中央改札 交響曲 感想 説明

In the forest -後編-
輝風 龍矢


The last song

第3章:Type Around
第6話:In the forest -後編-
 一方、禅鎧たちは途中シェリルと合流するが、案の定シェリルもトリーシャを見付ける事は出来なかったらしい。自分も一緒に行くと彼女は言ったが禅鎧は、自警団事務所に行き父親であるリカルドにこの事を報せるように、シェリルに指示を出した。少し心配そうだったが、はっきりと頷いて自警団事務所の方へと走っていった。
 そして現在。雷鳴山の麓に広がる森林を探索中の禅鎧たちは、アルベルトを含めた3人の自警団と鉢合わせになっていた。どうやら、彼らも行方不明のトリーシャを捜索に来ていたようだ。
「行方不明者の探索は我々自警団の仕事だ。貴様らド素人は黙って、俺たちからの朗報を待っていればいい!!」
 ビシッと禅鎧を指差しながらアルベルト。後ろに控えた自警団は、呆れたように肩をすくめていた。
「‥‥‥悪いけど、こっちもトリーシャの大切な友人に頼まれてる以上、このまま引き返すわけにはいかない」
 1つ大きく溜め息を付きながら、前髪を掻き上げる。その傍らでは、シーラとクリスが困惑した表情をしている。
「いいか、覚えておけよ! トリーシャちゃんを見付けるのは、オレたち自警団だ!! 邪魔をするようなら、力ずくでも排除してやるからなっ!!」
 そんな捨て台詞を残して、アルベルトたちはズンズンと森の中を歩いていった。その後ろ姿を、禅鎧は無表情のまま見送るだけだった。
「あの…禅鎧さん、先に行かせちゃっていいんですか?」
「‥‥‥別に。トリーシャ探索の人手が増えただけだからな。それに、自警団と張り合う理由も全くない」
 クールな口調でそう言うも、禅鎧は心の中では若干の苛立ちを感じていた。どんな理由があるのか知らないが、こちらを一方的に敵視して、雌雄を決するような事を撒くしたててくるアルベルト。それは、別にどうでもいい。しかし‥‥‥。
「ねえ禅鎧くん、私たちも早く森の中に行きましょう」
「…ああ。じゃあ、俺たちはこっちの方を探索しよう」
 アルベルトたちが歩いていった道の、1つ隣りの道を指差す禅鎧。獣道になりかけてはいるが、まだ人が歩けるほどの開けた道が残っている。
 凍司たちとは正反対に、トリーシャに呼び掛ける事もせず、茂みの中を覗くぐらいの行動だけで探索を続ける禅鎧たち。以前にも足を踏み入れた事のあるこの森では、頻繁にモンスターの姿を目撃されている。変に大声を挙げて探し回っていては、魔物たちと遭遇して余計な時間を食ってしまう。効率は悪いが、クリスとシーラという戦闘に不慣れな2人を守るにはベストだ。
 だがここで、ある1つの疑問が浮かび上がる。そんな危険な場所への通行口には、誰1人として門番がいなかった。そこまで平和ボケしているのかと思ったが、あのリカルドがいる自警団がそれを怠るはずがない。それに、自分が初めてエンフィールドを訪れた時にはちゃんと門番が控えていた。
 禅鎧は難しい表情のまま、何か引っかかるような考えを脳裏に残したまま、森の奥へと足を運んでいくと…。
 ガサガサッ!!
 突如、背後の茂みがざわめきだした。一瞬風が吹き抜けたのかと思ったが、茂みのごく一部だけが揺れていた。驚いたように、禅鎧の背後に隠れるシーラ。
「ト、トリーシャちゃん?」
 禅鎧の袖を掴んでいる彼女の手に力が入る。シーラの言葉に反応してか、クリスは思わず茂みに近づこうとするが、すんでの所で禅鎧が手で制した。禅鎧が察知した『氣』は人間の少女のそれではなかったのだ。
 ガサ、ガサガサッ!!!
