乱暴に抱きとめられた。

「元気そうで何より」

「…何のつもり?」

 レニスに抱きかかえられたまま心底嫌そうに顔を顰めるシファネだが、
レニスもそれに負けぬくらい嫌そうに顔を顰めつつも老神と距離を取る。

「陸見を助けてもらった。あんなのでも一応友人だからな」

「借りは作りたくない?」

「特にお前にはな」

「ふうん……」

 シファネの腕がスッと首の後ろに回され、そのまま固定する。
 レニスがその事に気付き、シファネの方を向いた時、触れるか触れないかの至近距離にシファネの顔があった。
 そして、ガアンッと壊れた鐘の音のような衝撃がレニスの脳天を貫いた。

「借りを作りたくないのはこっちも同じなのよっ」

 突然の頭突きを為す統べなく貰い、揺さぶられた意識を何とか繋ぎとめながらレニスは僅かな怒気を込めてシファネを睨みつける。
 だがシファネの瑠璃色の瞳に宿る激情はレニスの比ではなく、怒りは少しの苛立ちに取って代わられる。

「返す傍から借りを作って…本っ当に嫌な奴!!」

 ヒョイとレニスの腕の中から飛び出し、小さく鼻を鳴らしてそっぽを向く。
 先程の激しい怒りに染め上げられた瞳とこの子供っぽい仕草のギャップに少々面食らわないでもなかったが、
レニスの顔に浮かぶのはどこか嘲りを含む微笑だけだった。

「痴話喧嘩は終ったかな?」

「ああ、無事に離婚成立だ。弁護士を呼んでくれ」

「いやあ、その必要は無い。離婚は立派な罪の一つ。罪を犯したものの末路は――」

 皆まで言わせずレニスは闇属性中位上級魔法ケイオスウェイブを発動。
 シファネの氷結属性高位下級魔法ラビットテンペストの氷の跳弾が闇の衝撃波の中を駆け巡り、老神の視界を塞ぐ。
 さて次はどうするかとレニスが神剣を逆手に持ち替えたとき、シファネがチョイチョイと服の裾を引っ張って来た。

「……やらないの?」

「何をだ」

「だから、アイツ、支配してるんでしょ」

「……おおっ」

 先程の事だと言うのにすっかり忘れていた事を思い出し、思わず拍子を打つレニス。
 あからさまな非難と馬鹿にした視線を向けるシファネを無視してレニスは老神と向かい合う。

「もう一度死ね」

 老神の一部となって尚『アークライト』の呪名の支配下に置かれている若神の力が暴走し、内部から爆発を起こす。
 何事が起こったのか咄嗟に理解できなかった老神だが、自分の一部が今だにレニスの支配下にある事を察し、
完全に一体化する前にその力を切り離そうとするが

「もう一度だ!」

 再度暴走、爆発。
 溜まらず膝をつく老神。その身体からは多数の黒煙が上がり、全身にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。

「ブラストォッ!!」

「まだまだぁっ!!」

「もういっちょおっ!!」

 一瞬たりとも休ませる気はないのか自爆自爆自爆の嵐。
 起爆装置をレニスに握られた無限生体爆弾を内包することになった老神は
内側から溢れ出す力の爆発についに耐え切れなくなり、血反吐を撒き散らしながら倒れ伏す。

「き、貴様らっ、この戦いをっ、こんな、こんなふざけた決着で……ッッ!!」

「お前にとってこの戦いは御大層な命題が掲げられた神聖な物なのかもしれないが…」

 レニスの指が鳴り、老神の身体が火を吹いた。
 もんどりうって倒れるその身体を見下ろしながら、冷たく静かな声で声で告げた。

「俺達にとってはただの通過点に過ぎない。結末が笑劇(ファルス)だろうと構いやしないんだよ」

 愕然とする老神に横合いから無慈悲な一撃が加えられた。
 攻撃の止んだ隙を見計らい、シファネが神剣の一撃を叩き込んだのだ。
 地を這うように倒れる老神に、シファネは暖かな微笑と、レニス以上に冷たい声で、言う。

