中央改札 交響曲 感想 説明

Deep Wild
輝風 龍矢


The last song

第3章:Type Around

第7話:Deep Wild 〜由羅邸に於ける縁側にて〜

 目映い朝日が、いつものようにエンフィールドに夜明けを告げる。いつもの雲と、いつもの青空が暗闇から姿を現し、張り詰めてはいるが新鮮な空気が微風によって街中に染み渡っていく。規則的に区画整理された住宅街からは、朝食の準備のために煙突からは香ばしい匂いと煙があちこちで立ち上っていた。
 それは無論、ジョートショップもまた例外ではない。少し狭めのキッチンには、アリサが3人分の朝食を作り上げていて、それをペットであるテディが器用に手伝っていた。
「おはようございます」
 ちょうどその頃、禅鎧が2階の自室から下りてくる。テディとバトンタッチをすると、食器棚から自分とアリサの分、そしてテディ専用の食器を取り出し、テーブルに並べはじめる。そしてアリサは、それに温かい料理を盛り付ける。比較的大きめの皿にはサラダを、平たい皿にはハム付きのフライドエッグとソーセージがそれぞれ盛りつけられた。
「ご主人サマ、早く席に付くッスよ〜」
「はいはい、解ったわよ」
 美味しそうな料理が目の前に並べられ、食欲がうずいてきたテディ。アリサは苦笑いを浮かべながら、いそいそと自分の席に付いた。
「さあ、それじゃあ頂きましょうか」
「はい。頂きます」
「頂きますッス〜」
 そして軽い団欒に花を咲かせながら、アリサの美味しい朝食に舌鼓を打ち始める。
『ごちそうさまでした(ッス〜)』
 ‥‥‥‥‥‥およそ30分後、朝食を完全に終えた。アリサは自分の食器を持ってキッチンへと移動し、皿洗いを始める。禅鎧もまた自分とテディの分の食器をキッチンへと持って行くと、食後のコーヒー‥‥‥テディにはホットミルク‥‥‥を沸かしに取り掛かる。「あっ、そうそう。禅鎧くん、シーラさんのハンカチだけど、やっぱり汚れが完全には落ちないみたいよ」
「‥‥‥やはりそうですか」
 それは先日のトリーシャ探しの一件で、手に深い傷を負った禅鎧に、シーラが応急処置として撒いてくれたハンカチ。トリーシャ探索から無事帰ってきた禅鎧は、アリサやシーラに言われてクラウド医院へと足を運び、正式な処置を受けて貰った。故に現在、禅鎧の手には包帯が頑丈に巻かれている。
 そしてそのハンカチは、きちんと洗った後で返そうと考えていたのだが、やはり血は完全に落とすことはできなかったようだ。
「…だったら、シーラさんに代わりのハンカチをプレゼントしたらどうッスか?」
「えっ‥‥‥プレゼント?」
「あら、それは良い考えね。そうした方が、シーラさんもきっと喜ぶと思うわ」
 テディからの突然の提案に、アリサは否定することなく賛成してみせる。だが当の禅鎧は、戸惑っているかのように前髪を掻き上げた。サイフォンが香ばしい匂いを沸き上がらせてきたのを確認すると、それを自分のコーヒーカップに注いだ。続いて沸騰したミルクを、テディ専用の平たい食器に移し替えると、その困惑した表情のままテーブルへと持って行く。
「プレゼント、か‥‥‥」
 そうは言うものの、禅鎧は悩んでいた。女性にプレゼントを与えた事など、今の今まで無かった事なのだから仕方のない事だが。ハンカチと一言でいっても、色やデザインなど種類は様々だ。当然、シーラにも好き嫌いはあるだろう。一体どんなハンカチならばシーラに似合っているのか、また彼女に喜んで貰えるのか…。
 だがふいに、何故自分がそんな事で真剣に悩んでいるのか…という、新たな疑問が立ち上ってきた。自分は異性に関する事で悩んではいけない。否、悩んでいる暇など一切あってはならないはずなのに。そこで行き詰まる葛藤に、前髪を再び掻き上げながら行き場のない溜め息をつく。
「どうしたんスか、禅鎧さん? 早く飲まないと、コーヒー冷めちゃうッスよ」
「あ、ああ。そうだな」
 テディの言葉で我に返った禅鎧は、何事もなかったかのようにコーヒーを啜る。そこに食器を洗い終えたアリサが、ホットミルクの湯気が立ち上ったカップを持ちながら自分の席に付いてくる。
「ねえ禅鎧君。先日、トリーシャちゃんの探索で何があったかは知らないけど、その傷はシーラさんが手当してくれたのでしょう?」
 まるで禅鎧が悩んでいる内容を見抜いていたかのように、アリサは不意にそのような事を話してくる。禅鎧は静かに、アリサに視線を向けた。
「禅鎧君は、シーラさんに手当して貰った事についてどう思ってるのかしら?」
「‥‥‥それは、もちろん有り難かったし、すまなかったと思っています」
 アリサには話していないが、この傷は自ら望んでつけたようなものだ。シーラにとって、このような生傷を見るのは初めてだったろう。きっとシーラは、多少ながらも恐怖を感じていたに違いない。そう考えると、禅鎧は少し罪悪感に見舞われた。
 アリサはその言葉に、満足したように静かに頷いてみせた。
「きっとシーラさんは、ハンカチよりもあなたの傷のことを心配してると思うの。まずは今私に話してくれた禅鎧君の気持ちを、しっかりと伝えて挙げること。ハンカチはその次じゃないかしら?」
 アリサの優しい言葉から、全てを悟ったかのようにハッと細い瞳を見開いた。ふいにアリサは意味ありげにクスリと微笑むと、更に言葉を続けた。
「それにシーラさんは、禅鎧君が選んだ物ならきっと素直に喜んでくれると思うわ」
「そうッスよ。禅鎧さん、ファイトッス!」
 アリサとテディの言葉に、禅鎧は妙な恥ずかしさを覚える。無意識に前髪を掻き上げると、何処かむずがゆい気持ちをコーヒーと一緒に喉へと流し込んでやった。
「おはようございます」
「うぃ〜っす、禅鎧」
「お邪魔します、禅鎧さん」
「おーっす!」
 ちょうどその時、凍司・アレフ・クリス・ピートの4人が、ジョートショップの玄関をくぐってきた。シーラが見当たらなかった事に、心なしか安心する禅鎧。
「ん? な〜んだ、今日は男ばっかしかよ」
 自分たちの他にも、シーラかパティが既に来ていたかと期待していたアレフだったが、禅鎧たち以外誰もいなかった事が余程残念だったらしい。
「女性がいないと、何か気にくわないところでもあるのですか?」
「そりゃあお前…。女性はまさに戦場に咲く一輪の花。例えそれがちっぽけな存在だとしても、それが俺の心を癒してくれるというものさ」
 かなり大袈裟なジェスチャーを交えつつ持論を語るアレフに、ピートとクリスは困惑したように苦笑いを零した。だが禅鎧は、意地悪い表情を浮かべながら口を開いた。
「へえ…。それじゃあ、アリサさんはどうなるのですか?」
「あ‥‥‥い、いや、その…。別にそう言うわけでは‥‥‥、アハ…アハハハハ」
 凍司の鋭い突っ込みに、引きつったような笑い声をあげるアレフ。相変わらずだな…と言わんばかりに、禅鎧は肩をすくめた。当のアリサは、アレフたちの会話を聞きながら、面白そうに微笑んでいるだけだった。
「まあ、今日は男だけで正解かもしれないな」
 禅鎧はテーブルの下に身を隠したかと思うと、山積みになったファイルをドサリとテーブルの上に置いた。
「うわあ、今週はまたすごい量の依頼が来てますね」
 驚いたようにクリス。禅鎧が1つ1つ依頼伝票を並べ始める。全ての依頼伝票を並べ終えてみれば、大の男の肩幅約2.5人分の幅のテーブルの上が全て埋められていた。
「なるほど、ここまで多いと体力勝負になりそうですね」
 凍司はそう言うものの、その事に戸惑っているようには見えない。逆にアレフは、凍司の傍らでその通常の約2倍の仕事量に少しげんなりしていた。
「うわ…、今日は何だか日が悪いような気がしてならないぜ」
「そんな事無いですよ、アレフ。ここは1つ、陰徳を積むつもりで体力の限界に挑戦してみては如何ですか?」
「…へいへい、解りましたよ」
 誰も見ていない所で努力をする‥‥‥陰徳を積んでいれば、そのうち自分にそれ相応の見返りが来る。自他共に認めるプレイボーイのアレフにしてみれば、日常茶飯事となっている不特定多数の女性とのデートへの見返りを指している。凍司の言葉にそのような意味が込められているかは不明だが、アレフは身体を奮い立たせるようにして拳と掌を鉢合わせる。
 色々と話し合いながら、また1つまた1つと仕事が分担されていく。クリスは学校…ちなみに今日は休みらしい…、ピートはサーカス団での仕事もあるので、禅鎧たち3人がこの2人をカバーするように、若干多めに割り当てることにした。
「禅鎧、手の怪我の具合は如何ですか?」
「ああ、特に問題はない。今はむしろ、痒みの方が鬱陶しいくらいだ」
 包帯が巻かれた掌を見ながら禅鎧。
「へえ、流石はドクターだなっ!」
「バーカ。この程度の傷も治せなきゃ、医者なんて務まらないんだよ」
 アレフとピートは当日いなかったので、トーヤだと勘違いするのも無理はない。禅鎧がクラウド医院を訪れたときには既に出血は止まっていて、トーヤがした事と言えば傷口の消毒とこの包帯を巻いたぐらいだった。故に実質上、禅鎧の傷を治したのはシーラという事になる。
「違いますよ2人とも。禅鎧の傷を治したのは、正確にはシーラさんなんです」
「えっ、シーラが? どうやって?」
 頭上に疑問符を浮かべたままのアレフに、クリスが簡潔に説明してやる。無論、他の人間にはバラさない事を前提としてだ。禅鎧はアレフに説明するクリスを、止めようはしなかった。
「シーラが、回復魔法を? へえ〜、ピアノ以外にもそんな才能があったとはな。知らなかったぜ…」
 自分が声を掛けた女性の事は、常に全てを把握していないと気が済まないのだろうか。初めての未確認の情報を聞かされ、アレフは少し悔しそうだった。
(僕の予想が正しければ、それを開花させたのは禅鎧でしょうね)
 誰にも語ろうとはせず、禅鎧を視界に入れながら凍司は心の中でそのように呟いた。
「‥‥‥‥‥‥?」
 黙々と作業を続けていた禅鎧が、ふとある1枚の伝票を手に取ったままジッとそれを凝視する。伝票には、以下のように書かれてあった。