 禅鎧の予想通り、出てきたのはトリーシャではなかった。3人の中で一番身長の低いクリスよりもより小さな、卵のような楕円形のシルエットの生物が2〜3匹。そのうち、真ん中の1匹は全身が肌触りの良さそうな毛皮で包まれていた。
「フサ‥‥‥か」
「禅鎧くん、知ってるの?」
 恐る恐る尋ねてくるシーラに、フサの特徴や性格などを説明した。とりあえず獰猛な生物では無いことが分かると、ホッと胸を撫で下ろして禅鎧の陰から姿を現す。
「‥‥‥ム? 人間ガコンナ森ノ中ニ何ノ用ジャ」
「…あ、あの。僕たち、トリーシャっていう同い年の女の子を捜しに来たんです。頭に大きなリボンを付けてるんですけど、見ませんでしたか?」
 今まで見た事の無い生物に面食らっていたクリスだが、すぐに大切な友人の事を尋ねてみた。…中心のフサが何か言おうとするが、傍らに控えたもう1匹が何かを耳打ちした。頷いたように真円の紅い瞳を瞬きすると、静かな口調で答えた。
「人間ヨ、直チニコノ森カラ出テイッテクレヌカ?」
「! …そ、そんな。どうしてですか!?」
 だがそれでも質問には答えようとはせず、森からの退去を強く要求してくるフサ。
「ソレニ我々ガ答エル義務ハナイ。モウ一度言ウ、今スグニココカラ立チ去ルノダ」
「僕の大切な友達なんです! どんな小さな事でもいいから、教えていただけませんか?」
 トリーシャがなかなか見つからない事に不安を抱いてきたのか、クリスは少し感情的にフサへと迫った。それは禅鎧ならばまだしも、シーラもこれまでに見た事がないクリスの表情だった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 クリスの気迫に圧倒されたのか、考えを改めるかのように鼻を唸らせてみせるフサ。
「ぜんが〜い!」
 …とそこへ、禅鎧たちが歩いてきた山道から凍司が駆け寄ってきた。そして少し遅れて、リサとエルも到着した。
「ハァ、ハァ…。みんな、早すぎるよ〜!」
 そして一番最後に、マリアが肩で大きく息をしながら駆け寄ってきた。そのマリアの傍らには‥‥‥。
「オオッ、オ前ハ! ヨクゾ無事デ戻ッテキテクレタノウ」
「アッ、長サマ! 心配カケチャッテ、ゴメンナサイ。コノ人間ノオ兄チャンタチガ、危ナイトコロヲ助ケテクレタンダヨ」
 凍司たちが連れてきたフサの子供話を聞いて、成る程ね…と前髪を掻き上げる禅鎧。どうやら、何者かに自分たちの仲間を誘拐されたが為に、極度に人間を毛嫌いしていたのだろう。
「助かった、凍司」
「いえ、…どうやら間に合ったようですね。…ですが、安心するのはまだ早いですよ」
 その場には居なかった凍司だが、禅鎧同様フサの会話で禅鎧たちの状況をすぐに把握できた。だが、フサから事の発端を聞いていた凍司には、これで全てが一本の糸で繋がっている事を確信していた。
「…ということは、トリーシャの事と何か関係があるのか?」
「ええ…。でもこれは、僕の口からよりも長さんから聞いた方が良いでしょう。説明して下さいますね?」
 凍司に続きを振られたフサは少し考えるように黙すと、1つ小さく頷いた。
「分カッタ。オ前タチハドウヤラ、信用シテイイ人間ノヨウジャ。‥‥‥ホンノ少シ前ニナルガ」
 長は淡々と、先程自分たちが直面した出来事を話し始めた。禅鎧たちがここを訪れる数十分前、鮮やかな銀髪に漆黒の拘束衣をラフに着込んだ謎の男が、何やら1人の少女を担いで森の奥へと進んでいる所を目撃した。フサに気付いた男は、この事を誰かに漏らしたら毛皮を剥ぎ取ると脅してきた。更には人質として、凍司たちが救出したフサの子供をさらっていったらしい。
 男の正体をいち早く察知した禅鎧は、グッと奥歯を噛みしめた。
「…また、シャドウが絡んでいるというのか。物好きな奴だ」
「それで、その男はどちらの方向に?」
「…スマヌガ、ソレハ分カラナイ。コノ子ヲ抱キ上ゲタ瞬間、一瞬ニシテ姿ヲ消シテシマッタカラナ」
 申し訳なさそうに長。だが禅鎧は毒づくこともなく、全て包み隠さず話してくれた長に感謝していた。
「…なるほど、そういう事だったのか」
 威勢の良さそうな声が、禅鎧たちの背後から聞こえてきた。禅鎧たちよりも先に奥に行っていたと思っていた、アルベルトだった。他の2人の自警団員は見当たらない。くまなくトリーシャの探索をしていたのだろう、身体には所々に枯れ葉や土がこびり付いていた。
「悪いが、今の話全て聴かせて貰った。おいフサ、目の前に怪しげな男に抱きかかえられたトリーシャちゃんを目にしておきながら、何もしなかったというのか?」
 ジロリと眼を効かせるアルベルト。それにムッと来たのか、マリアが反論してくる。
「ちょっとアルベルト、それは言い過ぎよ! そもそもフサは‥‥‥」
「部外者は黙っていろ! 明らかに誘拐である事を認めていながら、それを黙認していた罪は重いぞ。…おい朝倉、そこをどけ!」
 フサにそう強く言い放つと、禅鎧に視線を向けた。その瞳は、我を失ったように血走っていた。
「何をするつもりだ?」
「自警団事務所に連行し、厳重注意を受けて貰う。例えフサといえども、容赦はしないぞ!」
「‥‥‥どかなかったら?」
 禅鎧は1つ大きく溜め息を付くと、無表情のままそう言った。その淡々とした口調が、アルベルトの腑を煮え繰り返した。持っていた愛用の長槍の切っ先を、禅鎧に向ける。
「言ったはずだ、実力行使に出るまでの事! 場合によっては、貴様ら全員公務執行妨害で逮捕してやる!!」
 無茶苦茶だ…と言わんばかり、後ろに控えていたリサとエルは溜め息を付いた。
 ふと凍司が仕方ありませんね…と、腰に携えていた長剣を握ろうとするが、禅鎧が黙したまま手で制した。ふと、傍らで心配そうな表情で見つめるシーラに視線を写し、小さく苦笑する禅鎧。そして、アルベルトに向き直る。
「そうか‥‥‥。それならば、仕方がないな」
 静かに瞳を細める。その一言に、アルベルトが思わず身構えた瞬間。
 ‥‥‥‥‥‥ガッッ!!
