中央改札 交響曲 感想 説明

トリニティ・ウィル 第二話『家』
FOOL


 泣き止んだ雫が顔を上げた時、既に壁にかけられた時計の長針は10を指していた。
 流斗はふと髪留めが無いことに気がついたが、後で代わりのゴムでも貰う事にして
日の光をキラキラと反射させる長い黒髪はそのままにしておくことにした。

「あははっ、なんだか、昨日から泣いてばかりだな、私」

「それは…僕のせいなのかな。やっぱり」

「うん。すっごく心配したんだからね」

「ゴメン。ちょっと無理しなきゃならなかったから」

 そこまで言うと、急に雫がジト眼で睨みつけて来た。
 流斗は慌てて脳をフル回転させるが、睨まれる理由は大怪我をした事ぐらいしか思いつかないし、
なによりそれは先程謝ったばかりだ。雫はそこまでしつこい性質ではなかったはずだが。

「知ってる。クレアさんから話は聞いたから」

「クレア…ああそうだ、クレア。彼女の怪我は…」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんと一緒にここまで運ばれて来たけど、
両腕の怪我は応急処置が早かったからすぐに治るって」

「そうか…良かった」

 彼女の無事を知り、安堵の息を吐く流斗だが…またも雫に睨まれた。
 流斗にしてみれば「はて、自分は何か悪い事でもしたのだろうか?」という感じである。

「良かった、じゃないよ! 話を聞いた時には心臓止まるかと思ったよ!
 なんで自分の怪我を治そうとしなかったの?
 応急処置無しでもお兄ちゃんの怪我の方がよっぽど酷かったんだよ!?」

 目尻に涙を溜めながら、もう少し近づけば触れるほどの距離まで接近して捲くし立てる。
 だが流斗にとってそれは、彼女が自分を案じてくれていた証明である。
 しかもその怒った顔も、小さな口から放たれる怒鳴り声だろうと、流斗から見ればとても可愛らしい物でしかなかった。
 流斗はそんな雫を見て心の中で苦笑すると、視線を雫に合わせてその口を開いた。

「彼女をあんな危険な目に遭わせたのは完全に僕の責任だったし。
 それに、彼女を見てると…雫を思い出したから」

「え…? 私……?」

「彼女、この町にお兄さんに会いに来たんだって。しかも本人に手紙の一つも出さずにね」

 さも可笑しそうに笑う流斗をキョトンと見つめる雫。
 先程から抱き合ったままの二人だったが、不意に、雫を抱き締める流斗の腕に力が篭る。

「そういう行動的な所を聞いて…雫に似てるって思った。
 歳も同じで、同じ妹と言う立場にあることも理由なんだろうけど、それでも、似てるって思ったんだ」

「お兄ちゃん…」

「だから、守りたかったんだよ。ただの自己満足だって事は解ってたけど、
お前の傍にいられなかった、守れなかったから、その分、彼女は無事に
お兄さんに会わせてあげたかったんだ…結局、怪我をさせてしまったけどね」

「…ズルイ」

「え?」

 いきなり、雫は流斗を抱き締める腕に力を込め、
その顔を流斗の胸に埋めながらか細い声で呟いた。

「そんな事言われたら…怒れないよ…」

「雫…」

 雫の声に、若干の涙が混じる。
 縋りつくように流斗に抱きついたままで上に向けた顔を覗き込むと、
その眼には僅かに涙が溢れているも、それでも、嬉しそうに微笑んでいた。

「でも、今日からは雫を守って上げられるよ。
 こう見えてもオーガと大立ち回りが出来るぐらいには強いんだからね」

「やられちゃったくせに」

「う゛……それは言わないでおくのが吉だよ」

 速攻で返されたツッコミに思わず汗するも、雫の体を離し、ベッドから立ち上がる。
 雫も少し寂しそうな顔を見せるものの、素直に流斗から離れた。

「さて、そろそろクラウド先生に挨拶に行かなきゃな。
 雫がお世話になったし、昨日は僕まで迷惑をかけちゃったから」

「あ、私も一緒に行く♪」

 近くにかけてあった上着を羽織ると、すぐに雫が腕にしがみ付いてくる。
 ずっと欲しかったおもちゃをようやく手に入れた子供のように幸せそうな笑顔の雫に対し、
流斗は頭を撫でてやる以外の術を知らなかった。














 時計の針が後子一時間で正午を指そうかという時、トーヤは病室の方のドアが開いた事に気付き頭を向けた。
 すると、そこには昨日の旅装束そのままの流斗と、彼の腕を幸せそうに抱き締めている雫の姿があった。

