中央改札 交響曲 感想 説明

Begin(2)
輝風 龍矢[HP]


The last song

第3章:Type Around

第4話:Begin(2)

「はい、これが私がよく子供たちに聞かせてあげてる曲だよ」
「ああ、ありがとう」
 禅鎧はシーラから彼女のファイルを受け取ると、楽譜に目を通し始めた。ファイルに綴じられてあった楽譜には2種類あり、キレイに清書されているものと、女性らしいシャープな筆跡で書かれた…いわゆる手書きの楽譜。
「清書されたのは、いわゆる昔から語り継がれてきた童謡か?」
「うん。手書きの方は、私が作曲したもの。いつも同じ曲ばかり弾いてたら、子供たちも飽きてくると思うから」
 納得したように、禅鎧は無言で頷いた。五線譜に浮かぶオタマジャクシを目で追っては、頭の中でメロディを奏でてみる。
「やっぱり、こういう明るめの曲が好きなんだな。ありがとう」
「ううん、どう致しまして。…あの、禅鎧くんのも見せてくれるかな?」
「ああ。そのつもりで、持ってきたからな」
 パイを持っている左腕脇に挟んでおいたファイルを手に取り、シーラに渡す。何処か嬉しそうにシーラは、太陽によって微妙な光沢を見せるシルバーのファイルを開いた。オタマジャクシを目で追いかけていく度に、シーラの瞳が驚愕の色に変わっていった。
「すごい…。これ全部、禅鎧くんが作曲したの?」
「ああ…まあ、ね。そのファイルに綴じてあるのは、全部俺が書いたものだ」
 照れ隠しに苦笑いを零す禅鎧。うんうん…と理解したように頷きながら、シーラは全ての楽譜に目を通してゆく。そして全ての楽譜に目を通し終えると、ハア…と大きな溜め息を付いた。
「うん。これならきっと、子供たちも喜んでくれると思うよ」
「そうか、ありがとうシーラ。‥‥‥流石だな。楽譜を見ただけで曲調が分かるんだな」
「そ、そんな事無いよ…。禅鎧くんだって‥‥‥」
 禅鎧の言葉に思いっきり謙遜するも、少しだけ嬉しそうなシーラ。
「あの、もう少しだけ見てていいかな?」
「ん…ああ、構わないよ」
 シーラのその何気ない言葉には、ファイルの他に大きな荷物‥‥‥アリサが焼いたパイ‥‥‥を持っている禅鎧の負担を少しでも減らしたいという、シーラのせめてもの気遣いが込められていた。
 さくら亭を2人で並んで歩き始めて数分後、セント・ウィンザー教会に到着した。門をくぐると、左右に小さいながらも綺麗な彩色が為された花壇が広がっている。そこに、見覚えのある少女の後ろ姿があった。鼻歌混じりにじょうろで花に水をやっていた少女は、ふと背後に人の気配を感じて振り向いた。
「あっ、お兄ちゃ〜ん!!」
 禅鎧とシーラの元に、じょうろを手に持ったまま駆け寄ってくる少女…ローラ。
「ローラ、約束通り来たよ」
「うん、ずっと楽しみに待ってたよ! あ、シーラちゃんも来てくれたんだ。子供たち、きっと喜ぶよ。さあ、早く中に入って入って!」
 沸き上がるような気持ちを体全体で顕わすように、ローラは2人を急かしてくる。禅鎧は相変わらずだな…と、苦笑いを浮かべた。
「禅鎧くん、この事ローラちゃんと約束してたの?」
「…ああ、もう大分前だけどね」
 大分前…。その言葉が、心なしかシーラにはとても重々しく感じられた。シーラは無意識に立ち止まり、自分の胸に手を当てる。
「? どうした、シーラ?」
「えっ、あ…ううん、何でもないの。早く中に入りましょう」
 訝しげな表情の禅鎧に呼び掛けられ、シーラはハッと我に返った。それを誤魔化すように複雑な笑みを浮かべると、足早に教会に入っていった。
 彼女に続いて教会に足を踏み入れると、まず始めに目に入ったのは、一般人専用の木製の座席。所々に付いた落ちない汚れは、ここを訪れた人々の祈りの数ほどあるのだろうか。それを左右に隔てるように作られた通路を歩いていくと、南西から差し込んでくる日射により教会内に浮かび上がるステンドグラス。そして通路の奥には、この教会の規模に合った若干小さめの祭壇。右手には、中型だがかなり年季の入ったパイプオルガンが置かれてあった。
「…子供たちは?」
「あのドアの向こうだよ。ほら、子供たちの声が微かに聞こえてるでしょ?」
 パイプオルガンとちょうど正反対の、祭壇の左側に見えるドアを指差すシーラ。
「ここで子供たちを遊ばせてもいいんだけど、ここは一般の人たちも利用するからね」