「!! ぜ、禅鎧!?」 
「禅鎧くんっ!」
 凍司とシーラが同時に驚愕の声を挙げる。
 禅鎧の姿が消えたかと思った瞬間、アルベルトの目の前に姿を現わした。否、彼の眼前まで高速移動したというべきだろう。そして、彼が手に握りしめていたのものはアルベルトの長槍の切っ先だった。
「な‥‥‥!!」
 予想もしなかった…出来なかった…禅鎧の行動に、アルベルトは我が目を疑った。木漏れ日により微妙に輝く長槍に、深紅の鮮血が流れ落ちる。
「何のつもりだ! は、離せ!!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
 だが禅鎧からは、少しも手を離そうとする気配が見られない。むしろ、更に刃を握る手に力を入れているようだ。アルベルトは目先の最も簡単な方法に目もくれず、槍を振り解かせようと左右に揺さぶりながらこちら側に引っ張ろうとするが、ただ余計に禅鎧の掌の傷口を広げさせているだけだ。
 やがて、長槍の先端から禅鎧の鮮血がポタリポタリと地面に突き刺さり始める。また、落下する事を免れた紅い液体は、長槍の柄までに手を伸ばし始め、そこからも幾つもの紅い雫が乾いた土に滴り、そしてジワリと染み込んでいく。それでも禅鎧は表情を変えることなく、切っ先を持つ手から力を抜こうとはしない。
「ヒッ! …うわあああああああっ!!!」
 禅鎧の血の生温かい不愉快な感触に気付いたのか、それとも禅鎧のまるで光を失ったような冷たい眼差しに気圧されたのか。いや、その両方だったのかもしれない。アルベルトは情けない悲鳴を挙げると、長槍から手を離してその場にへたり込んでしまった。
「…これで、少しは『さめた』か?」
 先程まで黙していた禅鎧が、口火を切ったように静かな口調で言った。それは目が『覚めた』、熱が『冷めた』。そのどちらにも取れるような言葉だった。
「もう一度、よく考えてみろ。フサは見ての通り、非常に大人しい種族だ。当然、争いなど好むはずもない。そんなフサに、戦えというのは無理難題且つ非情であるとは思わなかったか?」
 アルベルトを諭すように、禅鎧。その声は普段通りの静けさを帯びているが、無数の棘があるようにアルベルトの心に突き刺さってくる。
「それと、以前にも忠告しておいたはずだ。むやみやたらに、人に刃を突きつけるなと…」
 握っていた長槍を、尻餅をついて震えているアルベルトの足下に投げ捨てる。瞬間、流れ落ちる鮮血が宙を舞った。
「その衝動的な性格を直さない限り、いずれ近いうちに後ろにいるシーラたちのような何の罪もない者にも、このような怪我を負わせる事は否定できない!」
「!!!」
 長槍の刃を握っていた方の掌を、アルベルトの眼前にバッと突き付ける。それには2本の紅い、中心が少し太めの平行線が刻み込まれ、そこからは悲鳴を挙げるように痛々しく出血していた。アルベルトは身体を震わせたまま、顔面をガクリと項垂れさせた。
「…禅鎧、もうそのぐらいで宜しいでしょう? そろそろ、トリーシャさんの探索を続けましょう」
「‥‥‥‥‥‥ああ、そうだな」
 ポンと禅鎧の肩に手を置いてくる凍司。禅鎧は、少し間を置いてから後ろに軽く振り向くと、静かに頷いた。踵を返すと、こちらを様々な表情で見つめるリサたちが視界に飛び込んできた。今まで見た事のない禅鎧の行動に、半ば恐怖を抱いているかような表情のマリアとクリス。2人とは正反対に、クールな笑みを禅鎧に向けているリサとエル。驚愕と不安が混ざった複雑な表情のシーラ。ソイルカラーの彼女の瞳は、心なしか潤んでいた。禅鎧は困惑したように、苦笑いを浮かべる。
「さて、長…でいいかな。この森林地帯周辺で、何処か開けた場所を知らないか?」
 唐突に、禅鎧はそう切り出してくる。それで我に返った長は、戸惑い気味に答えた。
「ウ…ウム。ココカラ東ニイッタトコロニ、我々『ふさ』ガ森ノ精霊ニ祈リヲ捧ゲル祭壇ガアルガ…」
「何か思い当たる節でもあるのですか?」
「凍司も感じ取れるはずだ。このひしひしと伝わってくる大きな氣が…」
 禅鎧に言われて、凍司は辺りを探るように氣を察知してみる。そして、なるほど…と納得したように頷いた。
「みなさん、先を急ぎましょう。どうやらシャドウは、わざわざ戦いの舞台を用意してくれているようですからね」
「…ああ、分かったよ」
 と、これはリサ。禅鎧たちはフサに、しばらく身を隠していることと、事が終わったらまた謝罪に伺う事を告げ、森の中へと進んでいった。フサもまた禅鎧に言われたように、危険が及ばぬようしばらく身を隠す為に森の奥へと進んでいった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 そして、その場に取り残されたアルベルト。フラフラと立ち上がると、惚けたように目の前に転がっている愛用の長槍を見つめている。‥‥‥‥‥と、そこへ。
『アルベルト(先輩)〜〜〜!!』
 自分の名前を呼ぶ、聞き慣れた同僚と後輩の声が耳に飛び込んでくる。だが、そちらの方向には視線を向けようとはしなかった。
「大丈夫か、アルベルト? お前の悲鳴が聞こえたものだから、心配して探しに来たんだが‥‥‥」
「! せ、先輩! これは一体、何があったんですか?」