「えっと…おはようございます。クラウド先生」

「眼が覚めたか、流斗」

「はい。昨日はご迷惑をおかけしました」

「全くだ。雫などお前が運ばれてきた時には半狂乱になっていたぞ」

「ト、トーヤ先生!!」

 昨夜の醜態を暴露され、顔を真っ赤にしてトーヤに抗議する雫。
 それを聞かされた流斗はと言うと、その時の光景がありありと脳裏に浮かび、申し訳なくなってまたも雫の頭を撫でる。
 雫は醜態を暴露された恥かしさと人前で頭を撫でられる恥かしさで軽いパニック状態に陥ってしまった。

「流斗、怪我の診察をするからこっちへ来い」

「あ、はい。ゴメンな、雫」

 組んでいた腕を外された拍子にハッと我に返る雫。
 その間に流斗は雫の傍を離れ、トーヤの対面の椅子に腰掛ける。

「では服を脱いでくれ」

「はい」

 トーヤの指示に従って手早く上着とシャツを脱ぐと、僅かに赤く染まった包帯が巻かれた白い肌がさらされ、
一見華奢ながらも、立派な体格をした上半身があらわになる。髪留めが無く、腰まで伸びた艶やかな黒髪が
部屋の空気にされるがままに揺れ、サラリと聞こえる筈の無い音を鳴らした気がした。
 流斗は脱いだ衣服を纏めて近くの椅子の上に置くと、そのままトーヤと向かい合うように椅子に座る。
 トーヤは黙って流斗の身体に巻かれた包帯を取り除いていく。白い床に所々赤く染まった包帯が落ちていく様は、
どこか、触れただけで彼が砕けてしまうような、儚げな印象を周囲に放っていた。

「ふむ…傷はもう塞がっているのか。見た目よりも頑丈な奴だな」

「見た目ってなんですか。まあ、結構無茶な仕事もしてましたから」

「だが少し無理をすれば傷口が開く。妹共々無茶はしないことだ」

「大丈夫ですよ。暫らくは雫と一緒にいられるようにお金は結構溜めてきましたから。
 普通に暮らす分には三ヶ月は大丈夫です」

 少し得意げに胸を張る流斗。
 その時、医院の出入り口の方からのドアが開き、数人の男女が姿を見せた。
 流斗は反射的に振り返り、その数人の中にクレアと昨日自分達を助けてくれた銀髪の女性がいる事に気付き、
とりあえず挨拶をしようとした所、いきなりツンツン頭の大男が大慌てで部屋の外に飛び出していった。
 流斗が呆気に取られていると、他の人達も謝罪の言葉を言いながら診察室を出て行ってしまう。
 傍に居た雫も何が起こったのか良く解っていない顔をしていた。

「………なんだったんだろーね?」

「………僕に聞かれてもなあ」

「他人の、しかも異性の裸を勝手に見てしまったらああいう行動に出るのが普通だ」

「そうなんですか……僕は別に気にしないんだけどなあ。裸といっても上半身だけだし」

「そういう訳にも行くまい。それに、『女性』の裸は上半身だけでもマズイからな」

 意味ありげな笑みを浮かべるトーヤに、頭上に?を浮かべる流斗。
 雫は意味が解ったらしく、クスクスと笑い出している。
 流斗が悩んでいる間にトーヤは処置を済ませ、包帯を巻き終えていた。

「外で待っている連中を連れて来る。お前はさっさと服を着ろ、『お嬢さん』」

「……ああ、そういう事ですか」

「そういう事だ」

 ようやく理解できた流斗だが、その理由に思わずその場で項垂れる。
 トーヤと雫の可笑しそうな笑い声に、心の中で涙するのだった。
















「皆さん初めまして。雫の兄、遠凪流斗です。
 昨日は皆さんにもご心配をお掛けしたみたいで…本当に申し訳ありません」

 服を着てトーヤから借りた黒いゴムで髪を首の後ろで纏めた流斗が頭を下げながら挨拶をする。
 トーヤに呼ばれた面々は流斗が男だと気付いてごまかし笑いのような奇妙な表情を浮かべていた。
 例外は目が不自由なアリサと、昨日その事で散々気まずい思いをしたクレアだけである。