依頼内容:メロディの警護
依頼主:橘由羅
報酬金額:500Gから

 これまでにはない、珍しい依頼内容。『その他』の余白に、エンフィールドはイーストロットの地図が手書きで描かれてあった。
(メロディに、橘由羅…。あの時の2人か‥‥‥)
 彼女たちは以前、仕事途中に道端で偶然出会った2人だった。そして何よりも気になるのは、その他の欄に記されている内容だった。

その他:詳しい事は、依頼主の自宅で説明する。また、クリスくんと一緒に来ること。

 前者の文はまだしも、後者は禅鎧にはよく分からなかった。禅鎧の同行者を…しかも名指しで指名してきているのだ。
「クリス、この依頼主と知り合いか?」
「え、何ですか? ‥‥‥あっ」
 一応本人に確かめようと、隣にいるクリスに伝票を見せてみる。依頼主の名前に見覚えがあるのか、クリスは少し困惑したような表情を浮かべた。彼の背後から、興味ありげに伝票を覗き込んでくるアレフ。そして、意味ありげに口元をにやけさせた。
「ああ、由羅か。由羅はクリスの事が、偉く気に入ってるからな。大事な依頼主に指名された以上、行かないわけにはいかないよなぁ」
「ア、アレフくうん‥‥‥」
 ワザと突き放したような事を言うアレフに、クリスは更に困惑したように大粒の汗を額に浮かべた。
「で、どうする? 嫌なら、俺だけで行っても構わないが…」
 いやがる理由は禅鎧には解らなかったが、クリスを気遣うようにそう提案する。クリスは困ったように首を傾げていると、少し嫌々ながらも首を縦に振った。
「…行きます。僕も、禅鎧さんの役に立ちたいですから」
「そうか…。ありがとう」
 物静かな笑みを浮かべながら、禅鎧。クリスと話し合った末、午後に由羅邸を訪れることに決定した。
「…じゃあみんな、今週も宜しく頼む」
 全員が仕事を選び終わったのを確認すると、禅鎧たちは軽い挨拶を済ませた後、各々の仕事場所へと散り散りになって移動し始めた。