 今し方来たばかりの2人には、長槍に付いた紅い液体が血だと解っても、ここで何が起きていたのかは解るはずもなかった。
「‥‥‥‥‥‥しょう」
 微かにアルベルトの口が言葉を紡ぎ出す。だが、余りにもか細い声だったために聞き取る事ができなかった。
「? アルベルト?」
 訝しげな表情で、もう一度尋ねる同僚の団員。アルベルトは地面に倒れるように両手両膝をつくと、拳を思いっきり地面に叩き付ける。
「ちくしょう‥‥‥。ちっくしょおおおおおおっっ!!!」
 何度も地面に拳を叩き付けながらそう叫び続けるアルベルトに、2人の自警団員は何も語りかけることが出来ずに、ただ見守っているだけだった。

「待って、禅鎧くん。手の怪我、治さないと…」
 シーラの呼び掛けに、禅鎧は歩かせ始めようとした足を止めた。シーラはスカートのポケットから、淡い桃色のハンカチを取り出した。禅鎧の掌に合わせて、それを半分に折り畳んだ。
「いや、そんな大した怪我じゃないから…」
「駄目だよ。だって、凄く痛そうだもん。ね…禅鎧くん、手を出して」
 そう言うシーラのこちらを攻めるような瞳に負けたのか、禅鎧は黙って掌を差し出した。
「うん。ちょっとだけ、ジッとしててね」
 満足したようにシーラは微笑むと、禅鎧の掌にハンカチを巻き付けた。血に混ざった細菌をも全て吸収するかのように、ハンカチは鮮血をその身に取り込んでいく。
「シーラさん‥‥‥」
 そんな彼女を、意味ありげな笑みを浮かべながら見つめる凍司。シーラがハンカチの両端を結び終えたのを確認すると、禅鎧は手を引っ込めようとするが。
「あ、待って。『仕上げ』がまだ終わってないよ」
 シーラは静かにかぶりを左右に振った。訝しげな表情を浮かべる禅鎧だが、シーラの次の行動に細い瞳を大きく見開いてしまう。
 ポウッ‥‥‥。
 シーラが何かを唱え始めたと思ったのも束の間、禅鎧の手に添えられた彼女の両手が、微妙な緑色の光を放ち始めた。それはとても温かく、掌の傷口を優しく刺激してきた。
「これは、回復魔法?」
 クリスとマリアが、驚いたように顔を見合わせた。油の切れかかったランタンの灯火のように弱々しいが、それは間違いなく魔力を帯びた光だった。やがて、役目を終えたように光は静かに消え失せていった。
「ごめんなさい…。まだ、未完成だったから少ししか効果がないけど…」
「シーラ‥‥‥」
 禅鎧は以前、シーラが酒乱に襲われていた事を思い出していた。その時にも、シーラは掌から攻撃魔法と思しき光を撃っていった。あの時は半信半疑だったが、今ならはっきりと確信できる。
「今は、何も聞かないで。近いうちにちゃんと訳を話すから‥‥‥」
 シーラは俯いているが、その表情はいつになく真剣だった。ハンカチが撒かれた掌を見やると、禅鎧は拳を握ったり開いたり、またいつもピアノを弾く前にやる指の運動をしてみる。先程までの痛みは、ほとんど感じられなくなっていた。
「…解った。でも、この傷を治癒してくれた礼だけは言わせてほしい。…ありがとう」
「禅鎧くん‥‥‥うんっ」
 禅鎧の優しい笑みに、シーラの胸はトクリ…と優しく波打ち、彼女の頬に赤みが差した。シーラのはにかみ笑いに、禅鎧は照れ隠しに前髪を掻き上げると、再び森の奥へと足を進めていった。
(ヘェ〜、あの2人けっこういいとこまで進展してるんだね)
(天窓の洞窟での一件が、いいきっかけになったのかもしれないね)
 禅鎧とシーラのやりとりを見ていたエルとリサが、2人に聞こえないように小声で会話をする。だがそれはあくまで2人にだけであって、彼女たちに近い位置を歩く凍司には聞こえていた。
(…だと、いいですけどね)
 見ているこっちが恥ずかしくなりますけどね…などと戯けようとはせず、凍司の表情は何処かしら心配そうだった。
 ドクン!
 禅鎧と凍司、そしてリサは重々しい空気を感じ取った。先の天窓の洞窟での一件で感じ取った邪気と、全く同一のものだった。目の前には、既にフサの言う祭壇が見えてきていた。
「うわぁ〜、ひっろ〜い!」
 マリアが感嘆の声を挙げる。まるでここの木々だけが、意図的に取り除かれたように創られた広場だった。遠近感も配慮に入れて察するに、恐らくは円形をしているらしい。見上げれば、切り立った絶壁がこちらを見下ろしていた。中心には、祭壇と思しき曰く付きの石段が造られている。フサたちが手入れをしているのだろうか、老朽化しているような箇所は1つも見当たらない。
「あっ! 禅鎧さん、あそこ見て下さい!!」
 クリスが指差した先には、切り立った崖を掘り崩したように創られた穴が在り、粗末な造りの木格子で阻まれている。そしてその中には、トリーシャが倒れ伏していた。
「トリーシャっ!」
 クリスが彼女の元に駆け寄ろうとした時、彼と牢獄の間を遮るように次元が水面に出来る波のように揺れた。
「危ない、クリス!」
 間一髪の所で禅鎧はクリスを抱き留めると、次元の歪みとの間を大きく取った。
 次元の歪みに、巨大な魔物のシルエットがうっすらと浮かび上がってくる。固唾を飲んで見守る全員。やがて、固い鱗と鋭い爪を持った3本指の手が姿を現した。
「なっ、これはまさか!?」