「もう、怪我は良いのかい?」

「はい。無茶をしなければ特には。えっと…」

「ああ、ゴメンよ。まだ名乗ってなかったね」

 流斗を助けた銀髪の女性が苦笑しながら前に出る。
 その動きに隙は無く、それだけで彼女が戦いを生業としている事が見て取れた。

「私はリサ。リサ・メッカーノ。今はこの町に留まっているけど、傭兵さ」

「昨日はありがとうございました。あの時、貴女がナイフを投げてくれなかったらどうなっていたか…」

「いやいや、あんたの動きもなかなかの物だったよ。どこかで訓練でも受けてたのかい?」

「知り合いに少し。でも、僕はやっぱり荒事には向いてないみたいで、あれが限界なんですけどね」

 照れ笑いする流斗の前に、今度はトリーシャとアリサが進み出る。
 勿論アリサの腕の中にはテディが抱えられており、興味深そうに流斗を見つめている。

「初めまして! ボクはトリーシャ・フォスターだよ。トリーシャって読んでね」

「初めまして。アリサ・アスティアと言います。こっちの子はテディ」

「初めましてっス!!」

 その三人(二人と一匹)の挨拶を聞くと、
流斗は僅かに目を輝かせ嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、貴女達が…」

「え? ボクとアリサさんの事知ってるの?」

「雫の手紙に、必ずと言っていいほど名前が出てきてたから。
 いつも雫の話し相手になってくれたそうだね。ありがとう、トリーシャ」

「そんな、大した事じゃないよ。ねえねえ、ボク達、手紙にはどんな風に書かれてたの?」

「ん。トリーシャは元気で明るい子だってね。自分の一番の親友だって言ってたよ」

 その言葉に、照れながらも嬉しそうに笑顔を浮かべるトリーシャ。
 流斗は、横から突き刺さる雫の抗議の視線を完璧に無視する。
 彼女が照れている事ぐらい見なくてもわかる。
 そんな妹に微笑ましさを感じながら、今度はアリサのほうへと向き直った。

「……なるほど。確かに犬を抱いた優しそうな人だな」

「ううっ! ボクは犬じゃないっス!!」

「ゴ、ゴメン。手紙通りだったからつい本音が…っ」

「フォローになっていないっス! ボクは…ボクは、犬じゃないっスぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!!!」

「はいテディー、病院でさわいじゃいけないよー」

 魂の叫びを上げながら雫に連れて行かれるテディ。
 なにやらまだ叫ぼうとしていたようだが、話の邪魔になるので雫とトリーシャの手によって部屋の隅へと引き摺られていってしまう。
 雫が元気なようで嬉しいなあ、等と呑気な事を考えながら、流斗は気を取り直してアリサと向き合った。

「いつも雫がお世話になっていたみたいで…本当にありがとうございます。
 本当なら、僕が雫の傍にいなければいけないのに…」

「いいえ。こう言っては、あなたは気を悪くするかもしれないけれど、
私も娘が出来たみたいで楽しかったの。だから、気にしないで」

「…ありがとうございます。そう言って頂けると…嬉しいです」

 アリサの、その全てを包み込むかのような柔らかな微笑みを見て、
流斗は、雫の手紙に書かれていた一文を思い出す。

『アリサさん、なんだか…お母さんみたいで大好きなの』

 雫は、母の顔を知らない。
 母は、雫が三歳のとき、戦争に巻き込まれて死んだ。
 父は、雫が九歳の時に、見知らぬ子供を庇って死んだ。
 それは幸せな事なのかもしれない。
 世の中には、親がいる事すらも知らない子供も沢山いる。
 しかし、

 ――――――――物心つく前から両親がいないのと。


 ――今までいた両親が突然いなくなるのと。


 ――― 一体、どちらが幸せなのだろう?―――――



 決まっている。どちらも不幸だ。


 雫は憶えていたのだろうか?
 あの時、母が死ぬ間際に自分達に向けてくれた、弱々しくも、暖かい微笑みを。

 そこまで思い出して、流斗はそれを振り払うように頭を振った。
 そんな事は、今この時には全く関係の無い話しだし、何より―――

 自分が、思い出したくない。

「…流斗クン、大丈夫? どこか、具合でも悪いの?」

「あ、いえ。すみません、少しボーっとしてたんです」

 心配そうなアリサに苦笑しながら誤魔化す流斗。
 完全にではないが納得してくれたアリサから視線を移し、ふと、先程真っ先に飛び出していったツンツン頭が目に入る。
 この場にいると言う事は誰かの関係者のなのだろう。しかし、思い当たる節は流斗には無かった。
 ―――が、突如、彼が誰かに似ているように思え、視線をあたりに向けて思い付く。