 太陽が真南を通過し始め、地面に腕を降ろしている建物の陰がまた背を伸ばし始める頃、午前中の仕事を終えたアレフが『フェニックス通り』を歩いていた。
 『フェニックス通り』は『さくら通り』と並んで、エンフィールドで最も活気溢れるメインストリートとなっている。平日の正午のため、人通りは少ない。『さくら通り』が真昼の街ならば、さしずめ『フェニックス通り』は夜の街と言った方が正しいだろう。
「ん? あれは‥‥‥」
 ふいにアレフは、向こうから歩いてくる見覚えのある通行人に足を止める。蒼い髪の毛に切れ長の瞳、余り派手とは言えない出で立ちの人物は禅鎧だった。午前の仕事の帰りだろうか。…いや、それならばさくら亭に足を運ぶか、ジョートショップで昼食を取りに向かうはずだ。前者の場合ならば、さくら通りへと通じる道を曲がらずにこちらへと歩いてきたことになる。良い意味で無駄を嫌う禅鎧が、わざわざ遠回りするはずがない。
 アレフはそのように考え込んでいると、禅鎧は角に位置する中型の店舗へと足を踏み入れた。そこはアレフ自身も良く足を運んでいる、『ローレライ洋品店』だった。
「禅鎧がローレライに…。珍しい事もあるもんだな」
 以前に、パティ達と『禅鎧は余計に着飾る事を嫌う』という話をした事がある。ローレライには洋服の他、リングやブレスレットなど、ファッション系のアクセサリー類が沢山売ってある。その禅鎧が何故…? アレフは興味本位で、ローレライへと入っていった。
「いらっしゃいませ〜」
 レジ係の女性店員が、営業スマイルで来店したアレフに声を掛けてくる。いつもならウィンクを投げたり、真っ先にその女性を口説きにかかる所だが、今回は勝手が違う。
 ローレライの1階は主に男性用と女性用共に、多種多様な洋服が売られてある。中央に飾られたマネキンには、以前アレフが購入した派手めのジャケットとジーンズが履かされていた。
「いない…か。となると、2階だな」
 自分に言い聞かせるようにアレフ。階段を昇り、小物・アクセサリー類を取り扱う2階へと移動する。そこに、禅鎧はいた。ちょうど自分と反対側の場所にいるので、何を見ているのか解らない。天井から提げられたプレートを見てみると、それには『女性用小物』と書かれてあった。
(禅鎧のヤツ、女性に何かプレゼントでもする気なのか?)
 アレフは、今度はその相手が誰なのか気になりだしてきた。しかし、このままコソコソしていると禅鎧ばかりでなく、他の客や店員にも怪しまれてしまう。思い切ってアレフは、禅鎧に声を掛けようとしたとき…。
「おい」
 静かな透き通った声が、アレフの耳に飛び込んでくる。同時に、アレフの肩にポンッと声の主のものであろう掌が置かれた。思わずビクリと反応してしまう。恐る恐る背後を振り向いてみると、禅鎧がこちらを少し非難するような視線を投げかけてきている。
「よ…よぉ禅鎧、こんな所で会うなんて奇遇だなァ」
 先程の反応を誤魔化すように、少し棒読み口調でアレフ。禅鎧はそんな彼を見て、呆れたように溜め息を付いた。
「何をコソコソ俺の事を盗み見ていたんだ? 俺に気付いたのなら、声ぐらいかけてほしいものだな」
 ヤバイ…といった表情のアレフ。案の定、禅鎧はこちらの気配を感じ取っていたらしい。
「い…いや、そのなんだ…。‥‥‥悪いっ!」
 自分の取った行動を後悔したのか、申し訳なさそうに謝るアレフ。そして自分のこれまでの行動を、包み隠さず打ち明けた。冷たく引き離されるかと思われたが、禅鎧は表情を曇らせる事もなくクールな反応を見せた。
「‥‥‥まあ、ここを訪れるのは例の事件以来だからな」
「あ、ああ…連続強盗事件の事か? そう言えば、ここでの事件を知ったお陰で解決できたんだよな?」
 禅鎧は、無言のまま静かに頷いた。もう怒っている気配がない事を確認したアレフは、話を元に戻すことにした。
「…ところで、何を選んでたんだ?」
「ああ、女性用のハンカチをな」
 禅鎧の視線を追ってみると、確かに清潔な紅い布が敷かれた長テーブルの上には、十人十色なデザインのハンカチーフがカラフルなまでに並べられてあった。
「フ〜ン。‥‥‥で、誰に渡すものなんだ? こっそりでいいから、教えてくれよ」
 先程までは少し遠慮がちだったが、いつものように自分の色を湛えた口調で問い掛ける。禅鎧は何処か気恥ずかしそうに黙っていたが、やがてその口を開いた。
「‥‥‥シーラだ。実は先日、とある理由で彼女の大切なハンカチを汚してしまったんだ。そのお詫びに、新しいハンカチをと思って」
「! …なるほど、そういう事だったのか。じゃあ俺が、さっきのお詫びも含めて人肌脱いでやろうじゃないか」
 シーラの名前にアレフは少し驚いてしまうが、用件を聞くと納得したように頷いてみせた。
「折角だけど、遠慮しておく。…自分で選ばせてほしい」
「‥‥‥そうか。まっ、その方がいいかもな。じゃあ俺は、下の方で自分の買い物してるぜ。終わったら、さくら亭にメシ喰いに行こうぜ!」
 少し肩すかしを食らうアレフだが、それが一番最良な選択だと判断する。1階へと降りていこうと元来た道を戻ろうとするが、ふと途中で足を止める。
「あっ、そうそう。禅鎧‥‥‥」
「? どうした?」
 するとアレフは、指を1本ずつ立てながら次のように言って聞かせた。
「ピンク、白、赤、黄色、水色。女性が好む色ベスト5だ。これを元に選べば、より喜んでくれると思うぜ」
「…ああ、ありがとう。参考にさせて貰う」
 アレフはそのように言い残すと、1階のフロアへと降りていった。
(とうとう、2人の間に俺が入る余地は無くなっちまったか…)
 そう言うアレフの口調は何処か悔しそうでもあり、同時に嬉しそうでもあった。

