落ちていく。
落ちていく。
落ちていく。
砕け散った神の壺。
そこから放り出された毒虫達が落ちていく。
壺を砕いた最強/最凶/最恐/最狂の毒虫が落ちていく。
壺から放り出された毒虫達は感謝/恐怖/憎悪した。
一体何に感謝/恐怖/憎悪した?
最強/最凶/最恐/最狂の毒虫にだよ。
彼/彼女は毒虫達の救世主/殺戮者/破壊神だよ。
最強/最凶/最恐/最狂の毒虫は感謝/絶望した?
していたよ。すごくしていたよ。
最強/最凶/最恐/最狂の毒虫は何に感謝/絶望した?
神様以外の何かだよ。
いや、神様/自分だよ。
だって、自分/破壊神の悪運に感謝/絶望してたもの。
悠久幻想曲 FOOL
時の調べ外伝 蠱毒の壷
何かが罅割れる音で、少年は意識を取り戻した。
即座に思考をめぐらせ、状況を確認する。
どうやら自分とあの少女とのぶつかり合いで発生したエネルギーが『壺』の許容量をオーバーし、世界の崩壊を招いたらしい。
では、今自分がいるのは何処なのだろう?
殺し合いと奪い合いばかりをしていた為に無用の長物と化していた知識の海を検索し、思考してみる。
なるほど。無理矢理別の世界に固定された存在は、その世界が崩壊した場合元の世界に強制送還されるようだ。
「……な、んだとっ…!?」
自分の出した結論に思わず絶句する。
冗談ではない。今の自分がそのまま元の世界に存在すれば、それだけで世界が消滅してしまう。
焦る気持ちを抑えつつ、この世界の消滅を誘発する『力』をゆっくりと封じていく。
大丈夫だ。間に合う。多少罅が入ってしまっているが、この位なら修復は可能だ。
閉じた眼をゆっくりと開く。どうやら成功したようだ。
手に入れた『力』の殆どを『殺し合い』と『奪い合い』にしか使った事が無かったので少々不安だったが、
これで自分がこの世界に悪影響を及ぼす事は無いだろう。安心して在れる。
「…帰って、これた?」
思考の切り替えが思うように行かない。
今だに元の世界に帰ってこれた実感は湧かないが、
周囲の自然と悠然と広がる青空はあの世界には存在しない物だ。
帰って来れたのは間違い無いだろう。嬉しいのも確かだ。
だが、この胸にポッカリ穴が空いたような感覚は一体何なのだろう?
無意識の内に手を胸に当て、ようやく自分がここに在る事を強く実感できた。
ついでに、自分の着ている衣服がその役割を果たしていない事も。
「人里じゃなかったのが、不幸中の幸い…か」
呟き、苦笑いを浮かべる。
何気無い一言とは言え、バカな事を言ったものだ。
この世界に帰れた事が不幸である筈が無い。
何時の間にか左腕が元の生身の腕に戻っていた。
背中や四肢の喪失感は翼が消えた事によるものだろう。
頭髪も元の甘栗色に戻っている。恐らく、瞳も同様だろう。
これで外観に限って言えば壷に放り込まれる前と寸分変わらぬ姿に戻ったわけだ。
封印の影響だろうが、好都合と言えば好都合である。
「……疲れた」
脱力したように、その場で仰向けになる。
事実、殆どの力を消耗しきっているために動く事も辛いのだ。
少女との殺し合い。そのすぐ後に自己の力を無理矢理封じた事。
積極的に回復に努めればすぐにでも立ち直れるが、今は自然治癒に任せるだけにしたかった。
もぞもぞと芋虫のように雑草の上を這い、近くの木に背を預ける。
木漏れ日の光がとても綺麗で、とても心地良かった。
世界が赤くなっている事に気付き、少年は今だ重い瞼を開けた。
まさか、眠っている間に無意識に炎を召喚してしまったのだろうか?