 ローラの説明に、確かに…と禅鎧。そうじゃないと、子供たちが悪戯で椅子や壁に落書きをするかもしれない。神聖な教会に落書きがされていては、加護も何もあったものではないだろう。
 そのドアを開けた途端、孤児院内の喧騒が大きくなる。
「ハイ! みんな、静かにして〜」
 ローラの鶴の一声に、子供たちは一瞬にして静かになる。禅鎧はへえ…と、感心したように喉を鳴らした。それだけで、ローラはここの子供たちから絶大な信頼を得ている事が容易に分かった。
「シーラお姉ちゃんと、そして前にあたしがみんなにお話ししていたお兄ちゃんが、みんなにピアノを聴かせにきてくれたよ〜」
 その言葉に、子供たちのざわめきは歓声となって復活する。
 ふと1人の子供が、禅鎧の元へと駆け寄ってきた。禅鎧には、その子供…そして、胸に抱いている子猫に見覚えがあった。
「キミは確か、陽の当たる丘公園で…」
「やっぱり、あの時のお兄ちゃんだったんだね。あの時は、本当にどうもありがとう。ほら、お前もお礼を言いな」
 その少年は床に子猫を降ろす。子猫はトコトコと禅鎧の足下に歩み寄ると、スリスリとふくらはぎに頬ずりしてきた。禅鎧は屈んで子猫に手を差し出すと、腕を伝うようにして禅鎧の胸に収まった。
「アハハハ。こいつ、ちゃんとお兄ちゃんの事忘れてなかったみたいだ」
「ハハ…、そうみたいだな」
 ゴロゴロと鳴る子猫の喉を撫でる禅鎧を、好意的な眼差しで見つめるシーラ。だが直後、自分の両袖を引っ張られてきた。
「こんにちは、シーラお姉ちゃんっ!」
「また、あの曲弾いてよ〜」
「ええ〜。ボクは、あっちの曲がいいなぁ〜」
「うん、いいよ。フフ…もう、そんなに引っ張らなくても大丈夫だよ」
 部屋の真ん中に置かれたグランドピアノへとシーラを引っ張って行こうと、彼女の両袖を引っ張る子供たち。禅鎧に助けを求めるように困惑した微笑をしているが、結局はグランドピアノ専用の椅子に座らされてしまう。
「ホラ、お兄ちゃんも」
「あ、ああ…。ところで、ここの神父さんは?」
 禅鎧がローラにそう尋ねた時、向こうの扉から法衣を着た老人が入ってきた。
「おや? どうやら、お客様のようじゃな。…おお、シーラさん。また、子供たちにピアノを聴かせに来てくれたのかな?」
「はい。ご無沙汰してます、神父様」
 シーラは立ち上がると、礼儀正しく神父にお辞儀をした。
「ねえお姉ちゃん、早くぅ〜」
「こらこら。シーラさんが、困っているだろう?」
「いえ…いいんです、神父様」
 そんなこの教会では日常的且つ和やかな会話を、静かな笑みを浮かべつつ禅鎧は聞いていた。その姿に気が付いた神父は、禅鎧の元へと歩み寄ってくる。
「ローラ、ひょっとしてこちらの青年が…」
「うん、前にあたしが話したお兄ちゃんだよ」
 誇らしげに、ローラは禅鎧を神父に紹介する。
「やはり、そうでしたか…。申し遅れましたが、私はここで神父を勤めさせて頂いている者です。いろいろと、ローラがお世話になったようで…」
 年の頃は既に50後半といったところだろう。だがそれと反比例するかのような、優しく穏やかな声の持ち主だった。優しい笑みを浮かべつつ、禅鎧に頭を下げる。
「いえ…、助けられているのはむしろ俺の方です。ローラには、心から感謝しています」
 禅鎧には、覚えのない罪を着せられて落ち込んでいた時の事を思い出していた。その時にひょっこりと、妖精のように現れたローラ。彼女の屈託のない笑顔や明るい口調に、あの時の禅鎧にとって心の支えとなっていた。
「ローラが子供たちに好かれているのも、納得が行きますよ」
「エヘヘ…、お兄ちゃんにそう言われると照れちゃうなぁ…」
 禅鎧の言葉に、神父は感心したような声を挙げた。早速禅鎧は、アリサから預かっていたパイの包みを神父に渡した。
「これは、アリサさんからのお裾分けです。後で、子供たちに食べさせてあげて下さい」
「おお、いつもいつもありがとうございます。アリサさんに宜しくお伝え下さい」
 禅鎧は快く頷いた。神父はパイを受け取ると、キッチンに持っていく為に部屋を出ていった。
「じゃあシーラちゃん、みんなに聞かせてあげて」
 子供たちは、グランドピアノを囲むように座っている。ローラは子供たちの中心辺りに座ると、シーラにそう促した。
「うん。…禅鎧くん、お先に弾かせてもらうね」
 子供たちから少し離れたところに立っている禅鎧に、少し照れくさそうに言うシーラ。禅鎧は静かな笑みを浮かべながら頷いた。シーラはいそいそと楽譜を広げると、軽く指の準備運動をする。