「そういう訳だから、死んで。早く」

「……クックックッ…クッハッハッハッ……そうか、そうかそうかそうか。
 ハハハッ、ハハハハハハ、貴様等は、最初から、私達などに、何の価値も見出していなかったのか…」

 むしろ、二人を仇敵と付け狙っていた自分達の方が二人の価値を認めていたのではないだろうか?
 『世界の猛毒』『廃棄物』『炎帝』『氷麗姫』『棄てられたモノたちの王』『帰還者』
 様々な呼び名、二つ名、その数は正しく自分達の恐れを示すものではないか。

「いいえ、殺すだけの価値は貴方にはちゃんと存在するわ。それで私の気が済むし。だから、早く、死んで」

 繰り出されたシファネの必殺の一撃を、老神が思いも寄らぬ速度で回避する。
 すぐにレニスが若神を自爆させるが、老神の口元に浮かぶ笑みは消えなかった。

「貴様等の気持ちが少し理解できた……復讐心、と言うのかな。それとも別の何かなのかな。
 とにかくだ……決めた。私は、どんな手段を使ってでも貴様らを見返す。私の事を認めさせてやる」

 突如、老神の力と存在が爆発的に膨れ上がった。
 その力の増幅は留まる事を知らず、ついには肉体に変化をもたらし始める。
 老神の輪郭が盛り上がる。ローブを突き破って次々と変化する身体。
 皮膚が硬質化し、背と腹を強固な甲羅が覆っていく。
 最終的に見せた姿は、竜と鮫と獅子の三つの頭部をもつ巨大な亀。
 醜悪なオブジェと化すとも老神は力の増幅を止めず、更に自らの力を高め続ける。

「おいジジイッ!! …って、もう自我崩壊してるぞアイツ。一体何が…」

 そこまで言いかけて、ハッと顔を上げる。
 眼の前で全く同じ動作をしていたシファネと視線が交差し、互いが同じ結論に達した事を悟る。

「自爆かよ!?」

「しかも嫌なやり方。ここだけじゃない、他の幾つかの世界も巻き添えに吹き飛ぶ腹積もりよ」

 その幾つかの世界には、当然レニスとシファネの故郷であるあの世界も入っている。
 今ならばまだ間に合うだろう。この老神のなりの果てを殲滅すれば現時点で溜め込まれているエネルギーだけが解放される。
 それは今居る世界を消滅させる程度で済むだろう。だが――

「くっ…あ……行き当たりばったりのクセに生意気な……っ」

 大元である老神の身体を構成しているのはレニスとシファネの複製と彼自身の霊的構成物質。
 この霊的構成物質が自らと同質の力に対する増幅器の役目を果たしている。
 つまり、レニスとシファネ、この二人の複製である老神に二人が攻撃を叩き込めばそれだけで力が臨界点を突破し、爆発する。
 第一この化け物を葬るほどの攻撃を叩き込もうものならそれだけで消滅する世界の数は爆発的に増加するだろう。

 熱くなりかけた思考に理性という冷却剤を大量に注ぎ、なんとかクリアで冷静な思考を保つ。
 大きく深呼吸。成長を続ける怪物を前に波立った感情も無理矢理であったが押さえ込む事に成功する。

「シファネ」

「却下」

「何も言ってないだろう」

「解るわよ。私達と同質じゃダメ。なら、それ以外をぶつければ良い。だったら答えは一つ」

 不服そうに柳眉を曲げるシファネにレニスが手に持っている物を投げつけた。
 空を裂きながら飛来するそれをシファネが受け止めると、それは彼女の予測通りのレニスの半身たる神剣レヴィスフィアだった。

「お互い我侭言える状況じゃないだろう。文句を言わずに『それ』で斬って来い」

「増幅をなんとかできても、とっくに私達の世界を巻き込めるぐらいには成長してる。
 第一、これで増幅を防げる保障は無いわ」

「何とかする」

 力強く言い切るレニスの言葉は、何故かシファネの癪に障った。
 この感覚を、彼女は知っていた。この不快感、喪失感、幸福感、諸々の入り混じる狂った感情。
 レニスの行動を悟ったシファネは、黙ってレニスの左胸にグロウスフィアを突き立てた。