 リサが大きく目を見開いた。若干怯えているシーラの元に、クリスを抱いた禅鎧が戻ってくる。すぐにシーラは、禅鎧の袖を掴むと背後に隠れた。それと同時に、魔物の全体像が現れた。鋭い牙を幾つも生やした大きな口。弱き者をいとも簡単にすくみ上がらせるような金色の切れ長の目。筋骨隆々のトカゲのような身体と、背中から伸びる巨大な翼。それはまさしく‥‥‥。
「グアオオオオオオン!!!」
 その大きな口から、地面を揺るがすまでの雄叫びが溢れ出てきた。
「ワイバーン…。これもまた、彼奴が召喚したものだな」
「トリーシャさんの身が心配です。一気に、片を付けてしまいましょう」
 禅鎧と凍司はお互いに頷き合うと、各々の武器を手に取り身構えた。
「解った。…まさか、これまでにやって来ている訓練のエクササイズが出来るとはね」
 リサも2人に続くように、バトルナイフを逆手に構える。3人は、ドラゴンを取り囲むような位置に着いた。禅鎧はシーラたちを守るためにあまり大きな動きは控え、飛び道具を主として攻撃。凍司とリサは、自分たちが持てる力を十分に使いつつ攻撃を加える。それが、禅鎧の指示内容だった。
「マリア、クリス。それと、エル‥‥‥。どうした、エル?」
 続けざまに禅鎧はエルにも指示を送ろうとするが、彼女が何時になく険しい表情をしている事に気付く。マリアも、驚いたように彼女に振り向いた。
「ん‥‥‥ああ、いや何でもないんだ」
「どうしたのエル? 何だか顔色が悪いよ?」
「気にするな。じゃあ禅鎧、アタシは此奴等と一緒に木陰に隠れているよ」
 そう言うと、シーラと共に禅鎧たちが見える木陰の方へと歩いていった。マリアは不満足そうに、ぶ〜☆…と餅肌の頬を膨らませた。
「何よあれ! 折角、マリアが心配してあげてるのに〜」
「エルなら大丈夫だ。それよりも、マリア。クリスも、いつでも魔法が使えるようにしておいてくれるか。それで、シーラとエルを守ってやってほしい」
 禅鎧に言われて、マリアは…まだ不服そうだったが…クリスと共に、エルとシーラの後を付いていった。それを確認した禅鎧は、凍司とリサに目配せをする。同時に2人はこちらに頷いた。
 禅鎧は懐から2個のシルバーリングを中指と薬指にはめると、『氣』を身体全体に行き渡らせた。まるでオーラのように、禅鎧のシルエットが銀色に輝き出す。
「…ミッション、スタート」

 トリーシャが閉じ込められている断崖絶壁の頂上。そろそろ傾きかけた太陽を背中にシャドウは立っていた。不敵な笑みを浮かべながら、禅鎧たちの戦闘を見下ろしている。
「フヘヘヘ、このオレ様がタダでトリーシャとかいう小娘を渡すと思うなよ。激しい戦闘がなきゃ、こんなものゲームとは言えないからな」
 ワイバーンを相手に様々な技を駆使しながら戦う禅鎧を身ながら、嫌らしく口元をにやつかせるシャドウ。
 ちょうどその時、ワイバーンは炎の息を禅鎧に向けて吐き出したが、禅鎧が光の刃を横に一閃させると同時に、蒼白く輝く刃が炎の息を見事に分断させながら突き進んでいく。そのままドラゴンの首を切断するかと思ったが、それはワイバーンの身体をスウッ…と通り抜け、トリーシャのいる格子に直撃した…かに見えた。しかし、何らかの結界が張ってあるらしく、禅鎧の放った刃が弾け飛ぶと同時に紫色の障壁が一時的に姿を現した。
「少しは上達しているようだが、まだまだ詰めが甘いな。そのワイバーンは、普通のそれとは訳が違うからなぁ。フフフ、果たしてお前はこのからくりに気付くことが出来るかな?」
 そう言いながらシャドウが見下ろす先では、先程の事に驚愕した禅鎧たち3人が、一方的な防戦にやむを得ず切り換えていた。恐らくは、ワイバーンの弱点を探ろうと試みたのだろう。
「ハハハハハ、逃げろ逃げろ!!」
 満足そうに高笑いをあげるシャドウ。そして、その視線を木陰の方に移す。シャドウの目に映っているのは、固唾を飲んで戦いを見守っているエルだった。
「クク…どうやら、感じ取っているようだな。お前の内に眠る、邪悪且つ巨大な気に酷似したそのワイバーンに‥‥‥」

「グアオオオオオッ!!」
 まるで勝利を確信したかのように、空気を振動させてくるワイバーン。八方手を尽くしたが、まるで効果がないワイバーンの弱点を何とか探ろうと、凍司とリサは腕、胴、翼、足と、様々な箇所に攻撃を加え続けるが、どれも無駄に体力を消耗しただけだった。
「ハァ、ハァ…。これじゃあ、キリがないね」
 戦闘のプロフェッショナルとはいえ、流石のリサも体力的に限界に達してきたようだ。大きく肩で呼吸をしてしまっている。
「禅鎧、何か良い手だてはありませんか?」
「‥‥‥‥‥‥‥」
 禅鎧は何も答えなかったが、その険しい表情が彼の心理を物語っていた。弱点と思しき箇所や、ワイバーンの肢体全てを攻撃しても、それは虚しく空を切るだけ。まるで、そこに実体が無いように思えた。
 ‥‥‥え、実体がない? …なるほど、それならば。
「凍司、リサ。悪いが、ワイバーンの気を俺に引きつけさせないようにしてくれるか?」
「? 囮になれという事ですね。…解りました」
「どうやら、その顔は何かを思いついたようだね。了解した」
 2人は禅鎧に頷き返すと、ワイバーンの気をこちら側に向けようと再び攻撃を加える。
「マリア、クリス。2人とも、攻撃魔法が使えるんだろう? 凍司とリサに当てないように、しっかり援護してくれるか?」
