時を超えて〜恋心〜
「えぇっと、1−Cで箒が二本破損。あの坊主達、この間あれほど言ったのにまたチャンバラをしおったな。 まったく、今度つかまえて物置にでも放り込んでやらんといかんわい!」
用具の管理状況の悪さに愚痴をこぼしながらも仕事は仕事なので、ガンアルマは帳簿に箒の品番と品数2を記入した。
今日は業者の人が来る日である。従ってこれまでに報告された用具の紛失・破損・消耗などの状況をまとめ、在庫を確認しておかなくてはならない。
と一言で言っても、これが結構大変なのである。もちろん報告される分を毎日まとめてはいるが、用務員の仕事はそれだけではないから値段まで計算しているわけではないし、 中には怒られるのがこわくて黙っていたのが当日発覚するケースもある。要は焼け石に水なのである。
「ふぅ・・・今日も帰りは夜になるのかのぅ。年寄りに夜の冷え込みはこたえるんじゃが・・・」
年二回のこの『恐怖の行事』、頭は慣れても体は慣れようがない。むしろ齢を重ねる分年々辛くなっていると言えるだろう。
と、そんな彼の机の端に金色の塊がひょっこり現れた。すすき野か小麦畑にでも喩えられそうなその塊は手探りで何かを探している様子であったが
「くぉらぁ、マリア・ショート!」
当然のことながらガンアルマに見つかり一喝された。
「ひっ!?え、えぇっとぉ・・・ガン爺、この黒板消し駄目になってたからマリア持ってきたんだよ。」
そして手早くそれを机の上に置くと、嘘を付く時のいつもの癖でダブルポニーの先を人差し指に巻き付けながら愛想笑いを浮かべ相手の出方を待った。
「黒板消し破損1、マリア・ショートっと。」
「ふぇっ!?な、何でマリアなのよ!」
「何をどうすれば黒板消しがこんな風になるんじゃ!大方またろくすっぽ覚えていない魔法の実験にでも使ったんじゃろう!」
「ろ、ろくすっぽ覚えてないとは失礼ねぇ、これでも授業中5回に3回は成功するようになって先生に褒められたんだから!転送魔法って難しいのよ!今回はたまたま失敗しただけじゃない!」
「・・・つまりは自分の仕業であることを認めるわけじゃな。」
「う"・・・ひ、卑怯よガン爺、誘導尋問なんて!」
いや、これは絶対『自白』だ。
だがそれが分かるようなものの考え方をしていれば、素質はあるのだからとっくに一流の魔法使いになっている。それをさせないのは自分の力に対する過信と、このわがままさであった。 まぁそれがまた彼女の魅力の一つでもあるのだが。
ともかく彼女は自分なりの『正論』をつきつけるが相手が悪い。年の功の前では勢いまかせの彼女の『話術』も、最後の手段の『泣き落とし』も一向に効かない。 まぁもともと嘘が下手なのもあるが。結局『肩たたき』の労働奉仕によって今回は特別に免除されることになった。
『今月はお小遣いがピンチだから!』と散々泣き付いた結果やらされることになった肩たたきだったが、やってみると結構楽しいのか、笑顔で軽やかなリズムを奏でる少女とその恩恵を受ける老人の姿は、 知らない者が見れば老人とその孫と見紛うほど板についていた。
「ねぇガン爺、ガン爺は毎日こんなに遅くまで仕事してるの?」
「いぃや、こんなに遅くなるのは年二回だけじゃ。」
ふとマリアが投げかけた問いにガンアルマが優しい声で返す。相変わらず微笑ましい時間が流れる用務員室だったが、
「チャンバラや魔法の練習で用具を駄目にする者がいなくなればもっと早く帰れるんじゃがな。」
最後に付け加えられたきつい皮肉がそれまで流れていた時間を引き戻した。
「だ、だってガン爺さっき・・・」
「分かっておる。今回に限り見逃してやるといったじゃろうが。それとも儂が信用できんのか!?」
「う、うぅん。そうじゃないけど・・・」
最初よりさらにきまずい空気に少女はうつむく。が、老人は帳簿と格闘している最中でそれに気付く様子はない。あるいは反応を示さないことが彼なりの優しさなのかも知れないが。
