六月も半ばを過ぎた頃。喫茶店『リフレクト・ティア』のただ一人のウエイトレスであるフィリア・ラーキュリーは一人の客もいない店内からぼ〜っと窓の外を見上げていた。
しとしとと降り続ける雨はもう一週間も降り止まず、梅雨の鬱陶しさを否応無しに感じさせてくる。
「シーラが少し羨ましいですね……」
自分がこの町に来るのと入れ違いになるように遠く離れた地へ留学してしまった友人の事を思い出す。
彼女が留学したローレンシュタインは音楽の町として有名だが、同時に滅多に雨の降らぬ町としても有名であった。
しばらくそうやって天の恵みを見続けていたフィリアだったが、ふとこの店の店長は何をしているのか気になりカウンターの方へと視線を転じた。
「…え?」
普段彼が座っている席は空だった。
レニスが何時出て行ったのか全く気付かなかった事に若干驚きつつ、でもあの人ならありえるかもと思ってしまうのは彼の奇行に毒されてきた証拠だろうか?
暇潰しの相手が居なくなってしまったことをこっそり嘆きつつ、一応はこの店のマスターなのだから勝手に席を離れないで欲しいと内心で文句を言い連ね始めた時に店のカウベルが来客を告げた。
「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
少々無理に作った笑顔ではあったが、客(19歳・男・彼女居ない暦=年齢)は嬉しそうに頷きテーブルに着いた。
「そういえばフィリアに何も言って来なかったな」
居なくなったダメダメマスターはなぜか魔術師組合に居たりした。
「ん? どうかしたかの?」
「こっちの話。で、用件は?」
話の先を促すレニスに魔術師組合の長は「ふむ」と頷き
「既に察しておるとは思うが、この雨の事じゃ。このままでは土砂崩れなどが起きる可能性も――」
「茶と茶請けぐらい出してくれ」
「――やる気無しじゃのう…」
伊達眼鏡越しに外の雨を眺めるレニスに溜息をつく長。
こうなる事は解りきっていたとは言えもう少しぐらい真面目に話は聞いて貰えないものだろうか?
「土砂崩れや河の氾濫で道が塞がったりしたらどうなるかぐらいわかるじゃろう?」
「魚介類は特別好きって訳じゃないけどなー」
「そう言わんと…」
「今回はしつこいな。俺が断る事ぐらい解っていただろうに。何か有るのか『長』?」
普段は『爺さん』と呼ぶレニスが『長』と呼ぶ。
流石に長い付き合いなのでこの程度の裏の事情は簡単に見抜かれてしまうのだ。
「…まあ、そうじゃ。『さる御方』の荷物がこの辺りを通る事になっておるんじゃが、ここらが塞がれるとかなりの遠回りになるんじゃ。自警団の方にも依頼が行っておる様じゃが、この雨では地盤そのものが緩んでおるし多少の補強では意味が無かろうて」
「今の内に言っておくが、夏は暑いぞー。無茶苦茶暑いぞー。陽炎が日常茶飯事で発生するほど暑いぞー。水は溜め込めるだけ溜め込んでおかないと絶対に不足するぞー。冷房系のマジックアイテムを量産しておけばガッポガッポのウッハウハ間違い無しだぞー」
「助言だけかの?」
いつもなら最初の拒否で引き下がる長が珍しく再三協力を要求してくる。
こちらがどう答えるかなど最初から解っているだろうにと内心毒づきながら、レニスはうんざりしたように伊達眼鏡を外し少々キツイ視線を長に刺し向けた。
「もう一度言う。しつこい。今回の雨にせよ夏にやって来る猛暑にせよ春先の暴風雨のツケだ。あの時みたいに事前に対処できないものじゃないんだから甘んじて受けろ。つーかアンタが俺にやらせようとしてるのは慕ってくれてる女の子に大金渡して股開けと言うのとなんら変わりないぞ」
「レニスッ」
「……ふぅ…すまない、言葉が過ぎた」
「…いや、こちらもお主の返答を解っていながらしつこく言い過ぎた。すまなんだな」
レニスは理性で感情を強制冷却し一つの吐息とともに謝罪する。
この御仁も魔術師組合の長などをやっていると色々有るのだろう。
このような相手の立場だのなんだのという会話はあまりレニスは好きではなかったが、世は自分を中心に回っている訳でもない。
会話が中断したのを見計らったように見習い魔術師の少女がお茶とお茶請けを持ってやって来た。
彼女は「失礼します」と断って長とレニスの前にお茶とお茶請けを置き
「ありがとう」
「あっ、い、いえっ」
ポッと頬を赤らめてそそくさと退室した。
「ホッホッホッ。この女殺しめが」
「言ってろ」
からかうような笑みを浮かべる長に苦々しく言い返しながら伊達眼鏡をかけて表情を弛緩させる。
実はレニス、ここ魔術師組合とシーブズギルドの女性職員、そしてショート邸のメイドさん達の間で密かに人気があったりする。
理由は簡単、先程のように眼鏡を外してキリッとした表情をしたレニスを目撃した者が多少の脚色を加えて同僚達に話して回る所為である。
とは言え普段が普段なので色恋沙汰にまで発展しないのが知り合い連中からすればもどかしい。
「話は終わりか? もしそうならそろそろお暇したいな。何も言わずに店を空けたんで早めに戻りたい」
「お主がおらんでもなんら問題無いと思うがのう」
「違いない。しかしあまり長いこと空けてると俺の夕飯がピンチだ。それに」
そこで懐から取り出したパイプを口に咥え、にゃ、と笑う。