「オッケー☆ マリアにお任せだよっ!」
「は、はい! 頑張りますっ!!」
 2人は元気よく…クリスは戸惑い勝ちだが…頷いた。そして若干貧弱だが、自分の持てる最大の攻撃魔法で凍司とリサを援護する。
 心の中で1人理解した禅鎧は、1つ大きく息を吸い込むと精神統一を計った。ワイバーンの氣を、精密に察知してみる。徐々に禅鎧の脳裏には、ワイバーンの体内に於ける気の分布図が作成されていく。すると、1カ所だけ妙に高い邪気を感じ取れた場所があった。禅鎧は確信したように、いつもの静かな笑みを零した。
「凍司、リサ! マリア、クリス!」
 禅鎧は4人に呼び掛ける。禅鎧の準備が整った事を確認した4人は、一斉にワイバーンへの攻撃をやめた。接近戦を試みていた凍司とリサは、素早くワイバーンとの距離を取った。空かさず禅鎧は、掌に体内の氣を集中させようと試みるが…。
 ─────待ちなさい。
「!!?」
 ふと、禅鎧の頭の中に誰かが語りかけてきた。我が耳を疑うように禅鎧は周囲を見回すが、その声はこの場にいる誰のものでも無かった事に気付く。ふと空牙を見ると、何かを語りかけてくるように微妙な光を帯びていた。
 ─────『指弾』では威力が乏しく、そなたの狙おうとする目標は破壊できない。
「‥‥‥‥‥‥! ではどうすれば」
 自分の行動が読まれている事に一時的に戸惑うが、もしも空牙に宿る何かが語りかけて来ているのだとすればそれは納得がいく。
 ─────私に語りかけてくるのだ。あの時と同じように‥‥‥。
 その言葉を最後に、空牙を包んでいた光は役目を終えたように消えていった。
 あの時と同じように…。これは元々は、エーテルシンセサイザーの一部分。そこで禅鎧の頭で、全てが一本の糸で繋がった。
「禅鎧くん、危ないっ!」
 シーラの声に、禅鎧の意識は現実に引き戻される。ワイバーンの口が、真夏の蜃気楼のように歪み始めた。刹那、真紅の業火が禅鎧に向けて放たれた。
「GATE、オープン」
 2つの指輪を身に付けた左手を目の前にかざすと、扉の施錠を解除するように手首を捻った。次の瞬間、キュウウウウン…と歪曲的な音を立てながらブレスは、かざされた禅鎧の掌の前で次元の歪みに吸い込まれていった。
「ガアアッ!!!」
 だがワイバーンは、自分の攻撃が無効化されたことに動じてはいなかった。しかし、それもまた禅鎧の予測通りの反応であった。空かさず禅鎧は精神統一に入り、助言された通りに空牙に語りかける。
「『空』よ。新たなる武器を我に!」
 禅鎧は空牙から光刃を消し去ると、両手に持ち直し静かにそれに告げた。すると空牙は意思を得たように浮かび上がると、先端から蒼白い光を出現させ、それはあるものを形作り始めた。
「? それは!?」
 その一部始終を見ていた凍司が、驚いたように声を挙げる。それはシルバーメタリックの銃身とトリガーを持ち、蒼白い光の取っ手で構成された遠方射撃専用の武器…いわば『拳銃』だった。拳銃に姿を変えた空牙は、ゆっくりと禅鎧の掌に収まる。
「これが、空牙の第2形態…うっ!」
 シーラのハンカチが撒かれた手で取っ手を握ると、空牙・第2形態の様々な情報が禅鎧の脳裏を刺激してきた。だが禅鎧は自分でも驚くほどに、それらは難なく自身の頭脳を受け入れてくれたらしく、すぐに自分のものにする事が出来ていた。
「禅鎧、また来ますよっ!」
「ああ、解ってる。…よし、これならいける」
 確信を得たように禅鎧は静かに微笑むと、銃口をワイバーンの方へと向けた。ブレス攻撃を諦めたのか、ワイバーンはこちらに突進してくる。禅鎧は簡易的に精神を研ぎ澄ますと、再びワイバーンの気を感知する。先程感じ取った高い邪気は、ワイバーンの体内を短時間だが規則的に移動していた。
 右、左、中‥‥‥次に出現するのは!
 ドゥン、ドゥン、ドゥンッ!!
 空牙の銃口から、初速は指弾と同じぐらいだが、それよりも大きな光の球が放たれた。3つの銃弾全てが、ワイバーンの体内に潜り込んでいく。
「グギャアアアアアッッッ!!!」
 突如、ワイバーンが苦しみだした。銃弾が撃ち込まれた部分を押さえている所を見ると、どうやら攻撃は目標に命中してくれたようだ。
 やがてワイバーンが鳴き止むと同時に身体が妖しげな光に包まれ、そして四方八方に砕け散ってしまった。そして、その後に残っていたのは…。
「? 水晶玉?」
 …と、凍司。禅鎧が狙った辺りの位置に、今にも消え失せそうな光を放つ水晶玉が浮かんでいた。その光もまた完全に消え失せた瞬間、水晶玉に幾つもの亀裂がピシリピシリと入り始めた。そして、鋭い破裂音と共に粉々に砕け散った。
「あの水晶玉には、あたかもそこに存在するようにモノを映し出す投影機能がついていたようだな。その証拠に、ワイバーンが炎を吐いていたのにも関わらず、何処にもその痕跡が見当たらない」
「…なるほど、そういうことでしたか。でも、これで終わったようですね。みなさん、もう出てきても宜しいですよ」
 凍司は木陰に隠れていたシーラたちに呼び掛けるが、禅鎧は静かにかぶりを振った。
「いや、まだ終わってはいない。…そろそろ、出てきたらどうなんだ?」
 誰とも見当たらない中空に向かって、禅鎧は目的の人物に呼び掛けた。…刹那。
 ヴウンッ!!