 ポロロン‥‥‥。
 シーラの演奏が始まった。アップテンポ且つ、スタッカートをよく効かせた明るい曲だ。手首のスナップを利用して、丁寧な指使いながらも鍵盤を小刻みに弾くシーラ。
 この曲は、禅鎧にも聞き覚えがあった。旅の途中、ある劇場を訪れた時にやっていた劇で使われていた曲だ。観客の殆どが家族連れだったので、その劇が子供向けなのはすぐに分かったが、エンフィールドにも伝わっているところを見るとかなり有名のようだ。子供たちの中には、口パクで唄っている子もいた。
 エンディングを引き終わると、シーラは子供たちから拍手喝采を浴びせられた。
「ねえシーラお姉ちゃん、次はあたしの大好きなあの曲弾いて〜!」
「う〜んと…ああ、あの曲のことだよね? ええ、弾いてあげる」
 女の子は曲のタイトルを言わなかったが、シーラは理解しているらしく、すぐに快く頷いてみせた。先程弾いた曲の楽譜をファイルにしまうと、次の楽譜を出さずに次の曲を弾き始めた。今度は先程の曲とは正反対の、静かなバラッド調の曲だった。
「夜想曲嬰ハ長調‥‥‥」
 禅鎧はポツリと呟いた。ある偉大な作曲家が生み出した、現代に語り継がれている名曲の1つで、ピアニストの基礎中の基礎とされている曲だ。それをソラで弾けるところから、シーラがかなりの腕の持ち主である事を再認識する禅鎧。
「お隣、宜しいですかな?」
 そう呼び掛けられて、禅鎧は初めて隣りにいる神父に気付く。そのような隙を見せてしまうほど、聞き入ってしまっていた自分に思わず苦笑いを零す。
「つかぬ事をお聞きしますが、確か朝倉禅鎧さんでしたね?」
「? そうですが?」
「あなたの事は、常々ローラから伺っています。街の人々は、貴方をフェニックス美術館の盗難事件の犯人だと信じて疑わないようですが‥‥‥」
 時々、言いにくそうに言葉を詰まらせる神父。禅鎧は口出しする事もなく、神父の話を黙して聞いている。
「ローラから信頼されている所や、そのように腕の中で眠っている子猫を見ていると、貴方がそのような事をするようにはとても思えません」
 飼い主の少年から、ピアノを聞いている間預かっていて欲しいと頼まれていた子猫。時折、あくびをしてはまた深い眠りへとついていく。
「今は住民の信用を取り戻すために奔走しているそうですが、きっとそれは無駄にならない事だと思っています。…すみませんね、急にこんな重苦しい話をしてしまいまして」
「いえ…ありがとうございます」
「そう言って頂けると、ありがたいです。貴方に神のご加護があらん事を…」
 その言葉を最後に、2人はシーラの演奏の方に耳を傾ける。
「しかし、シーラさんのピアノはいつ聴いても素晴らしいですな。心のモヤモヤが、消えていくようです」
「…ええ、そうですね」
 神父の言葉を肯定してはいるものの、禅鎧にはひっかかる所があった。確かにシーラの演奏はプロ顔負けの技術を誇っている。強弱もしっかりしていて、メロディにも様々な表情が顕わされている。だが、少し格式張り過ぎている‥‥‥オリジナリティが感じられない‥‥‥ように禅鎧は思えた。もう少し掘り下げていけば分かるかもしれないが、敢えてそれ以上は考えない事にした。
 ポロン、ポロン‥‥‥。
 ちょうどその時、シーラの演奏が終了した。またも、子供たちから拍手喝采を浴びさせられる。ふと満足したような笑みを浮かべている禅鎧に気付くと、はにかんだように頬を紅潮させた。
 シーラの視線に気がついた禅鎧は、ピッと人差し指を立ててみせた。シーラは首をかしげるが、すぐにその意味が分かると素直に頷き、再びピアノに向き合った。
「…何を、シーラさんに伝えたのですか?」
「もう1曲だけ弾いて欲しい…と、それだけです」
 意味ありげな笑みを浮かべながら禅鎧。そこでふと、何かを思いだしたように神父は口を開いた。
「これもローラから聞いたのですが、貴方も音楽をおやりになるとか…。それも、かなりの腕の持ち主だそうですね」
「…いえ、そんな事はないです。人並みですよ」
 謙遜するように、フッ…と苦笑いを零す。
 そんな事を話している間に、三度シーラの‥‥‥恐らくは最後の‥‥‥演奏が始まった。
「? この曲は初めて聴きますな。彼女の、新しい曲でしょうか」
 神父がそう呟いた通り、子供たちにとっても初めて聴く曲だったらしく、興味津々な眼差しをシーラに向けながら耳を傾けている。
(この曲は‥‥‥‥!)