「『客』が来てるとも限らん。フィリアにはまだ『客』の事は教えてないからな」
「そうか。では気を付けて帰れよ」
「そっちもがんばれよー」
席を立ったレニスは投げ遣りに手を振りながら出て行った。
長は眼の前の結局手の着けられなかったお茶とお茶請けを見て小さく息を吐き
「……らっきーいぇーい☆」
小さくガッツポーズ。
魔術師組合の長。本名不明。年齢不詳。
彼は大の甘い物好きであった。
「か〜ご〜め〜かごめ〜♪ か〜ごのな〜かのと〜り〜は〜♪」
どこかで聞いたような歌を口ずさみながらフィリアは軽く店内の掃除をしていた。
店内に居る客は3人ほどで内一人は窓際の席で読書に耽り、内一人は待ち合わせでもしているのか時折店内の時計に目をやり、内一人は掃除をしているフィリアの後姿をぼ〜っと眺めている。
レニスが何も言わず居なくなって早三時間。
外を見れば先程よりも雨脚は強くなっており、出歩く人も普段に比べれば格段に少ない。
流石に少し心配になってくるが相手がレニスなので心配するだけ損な気もする。
「すみません、お勘定を」
「あ、はい。ただいま」
読書をしていた客がレジの前でフィリアを呼ぶ。
騒がしくない程度に急ぎレジを打つ。
「はい、5G丁度お預かりいたします。ありがとうございました」
カウベルと共に店を出た客の背中をしばらく見送っていると、擦違うように見慣れた姿がやって来る。
その姿を見つけてフィリアは思わず深い溜息を吐き、そして、ギョッと目を丸くして傘を手に取り外へと飛び出した。
「マスター!」
「おうフィリア。わざわざ出迎えご苦労」
「ご苦労じゃありません! なんで傘も差さずに雨の中を歩いてるんですか!」
濡れ鼠のレニスを傘の下に入れつつフィリアは強い口調で詰問する。
しかし当然の事ながらその程度で怯むレニスではなく
「こんな気持ちの良い雨の中傘を差して歩くなんて勿体なんと思わんか?」
「風邪でも…………ひくわけありませんね。でもただでさえ洗濯物が溜まってるんですからあまり面倒を増やさないで下さい」
「微妙に間を置いて言い直されるほうが言い切られるよりキツイんだぞ?」
「知ってます」
フィリアは柔らかに微笑んでふてぶてしいレニスの無気力と対峙する。
なんというかもうこの短期間に手綱を半分握られてしまったような気がしないでもないレニスだった。
わざと握らせて一気に振り落としてやろうという思惑は甘すぎたのだろうか?
「とりあえず傘どけろ。梅雨の雨に打たれるのは俺の趣味だ」
「一体どれだけ非常識な趣味を持ってるんですか? 先日は親指倒立で町の外周を一周してましたけど?」
「別に、似たような連中なぞ山のように居ると思うが」
「普段の行動に比べると大人しいですけど十二分に非常識です。こんな雨続きで町が静かな時ぐらい大人しくしていてください」
「バカだな。こんな時だからだ」
力強く言い切るレニスを不審そうに見上げるフィリア。
レニスは雨水を滴らせる伊達眼鏡を右手の中指と人差し指でクイと押し上げ
「天災が起きる時には人災が起こらないんだぞ。滅多にだけど」
「とりあえず貴方も人災だということを自覚してください」
この二ヵ月半の間に町で頻繁に見かける『人災』を思い出し、さらにその後始末をしている自警団員その他の皆の姿を思い出す。
とはいえレニスは他の『人災』に比べれば発生率が三月に一度程度だし、その道の玄人らしく大変な後始末が必要な事態は起こさない。
まあ、だからこそ性質が悪いとも言えるのだが。
「だからこう、俺が120%ハジケる事が出来るのはこんな天災時しか」
「流しましたね。でもそんな事を聞かされて私が黙ってるとでも――」
「レニスさん!! 一大事です!!」
「「え?」」
突然横手からかけられた大声に声をハモらせてそちらを向く二人。
そこには見飽きた感のある自警団の正式採用装備を着込んだ何となく見覚えのある人物が立っていた。
「ク…クラウスか。どうした?」
「マスター。いま、ボケようとしましたね?」
「話が進まないから過度なツッコミは控えるように」
「…そうですね。ごめんなさいクラウスさん」
そんな他称夫婦漫才が終るのを律義に待っていたクラウスは「いえいえ」と人の良い笑顔を浮かべて気にしていない意思を示した。
「それでレニスさん。大至急お願いしたいことが」
「…俺に、ねえ」
「はい。実はムーンリバーが氾濫しまして」
「…………するのか? あそこ」
「はい。それでおかしいと思って調べて見た所、この雨を止ませようとしたマリ「皆まで言うな」…そうですか」
周囲の雨の音が大きくなった気がした。
レニスは黙って眼鏡を外して懐に収め、今すぐ天から槍が降ってきそうなほどに優しく微笑んだ。
「フィリア」
「はっ、はいっ」
「とりあえずお嬢様を引きずり出してくるから温かいお茶を用意しておいてくれ」
「わかりましたっ」
「……そうそう。棚の奥に『俺が作った』シュークリームがあったはずだ。出しておいてくれ」
レニスの口の端が吊り上り、喉の奥からは微かなワライゴエ。
完全に硬直したフィリアとクラウスを置いて、レニスは静かなワライゴエと共に雨の向こうへと消えていった。
「……レニスさん、キレてましたね」
「ええ。マリアちゃんのトラウマが幾つ増えるかが心配です」
降りしきる雨の中、二人はそろって溜息をつくのだった。