中央改札 交響曲 感想 説明

時の調べ エピローグ
FOOL


 ――笑顔は仮面 涙は虚像 その後ろに在るのは硝子の嘆き――





 アリサ・アスティアは、乳白色の霧に包まれた世界に立つ。
 頼りないのに不思議と不安を抱かせない地面。
 虚ろな思考の片隅で、微かな理性がこれは夢だと訴える。





 ――遥かな空 遥かな記憶 ゆっくり貴方へ堕ちて行きたいの――





 歌声が聞こえる。昔、ずっと昔に聞いた歌。
 『彼』が作り『彼女』が歌っていた歌。
 とても哀しいのに、なぜか憧れを感じる歌だった。





 ――寂しき空ゆく愛しき方よ 無限の孤独を望みし貴方よ――





 眼の前に『あの人』と『彼女』が立っていた。
 二人の姿を見た事は無かったけれど、直ぐに解った。
 居なくなった時の姿のままで、二人ともとても穏やかに微笑っている。





 ――もしその心(つばさ)折れたなら 私の想いは止まり木となる――





 年老いてしまった自分が二人を置いてきぼりにしてしまったような気がして、少し申し訳無い。
 自分は歳を取った分だけ、楽しい事や、哀しい事を経験できたのだから。
 何時かもう一度出会えた時の話題には、きっと事欠かない。





 ――たとえ刹那でも構わない 壊れた想いを抱き締めて――





 『彼女』が胸元でヒラヒラと手を振って、『あの人』の口が聞こえない言葉を紡ぐ。
 途端、胸の内に大きな安堵感が生まれた。そして、小さな哀しみも。
 しかし、その哀しみは抱かなくても良い感情なのだろう。
 だってあんなにも二人は―――
















 ――カーテンから差し込む朝日と、静かな朝と言うには少々喧しい小鳥の囀りでアリサは眠りから覚めた。
 ゆっくりと息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。
 深呼吸を何度か繰り返し、そこでようやく眼を開ける。
 今では完全に習慣になっているが、これは子供の頃、中途半端に見える世界が嫌で
部屋に閉じ篭っていた時に『彼』が教えてくれた勇気の出るおまじないだ。
 今思えば普通の深呼吸と何処が違うのかと思わないでもなかったが、
このおまじないが無ければ自分が外に出る勇気を持てなかった事も確かだった。

 隣りにある専用ベッドでテディが身動ぎをする気配を感じるとアリサはベッドの上に身を起こし、
傍にかけてあったストールを肩に羽織る。今日の朝の日差しは少し強かった。

「ふぁ〜〜〜っ…ムニャムニャ……ハッ!? あ、ご主人様おはようございますッス!」

「おはようテディ。今日も良い天気になりそうね」

 朝の挨拶を交わし、ベッドから立ち上がると慣れた足取りで洋服ダンスの前まで行って寝間着のボタンに手を掛ける。





 『彼』が帰って来ないまま、あの日から一週間が過ぎようとしていた。













「おはようございますアリサさん。朝食の仕度は出来ていますよ」

「おはようフィリアちゃん。何時もありがとう」

 階段を降りると香ばしいトーストとスープの香りと共にフィリアが朝の挨拶をしてくれる。
 彼女はこの家に住むようになって一週間ほど経った頃から家事の一部を請け負ってくれるようになった。
 言い分は「居候の身で何もしないのは申し訳無い」と当り障りの無いものだったが、
彼女の本音が別の所に在る事に気付いていたアリサは優しく微笑んで了解した。
 その気持ちはアリサも十二分に理解できるものであったし、何より、とても嬉しかったから。