屋内なのに、風の音が聞こえるような気がした。傾き始めた陽の光が射し込み、マリアの髪に反射してきらきらと輝く。だがそれさえも、今は美しいと感じさせない。短い沈黙。と、少女の一言がそれを破る。
「そうだガン爺、マリアが魔法で手伝ったげる♪」
「ん!?なっ、なっ、何じゃと!?よっ、よさんか!」
「遠慮しなくっていいって♪『くろのす・ぐれいす』」
この魔法、本来なら時の精霊の加護により指定した空間の以外の時間の流れを遅くするというものである。早い話が外部に影響を与えることによってクロノス・ハートと同じ効果を得ると考えてもらえばよいが、 対象範囲が広い上にクロノス・ハートよりも『時間』に干渉する度合いが高い。ということで難易度も段違いにアップしているのだ。(はっきり言って教師の中にも知らない者がいるくらいである。どこで仕入れたんだか、まったく・・・)
そして当然と言えば当然、お決まりと言えばお決まりのようにマリアの魔法は失敗した。
「・・・何も、起きんぞ。」
「あ、あれ?あれ、あれ!?おっかしぃなぁ〜。マリアちゃんと・・・」
予想に反して被害がなかったことに、安堵するよりむしろあっけにとられた感のあるガンアルマと、いつも通り自分の魔法の失敗を本気で不思議がるマリア。が、その時、黒い小さな渦が一瞬空中に現れたかと思うとマリアを飲み込んで消えた。
「マリア!?マリア・ショート!?」
思わず立ち上がった勢いで机から鉛筆が一本落ちた。だがそのことにも、その芯が折れたことにも今のガンアルマは気付く余裕がなかった。窓を風が揺らす音だけが静かな室内に響いた。

ドンッ!
「いったぁ〜〜〜い!」
空から降ってきた少女は思いっきり尻餅を付き、その痛みに思わず声を上げた。が、ふと自分の置かれている立場を思い出し忙しく首を動かして辺りの様子を確認した。
あるべきところにある机。棚に並んだファイルの種類や数などに若干の違いは見られたが、そこは間違いなくさっきまで自分がいた用務員室だった。
ただ大きく違うことと言えば、そこにいるべき老人がいないこと・・・
「!?ガン爺!!」
思わず声を上げたマリア。だが返事は返ってこない。一瞬彼の方が消えてしまったのかと思ったがさっき自分は尻餅をついた。何かあったのは自分の方なのだ。
癖でもないのに爪をかむマリア。不思議なものだ、見えない恐怖が、不安が波のように押し寄せ彼女を押しつぶそうとしているのに、いやそのせいかもしれないが、どんどん頭が冴え、色々なことが思い出されてくる。
「そう言えば、時の魔法は危険だからってあのタナトスですら自ら封印したんだった。」
考えても見て欲しい。もし時の流れを自由に操る魔法が横行していたらどうなるか?
時をさかのぼる者によって現在は影響を受け、未来を知った者によって未来はあるべき姿に進めなくなる。
悪意はあるものならまだしも、それは悪意を持たぬ者の日常生活のささいな行為によっても時として起こることがある。 それがたとえ草原の一角を踏みつけてしまったり靴に挟まった小石をそのまま持って帰って来てしまうようなことでも。世界を織り成す歯車はひどく繊細なのだ。
そして一番恐ろしいこと・・・もし時間を旅したことで生じさせた矛盾がどうしても解消できない場合は、その者の存在を消すことで世界はバランスを保とうとするということも。
「・・・!!」
近付いてくる足音に、マリアはビクッとなった。この部屋は廊下の突き当たりに位置する。従って足音が近付いてくるということは、即ち誰かがこの部屋を目指して歩いているということとイコールなのだ。
「か、隠れなきゃ!」
とある授業で聞かされた物語で、ホットドッグを一つ買って食べたことがめぐりめぐって世界の矛盾を引き起こし存在を失った魔導師の話というのがあった。 もちろん作り話なのだが、そのリアリティと何より漠然とした結末のおそろしさに、いつもは賑やかに感想の飛び交うその授業が物音一つはばかられるほど静かになったことがあった。もし人と関われば?その答は火を見るより明らかだった。
ガラッ!