「あの、もしかして…クレア、さんのお兄さんですか…?」

 思わず『クレア』と呼び捨てそうになって、詰まりながらも訂正する。
 ツンツン頭の男――アルベルトの方はと言うと不機嫌そうな顔で、これまた不機嫌そうな視線を流斗に向けている。

「ああ。アルベルト・コーレインだ」

「昨日は、自分の浅はかな行動でクレアさんを危険な目に遭わせてしまいました。
 謝って済む事ではありませんが…本当に、申し訳ありませんでした」

「……………」

 深々と頭を下げる流斗をアルベルトは暫らく睨みつけていたが、
何故か、視線を横にずらしながら盛大な溜め息をついた。
 すぐにでも怒鳴ってくるだろうと思っていた流斗は、少し予想外の態度に戸惑うが、
噴出しようとする怒りを抑えているだけなのかもしれないと考えを改める。
 だが、そんな心構え虚しく、再び向けられた視線からは、先程までの非難の色は消え去っていた。

「まあ、その事はもういい。…ああ、そりゃあ確かに最初に話を聞いた時は腹が立ったさ」

 完全に虚を突かれた形の流斗の表情から、今の彼の心情を読み取ったのか、
アルベルトが頭を掻きながら理由を口にし出す。

「昨日の事はお前が原因かもしれないが、それでも、お前はクレアを守ってくれた。
 自分の怪我を放っておいてクレアの怪我を優先して治療してくれたそうだし…
 まあ、それでも、本当は一発ぐらい殴るつもりだったんだが…」

 チラと、流斗の方を見ると困ったような苦笑を浮かべる。
 何が何だか解らない流斗。だが、彼の視線が自分ではなく、その後ろへと向けられている事に気付いた。
 何がと思い振り向くと、流斗の視界に心配そうにこちらを見つめる雫の姿が現れる。

「あんな顔してる雫ちゃんの目の前では殴れねえだろ」

「…ありがとう、ございます」

「気にすんな。ま、次は無いけどな」

「はい、肝に銘じておきます」

 照れたようにそっぽを向くアルベルトに感謝の思いを込めて頭を下げる。
 そんな流斗をくすぐったそうに見るアルベルトはとっとと後ろに下がるが、からかうような笑みを浮かべたリサに小脇を突付かれた。

「少しは成長したようじゃないかアルベルト」

「子供扱いすんじゃねえ…っ」

 アルベルトは顔を真っ赤にして怒鳴る直前でここが何処なのかを思い出し、辛うじて声を飲み込んだ。
 そして、そんなアルベルトと入れ違うように進み出てきたのは、昨日自分の愚行に付き合わされた少女、クレア。
 彼女はギブスをはめるまでは行かないが、それでも包帯で固定されている両腕で
抱き締めるようにして布に包まれた棒状の物を持ち、そこに立っていた。

「流斗様。お預かりしていた物を、お返しに参りました」

 そう言ってまた一歩、流斗へと近づくクレア。
 その時、アルベルトの表情が一瞬だけピクッと動いたのだが、
何事も起こる事が無いままに、流斗はクレアが抱き締めていた物を受け取った。
 薦められるままに布を取り払うと、中から昨日流斗が振るっていた刀が現れた。

「刀…本当に、取って来てくれたんだ…」

「あの時、流斗様に申し上げた筈ですよ? 『私が責任を持って持ち帰ります』と」

「そう、だったね…ありがとう」

 クスクスと笑うクレアに、おもわず微笑み返す流斗。
 なにげに二人に向けられる視線の一部――主にクレアの背後から――に
ホンの少し怖い物が混ざり始めたような気がするが、二人とも全く気付いてはいないようだ。
 そんな二人にトーヤが苦笑していると、再び医院の扉が開け放たれ右眼を隠すようにバンダナを巻いた黒髪黒目の少年が姿を見せる。
 その少年――自警団第三部隊隊員ラピス・レンバードンはその手に大きな荷物を抱えていた。
 彼はいつもの通りの無感動な眼で室内を見渡し、これまたいつもの通りの涼やかな声で意外な人物の名を口にした。

「遠凪流斗はいるか?」

「えっと…どなたですか?」

 流斗はいきなり名前を呼んだ自分と同い年ほどの少年に質問を返す。
 雫は少し怯えたように半歩後退りし、少々不安そうな眼を流斗へと向けた。
 トリーシャはそんな雫を見て苦笑しながらも仕方が無いかとも考える。
 ラピスは顔の造りは悪く無いのだが、表情がほぼ表に出て来ないので初対面の人間にしてみればかなり怖い人物に見える。
 実際に付き合ってみればそうでもないのだが、誤解される事の方が多いのは仕方の無い事なのかも知れない。