 分厚く歪んだノイズ音と共に、禅鎧たちの目の前に漆黒の拘束衣の男・シャドウが現れた。口元を嫌らしくにやけさせたまま、禅鎧を睨み付けている。
「いや〜、見事だったぜェ〜! これまでにない、最高の見せ物だったよ」
 パチパチ…と大袈裟に拍手しながらも、いつものしゃあしゃあとした口調でシャドウ。
「トリーシャをさらったのはお前か?」
「さらったとは人聞きの悪いな。オレ様は彼女に協力してやったんだぜェ? 折角の誕生日の約束を親父にすっぽかされて、悲しみに暮れていた彼女をなぁ。本来ならば、感謝して欲しいところだ。…おっとっと、感謝されるのではなく憎んで貰わなくてはなぁ!」
 ケラケラ…と乾いた笑いを零す。シャドウの言葉に、マリアとクリスは驚きの表情を浮かべた。
「…ど、どうしてあんたが、そんな事知ってるのよ?」
「それは、トップシークレットだ。ヒャハハハハハハッ!!!」
 マリアの反射的な問い掛けを、シャドウはいともたやすくはね除け高笑いを挙げる。
「チッ…こいつ、狂ってやがる」
 リサのその毒付きを聞き逃さなかったシャドウは、彼女に挑発的な笑みを向けた。
「オレ様が狂ってる? ハンッ、人間なんてみんな狂っちまってるのさ! この『平和』という名の空気に、狂わされてるんだよ! あんたも、そして朝倉禅鎧。てめェもなぁ!」
「…クッ! 言わせておけばっ!!」
 腹の虫が治まらなくなった凍司は、長剣を抜き取りシャドウに斬りかかろうとする。だが、凍司の長剣は虚しく空を薙いだ。
「凍司、後ろだっ!」
「ハーッハハハ、見え見えなんだよぉ!!」
 バキイイイイッ!!!
 禅鎧の忠告も虚しく、シャドウのミドルキックが振り向いた凍司の顔面を捕らえた。吹き飛ばされた凍司だが、何とか空中で体勢を立て直すと地面に着地した。それでも数メートル吹き飛ばされたため、芝生が大きくえぐり取られてしまう。口内に流れ出てきた血を、地面に吐き出す。
「プッ! …クッ、流石にやりますね」
「幾ら『戦己の儀』を修了したお前と言えど、このオレ様にかなうことは到底不可能だ! なぜなら、オレ様は‥‥‥!!」
「トリーシャちゃ〜〜ん!!」
 …とそこへ、少し高音域の女性の声が聞こえてくる。それは、リカルドを連れてきたシェリルのものだった。
「おっと、とんだ来客だ。それじゃあ、オレ様はこの辺で失礼させて貰う事にするよ。暇があったらまた遊んでやるぜ! ヒャハハハハハッ!!」
 高らかな笑い声を木霊させたまま、シャドウはその場から姿を消した。
「禅鎧くん、凍司くん。大丈夫?」
「ああ、何ともない」
「…僕も、大した傷ではありません」
 木陰から姿を現したシーラが、禅鎧の元に駆け寄ってくる。同時に、禅鎧たちの姿に気付いたリカルドもこちらに駆け寄ってくる。
「禅鎧君、これは一体‥‥‥。それに、何故君がここに?」
「あ…あの。僕たちが禅鎧さんにも、トリーシャの探索を手伝って貰ったんです」
 クリスが焦り気味に説明すると、リカルドは理解したように頷いた。
「トリーシャちゃん! トリーシャちゃんは無事ですか?」
「ああ、あそこにいる」
 禅鎧が絶壁に創られた自然+人工の牢獄を指差し、リカルドと共にその場に駆け寄る。どうやら眠らせられているだけで、トリーシャの肩が規則的に上下している。その事に、一同は安堵の溜息を漏らした。格子に手を伸ばしても反応がない事から、既に結界は消え去っていたようだ。
「ちょっと、離れていて下さい」
 禅鎧は一言告げると、空牙に光の刃を召喚させる。見た事のない禅鎧の武器に、リカルドは興味ありげな視線を向ける。
「禅鎧君、その武器は?」
「『空牙』という、俺の愛用している武器です」
 禅鎧の静かな言葉に、リカルドはそうか…と何か脈があるように頷いた。ヒュン…と禅鎧が空牙を一閃させると、格子はいとも簡単に切断された。
「しっかりしろ、トリーシャ!