「(・・・・・)」
「・・・背中が見えてるよ、お嬢さん!?」
「ふぇぇぇっ!?」
背後からかけられた声に思わずマリアは飛び上がり・・・隠れていた机に思いっきり頭をぶつけた。
「だ、大丈夫かい!?」
「い、いったぁ〜い・・・ヒック・・・」
あまりの痛さに泣きじゃくる見知らぬ少女を、声の主は抱え挙げるとどこかへ運んだ。
・・・・・
「・・・・・?」
気が付くと目の前、正確には目のずっと上には真っ白な天井が広がっていた。縁はほとんどないし若干印象も違うが、見覚えはある。そう、彼女の記憶通りならここは・・・
「ほぇ?何でマリア保健室なんかにいるの!?」
「気が付いた?」
現状を把握するべくさきほどと同じように辺りを見回そうとしたマリアだったが、それより先に声をかけられた。
見ると、そこには一人の青年が立っていた。初対面・・・のはずなのだが、不思議とそんな感じがしない。だが、その理由はすぐに分かった。
「びっくりしたよ、見知らぬ女の子が忍び込んでいると思ったらいきなり机の裏に頭ぶつけて気絶するんだもん。あ、俺今だけここでバイトしているガンアムラ・アンダーソンって言うんだ。」
「ガ、ガンじ・・・」
思わず声をあげそうになってマリアは口を押さえた。目の前にいる青年はどう見積もっても30は行っていない。そして彼女のよく知る老人は米寿の祝いを迎えたばかり=88歳。 つまりどう考えても60年近くさかのぼってしまったことになるのだ。自分が生まれていないのはおろか、父親すらまだ幼いこの時期にマリア・ショートという少女の存在証明を残すことの危険性は計らずとも高い。
「君、どうしてあんなところにいたの?名前は?」
その質問で現実に引き戻されたマリア。一瞬『うるさい!』と一喝して終わりそうになったが、とっさの判断、というよりは本能的に踏み止まった。助けた少女に何気ない質問をしてうるさいなどという返事を返されればまず間違いなく印象に残る。 そこまで考えられたわけではないが、少なくともここでそんなリアクションをすることが不適であることだけはマリアにも分かった。
「あ、あの・・・わ、私この学校に入りたくて、その、下見に来たんですけど迷っちゃって・・・」
極限状態は時に人の秘めたる能力を引き出す。さっきも言ったが嘘や駆け引きとは無縁な少女だ、マリアは。だが今の彼女はその言葉通りの『どこかの少女』を見事に演じて切っている。
「あぁ、だから用務員室で聞こうと思ったけど誰もいなくて、待っていたら俺が来て驚いて隠れちゃったってわけか。」
まだ出来ていない自分の設定に思いがけずフォローが入ったことに、思わずマリアは勢い良く何度も首を縦に振った。が、
「そっか。で、君名前は?」
それと同時に攻撃(少なくとも彼女にとっては)を加えられ再び動きが止まる。もちろん『マリア・ショート』などと名乗るわけにはいかない。その名前の存在が現在、この時代にとっては未来に影響を及ぼす可能性だってある。 何かの機会で父親が自分の名を耳にすれば、マリアという名を自分の娘に付けるのをやめることだってあり得る。どこかの女性と同姓同名ということになるのだから。
「そう言えばさっき自分のことマリアって・・・」
「ほぇぇっ!?ち、違うよ。マリアって名前じゃなくって・・・そう、あだ名なの、あだ名!」
「あ、そうだったんだ。」
「そう!ほんとは『マリ・アート』って言うんだけど、みんなが『マリア』って呼ぶから自分でもそう言うようになったの。」
最初は『マリ・アショート』にしようかと思ったがさすがにそれではストレート過ぎる。とっさに名前を中抜きにしてマリアは自分自身をそう名付けた。
「ふぅん、マリ・アートちゃんね。俺もマリアって呼べばいいのかな?」
「うん。えぇっと、ガン、アムラさんのことはどう呼べばいいんですか?」
「あぁ俺?そうだなぁ・・・ガン兄とでも呼んでもらおうかな。それでいい?」
偶然か彼の性格か、自分のよく知るガンアムラと似ている呼び方だ。少なくともこれで誤って『ガン爺』と呼んでしまった時でもフォローがしやすい。マリアは二つ返事でOKした。
「で、マリアはどんなことをこの学校で学びたいんだい?」
「マリア、世界一の魔法使いになりたいの!」
思わず正直に答えてしまいハッとなって『ガン兄』の方を見ると、楽しそうに笑っている。けれど悪意はもちろん無く、マリアも腹立たしさではなく懐かしさにも似た感じを覚えた。
自分に兄がいればこんな感じだろうか?まさしく彼は自分にとって『ガン“兄”』である。マリアもいつしかつられて笑っていた。