 唯一、全く別の反応を見せたのは禅鎧だった。シーラが弾いている曲は、他でもない自分の曲だった。楽譜を見ながらも、演奏を詰まらせる事無く弾いていく。
 禅鎧は表情にこそ現さないものの、内心驚いていた。一度楽譜に目を通しただけで、ここまで完璧に演奏できるシーラ。そんな彼女に、禅鎧は確かな期待感と興味が湧いてきていた。
 ‥‥‥やがて、シーラの演奏は無事終了した。
「シーラお姉ちゃん、それ何て言う曲? わたし、すごく気に入っちゃった」
「ボクもボクも〜っ!」
「これ? これは禅鎧くん、あそこに座ってるお兄ちゃんが作った曲なんだよ」
 シーラが禅鎧の方に視線を流した瞬間、子供たちの視線が彼に集中する。
「へえ〜、そうなんだ〜」
「…ねえねえ、お姉ちゃんとあのお兄ちゃんって、恋人同士なの?」
 ローラと同じぐらいに、恋愛に関して敏感な女の子がシーラに尋ねてくる。
「え‥‥‥。そ、それは‥‥‥」
 当然、シーラの頬はたちまち桜色に染まり、困ったように口ごもってしまう。時折、チラチラと禅鎧の方に視線を移す。
「コラッ! みんな、シーラちゃんをいじめちゃダメだよ。困ってるでしょっ!」
 腰に両腕を当てて、ローラがその女の子を優しく叱る。
「…は〜い。お姉ちゃん、ごめんなさ〜い」
「え? う…ううん、気にしなくていいよ」
 女の子は少し名残惜しそうだったが、すぐにシーラに謝った。少し戸惑いながらも、女の子に優しく答えた。
「お兄ちゃん! 今度は、お兄ちゃんが弾いてよ。シーラちゃん、どうもありがとっ!」
 ローラに呼び掛けられ、禅鎧は子猫を抱き直してから立ち上がった。その子猫を飼い主の少年に返すと、シーラの元へと歩み寄る。
「お疲れさま、シーラ」
「禅鎧くん…。あの、ごめんなさい。勝手に、禅鎧くんの曲を弾いちゃって…」
 申し訳なさそうに、シーラは謝ってくる。
「…いや、素晴らしい演奏だったよ」
 禅鎧は、満足げに優しい眼差しを向けた。真青の瞳を見ていたシーラの胸が、またもドキリと大きく波打つ。
「禅鎧くん‥‥‥、ありがとう。ふふ‥‥‥」
 禅鎧からも称賛を受けたシーラは、心底嬉しそうにほのかに頬を染めながら微笑んだ。禅鎧には、そんな彼女が心なしか可愛らしく見えた。
 そして入れ替わりに、ピアノに向き合う禅鎧。シーラは、禅鎧が座っていた神父の隣へと腰を下ろした。
「ああシーラさん、素晴らしい演奏をありがとうございました」
「いえ、そんな‥‥‥。喜んで頂けて、嬉しいです」
 シーラと神父がそんな会話を交わすと、禅鎧の方に視線を移した。ちょうどその時、懐からそれぞれデザインが異なるシルバーリングを2つ取り出すと、それを右手中指・薬指にはめる。
「ねえお兄ちゃん、その指輪はなあに?」
 ローラは身を乗り出すようにして立ち上がると、禅鎧にそう尋ねてくる。
「ああ、俺のお守りみたいなものだ」
 ローラはふ〜ん…と興味ありげに鼻を鳴らすと、禅鎧の隣りに座ってきた。
「あ‥‥‥‥‥」
 ローラの行動に、シーラは思わず小さく声を挙げる。
「ローラ‥‥‥?」
「エヘヘ、お兄ちゃんの演奏、間近で見てみたいんだ」
 無邪気に微笑むローラ。禅鎧は小さな苦笑いを浮かべるが、無理に押しのけるような行動はしなかった。
「ねえお兄ちゃん、あたしリクエストあるんだけど…いいかな?」
「ああ、別に構わないけど‥‥‥」
「『Fall in YOU』‥‥‥っていいたいところなんだけどぉ。エヘヘ、あの時に妖精さんたちと演奏した曲憶えてる? あれがいいなぁ」
 クリクリした大きな瞳を輝かせながらローラ。
「…ああ、『In the forest』のことか? ちゃんと憶えてるから大丈夫だ」
「ホントっ? さっすがお兄ちゃんっ!」
 頭の中で楽譜をきちんと思い浮かべる事ができてから、禅鎧はローラに答えた。満面の笑みを浮かべるローラを見て、禅鎧は優しく微笑んだ。
「えっ? じゃあ、あの時ローラお姉ちゃんが話してくれたのって、本当の事だったの?」
「あ、コラ! ひょっとして、今の今まで疑ってたのぉ?」
 少し大人びた顔立ちの少年の言葉に、ローラは少しむくれたように言った。その少年がすぐに詫びたので、‥‥‥それでなくとも‥‥‥彼女はそれ以上は起こらなかったが。
「でも、他の人たちには内緒だよ。ね、お兄ちゃん?」
「フ…、それがいいかもな」
 屈託のない笑顔でローラは禅鎧に話を振る。禅鎧も、意味ありげな静かな笑みを浮かべてそれに答えた。
『ハ〜イ』
 ローラの呼び掛けに、子供たちの返事が見事にハモッた。それに対して、満足そうに頷くローラ。後ろで見ている神父も、子供たちに誇らしげで優しい眼差しを向けている。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 だがその隣に座っているシーラだけは、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。その寂しげな視線が向けられているのは、他ならぬ禅鎧だった。
 禅鎧がローラと楽しそうに会話をしている姿。それだけならば、教会では日常的なとても和やかな情景としてシーラの瞳には移っていただろう。