「あ? ラピスじゃねーか。どうかしたのか?」

「いたのか、アル」

「おい。…くっ、最近丸くなって来たと思ったら……」

 アルベルトを半ば無視しながら流斗の前まで歩を進めるラピス。
 背後で憤っているアルベルトはしばらくブツブツ言っていたが、いつもの事かと頭を切り替え、とりあえず静観する事に決める。
 自分が話に割り込んでも脱線するだけだと解っているのかもしれない。

「自警団第三部隊隊員ラピス・レンバードンだ。
 昨日の事件の後、こちらで預かっていた貴方の荷物を持って来た。後で中身を確認しておいてくれ。
 足りない物があれば自警団に……いや、俺か後ろのツンツン頭に言え。そっちの方が速い」

 ラピスの『ツンツン頭』発言にアルベルトは一瞬苦虫を噛み潰したような顔をするが、
流斗の後ろでラピスにビクついていた雫は思わず視線をアルベルトの頭に向ける。
 そして、一瞬の間の後ぷっと噴出し、笑いを抑えながらもクスクスと笑い出した。
 どうやら、ラピスの発言は雫のツボにはまったようだ。

「雫、笑っちゃ悪いよ…」

「だってトリーシャ、ツンツン頭って…それにトリーシャだって笑ってるよ?」

「ぷっ、くくくっ、言わないでよ雫。あは、あはははははっ」

 最早耐えられなくなったか、お腹を押えて笑い出すトリーシャに顔を俯かせて必死に笑いを堪える雫。
 しかも笑いが感染したのかリサやテディ、更にはクレアやアリサ、リサやトーヤですら笑いを堪えているようだ。
 現在この場所で笑っていない。もしくは笑えないのは流斗、ラピス、そして笑われているアルベルト本人だけである。

「…壮観ですね。みんなが笑ってる所って」

「ラピス…後でシメる」

 密かにこの無愛想極まりない親友に復讐する事を固く心に誓うアルベルト。
 それが実行に移されるかどうかは疑わしいものがあるが。

「流斗。できれば今週中に一度自警団事務所まで来て欲しい。
 くだらん形式だが、一応お前の話も聞いておかなければならないのでな」

「今でなくて、いいんですか?」

「暫らくは妹と一緒にいてやれ。こっちは都合の付く時でいい」

 あらかたの事情は昨日の内に聞いているのだろう。
 初対面の流斗と雫には判らなかったが、ラピスの口調はどこか穏やかだった。

 と、突然ラピスが何かに気付いたように僅かにバンダナを上へずらす。
 そのまま暫らく不思議そうな顔をしている流斗を見詰め、バンダナを元に戻した。

「流斗」

「はい、なんでしょうか?」

「……いや、やはりいい。まだ仕事があるので俺はこれで失礼する」

 相手の返事を確認もせずにさっさと姿を消すラピス。
 その行動に少々呆気に取られるが、いまだ笑い声の絶えない室内の様子に流斗は苦笑気味に肩を竦めるのだった。














「おい、待てよラピス!」

 クラウド医院から少し離れた道でアルベルトはしっかりとした足取りで歩を進める親友を呼び止めた。
 呼び止められたラピスは一瞬意外そうな顔をしたが、すぐにその表情を消した。

「アルか。妹と一緒に居なくていいのか?」

「午後からは仕事があるからな…それより、さっき流斗に何を言いかけたんだ?」

 何気ない疑問ではあったが、アルベルトは何故かその事が引っ掛かっていた。
 自分でも明確に説明できる訳ではない。所謂『勘』というものの類だ。

「大した事じゃない。少々意外ではあったが……問題無く適応できている様だ」

「適応?」

「お前は知らなくて良い事だ。悪いが先に行くぞ。最近忙しいのでな」

 素っ気無い言葉を残し、ラピスは一人自警団事務所へと戻っていった。
 アルベルトは、ラピスの素っ気無い態度に気分を害した様子も見せず、
どこか釈然としない表情を浮かべたまま彼の後を追うのだった。





