 テーブルに着こうとすると、椅子がスッと引かれた。
 ぼんやりとした視界に長く朱い髪が見える。

「おはようアリサおばさん」

「おはよう魅樹斗クン。嬉しいけど、あまり無理はしないでね」

 ハッキリと見えない視界の向こうにある人懐っこい笑顔を思い浮かべ、アリサは進められるように腰掛ける。
 先日の騒動の時の魅樹斗の両腕の怪我はまだ完治していなかったが、日常生活に差し障りは無いとの事だった。
 後で陸見から聞いた話だが、協会に戻ってきた時の魅樹斗の姿はそれは酷いものだったそうだ。
 血塗れで捻じ曲がった腕でローラを抱え、落石から彼女の体を庇って頭部や背中には幾つもの裂傷や打撲の後。
 しかもナイフのような形状の岩が何本か背中に刺さったままでの帰還。そのおかげかローラには傷一つ無かったが。
 病院でのトーヤの怒りを含む呆れた声をアリサは今でも覚えている。

 滞りなく終った朝食の後片付けを流しでフィリアと並んで行なう。
 アリサが洗い、フィリアが洗剤を落として流し台の上に置く。
 当初は互いに自分がやると言い張ったものだが、今では習慣となっているこの風景。
 何時もよりホンの少し早く終るこの時間が寂寥感を醸し出すが、フィリアもアリサも億尾にもそんな事は表に出さない。
 そんな二人をテディが不思議そうに見上げるが、アリサに抱き上げられるとその事はすっかり頭の中から消え去っていた。



「では、いってきます」

「ええ、いってらっしゃい。気を付けてね」

 テディを引き連れたフィリアと魅樹斗が仕事に出かける。
 あの日の騒動では幸い深刻な死傷者は出なかったものの、町の建造物等への被害は避けられなかった。
 道を塞ぐ瓦礫や高位魔法により空いた大穴など修復しなければならない場所はかなりの数が上る。
 二人はその手伝いに行ったのだが、もっぱら二人の役目は日の当たる丘公園での炊き出しである。
 この一週間で作業はほぼ終了。おそらく、今日が最後の仕事になるだろう。





 二人が出かけた後、一通りの仕事を終えると暇な時間が出来る。
 さて何をしようかと考えた時、ふと、ピザを作ろうという考えが浮かぶ。
 作業を手伝っているみんな、中でもリサやピートは特に喜んでくれるに違いない。
 そこまで考えて、今は材料を切らしてしまっている事を思い出した。
 買いに行こうかどうか迷っているうちに、玄関のドアが小さくノックされた。

 返事を返し、席を立つ。もしかして仕事の依頼人だろうか?
 今日までは町の復旧作業を優先していた為に急ぎの仕事以外は断っていたのだが、少し位なら受けても良いかも知れない。
 でも今日まで忙しく働き詰ていたみんなを休ませて上げたいという気持ちも強い。
 うん。依頼人の方には申し訳無いが、今日のところは御遠慮願おう。
 その結論に達した丁度その時に扉の前に到着する。
 少し待たせてしまったと思いながら、少し急いでドアノブを回した。

「はい、お待たせしました――?」

 ドアを開けた途端、アリサの眼の前に何かが差し出された。
 反射的にそれを受け取ってしまう。触った感じは金属に近いがどこか暖かい。
 おぼろげな輪郭と手に持った感覚でそれが一振りの剣だと悟る。
 今抱えているのは抜き身の刀身だが、刃が無いこの剣がアリサの手を傷つける事は無い。