「……レニス? 貴方の命は私のモノなの…勝手に無くさないで欲しいわね…」

 心臓よりも少し上に突き立てられた刀身が、ズブリと、肉と骨を裂き下がっていく。
 シファネの空いた左腕はレニスの背中に回され、まるで愛しむような仕草で背を撫でる。

「…………抵抗、しないのね」

 グロウスフィアの刃がレニスの心臓に触れた。
 そこで初めてレニスの腕が上がり、剣身を掴み取る。
 斬り裂くような凍気がレニスの手を凍てつかせ、細胞レベルで凍結される。
 何の防御手段も取らずにシファネの神剣を握ればどうなるか、解らぬレニスでもない。
 それなのに、神剣を握る彼の手は、完全に凍り付いていた。

「…悪いな、シファネ」

「……」

「今の俺の最優先事項は、お前を殺す事じゃないんだよ」

 どこか暖かい真紅の瞳と何も映さない瑠璃色の瞳が交差する。
 抱き合うような姿勢のまま、女が男の胸に剣を突きたてたまま、二人の時間が過ぎる。
 そのままで、女の唇が小さく動いた。

「大嘘吐き」

「なに」

「本当は私が欲しくて欲しくてたまらないくせに。
 奪いたくて、蹂躙したくて、犯したくて、それ以上に殺し尽くしたいくせに。
 腕を切り落として、足を引き千切って、眼球を抉りぬいて、五臓六腑を抜き出して、
 もっと、もっと、沢山の事を私にしたいくせに。自分も馬鹿馬鹿しく思う大嘘吐いて。
 見ていてすぐに解る痩せ我慢は、本当、笑えるわ」

 沈黙するレニスの胸に額を押し付けながら、さも可笑しそうにクスクスと笑い出す。
 そのまま一頻り笑い、いまだ笑いが収まらぬままスッと神剣を引き抜くと、
シファネは自らのグロウスフィアとレニスのレヴィスフィアを重ね合わせた。
 一瞬、激しいスパークと共に反発しあった二振りだったが、すぐに互いに溶け合い、一振りの両手剣へと融合を果たす。

「今回は、その大嘘に免じて協力してあげる。この『剣』も振るってあげるわ。
 だから、貴方がやらなければならない事はやりなさい。何が何でもやり遂げなさい」

「言われるまでもない」

 レニスが先程シファネにつけられた傷口に自らの右手を差し入れた。
 肉を裂き骨を砕き、そのまま力任せに左胸を裂き開いてその中のモノを引き摺り出す。

「行けっ、シファネ!!」

 シファネが地面を蹴り、飛翔する。
 『剣』を引っ張るように両手で握り、老神の変化した怪物へと肉薄する。

 引き摺り出したモノとレニスを繋ぐ血管や神経を引き千切りながら圧縮言語での無音高速詠唱を開始。
 頭上高くに掲げられた、今だに脈動を続ける心臓を中心に大きな力が構築され始める。
 心臓を、己の命全てを媒介に発動する多積層防衛結界陣。
 しかしそれを持ってしても、全てを守りきる事は出来ないだろう。
 だが、自分達の故郷のある世界だけならば、守り抜ける。守り抜く。
 もし『剣』による攻撃でも増幅されるなら結界陣も意味をなさないだろう。
 増幅されなくとも、今溜まっているエネルギーだけでも結界を破ってしまうかもしれない。
 だが、それでも、レニスは、もう二度と『奪わせる』わけには行かなかった。
 死にはしない。消えもしない。
 死ぬのは選ばなかった命。消えるのは選ばなかった世界。

 傲慢で残酷な命の選択を行なう。
 重ねた罪がまた増える。背負う命がまた増える。



 シファネが『剣』を振り上げる。


 レニスの防衛結界が完成する。








 ――レニスの意識は、そこで途切れた――
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