「じゃあ世界一の魔法使いになるマリアさん、このガンアムラがつつしんで御案内申し上げます。」
「へ!?や、やだガン兄ったら♪」
意表を突かれマリアは何の警戒もせずふきだしてしまった。頑固と偏屈を形にしたような人間も、もとは自分達と同じおふざけの好きなただの若者であったことが彼女の心を和ませた。 と同時に、昔の人間らしく小柄ではあるが精悍なその青年は、彼女の中で大きな心の支えとなっていた。
さっき逢ったばかりではあるが、彼女にとっては再会なのだから。それも60年ぶりの。

「で、ここが第一魔法実習室。実技に進めるかどうか、ここで魔法適性を試験するんだ。」
「ふぅ〜ん・・・」
ガンアムラの説明に、これで何度目になるだろう、マリアは忙しく首を動かしていた。彼の説明自体は聞かなくても知っていることなのだが、何せ50年前の学校だ。 丈夫で質の良さそうなものを選りすぐっているところなどはさすがだが、全て木造だ。火は使えないし電気もまだこの辺りには普及していないもしくは通っていないらしい。 博物館に飾ってありそうな燃費の悪い魔法灯がランプのあるべきところに付けてあった。
「ははっ、そんなに珍しいかい?」
「えっ!?えぇ・・・まぁ・・・」
だったら良かったと告げると、彼はマリアの手を引いて歩き出した。
「(!!)」
マリアの顔が赤くなる。今彼女の手を引いているのはしわのある老人の手でなく健康な若者の手だ。その事実だけで、嫌でも意識してしまう。
「どうしたのマリア?・・・熱はないみたいだし。疲れたのかな?」
だが一向に解しないガンアムラは、今度は額に手を当て、笑顔を近づけたりする。思わず、
「そういう無神経なことしてるから、偏屈爺さんなんてみんなに言われるのよ!」
そう言葉を発してからはっと口を押さえたがもう遅い。綸言汗のごとし。
「おぃおぃ。まるで俺がどんな爺さんになるか見てきたようなものの言い方だなぁ。」
「そ、そんなの誰だって分かるわよ。き、気を付けないと駄目よ、ガン兄!」
後ろめたいことをごまかすため、今度はマリアがガンアムラの手を引いた。どっちに行ったらいいか分かってるのかというガンアムラの問いにも、マリアはただ何となくと答えるばかりだった。 今はこの、危うく世界のバランスを崩しかけたことと異性に手を握られたことに対する胸のドキドキを抑えることの方が彼女にとっては大問題だった。
「何を怒ってるのか分からないけど、ケーキをおごるから許してよ。」
何故か、その言葉だけははっきりと彼女の耳に飛び込んできた。
「しょ、しょうがないわね。許したげる♪」
これで問題が決着しかけた時、彼女はあるものを目にした。

それは、壁に描かれた魔法陣だった。
「あぁそれか。何でも防災のためのおまじないみたいなもんらしいよ。幸福を呼ぶ精霊の御加護があるんだってさ。」
「(これ、もしかして・・・!!)」
おそろしいことばかり思い出す日だ。人によっては苦笑していたかも知れない。だがマリアの場合は、背中を冷たいものが走った。
魔法史の時間に習ったことだ。いつもはつまらないからと聞き流すのだが、この日は学園に関係あるという前提で始まったので、その特別な雰囲気に興味を覚えたマリアは珍しく聞き入っていた。
50年ほど昔に完全に使われなくなった一つの魔法陣がある。幸福を呼ぶ精霊の力によって建物や地域に加護を得るというその魔法陣は、発見された当初こそもてはやされたが、その後、 実はその精霊がひどく気まぐれであること、自分の力を扱いきれず頻繁に暴走させてしまうことが指摘されわずか数十年でその幕を閉じたという・・・
よく憶えている。あちこちでまるで自分のようだという声が聞こえたから。
そして、この学園にも一つあったその魔法陣も暴走を起こし、不運にもその時清掃に当たっていた数名の生徒が命を落とした。
幸い呼び出す精霊の思考が幼いため、解除に複雑な印や呪文はいらない。精霊に呼びかけることさえできれば誰にでも解除できる魔法陣だ。つまりマリアでも100%解除には成功するのだが・・・
「(でも、そんなことしたら、マリア・・・)」
「どうしたマリア?そんなにこれに興味があるのかい?」
「え、あ、う、うん・・・」
彼女の内で起きている葛藤などどこ吹く風、相変わらずガンアムラは彼女の心情を察するということとは無縁のようだ。まぁ事情を知らないのだから当然といえば当然なのだが。
「さぁ、次の教室に、」
「ねぇガン兄!」