 各々買い物を終えた2人‥‥‥敢えてアレフは禅鎧が何を選んだのか聞かなかった‥‥‥はさくら亭へと向かい、先に来ていたクリスと共に昼食を取った。その後、禅鎧はアレフと入れ替わりにクリスと共に由羅邸へと向かう事にした。
 何気にクリスに目を向けると、何処か落ち着かない様子のようで、余り気の乗らないような表情をしていた。ふとそこで禅鎧は、さくら亭で昼食を取っている時に、クリスが由羅と会う事に抵抗を感じる理由を話していた事を思い出した。
『由羅は酒好きで、酔っぱらうとよくクリスに絡んで来るんだ』
 また、由羅はかなりの美少年好きで、例え酔っ払ってなくともクリスと出会うたびに抱き付いたりしてくると、アレフはからかい半分に話していた。『美少年』という名前の東洋の酒も大好物な程だという。
(まあ、解らないでもないけどね‥‥‥)
 無意識に前髪を掻き上げる禅鎧。只でさえ露出度の高い由羅が見境無く抱き付いてくるのは、まだ年端もいかないクリスには刺激が強すぎるのかもしれない。
 依頼伝票に書かれてあった地図によれば、このさくら通りを突き当たりまで歩いていき、そこを左手に曲がったところにあるという。…ということは、住宅街よりも更に郊外の方まで歩いた所に、その佇まいを見せていることになる。
「ゆ…由羅さんの家は、他のエンフィールドの一軒家とは、ちょっと違った雰囲気を持ってるんですよ」
 しばらく無言で歩いていた2人だが、クリスが思い切ったように話を切り出してきた。
「へえ、それはどんな風に?」
「え〜…っと。何か異国の建物というか、僕たちとは全く違う文化を持っているみたいな感じかなあ…。あ…禅鎧さん、あそこに見えるのが由羅さんの家です」
 イーストロットとノースロットのちょうど境目に位置するところに、目的の由羅の邸宅は建てられてあった。他の住宅をオクシデンタルとするならば、由羅の家はオリエンタルという言葉が相応しいだろう。邸宅と庭を綺麗に取り囲んだ、ザラザラした石の垣根。客人を玄関へと誘うかのように土の地面に埋められた石は、よく精錬された宝石のようだ。若干狭めの中庭には池が掘られ、中では鯉たちが気持ちよさそうに水中遊泳を楽しんでいる。屋根もまた他のエンフィールドの住宅に使われているトタン等ではなく、瓦で全てが覆われてあった。
「なるほど、確かにエンフィールドでは珍しい建造物だな」
 冷静に分析している禅鎧だが、心の中ではその佇まいに何処か懐かしさを感じていた。ずっと以前にも、こういう風貌の家を見た事がある、もしくは住んでいたような錯覚に捕らわれる。
「…あ、あの。禅鎧さんが先に入ってくれませんか? 僕は、ちょっと‥‥‥」
「ん…ああ、解った」
 由羅の家を前にして怖じ気づいたようなクリスに、禅鎧は呆れる事もなく頷く。クリスを背後に隠蔽するようにして、禅鎧は敷地内へと足を踏み入れた。
 コンコン‥‥‥。
 檜の引き戸をノックをしてみると、ガラスの割れそうな音が鼓膜を刺激する。しばらくして、ドアの向こうから足音が聞こえてきた。瞬間、クリスの表情に緊張が走った。
「ハァ〜イ、どちら様ですか?」
「ジョートショップだけど…」
「ああ、待ってたわよ。空いてるから中に入って〜」
 艶っぽい女性の‥‥‥恐らく由羅のだろう‥‥‥声が聞こえてくる。禅鎧が取っ手に手をかけ、引き戸を開けた瞬間。
 ガバッ!!
「うわあっ!?」
 何らかの人影が禅鎧を押し倒すように飛び掛かってきた。突拍子な出来事に禅鎧は流石に対処しきれず、そのまま細かだが全て形が整った石が敷き詰められた地面に尻餅を付いてしまう。反射的にクリスも、背後に飛んで倒れる禅鎧を避けた。
「‥‥‥あっ、ゆ…由羅さん?」
「あ〜ん、クリスくう〜ん」
 色っぽい声を挙げて、禅鎧の胸元に頬ずりしている。当の禅鎧本人は、どうすればよいのか半分硬直している状態だ。腹部の辺りに伝わる、2つの弾力のある柔らかい感触のせいもあるのかもしれないが。
「それにしてもクリスクン、見ない間に随分成長したのねぇ〜」
 アレフ曰く、由羅はクリスとなれば見境無く抱き付いてくる。つまり、クリスの体格は良く知っていると言っても過言ではない。だが、いつもと違うクリスの体格に違和感を憶えた由羅は、ハッとなって顔を挙げた。
「わ…悪いけど、クリスは後ろだ」
「え? あ…貴方はたしか禅鎧クン。…あ、アラ。あの…ごめんなさい」
 誤魔化し笑いを浮かべるも、申し訳なさそうに由羅。由羅が起き上がり、やっとの事で開放された禅鎧は衣服に付いた汚れをパンパンとはたき落とす。
「んもう、ずるいわよクリスクン。禅鎧クンを楯にするなんて…。そんなにアタシの事が嫌いなの?」
「あ…いや、その。…べ、別にそう言うわけでは」
 ちょっと意地悪い表情の由羅に、クリスは困惑してしまう。由羅はクスリと笑みを浮かべると、冗談よ…と笑ってみせたので、クリスは少し安心したようだ。
「依頼伝票に書かれていた通り、詳しい内容を聞きに来たんだけど…」
「ええ。それじゃあ、中に入ってくれるかしら?」
 由羅に先導されるように、禅鎧とクリスは中へと案内された。玄関内に足を踏み入れた瞬間、檜と畳の香しい薫りが鼻腔をくすぐってくる。廊下はフローリングではなく、一面細長い板を何枚も並べて作られていた。時折、痛んでると思われる場所がギシリと音をたてる。由羅とメロディのみが住んでいるにしては比較的広すぎる家屋…いや、屋敷といった方が正しいだろう。
「こういう建物を見るのは、ひょっとして初めて?」
「…良くは分からないが、そうではないような気がする」
 まるでそこにいるクリスと、自分以外の誰かと会話するような口調で禅鎧。由羅は特に気に止めるような仕草は見せなかった。しばらくして縁側に作られた客間へと、2人は案内された。特殊な質の紙で覆われた戸…障子を開けると、合計8枚の畳が縦横に敷かれ、右端には宝壇が造られてあった。特にそれといった装飾品は見当たらない。
「しばらくの間、ここで待ってて。お茶とか持ってくるから」