「トリーシャちゃん!」
 1人娘の身体を抱き起こして、軽く揺さぶってみる。両瞼が少し震えたかと思うと、トリーシャは静かに両目を開けた。安心したように、胸を撫で下ろすリカルド。
「あ…あれ、お父…さん? 禅鎧さんたちも…。私、いったい…」
 しばらく意識が朦朧としていたトリーシャだったが、徐々に自分のこれまでの行動、そして置かれた状況が甦ってきた。
「ハッ、シャドウ! 禅鎧さん、シャドウは?」
「ああ、既に何処かに消えていってしまった」
 禅鎧は半ば残念そうにそう説明した。聞き慣れない名前に、リカルドは訝しげに表情を曇らせた。
「トリーシャ、そのシャドウというのは?」
 深刻な表情で頷くと、トリーシャは今までの事を包み隠さず説明した。森の中までは自分で入ったが、引き返そうとした時にシャドウに襲われ、そして今の今まで意識を失っていたままだったという。
「そして僕たちもまた、ここでシャドウと遭遇しましたが、取り逃がしてしまいました」
 …と、顔をしかめながら凍司。その顔は、いつになく悔しそうに思えた。
「お父さん、シャドウという人を捕まえて! それにその人、禅鎧さんのことを狙ってるみたいだし、ひょっとしたらフェニックス美術館の…」
「トリーシャ‥‥‥、それは今回関係がないことだ」
 そのように否定してきたのは、他ならぬ禅鎧本人だった。凍司たちは意外そうに、禅鎧に視線を集中させた。
「でも、禅鎧さん!」
「いいんだ、トリーシャ。未だに俺の記憶だってはっきりとしていないのに、それだけでシャドウを犯人扱いする事は出来ないだろう?」
 禅鎧にそう諭されたトリーシャは、納得が行かないようだが、それ以上言葉を紡ぎだそうとはしなかった。その会話を中心で聞いていたリカルドは何か言いたげだったが、すぐにその思考を払拭させると、トリーシャを静かに立ち上がらせた。
「トリーシャ…、済まなかったな。お前の大事な誕生日を、台無しにしてしまって」
 心底申し訳なさそうにリカルド。頭を上げようとはしない父親に、トリーシャは困ったように苦笑いを零す。
「…ううん、ボクの方こそ心配かけてごめんなさい。お父さんの仕事は、エンフィールドを守るための大切な事だって解ってたのに…」
「もういいんだ。…さあ、家に帰ろう」
 そして、改めて禅鎧に向き合うリカルド。
「禅鎧君、娘が世話になったようだな。お礼を言わせて貰うよ」
「禅鎧さん、ありがとう」
 2人ともほぼ同時に、禅鎧に頭を下げる。禅鎧はかぶりを横に振ると、小さく苦笑いを零した。
「いえ…それでしたら、ここにいるクリスたちに言って下さい。この事を俺に教えてくれたのは、他ならぬこの4人でしたから。俺は、このクリスたちに頼まれて行動したに過ぎません」
「禅鎧くん‥‥‥」
 何処か心配そうに、禅鎧を見つめるシーラ。彼の深層心理を見抜いてか、凍司は禅鎧の肩に手を置くと言葉を補うように続けた。
「そうですね…。特にクリスは、貴女の事をすごく心配していましたからね」
「え? そ、そんな。ボクは…僕は、特に何も役に立てなかったし」
 突然話を振られて、クリスは恥ずかしそうにスカイブルーの髪の毛をかきあげる。
「そうなんだ…。えへへ…ありがとっ、クリス君」
 そう言うトリーシャは、少し嬉しそうだった。クリスは更に困ったように、顔を俯かせてしまう。そんなクリスに、ドッと笑い声を挙げる凍司たち。
「私、何だかホッとしたと思ったら、疲れちゃいました」
「マリアもだよ。ねえ、めでたくトリーシャも助かったことだし、帰って誕生パーティの続きをやろうよ」
「…いいえマリアさん、その前にやっておかなければならない事があるでしょう?」
「えっ…あ、そっか。フサたちに、謝りに行かないとね」
 マリアと凍司の会話に、訝しげな表情を浮かべるトリーシャ。代わって禅鎧が、先程のフサとの出来事を簡単に説明してあげた。
「じゃあ、ボクも謝りに行くよ。ボクの勝手な行動で、そのフサたちにも迷惑をかけてしまったんだもの」
「そうですね。その方が僕らにしてもフサの方々にしても、後々にわだかまりが出来なくなって良いでしょう。宜しいですよね、禅鎧?」
「ああ、俺もそれに異存はない」
 フサたちにそのように約束した禅鎧は断るはずもなく、快く頷いてみせた。
「あの、トリーシャちゃん。私も、ついていっていいかな?」
「勿論だよ、シェリル。さあお父さん、早く行こう」
 トリーシャのその言葉を最後に、一行は途中合流したシェリルとリカルドも加えて、元来た森の中へと戻っていった。
 その帰路の途中…。
「リカルドさん。シャドウの事ですが、一応自警団でも警戒しておいた方が良いかもしれませんよ」
「…うむ、娘をこんな目に合わせたのだからな。考えておこう」
 お願いします…と、凍司は少し期待感を持ったように頭を下げた。
「‥‥‥‥‥‥‥」
 一方、元の形に戻った空牙を凝視しながら歩く禅鎧。今回の一件で、自分の武器は光の剣だけではなく、拳銃にもなる事が判明した。一体誰が、何のためにこのような物を創り出したのか。また新たなる疑問が浮上したが、それがとても自分の貪欲な部分を高ぶらせてもいた。
「禅鎧くん、あれから手は何ともない?」
 ふと禅鎧は隣を歩くシーラに呼び掛けられ、視線を彼女に向ける。
「ん…ああ、痛みも感じないし手も正常に動く。特に心配する必要はないみたいだ」
「良かった…。でも禅鎧くん、もうあんな危ない事をしないでよ。…私、禅鎧くんが傷ついたの見てるとすごく悲しいの。だから、お願い…」
 少し悲しそうな、禅鎧を責めるような目つきでシーラ。禅鎧は改めて、自分の手を包んでいるハンカチに目を向ける。それには、筆記体で書かれたシーラのフルネームが施されてあった。彼女がそれをとても大事に使っていた事は明確だった。それを自分の血で染めてしまった事に、罪悪感を覚える禅鎧。
「…ああ、心得ておくよ」
 静かなはっきりとしたその言葉に、シーラは嬉しそうに微笑んでみせた。

To be continued...
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