「え? ジョートショップ……アリサさんのお宅にですか!?」

「ええ。昨日雫ちゃんとも話したんだけど、流斗君さえ良ければ私の家で一緒に暮らさないかしら?」

 アリサの突然の申し出に流斗は酷く驚き、動揺していた。
 彼としては小さな借家かアパートの一室でも借りてそこで雫と二人暮しをしようと考えていたのだから。

「私、兄さんと弟と、もしかしたら将来義姉になるかもしれない女性と一緒に暮らしているのだけど、
兄さんとその女性は今ちょっとした用事で旅に出てしまっていて、少し寂しかったの。
 それに部屋もまだ余ってるし、二人が来てくれるなら家が賑やかになって私も嬉しいわ」

「お兄ちゃん、ダメかな?」

 黙って考え込む流斗を不安そうに見上げる雫。
 流斗としても雫の望みは出来る限り叶えてやりたいとは思っている。
 この誘いを受けたとしてもアリサは嫌な顔一つせず、むしろ喜んで受け入れてくれるだろうという事はこの短い交流だけで十分に解った。
 しかし、いくらなんでもいきなり二人も居候が増えては彼女の負担はとても大きなものになるのではないだろうか?
 無論、自分も働く気でいるが、本音を言えば暫らくは雫についていてやりたいし探したとしても直ぐに仕事が見つかる保障もない。
 流斗がそんな事を考えて考え悩んでいると、カルテを整理していたトーヤが口を挟んだ。

「流斗。医者として言わせて貰うがアリサさんの御好意は受けたほうが良い」

「でも、いきなり二人も居候が増えてはアリサさんに御迷惑が……」

「そんな流斗クン、迷惑だなんて――」

 言いかけるアリサの腕をそっと押して彼女の言葉を遮るトーヤ。
 そのまま流斗と眼を合わせ、軽く眼鏡を押し上げる。

「先程お前は蓄えが有ると言ったが、そんな物はただの一時凌ぎだ。
 結局は生活費を稼ぐ為に働きに出る事になる。違うか?」

「それは……」

 言いよどみ、目を逸らしてしまう流斗を逃す気は無いとばかりにトーヤは見据えた。
 軽い緊張感のようなものが診察室に漂い始め、トリーシャや雫などは居心地が悪そうにソワソワしだす。
 しかしそんな緊張感を無視してトーヤは流斗から視線を外し、デスクの脇から数枚の書類を取り出した。

「……アリサさんは何でも屋を営んでいる」

「え?」

 いきなりの会話の展開に着いて行けず、思わず間抜けな声を出す流斗。
 傍に居た雫とクレアも流斗と同様の表情を浮かべていたが、他の面子はトーヤが何を言いたいのか察していた。

「少し前まではそれなりの数の従業員が居たが、今は彼女の弟と二人で切り盛りしているのが現状だ。
 しかも弟の方は一月ほど前に怪我をして体調が万全ではない」

 雫がパッと表情を輝かせ流斗を見る。
 ここまで言われればよほどの鈍感でもない限りトーヤの言わんとしている事が解るだろう。
 流斗も妹から向けられる期待の篭った眼差しを受け苦笑気味に頬を掻いている。

「働き盛りの男が一人でも居れば、彼女も助かるのではないかな」

 流斗は多少頑固で融通の効かない所はあるが、ここまで御膳立てされて断れるような意地っ張りな性格ではない。
 それにこの提案は元々流斗の心配事の殆どを解決するものでもあったのだ。
 雫と兄妹水入らずで暮らしたいという気持ちも確かに存在するが、それは心の奥底に沈めておこう。

「じゃあアリサさん。改めてこちらからお願いします。僕と雫、貴女の家に御厄介になっても良いでしょうか?」

「ええ、もちろんよ流斗クン。歓迎するわ」

「当然ッス! また賑やかになるッス〜♪」

 よっぽど嬉しかったのか周囲の眼も憚らず雫が喝采を上げた。
 流斗も一瞬だけその表情に寂しさを過ぎらせるが笑顔の妹に眩しそうな眼差しを向ける。

「では雫、今から退院手続きを済ませるからその間に荷物を纏めて来い」

「はい! トーヤ先生!」

「ボクも手伝うよ雫」

 元気良く一礼して自分の病室へ駆け出す雫とその後を慌てて追いかけるトリーシャ。
 そんな彼女達を優しい眼差しで見送る流斗に、同じような眼で彼女等を見送ったリサが

「いい娘じゃないか。大事にしなよ」

「はい」

 その言葉に、流斗は決意を新たに頷いた。







 その日、遠凪雫はクラウド医院を退院した。
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