 クリスを誘惑するようにウインクを投げると、由羅は足早に客室から出ていった。予め2人のために設置されていたと思われる座布団に、とりあえず腰を下ろす2人。特に何もされなかった事に安心したのか、クリスは深い溜め息を付いた。
「それにしても、一体どんな話なんでしょうね?」
「メロディを警護して欲しいというが‥‥‥」
 板張りの廊下の奥に広がる、風流な景観の中庭に視線を向けながら禅鎧。禅鎧には、仕事内容と案内された客間についてある疑問を持っていた。それは‥‥‥。
「あの…禅鎧さん。僕は思うんですけど、警護という物騒な話はこういう場所で話すのはおかしくないですか?」
 禅鎧の考えを代弁するように、クリスが首を傾げながら話してくる。そんなクリスに、禅鎧は感心したように静かに微笑んだ。クリスの言うように、垣根が在るとはいえ外から丸見えの場所に案内するのはおかしい。この部屋しかないから…というのはまずないだろう。となると、由羅はそういう自己防衛に対する知識に疎いのか、それとも全く別の理由があるのか。
「おまたせしました〜」
 ピアノの高音部の鍵盤を押したような声が聞こえてきたかと思うと、猫の耳と尻尾を持った少女…メロディがお茶を抱えて客間へとあがってきた。それから少し遅れて、お茶菓子を持った由羅が入ってきた。
「ふみぃ! ゼンちゃん、おひさしぶり〜!」
「あ、ああ‥‥‥」
 禅鎧の目の前に、温かな湯気を漂わせたお茶…緑茶を配膳しながらメロディ。ハイテンションな彼女に、禅鎧は流石に戸惑い気味だ。クリスはお茶を差し出されると、反射的に軽く頭を下げた。メロディは由羅と自分の分をテーブルに置くと、嬉しそうに禅鎧の向かい側に腰を下ろした。由羅はその隣りに座った。
「それじゃあ早速用件を聞きたい所だが、こんな開放的な部屋で話すのはまずいんじゃないのか?」
「ううん、これでいいのよ。…じゃあ、詳しく話して聞かせるわね」
 突如真面目な表情になると、由羅は事の経緯を事細かに説明し始めた。今からおよそ2〜3週間ぐらい前より、ずっと誰かに監視されているような気が感じられるようになったこと。またそれは日中だけではなく、就寝時や外出時にもそのような視線を感じるようになったことを禅鎧たちに説明した。
「…というわけなのよ。全く…、毎日誰かに見られているなんて、たまったもんじゃないわ」
「あ…あの、自警団には連絡しなかったんですか?」
 クリスが恐る恐る尋ねてみると、難しい表情を崩さずにかぶりを横に振った。自警団に捜査依頼をしてみたところ、我が家を物色する不審な人影が目撃されたという。後日、その人物居所を突き止めて事情聴取をしたが、物的証拠や実質的な被害が無かった為、任意同行を要請するまでは至らなかったらしい。
 続けて由羅は、更に悔しそうな口調で説明し始める。
「…でも、そこまでは良かったんだけど、突然自警団から捜査を打ち切ってきたのよ。それで頭にきて事務所に苦情をぶつけてみたんだけど、そのような事件を取り扱った覚えはないなんて言ってきたのよ!」
 由羅はその時の出来事を思い起こしているように、心底悔しそうに眉間にしわを造り、剥き出しの肩をワナワナと震わせていた。
「ねえクリスクン、ひどいと思わない!?」
「え? あ…あの、僕も…そう思います」
 慌て気味にクリスは頷いたが、少し引っかかる物が多すぎるため、ハッキリとはものではなかった。彼の隣りで口元に手を当てるように腕組みしている禅鎧は、頭の中で詳しい内容を整理している。ふとそこで浮かんだ疑問を、由羅に投げかけてみる事にする。
「なるほどね…。だが由羅、なぜメロディのみの護衛を依頼してきたんだ? 由羅が言った通りなら、自分も狙われていると考えるべきじゃないのか?」
「ええ、当初はね…。でも、最近になって狙いがメロディのみに定められていた事が解ったのよ」
 真剣な視線を、隣で茶菓子を美味しそうに食べているメロディに向ける。彼女の視線に気付いたメロディは、クリリンとした瞳を瞬きさせながら振り向く。その態度からして、メロディ自身には詳しい説明をしていなかったのだろう。彼女自身も、今までの話はずっと上の空だったようだ。
「ちょっと、メロディ? お茶菓子ばっかり食べてないで、少しはこっちの話を聞きなさい。それに、それは禅鎧クンとクリスクンに出した物なんだから!」
「ふみ? ‥‥‥は〜い!」
 幼い子供のように、片手を高らかに挙げて活発な返事をするメロディ。由羅は呆れ気味に溜め息を付くと、温くなったお茶を啜って気持ちを落ち着かせ、話を元に戻すことにする。
「最初はアタシもそのストーカー紛いの視線を感じてたんだけど、2〜3日前からアタシが感じることは無くなったの。でも、メロディだけはそうじゃないみたいなの。そうでしょ、メロディ?」
「ふみぃ‥‥‥。メロディねぇ…、そのおかげでどこにいくにもウチにいるときも、ぜんぜんおちつけないのぉ‥‥‥」
 メロディが外出するといえば大抵散歩か、由羅の飲むお酒の買い出しか、彼女と2人で郊外に最近湧き出たという天然の温泉に入りに行くときぐらいで、その何れの場合でも奇妙な視線から逃れることは出来なかった事を、大きな瞳を潤ませながら話した。
「禅鎧クン、クリスクン。もう私たちが頼れるのは、ジョートショップしかないのよ。引き受けてくれるわよね?」
 そう言う由羅の横でも、メロディが懇願しているようにこちらを見つめている。クリスは禅鎧の言葉に従うらしく、禅鎧の返事を待っている。黙したまま考え込んでいた禅鎧は、静かに頷くと何処か頼り甲斐のある笑みを2人に向けた。
「解った、引き受けさせて貰うよ。早期解決に全力を尽くそう」
「僕も、禅鎧さんの足を引っ張らないように頑張りますっ!」
 禅鎧とクリスの返事を聞いた由羅は、パッと無邪気に表情を輝かせた。そしておもむろに、クリスに抱き付いてくる。
「ありがとう、クリスクン! あたし、期待してるから…ね」
「むぎゅう‥‥‥」
 クリスが最も怖れていた由羅の突拍子な行動に、禅鎧は困惑したように苦笑していた。案の定クリスは気を失ってしまい、意識が戻ったのはしばらく後のことになる。