「一つ、訊きたいんだけど」

 腕の中の剣に見入っていたアリサに、唐突に眼の前の人物から声がかけられた。
 声から判断して歳若い女性だろう。その女性の髪だと思われる薄紅色が強く印象に残る。

「嘘を吐かれた事、怒ってないの?」

 問い詰めるのとも、訊ねるとも違う。
 答えを一切期待していないようで、でも、答えを欲する子供のような。
 淡々と、と言うには慈しみが垣間見える、声で。

 突然の問いの意味を、アリサは咄嗟には理解できなかった。
 黙って答えを待つ女性と少しの間対峙して、ようやくその意味に辿り着く。

「嘘なんて吐かれてませんよ」

 女性から微かな動揺と困惑の気配が伝わってくる。
 そして、どこか期待しているような感情も。

「『直ぐに』帰って来てくれますから」

 強い確信を持った声で、ハッキリと口にした。
 女性から呆れとホンの少しの羨みが感じられる。
 女性の想いを感じながら、アリサはなおも続ける。

「もし嘘を吐かれたとしても――」

 剣を胸に抱き、顔を上げる。
 女性の瞳が在るであろう場所に視線を向け、

「私の方が、いっぱい、いっぱい、嘘を吐いて、我侭を言って、迷惑をかけて来たんですから」

 ――おあいこです――

 そう、はにかむような微笑を浮かべて、答えた。
 確かに、一時期は怒り、恨みもした。枕を涙で濡らした日々も在った。
 しかし、それは全て相手の事を一切考えていない自分の我侭だから。
 それは違うと言われるだろう。それは正当な権利なのだと言われるだろう。
 でもきっと、『彼』は背負わなくても良い責任まで背負って立っているのだから。
 無理矢理にでも自分の責任を自分で背負わないと、何時までも『彼』に寄り掛かるだけの荷物になってしまうから。

 スウッと、突然に、アリサの頭を何かが撫でた。
 眼の前の女性が自分の頭を撫でているのだと理解すると同時に少し気恥ずかしくなる。

「本当に……勿体無いくらい、良い子」

 その時、この女性はきっと微笑ったのだろう。
 頭の上に置かれた手から伝わる彼女の暖かな想いが流れ込んで来るような感覚が心地良い。
 心地良い時間は、始まりと同じように唐突に終った。

「少し、羨ましいな」

 それだけを言い残し、女性は踵を返した。
 アリサはその背に感謝を込めて一礼し、家の中へと入った。



















 遠くから聞こえる時報の五点鐘。それがアリサの意識を現実に引き戻した。
 どれだけの時間そうしていたのかは分らない。
 ただ、手に持った剣をジッと見詰めていただけの時間が終ってしまったのが少し寂しい。

 結局、あれからピザは作らなかった。何をしていても意識が剣に向かってしまうから。
 一応材料は買ってきて作る準備も済ませたのだが、水の割合が多すぎてビチャビチャになってしまった生地を作ってから断念した。

 夕日が大分傾く時間だが、誰も帰って来る様子は無い。
 思ったよりも仕事が長引いているのだろうか。それともさくら亭でみんなと談笑しているのだろうか。
 ずっとこの場に居たアリサにそんな事が分ろう筈も無いが、少し心配になった。
 子供ではないのだから大丈夫だろうが、それでも心配なものは心配だ。
 早く、帰って来て欲しいと思う。

 子供達の喚声が家の前を通り過ぎた。
 その声に遠い昔の記憶が呼び起こされ、懐かしさに口元を綻ばせる。
 昔は自分も随分と無茶をしたと思う。
 『彼』が『あの人』を引っ張り回すから、自分は自然とあの二人の後ろをついて回っていた。
 周りの人たちはきっと気が気ではなかっただろう。

 今の自分はそんな輪の中から離れてしまったけれど、きっと楽しいだろうと思う。
 『彼』を中心にこの店のために集まってくれたみんなは、とてもいきいきとしていたから。

 玄関の前に人の気配を感じる。
 持っていた剣が震えたような気がした。
 心臓の鼓動が少し早くなったのは、気の所為ではないだろう。
 玄関の扉のほうを向いたまま、身動きが取れなくなる。
 眼を閉じて、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、眼を開けた。

 ――やっぱり、このおまじないは凄い。
 まず剣を置き、立ち上がる。胸に手を当てて、もう一度深呼吸。
 場違いにも『あの人』のプロポーズを受けた時の事を思い出した。
 あの時にもこのおまじないのお世話になった。

 コンコン、とドアがノックされた。
 返事はしない。黙ってドアの前まで移動する。
 ずっとこの時を待っていた。すっとこの言葉を言いたかった。
 ドアのノブに手を掛け、回し、ホンの少し躊躇して―――




 ――二十七年の時を越えて、兄妹は再会した――





「ただいまアリサ」



「おかえりなさい、兄さん」




















 〜fin〜
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