 だが、その禅鎧の隣を片時も離れようとはせず、満面の笑顔を絶やさないローラ。時折、禅鎧がそんなローラに向けるクールで優しげな笑み。言わばそれは、自分たちには一切見せた事がない、ローラだけにしか見せない特別な顔。そして、自分の全く知らない禅鎧とローラだけの秘密の話題。それを見るたびに、シーラは自分の胸が締め付けられるような感覚に襲われていた。
 それと同時に頭の中を駆けめぐる、考えたくもない余計とも取れるマイナス的な思考。ひょっとしたら禅鎧は、アレフが自分以外の女性も口説いているように、禅鎧も蔭では他の女性とも付き合っているのではないのか。禅鎧が自分を誘ってくれたのは、ローラとの仲の良さを自分に見せびらかすためにやったイヤガラセなのではないのか。
「う‥‥‥‥‥」
 胸の締め付けが限界まで達したシーラは、思わず声を挙げてしまう。息が荒い。嫌な汗がじんわりと、額に滲み出てくるのが感じ取れた。
「? シーラさん、どうかなさいましたか?」
 シーラの苦痛を聞き取ったのか否か、隣の神父が声を掛けてきた。
「あ…いえ、何でもないです」
 神父に入らぬ心配をかけぬように、平静を装うシーラ。だがその声は、今にも壊れそうにか細く震えていた。禅鎧は既に演奏を始めているが、既にシーラには聞こえていない…否、彼女の耳が拒んでいると言った方が良いだろう。シーラは、禅鎧に悟られぬように静かに立ち上がった。
「私…急用を思い出しました。お先に失礼します」
「本当に大丈夫かね? 顔色が悪いみたいだが…」
 神父に指摘され、思わず立ち止まるシーラ。そして作り笑顔で、神父に頷いてみせた。
「本当に何でもないんです。…それじゃあ、失礼します」
 神父に軽く会釈すると、ピアノソロを続ける禅鎧に軽く視線を写す。わずかながらも、禅鎧がこちらに気付いてくれる事を願っていた自分に気付くと、その思考を完全に振り払うように頭を左右に激しく振る。そして、静かに教会を後にした。

 教会の門をくぐり抜けたシーラは、1つ静かに深呼吸をする。わずかではあるが、気が安らいだような気がした。そして、トボトボと重い足取りで歩き出す。この後の目的地は特にない。
 さくら亭にでも行こうと思ったが、パティは生憎とジョートショップの仕事をしている最中だろう。例えパティがいたとしても、禅鎧と自分の間柄を信じて疑わない彼女には入らぬ心配を掛けたくはなかった。
 自宅に帰ろうかとも考えた。本来ならば、今日は午後からピアノのレッスンがあった。だが、禅鎧との約束が急に決まった為に‥‥‥無論、禅鎧の名前は出さなかったが‥‥‥無理にお休みにして貰ったのだ。まだ時間はあるので、後のピアノレッスンに精を出そう。だが、今の状態でレッスンを受けても腕は上達せず、先生に入らぬ迷惑を掛けてしまうのは目に見えている。最後には、その考えも断念せざるを得なかった。
(禅鎧くん‥‥‥)
 ふとシーラは、自分の左肩に触れた。そこは、以前天窓の洞窟の探索に行った時、巨大コウモリによって傷を付けられた箇所でもあり、それを禅鎧が治してくれた箇所でもあった。そして、先日悪漢に襲われていた時に助けてくれたのも禅鎧。
 自分が禅鎧に対して、はっきりとは分からないが何か特別な感情を抱き始めたのはその時からだったろうか。だが今は、禅鎧の事を思い出しても、そんな感情など微塵も感じられなくなっていた。
 ふと立ち止まり、やるせない溜め息を再び吐き出す。そして再び、歩き出そうとしたとき…。
 ドンッ!
「キャッ…!」
 ずっと俯いて歩いていたため、前方の人影に気付かなかった為、他の通行人と衝突してしまう。倒れはせず、その人の胸に顔を軽く埋めてしまった状態にある。女性の特徴である2つの膨らみがないところから、恐らくは男性なのだろう。恐る恐る顔をあげてみるシーラ。
「大丈夫ですか、シーラさん」
「‥‥‥凍司、くん」
 幸いにも、ぶつかった相手が顔見知りの青年…凍司だった為、シーラは胸を撫で下ろした。すぐにごめんなさい…と、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、気にしないで下さい。…あまり元気がないように見えますが、どうかなさったんですか?」
「あの…、その‥‥‥。ごめんなさいっ!」
「あ、ちょっと…シーラさん!」
 だが凍司の呼びかけには答えず、シーラはもう一度謝ると、凍司とは正反対の方向に走っていってしまった。凍司はただ、そんな寂しげな彼女の背中を見送る事しか出来なかった。
(確か今は、龍矢と一緒に教会に行っているはずですが…)
 余り考えたくはなかったが、禅鎧と何かあったのではないか。凍司はシーラの様子について考えているうちに、そんな答えに辿り着いてしまった。凍司自身、その考えには確証がないわけではなかった。言いにくそうに言葉を詰まらせていたシーラのあの表情は、紛れもなくアレは…。
「? ‥‥‥これは?」
 ふと凍司は、自分の足下に何かが落ちていることに気付く。それは、よく使われた桜色のファイル。裏表紙には、「Sheela Shefield」と書かれてあった。恐らく、先程凍司とぶつかった拍子に落としてしまったのだろう。