 そしてその日から、禅鎧とクリスによるメロディの護衛が行われる事になった。そうは言うものの、禅鎧にはジョートショップの他の仕事が、クリスにはこれの他にも学校があるので、24時間体制で監視するというのは到底無理だ。その辺は由羅も理解してくれていたらしく、時間が空いている日に護衛をさせてほしい…という禅鎧の提案をすぐに受け入れてくれた。凍司たちにも詳しい事を説明して応援を要請するようにクリスは言うが、『まだ』その必要はないと禅鎧は否定した。
 様々な負の感情を込められた由羅の話を聞いて、まず真っ先に解ったことがある。それは『何らかの強大な組織が裏で暗躍している』という事だ。あの自警団が、何の理由も無しにぱったりと受け持った捜査を打ち切るはずがない。…とすれば、自警団をも簡単に手なずけてしまう程の権威を持っていると考えるのが妥当であろう。無論、たった1人の人間が動かしているとは考えにくい。それは禅鎧が、メロディの護衛を受け持った理由の1つでもあった。
(エンフィールドにある組織、または団体といえば‥‥‥)
 パチン、パチンッ!
 険しい表情を浮かべ物思いに耽りながら、先程から禅鎧がやっているのはメロディの爪切りだった。端から見れば、至極不釣り合いな風景に見えることだろう。彼女曰く‥‥‥。
「『ごえい』のシゴトって、こういうコトをするんじゃないのぉ?」
 純真無垢な瞳を何度も瞬きしながら、呆気に捕らわれている禅鎧にそう言ってきたのだ。恐らくは由羅から入らぬ言葉を吹き込まれたのだろう。一時は断ろうとしたが、メロディの何かをねだる子供のような眼差しに気圧されたのか、仕方なく禅鎧は引き受けたのだ。
 ちなみに由羅は、クリスを無理矢理引っ張って外出中。無論これも禅鎧からの指示で、本当のストーカー達の狙いがメロディのみなのか再確認する為だ。従って、現在由羅邸にいるのは禅鎧とメロディの2人だけ。
「ゼンちゃん、あしのツメもきってほしいのぉ〜」
「ん…ああ、解った」
 何処か甘え口調のメロディの言葉に、禅鎧は静かに頷いてみせた。自分の目の前に投げ出された彼女の両足。太股やふくらはぎは普通の人間と何ら代わりはないが、足だけはきちんと猫のそれを人間大に拡大させたものだ。あぐらを掻いた自分の膝の上に、メロディの片足を乗せるような体勢でツメを切り始める。
(それにしても、変わった少女だな‥‥‥)
 相変わらず無垢な笑顔を見せているメロディを見上げながら、禅鎧。足ばかりではなく、柔らかそうな肉球を持った掌、お尻から生えたスレンダーな尻尾、満開の桜を思わせる桃色の髪の毛から突き出た耳。要所要所が猫の身体となっている少女、メロディ。
 当初は、ハーフキャットやワーキャットを想像していたが、よくよく考えてみればそれらは獰猛な性格をした魔物だ。メロディにはそのような邪気ではなく、まるで正反対の最も純真な子供の『氣』を感じる。先に挙げた2つの魔物であるはずがない。それほどまでに、メロディは稀少な種族なのだろうか。だが答えを求めようとすればするほど、それは意識の闇の中へと消えていってしまう。
「ふみ、ゼンちゃんどうしたのぉ〜? メロディのかおになにかついてるぅ〜?」
「…いや、何でもない。足はこのくらいの長さでいいか?」
「うん。ゼンちゃん、上手ぅ〜!」
 拍手をするように両手を数回鉢合わせるが、当然の事ながら音は出ない。相変わらず自分の事を『ゼンちゃん』と呼び続けるメロディだが、彼女の護衛を始めて早や3日目。禅鎧自身も、いい加減慣れてきたようだ。
 両足のツメも切り終えてしばらくすると、メロディは大きくその場で伸びをすると、気持ちよさそうにその場に眠りこけてしまった。身体を器用に丸くさせたその寝姿を、禅鎧は黙したまま見つめている。気が付けば澄み切った青空には、そろそろ赤みが差してきていた。   
「うみゅう…。ムニャムニャ‥‥‥」
 はっきりとではないが、何やら寝言を言うメロディ。禅鎧はそんな彼女を見て時折苦笑いを零しながら、彼女の頭にポン…と手を置いて撫でてやる。このような緊張感のほぐれた場所でも、禅鎧は受け持った任務は忘れてはいなかった。
 禅鎧は自分の気配を完全に殺しつつ、由羅邸を中心に10メートル範囲内の気の分布図を頭の中でリアルタイムに描き続けているのだ。由羅邸の前を通る通行人や、空の散歩の途中瓦張りの屋根で一休みしている小鳥1匹たりとも逃さぬように、禅鎧は全神経を研ぎ澄ましていた。
(‥‥‥2人、だけか)
 そして禅鎧は先程から、2つの怪しげな気配を察知する事が出来ていた。1つは由羅邸の正門の垣根の陰で待機、もう1つは裏手から若干離れた所にそびえる小高い丘の森の中をこまめに移動していた。どうやら、邸内にいると思われるメロディを移動しながら確認しようとしているようだ。だが生憎にも、禅鎧たちがいる縁側は正反対の表側。裏側からでは見えるはずもない。
 禅鎧はメロディのツメを切ってやったり頭を撫でる振りをして、彼女の気配をも間接的に殺していたのだ。突然メロディの気配が察知できなくなった為に、森の中を彷徨いているのだろう。当然、護衛をしている禅鎧にも気付いてはいない。
(戸惑っているようだな。‥‥‥では)
 禅鎧は静かにメロディの頭から手を離し、完全に絶っていた彼女の気配を表に出した。禅鎧の方はずっと気配を殺したままだ。
(‥‥‥やはりそう来たか)
 予想通りの行動をする2つの気配に、禅鎧は細い瞳を更に細めた。