いや、自分がそこまで自分の力を制御できないとは思いたく無い。
何事が起こったのか理解できず、困惑するが、すぐにこの現象の理由に思い至る。
「夕焼け――そうか、夕方、か…」
そうだ。この世界は『壷』の中とは違う。時は流れ、世界は変わり続ける。
こんな簡単な事すら忘れてしまうほど、自分の中の常識はあの世界に適応してしまっているようだ。
少し離れた場所に、そこだけ綺麗に森が切り取られたように開けた空間があった。
行って見ようかと思うが、止めておいた。自分にはこちらの方がお似合いだろう。
一切の根拠も無くそう思った後で、ここに至り自分が少々自虐的な思考に陥っている事に気付く。
少年が苦笑するのと、彼の近くの茂みが揺れるのと、一体どちらが先だったか――?
「―――――――よう」
「―――――――――」
そこに立つ少女を、少年は素直に美しいと思った。
少女の衣服も、少年と同じくその役割を果たせる状態ではない。
しかし、少女は恥らうでもなく、身体を隠すでもなく、ただ、少年を真っ直ぐに見据え、そこに立っていた。
少年の自我を繋ぎ止めた白銀の髪は薄紅色に、真っ直ぐに見詰め合った瑠璃色の瞳は深緑色に変化し、
夕闇の中に浮かび上がる儚げに輝く白い裸身は、薄暗い森と瞬き始めた夜空によく映えた。
ゆらり、ゆらりと、おぼつかない足取りで少女は少年へと歩み寄る。
そんな彼女を、糸の切れた操り人形のように力無く木に凭れ掛かっている少年は眺めていた。
気付かぬ内に、少年の口元が緩んでいた。見れば、少女の口元も綻んでいる様に見える。
数多の世界から連れ去られて来た者達の集まる世界で出会った少女。
彼女の姿を見て、少年は少女が他の世界の住人で無かった事に安堵した。
安堵した事に嫌悪感を抱かなかったのは、彼にとっても非常で新鮮な驚きだった。
少女が少年の前に跪き、そのまま身体を預けるように凭れ掛かって来る。
少女は少年の肩に頭を預け、そのまま全身の力を抜いた。重なり合う二人の身体。
たくましさを感じさせる引き締まった少年の肌と、粉雪のような切なさを感じさせる柔らかな少女の肌。
「――会いた、かった」
「ああ――俺もだ」
少年の腕と少女の腕が互いの背に回される。
少女が少年の肩に頭を押し付けたままなので互いの顔を見る事は無い。
少年もわざわざ少女の方へ視線を向けず、少女も少年の肩から顔を上げる事はしない。
何も知らない第三者が見れば、幼い恋人同士が情事を交わした後の光景に見えるかもしれない。
しかし、そんな甘い幻想も、次の瞬間に発生したソレが微塵も残さず打ち砕く。
二人を中心に発生した、物理的な影響力を持ち得る強烈な圧迫感。
僅かでもソレを感じた周辺の小動物や昆虫はその動きの一切を止め、その内の八割は二度と動く事は無い。
自然のままに乱立する木々も、獣に踏み荒らされて尚生きる草花も、
頬を撫でるように流れる風も、僅かに残っていた陽光も、夜空に顔を見せ始めた新円の月も、
少年と少女の周囲の全てが、流れる筈だった時間そのものを凍らされたかのように止まる程の――
純粋で、圧倒的な殺意。
他の何かと相対的に見るのも愚かしいほどに絶対的なソレ。
少年も、少女も、指先一つ動かしてはいないのに。
表情も、その瞳の奥の光も、何もかも一瞬前と変わらぬのに。
局地的な天災、大自然の猛威を目の当りにしたかのような畏怖を抱かせるソレが膨れ上がり、
そして、半瞬と経たずに霧散した。
それは、少年と少女が囁きを交わした後の一秒間の出来事だった。
「―――止めよう。不毛だし、何より、もう、理由も、意味も、無い―――」
言葉による答えは返らず、ただ、腕の中の少女が僅かに頷くのが肩から感ぜられた。
少年は少し呆然としていた。自分で自分の言葉が信じられない。
この少女と、殺し合う事の理由と、意味は、もう、存在しない。
確かにそうだ。少年が少女と殺し合いをしていたのは、あの世界の理に従っただけ。
殺人快楽者でもない少年には、もう彼女と殺し合う意味は無かった。
殺す理由など、最初から無かった。
「―――――っ」