「…仕方がありませんね」
 お節介な自分を嘲笑うかのように、小さく苦笑いを零す。凍司はファイルについた砂埃を払拭すると、シーラの後を追っていった。

 陽の当たる丘公園…。エンフィールドの住民が1日の疲れを癒す場所でもあり、子供たちの遊技場でもあるその場所にシーラはいた。白いペンキが所々はがれ落ちた古いベンチに、彼女はポツリと座っている。自分の目の前を元気いっぱいに走り回る子供たちには一切目もくれず、ただ自分の足下を一点に見つめていた。
 エンフィールドの澄み切った空気のせいだろうか、その表情は心なしか先程までの暗い色が少しではあるが薄れてきているようにみえる。同時にそれは、シーラ自身の思考も別の方向にベクトルを向けさせていた。
 先程までシーラは、自分をとにかく追いつめてしまうような事ばかり考えていた。だが現在は、冷静に自分と向き合って考えている。なぜ自分は禅鎧がローラと楽しく話している姿を見た時、禅鎧のあの優しげな表情を見た時、あれほど胸が苦しくなったのか。そして、自分は禅鎧の事をどう思っているのか。
 だがそれの答えを求めようとするほど、シーラの手元から遠ざかっていき、後にはやるせない虚無感が残るだけだった。
「シーラさん…」
「! ぜん…、凍司くん」
 突然誰かに呼び掛けられ、ハッと顔を声がした方に向ける。透き通るような声だったため禅鎧かと思ったが、そこにいたのは先程道端でぶつかった凍司だった。
「お隣、宜しいですか?」
 人の良い笑みを浮かべながら凍司。シーラが無言で頷いたのを確認すると、ベンチについた砂埃を振り払ってから腰を下ろした。
「あの、何か用…ですか?」
「はい、これ。忘れ物ですよ」
 凍司は、先程のシーラのファイルを差し出した。それを見たシーラは、自分の手元を見てハッとした。凍司に手渡されるまで、ずっとファイルを落としていた事に気付かなかったのだ。
「大事なものは、ちゃんと手元に持っておかないといけませんよ」
「…はい。あの…ありがとう、凍司くん」
 少し恥ずかしそうに、シーラはファイルを受け取ると、大事そうに胸に抱きかかえた。凍司はそんなシーラを気遣うように、静かな笑みを浮かべた。
「今日は…、とてもいい天気ですね」
「え‥‥‥?」
 凍司が口を開いたとき、自分の事を尋ねてくるではと思ったシーラだが、それとは全く別の事を聞かれた為に思わず間の抜けた声を挙げる。
「こういう日は、こうして公園でのんびりするのもいいものですね」
 凍司の何気ない台詞に、ただシーラはその澄んだ瞳を何度も瞬きしていたが、やがてその言葉の真意を悟ると、また暗い表情のまま顔を俯かせた。
「何にも、聞いてはくれないんですね…」
「‥‥‥フフ、やはりばれてましたか。僕がここに来た理由が…」
 シーラが落としたファイルを届けに来た…。それでも立派な理由になるが、敢えて凍司はそれを口に出さなかった。彼女がファイルを落としてくれた事で、それを届ける事を口実に事情を聞こうと試みていたからだ。
「‥‥‥あの、凍司くん。私の話を、聞いてくれませんか」
「‥‥‥僕なんかで宜しければ、相談に乗りますよ」
 当然ながら、凍司は快く頷いてみせた。そう問い掛けたシーラの瞳は、シャープな視線を凍司に向けていた。
「ありがとう。‥‥‥私ね」
 シーラは一呼吸置くと、先程自分が考えていた事を凍司に持ち掛けてみた。ローラと楽しそうに話している禅鎧を見た時に感じた、いわばシーラにしてみれば初めて味わった感覚。それの正体が何なのか、答えはまだ闇の中だということも含めて、包み隠さず話した。
 シーラの言葉を一通り聴き終えた凍司は、口元に手を当てつつ考えにふけった。そして、何処か言いにくそうに凍司は口を開いた。
「‥‥‥それは、シーラさんの考え過ぎだと思いますよ。禅鎧はローラさんに対して、シーラさんが考えているような感情は持っていませんからね」
「え‥‥‥‥」
 自分が考えているような感情は持っていない。シーラの耳には、そこがより強調されて聞こえてきた。その感情が何なのか、凍司は敢えて語ろうとはしなかった。
「あまり他人には話すべきではないのですが、‥‥‥そうですね。貴女にならば、話してもいいかもしれません。禅鎧の事を‥‥‥」
「禅鎧くんの、事…?」
 オウム返しに答えてくるシーラ。凍司は彼女にシリアスな表情を向けると、言葉を続けることにした。
「…ですがこれは、貴女にとってはショックな事かもしれません。それでも宜しいのであれば、僕は喜んでお話ししましょう」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 シーラはしばらくの間、心の中で自問自答を繰り返した。現在の自分に、禅鎧の事を聞く権利はあるのか。禅鎧との約束の途中、勝手に抜け出してきてしまった自分に。いや、そんな事を考えてばかりでは、何時まで経っても解決はしない。もしも禅鎧に何か深い事情があるのならば、自分も少しでも彼の助けになりたい。それは、シーラが禅鎧と出会ってから‥‥‥正確には天窓の洞窟での一件で、彼に対して何か特別な感情を抱き始めた自分に気付いてから、ずっと思っていた事だった。