 禅鎧が察知した片方の気配は小高い丘から難なく飛び降りると、もう1人が控えている由羅邸の正門へと早足で駆け寄ってきた。その身軽さから、それなりの訓練を受けた人間のようだ。特に何事もなく由羅邸の正門まで辿り着く。
 片方は紺色のスーツに若干太めの黒縁眼鏡を掛けた、一件ひ弱そうな学者風の男。片手には頑丈そうなアタッシュケースを持っている。もう1人は眼鏡の男に比べれば、多少はガタイの良い出で立ちをしている。かなり広い敷地の外側を走ってきたにも関わらず、特に息切れなどはしていなかった。こちらは傭兵じみた服装だ。
 2人はお互いに頷き合うと、由羅邸の門をくぐり抜ける。玄関には向かわずに、芝生が生い茂った広い庭へと歩いていく。庭の中心辺りに掘られた池が見えてくる頃、右手側の縁側で気持ちよさそうに眠りこけている少女…メロディの姿が確認できた。2人は辺りに誰もいないことを確認すると、彼女を起こさないようにゆっくりと歩み寄る。
「それにしても、大きな屋敷ですねえ。2人暮らしには、少し勿体ないような気がしますよ」
「確かにな。だが、今はそんな事はどうでもいい。さっさと調べるべき物を調べるんだ」
 片方の眼鏡を掛けた男は持ってきていたアタッシュケースを開く。中には様々な書類や、丁寧に放送された何らかの医療器具と思しき器材が入れられてあった。眼鏡の男はまず女性の身体の全体像や、腕や頭部などの部分を拡大した図が印刷された書類を取り出した。
(こういう泥棒の様な真似は、したくないのですが…)
 チラリともう1人のガタイのいい男に目を向ける。黙したままこちらをジロリと睨み付けていたが、視線に気付いてか静かに顔を逸らした。こちらはいわば見張り役のようだ。小さく溜め息を付くと、メロディの頭にソッと手を伸ばす。髪の毛の肌触り、艶、長さなどを確認すると、書類へと内容を書き込んだ。
(頭部、特に異常なし…と。さて、次は‥‥‥)
 眼鏡の男はそのような調子で、目・口・耳・両腕・胴・両足とまるで身体検査をしているかのように、書類…恐らくはカルテ…に次々と記述していく。大体を調べ終えて羽根ペンを一時的に胸ポケットにしまい込むと、アタッシュケースから注射器を取り出した。軽くピストンを押してみて、注射器の異常がないか確認する。そしてメロディの細い腕へと手を伸ばそうとした。‥‥‥しかし。
「‥‥‥‥うわあっ!!」
 突然の悲鳴に気付いた見張り役の男が、ハッとなり素早く背後を振り向いた。すると連れ添ってきた男が、青髪の青年…禅鎧によって取り抑えられていたのだ。注射器は既に地面で粉々に砕け散っていた。
「…なっ! 貴様、何時の間に!?」
 禅鎧は眼鏡の男の腹部に軽くボディーブローを入れ気絶させると、その場に静かに寝かしつける。そして鋭く冷たい視線を、もう1人の男に投げかける。
「鈍いな。あんたたちの動きなど、容易に気配で確認出来ていた。そして、筋書き通りにこちらの罠にはまってくれた」
 メロディの気配を感じることが出来なかった事。それは男が先程まで気になっていた事だった。だがそれこそが、禅鎧の言った罠そのものだったのだ。
「! ‥‥‥‥チイッ!」
 男は大きく舌打ちをすると、付け焼き刃ながらも禅鎧へと襲いかかった。武器を持たない所を見ると、禅鎧と同じ格闘派の人物のようだ。男は勢いよく禅鎧の顔面にパンチを繰り出す。
 禅鎧は敢えてそれを避けずに、眼前数センチのところで裏拳を打ち込む事で横に薙がした。だがその裏拳は通常のそれとは違い、掌を天に向けた状態で握られた拳で、更には親指の唯一の関節を大きく立てていた。親指の関節は他の指のそれと違ってかなり固い事を知っていた禅鎧は、そこを思い切り男の手の甲に叩き付けたのだ。弱めの電撃が掌を直撃したような感触を受けた男は、その激痛の余りバランスを崩してしまう。
「がはっ!!」
 すかさず禅鎧はその腕を掴むと、大外に男の身体を大きく刈ってみせた。砂埃を撒き上がらせながら、男は背中から地面に強く叩き付けられる。禅鎧は男の腕を掴んだまま身体を屈ませ、男の顎をグッと掴んだ。
「‥‥‥何が目的でメロディをストーキングしていた?」
「ぐぅ、貴様などに答える義務などないっ!」
 強気にも口を割ろうとはしない男。禅鎧は餓狼のごとき視線を男に向けたまま、掴んでいた男の腕をあらぬ方向へと少しだけ曲げた。
「ぐぎゃあっ! や、やめろ‥‥‥」
「もう一度聞く。メロディをつけ回していた理由は?」
「…お、俺は何も知らない。ただ…、そこの男のボディガードを…、依頼されただけだ」
 痛みに耐えながら、ボディガードの男。どうやら言っていることは本当のようだ。禅鎧は尋問を続けることにした。
「誰に雇われた?」
「‥‥‥ショート財閥だ」
「!!?」
 一瞬、クライアント先を言うのはためらっていたが、声を振り絞るように男はそのように白状した。平静さを保っていた禅鎧だが、驚きの余り両手の力を緩めてしまう。それを見逃さなかった男は、禅鎧の手を振り払うと素早く身体を起こし、もう1人の男とアタッシュケースを乱暴に担ぎ上げた。
「…いずれ、この借りは必ず返してやる! 憶えていろよ!!」
 特徴のない捨て台詞を残して、ボディガードの男は退散していった。禅鎧は男の背中を、黙したまま見送るだけだった。元々用件だけ聞いたら逃がすつもりだったので、余計に悔やむことはなかった。捜査を打ち切った自警団に引き渡した所で、これ以上の進展があるとは思えなかったからだ。
「黒幕はショート財閥‥‥‥か」
 禅鎧の脳裏で、謎を解く鍵になると思われるキーワードが1つ埋まった。メロディを付け狙っているのはショート財閥であったこと。だが禅鎧は、それがどうにも腑に落ちなかった。何かが頭の中で警告のランプを発しているかのようだった。
(いや…恐らくはショート財閥ではなく、それの関係者…それもかなり役職が上の人物。もしくは、名前だけを利用している人間かもしれないな)
 直感的に禅鎧は、半ば食い違っている箇所を訂正する。だが結局は、詳しい理由まで聞くことが出来なかった為、依頼の解決まではまだまだほど遠いようだ。
「ふみゅう…、ふわああ〜〜‥‥‥」
 ちょうどその時、メロディが昼寝から目を覚ましたようだった。寝惚け眼を両手で擦りながら、思考を徐々に現実へと引き戻していく。
「ふみゃあ〜、ゼンちゃんおはよ〜ございま〜す」
 禅鎧の姿を視界に捕らえたメロディは快活な声を発する。禅鎧は彼女に振り向くと、静かに微笑んでみせた。
「‥‥‥‥‥‥?」
 そしてふと、現在の視界ギリギリの位置に何かが落ちているのを発見する。壊れた注射器の破片に触れないように、静かにそれを拾い上げる。それは後ろに安全ピンと挟みが付いた、長方形のネームプレートだった。先程訪れた眼鏡の方の男と思しき顔写真と名前が書かれてある。
「? これは‥‥‥」
 ふと禅鎧は気になる文字を視線に奪われる。ネームプレートの右上、名前のちょうど隣りに以下のように書かれてあった。