不意に、肩に痛みが走った。何が起こったのか、見ずとも解る。
この痛みには馴染みがある。何度も与えられた事があるし、与えた事もある。
少女の口が開き、綺麗に並んだ白い歯が少年の肩に喰い込んでいた。
顎に力が入り、ゆっくりと肉が抉られていく。骨が軋みを上げ、砕ける。
大量の血が溢れ出で、少女の口の中に流れ込み、少年と少女の肌を濡らす。
視界に映った地面に広がっていく赤を見て、ホンの少し、安堵した。
血の色が赤いままだった事に、微かな喜びを覚えた。
酷く生々しい音を立てながら、少女は少年の肩口の肉を食い千切っていく。
恐ろしいまでに緩慢に進んで行く歯を、少年は止めるでもなく、反撃するでもなく、無抵抗に受け入れる。
木々の隙間から覗く、二つの小さな夜空。
そこで輝く七つの星と一つの満月。
――ああ、あの柄杓型に並ぶ星はなんと言うのだったか――
肉が抉れ、骨が砕かれ、筋が切られる音を遠くに聞きながら、そんな事を考える。
あの時、妹が自慢げに話してくれた筈なのに、すっかり忘れてしまっている。
あの笑顔を覚えているのに、繋いでいた手の暖かさも覚えているのに、アイツを見つけた妹の嬉しそうな瞳も覚えているのに、
自分の手を離してアイツに駆け寄った時の喪失感と、寂しさと、喜びと、微かに湧き上がる嫉妬も、鮮明に思い出せるのに。
――なんで、こんな簡単な事が思い出せないんだろう――
少年自身、本当は答えなど知っている。あの星の名前など知っている。
ただ、あの日、あの時、自分の手を握り締め、夜空を指差しながら言った妹の声が、思い出せない。
大切にしていた宝物を何かに汚された。そんな憤りが脳内を駆け巡る。思考にノイズが走る。
もし汚されたのだとしたら、その、汚したものは――――
思考できたのはそこまで。肉を噛み千切られた痛みで、意識がクリアになる。
見詰める先の夜空はそのまま。肩口の小さな喪失感と、もごもごと動く少女の顎が、現状をしっかりと把握させる。
聴き慣れた、聴き慣れてしまった、血と生肉を噛み締める音。
静まり返った森の中で、その咀嚼音はとても大きく聞こえた。
「……おい、しい」
少女の呟きが聞こえた。
必死で何かに耐えながらも、耐え切れずに語尾の震えた呟きが聞こえた。
背中に回された少女の腕に力が入る。爪が背中の肉を抉るのが解る。
それ以上に、少女の肩が震えている事を、少年は解っていた。
初めて、少年が動いた。
首を回し、少女の方を向く。
自然と少女の髪に顔を埋める形になり、唇が少女の耳に触れた。
一旦離し、キスをして、舌を伸ばし、愛撫するように少女の耳を舐める。
そのまま唇で耳の上半分を労わりながら咥える。
そして、その柔らかな肌に一気に歯を突き立て、噛み千切った。
「――――――」
少年の肩口の傷に、ポツ、ポツ、と何かが落ちた。
それは傷口にしみて痛かったが、傷自体の痛みの方が勝っていた為に気付くのが少し遅れた。
少年に新たな痛みをもたらしたのは、少女の涙だった。
ふと気付くと、少年の頬にも冷たいのか熱いのかよく解らないものが流れていた。
流れ続ける少年の涙が、微かに降り注ぐ月光を跳ね返す。
溢れ出でる少女の涙が、自分の頬と少年の胸元を濡らす。
二人が泣くのは、至極当然の事だった。
少年は肩を食い千切られ、少女は方耳の上半分を噛み千切られた。
大の大人でも泣き叫ぶ大怪我だ。
涙を流すのは当然の事なのだ。
悲しかったのではない。
憐れんだのではない。
二人は、怪我が痛くて泣いているのだ。
決して、冷静に思考する事の出来る時を得てしまった事を嘆いているのではない。
決して、人の血肉を喰らい、「美味しい」と思え、口に出せた自分が恐ろしくなったのではない。
決して――――ヒトでなくなってしまった事実を突きつけられ、後悔しているのではない。
決して――――殺し合う事だけを考えていればよかった世界に、戻りたかった訳ではない。
少年も、 少女も、 肩と、 耳が、 痛くて、 痛くて、 仕方が無いから、 だから、
―――――だから、泣いているのだ。
―――――少なくとも、今、この時だけは。