「はい、それでも構いません。…凍司くん、私にもその話を聞かせてくれますか?」
 そのシーラの眼差し、表情…。どれを取っても、先程までの暗い表情は完全に払拭された、いつものシーラ・シェフィールドがそこにはいた。凍司は満足そうに頷くと、一呼吸置いてからその重い口を開いた。
「分かりました‥‥‥。詳しい内容は『今は』語る事が出来ません。従って、単刀直入に言わせてもらいます。現在の禅鎧には‥‥‥」
 その凍司の言葉を聞いたシーラは、驚きの色を完全に表にさらけ出してしまった。また、同時にやるせない悲愴感が心の中に甦ってきた。
「それは、どうしてなんですか‥‥‥?」
「それは申し訳有りませんが、僕の口から言う事ではありません。これは、禅鎧自身が望んだことですから…」
 そう言う凍司の瞳は、遥か遠くを見つめていた。彼の瞳に移っているのはエンフィールドを守護するように差し込む太陽ではなく、戻りたくても戻ることが出来ない、永遠という名の牢獄に閉じ込められた時間と場所だった。
 凍司は、隣りで俯いてしまっているシーラに目を向ける。大方予想していた事だが、彼女の落胆加減を見ていると、その事を話した自分も入らぬ後悔をしてしまったように思えてきた。
「そんなに落ち込まないで下さい、シーラさん…。僕が貴女にこの事を話したのには、もう1つ理由が有るんです」
「‥‥‥理由?」
 視線のみを凍司の方に向けるシーラだが、自分の艶やかなロングヘアーが邪魔でよく見えてはいない。
「ええ。僕は、貴女にかけているんです。今の禅鎧は本人に自覚はないものの、徐々にそれを感じてきているようです。決まって、シーラさん…貴女と話している時や、貴女がパティさんたちに禅鎧との間柄をからかわれたりしている時に…」
「凍司くん‥‥‥」
 思わずシーラは、ほのかに頬を染める。凍司の言葉のお陰か、シーラは自分の心に希望の光が射し込んできたように思えた。
「凍司くん、ありがとうございました。少しだけ、気分が晴れたような気がします」
「そう言って頂けると、僕も肩の荷が少しだけ下りたように感じられます。‥‥‥大丈夫です。貴女ならきっと、禅鎧の『封印された感情』を取り戻してくれるでしょう。禅鎧の事を、そこまで想ってくれているシーラさんなら…ね」
 凍司にそう言われ、またもシーラは恥ずかしそうにはにかみ笑いを浮かべた。フッ…と、静かな笑みを零す凍司。
 凍司はふと、公園の入口に見覚えのある人影を発見する。
「シーラさん。どうやら、貴女の待ち人が来たようですよ」
「えっ…? あ、禅鎧くん…」
 禅鎧の向いている方向から察するに、どうやら教会から真っ直ぐここに来たのだろう。辺りを注意深く見回しているところを見ると、どうやら誰かを捜しているようだ。
 禅鎧の姿を確認したシーラは、今日初めて会うわけでもないのに関わらず、思わず緊張してしまった。自分の胸に手を当てて、まず何から話そうか迷っているようだ。
「恐らく、シーラさんを捜しているのでしょう。ぜんが〜い、シーラさんならこちらにいますよっ!」
「あ‥‥‥、と…凍司くん」
 大きく手を振りながら、禅鎧に呼び掛ける凍司。まだ心の準備が出来ていないシーラは、しどろもどろになりながら凍司を止めに入ろうとするが、それは無駄な行為だった。こちらに気付いた禅鎧は、駆け足で2人の元へと寄っていった。
「シーラ…! ここにいたのか…」
「ぜ、禅鎧くん。あ…あの、その‥‥‥」
 何処か言いづらそうに言葉を濁らせるシーラに、禅鎧は訝しげな表情を浮かべる。
「何処か、身体の調子でも悪くなったのか?」
「う…ううん、ホントに何でもないの。…あの、勝手に教会を抜け出しちゃって、ごめんなさい」
 焦りながらも禅鎧の言葉を否定するシーラだが、その後には心底申し訳なさそうに禅鎧に頭を下げた。そして恐る恐る禅鎧を見上げると、安心したように小さく微笑していた。
「…そうか。いや、シーラが無事ならそれでいい」
 自分を気遣ってくれる禅鎧の言葉。それが、今のシーラには何よりも嬉しく、心のモヤモヤを一瞬にして取り払ってくれた。
「…さてと、それじゃあ僕はこれで失礼しますよ」
「…あ、凍司くん。私の話に付き合ってくれて、ありがとうございました」
 こちらも安心したように笑みを零した凍司は、2人を残してその場から立ち去ろうとするも、シーラに呼び止められる。シーラは、現在出来る自分の精一杯の笑みでお礼を言った。
「いえ、僕は当然の事をやったまでですよ。ああ…それと、最後にもう一言だけ宜しいですか?」
「はい。何ですか?」
 シーラが快くそう返答すると、凍司はピンッ!…と人差し指を一本立てた。
「『飾らない心』…。それを常に、忘れないでいて下さい。それじゃあ2人とも、僕は先にジョートショップに戻っていますよ」
 それだけ言い残すと、凍司は今度こそ公園を少し小走りで去っていった。
「凍司と、一体何を話していたんだ?」
「…うん、ちょっとした悩み相談みたいなもの。禅鎧くん、私たちもジョートショップに戻りましょう」