『ショート科学研究所・第1研究室研究員』

「ただいま〜」
 ‥‥‥と、玄関の方から由羅の声。どうやらショッピングから帰ってきたらしい。後ろに重そうな荷物を幾つかぶら下げているクリスを従えて、由羅がメロディと禅鎧のいる縁側へと姿を現した。
「ぜ、禅鎧さん。た、ただいま戻りました…。フウ、疲れた〜」
「ウフフ、お疲れさまクリスクン」
 由羅も一応荷物は持っているが、明らかにクリスの方が多かった。荷物を畳の上に降ろすと、大きく溜め息を付いてその場にへたり込んでしまう。
「由羅おねえちゃん、おかえりなさ〜い」
「ただいま、メロディ。禅鎧クンに変なコトされなかった?」
「ううん。ゼンちゃん、メロディにすごく優しくしてくれたよぉ」
 意地の悪い笑みを浮かべながら、由羅。メロディはふるふるとかぶりを左右に振ってみせた。
「俺がそんな事をする人間に見えるか?」
 禅鎧は半ば苦笑しながら、彼女を責めるように反論する。その禅鎧の視線に気圧されたのか、由羅はすぐに冗談よ…と笑って誤魔化した。禅鎧は前髪を掻き上げながら、やれやれ…と溜め息を付いた。
「ところでクリス、そっちの方では何かあったか?」
「いいえ、特に襲われたり誰かにつけられたりする事はなかったです。禅鎧さんの方はどうでしたか?」
「‥‥‥由羅、クリス。これを見てくれ」
 少し間を置いてから、禅鎧は地面を指差した。由羅・メロディ・クリスは彼の指先を追ってみると、そこにはガラスの破片のようなものが散らばっていた。禅鎧は先程の出来事を、由羅とクリスに簡潔に説明した。ネームプレートの事と、ショート財閥の事は敢えて話さなかった。
「え、そんな事があったの!? …でも、メロディが無事で良かったわ。禅鎧クン、改めてお礼を言わせて貰うわ」
「…いや、お礼を言うのはまだ早い。今後もまた、メロディをつけてくる可能性があるからな。だから今後も、出来るだけメロディの護衛をさせて貰うよ」
「も…もちろん、僕もお手伝いさせて頂きます!」
 また由羅に抱き付かれる不安もあったが、クリスもまた禅鎧の言葉に同意した。
「そう…。じゃあ今後も宜しくね2人とも。‥‥‥あ、でもそれじゃあ依頼料を追加しなきゃいけないかしら?」
 少し不安そうに由羅。禅鎧は静かな笑みを浮かべながら、かぶりを横に振った。
「いや、その必要はない。依頼を解決したときに、払ってくれるだけでいい」
 その禅鎧の言葉に、由羅は半ば意味ありげな笑みを湛えながら頷いた。
 こうして禅鎧とクリス‥‥‥はどうかわからないが‥‥‥の、メロディの護衛による長い1日は静かに幕を下ろした。

「シャドウ殿‥‥‥!」
 ショート財閥の本部とも言える、エンフィールドの高級住宅街に建設されたショート邸の一室。そこには異様な空気が流れていたが、妙にフィットしているようにも思えた。
「先程、例の少女の調査に出掛けていた者が戻りました」
「ほお。それで?」
 仮面の男…ハメットの報告に、あまり興味なさげに返事をするシャドウ。半ば広めの部屋に設置されたソファに、大袈裟に足を組んで寝ころんでいる。しばらくハメットは言いにくそうにしていたが、調査に向かわせていた研究員とボディ・ガードがボロボロになって戻ってきた事を伝えた。シャドウの口元が、半ばいやらしそうににやけた。
「‥‥‥やはりな」
「と、申しますと? 貴方はその事を既に予想していたというのですか?」
「ああ、そうさ。だから今回に限って、ボディ・ガードを付けさせたんだよ。そしてそのボディ・ガードが倒されてきた。…それが何を意味するのか分かるか?」
 勿体ぶりながらそう言うシャドウ。ハメットはしばらく首を傾げていたが、何かを閃いたハメットの表情は悔しさと怒りで満ち溢れていた。
「ま、まさか? あの憎っくきジョートショップの連中が、動き出したということでございますか? くぅ〜、性懲りもなくまたしてもっ!」
 そんなハメットを面白そうな表情で見ながら、シャドウは身体を器用に起き上がらせた。
「なあに、心配無用さ。向こうも未だ、俺たちの存在には気付いていないだろうからな」
「そ、そうですか? それならば、宜しいのですが…」
 いつもならばハメットは、失敗した研究員をすぐに処罰しようと言ってくるが、ちゃんと言われた通りの任務をこなしてきた為に、特にその研究員を咎めることはなかった。
「まあ、向こうに少しでも感付かれた以上は、しばらくは調査を自粛しなければならないがな。他の研究員にもそう伝えさせておけ」
「そうですね、解りました! …ところで、役立たずのボディ・ガードの方は如何致しましょう?」
「…別に。お前の好きにしな。オレ様はもう少し、一休みさせて貰うぜ」
 ハメットは大きく頷くと、一礼して部屋を出ていった。その際、カチリと施錠を掛ける音が聞こえた。他の人間が、自分の部屋に入ってくるのを防ぐためだ。部屋に1人取り残されたシャドウは、再びソファーの上へと寝そべった。
(ククク、やはりヤツの所にも話が迷い込んでくれたか。果たしてヤツらは、オレサマの事を嗅ぎつける事が出来るかな? だんだん、面白くなってきたぜ!)

To be continued...
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