「ああ、そうだな‥‥‥」
 そして2人もまた、凍司に続いて夕暮れ時の公園を後にした。

 ジョートショップの帰路の途中。禅鎧とシーラ、2人の影法師がさくら通りの街路に大きく映し出されていた。先程まで真青だった天空も、今ではすっかりオレンジとブルーの見事なグラデーションで彩られていた。そんな絵に描いたような空の下を、無言で歩いている2人。
 ふと禅鎧は、その足を止めた。シーラも、驚いたように立ち止まり、禅鎧の方を振り向く。
「シーラ、今日はすまなかった」
「…えっ、禅鎧くん?」
 突然禅鎧に謝られ、シーラは驚いたように怪訝な表情を浮かべた。
「あの時、ずっとピアノやローラとの昔話にばかり気を取られて、肝心のシーラの方には少しも話しかけようとはしなかった。本来ならば、今日の話を持ち掛けた自分が、シーラを立ててやらなければならなかったのに…」
 禅鎧の言葉は、そこで途切れてしまった。いや、それで十分なのかもしれない。シーラは優しい笑みを浮かべながら、かぶりを左右に振った。
「禅鎧くん…、もうそれはヤメにしようよ。今日の話、禅鎧くんが誘ってきてくれて…私、凄く嬉しかったんだから…。禅鎧くんは、私が一緒に来て迷惑だった?」
「そんな事はない。俺だって、シーラが頼みを聞いてくれてとても助かった。シーラのアドバイスがあったからこそ、子供たちに俺のピアノを気に入って貰う事ができたからな」
「そんな…ありがとう、禅鎧くん。だから、もうこの話はこれで終わり。そうじゃないと、ずっと堂々巡りを繰り返すだけだし、楽しかった事が全部悲しい事になっちゃうから」
 シーラの言うとおり、今日は確かに後半は気まずい雰囲気が流れていたが、前半部分はとても和やかな雰囲気を感じることが出来ていた。彼女の言葉に、冷静な自分自身を取り戻した禅鎧は、また1人で勝手に思い込んでしまっていた自分を嘲笑うかのように苦笑いを零した。
「…そうだ、な。少なくとも、楽しかった事も沢山あったからな」
「うんっ、そうだよ。子供たち、前に私が来ていた時よりも喜んでくれてたもの。それに‥‥‥」
 禅鎧くんに、自分のピアノ演奏を褒めて貰えたし…。そう続くはずだったが、恥ずかしさの余り言葉を閉ざしてしまう。だがそれに構わず禅鎧は、半ば照れくさそうにそれに微笑する事で応えてみせた。
「…禅鎧くん、また一緒にピアノを聴かせに行ってくれないかな…。今度は、私からのお誘いという事で…」
「…ああ、俺で良ければ。今度は、ちゃんと俺のピアノも聴いて貰わないとな」
「はい、喜んで‥‥‥」
 禅鎧の快い返事と提案に、シーラは嬉しそうに微笑んだ。そのシーラの誘いの言葉は、同時に自分が自分に問い掛けていた疑問への答えでもあった。
「後、ローラたちに今日の事を説明した方が良い。シーラが抜け出したのに気付いた時、ローラたちに責められてね。そのぐらい心配してたからな…」
「え、そうだったんだ。ごめんなさい…」
 再びシーラは謝るが、禅鎧は彼女を気遣うように苦笑いを零した。禅鎧の言葉に、シーラは少し後悔していた。少なからず、先程までローラに対して妬みのようなものを感じていたのだから。
 再び歩き始め、ジョートショップとの距離を徐々に縮めていく。
「…ふ、ファ〜ア」
 ふと突然、禅鎧が大きなあくびをした。今まで見た事がなかった禅鎧の表情に、シーラはそのソイルカラーの瞳を数回瞬きさせる。
「…どうしたの、禅鎧くん?」
「ん…ああ。実は昨晩、ずっと徹夜で『エーテル・シンセサイザー』いじってて、あまり眠れなかったからな」
「え‥‥‥‥‥。プッ、クスクスクス」
 一瞬、間の抜けた声をあげてしまうシーラだったが、すぐにその後堰を切ったように笑い出した。そんなシーラの反応に、禅鎧は怪訝な表情を浮かべる。
「? 俺、何か変な事を言ったか?」
「クスクス、ご…ごめんなさい。禅鎧くんが徹夜で楽器をいじってる所想像しちゃったら、つい‥‥‥。禅鎧くんは、そんな事しなくても、すぐに何でも出来るような人だって思ってたから…」
 シーラの言葉に、禅鎧は困ったように苦笑いを零した。
「…別に、そんな天才肌じゃないよ俺は。俺にだって、向き不向きはあるからな」
「うふふ…うんっ。‥‥‥でも、良かった。私だけじゃなくて…」
 シーラは安心したように、それでいて嬉しそうに言葉を続けた。
「私も時々、ピアノの練習とか作曲をしてる途中にうたた寝してしまって、気がついたら朝になってた事があったの。でもひょっとしたら、私だけじゃないかと思って黙ってたけど…。やっぱり、そうじゃなかったんだね」
「ああ…。誰だって、寝る間を惜しんでやりたい事は必ず1つはあるからな。それが、俺やシーラの場合は音楽だった。それが、普通なんだよ」
 そう冷静に分析する禅鎧の言葉に、シーラは素直に頷いてみせた。
「うんっ」
 禅鎧との共通点を、またもう1つ見付ける事が出来たシーラ。そんな彼女の心理を物語るかのように、シーラの影法師が禅鎧の影法師に寄り添っているかのように見えた。

To be continued...
中央改札 交響曲 感想 説明