屈託のない今までの少女の顔とは打って変わった彼女の様子に、彼の眼は天敵に見つかった野生の動物のそれになった。
「ど、どうしたんだいマリア!?」
尋ねる声のトーンも心なしかさっきまでと違って聞こえる。だがそんなことお構いなしでマリアは続ける。
「もし、もしもよ。その、未来を知ることができて、で、その未来で良くないことが起きるって分かったら、どうする?」
「うぅ〜ん・・・やっぱり、止めようとするんじゃないかなぁ。」
なぜそんなことを突然聞くのか分からないが、とりあえず彼はそう答えた。途端やっぱりとつぶやき力なくうなだれるマリア。
「なぁ、どうかしたのか、マリア?」
心配した声が肩越しにかけられる。しばらく悩んだ末、彼女は振り返るとこれまでで一番大人びた、凛とした表情で彼に詰め寄った。
「今から話すことは、絶対誰にも言っちゃ駄目だよ!いい、絶対だからね!」
張り詰めた空気に言葉づかいが着いていかないところがマリアらしい。だがそれを笑うことなく、ガンアムラはうなずいた。
そして彼女は全てを告げた。
自分が時を超えて来たこと
この魔法陣に欠陥があること
そのせいで近い将来数名の生徒が命を落とすこと
「だからマリア、これを解除しなくちゃいけないの。」
よくよく考えれば、彼にこのことを告げる必要はない。だが告げずにはいられなかった。それは別れの言葉の代わりだったのかも知れないし、あるいは消え行く自分の存在証明をせめて彼の中にだけでも残したいという無意識の自我の欲求からかもしれない。
「でもマリア、そんなことしたら君が!!」
ガンアムラの顔に焦りの色が浮かぶ。今までで一番はっきりとした感情の現われだ。そう言えばあのホットドッグの話はこの頃のベストセラーだったとか言っていたなぁ。 こんな時だけ発揮される記憶力の良さに、マリアはテストの時もこのくらいすいすいと思い出せればいいのにと心の中でペロッと舌を出した。
「さよなら。ありがとね、ガン爺。」
ことの大きさを悟ったガンアムラがマリアを止めようと飛びつくが、強大な魔法力の壁に弾き返された。白い闇が再び薄暗い光を取り戻した時、そこにはまるではじめから何もなかったかのように、味気ない壁とそのよこでしりもちをついているガンアムラ青年の姿があった。
「マリア・・・君は・・・」

「くぉら、起きんかマリア・ショート!」
「ほぇっ!?」
聞き慣れた老人の一喝によって、金髪の眠り姫はソファーのベッドから転がり落ちた。何とも夢も色気もないお目覚めではあるが、不思議とそこに可愛げが生まれるのは彼女の魅力ゆえか。
「あ、あ、あれ、マリア、えぇっと・・・」
「やっと目を覚ましたか、手のかかる娘じゃまったく。」
いかにも面倒くさそうにそうぼやくと、老人は書類をトントンと机に当てて耳を揃えた。
「あ、ガン爺終わったの?」
まだ多少混乱しているが、記憶ははっきりしているし現状把握も一応はできたのでマリアが尋ねる。だが老人の答えは見ての通りの一言。そっけないものである。
「じゃ、じゃあガン爺、マリア帰るね。」
頭の引き出しから出てきた記憶の中に、黒板消しの一件も当然ある。許してもらえたとは言え肩身が狭いことに変わりはない。マリアは逃げを決め込むが、
「待たんか、マリア。」
ガンアムラの冷ややかな一声によってあえなくその道も断たれた。
「な、何、ガン爺、じゃなかった、ガンアムラさん?」
ぜんまい仕掛けの人形のような『私うろたえてます』の動き。これではまるで喜劇役者か道化師だ。だが本人はいたってまじめなのだからなおさら憎めない。これもまた彼女を守ってきた要因の一つだ。
だが見慣れているはずのガンアムラが、今回ばかりはあっけに取られている。が、その理由はすぐに分かった。
「誰が怒っとると言った?儂はただ呼び止めただけじゃぞ。」
背中にかけられた以外な言葉に、マリアはきょとんの四文字を顔に浮かべて振り返る。そしてそこにある、見慣れない、けれどさっきまで見ていた笑顔に自然と顔が赤くなった。
「仕事も早く片付いたことじゃし、これから儂に付き合わんか?68年前、ケーキを奢ると約束したことじゃしな。」
「・・・うん♪」
弾けるように生まれた笑顔。そして彼女は彼の手をとった。しわの多い老人のその手に、まだ温もりを覚えている20歳の青年の手を感じ取り、マリアは緊張のような嬉しさのような、表現できないくすぐったいものを感じた。
「ガン爺って、あの時20歳だったの!?うっそぉ〜!?」
「大きなお世話じゃ!」
夕陽をバックに小さくなっていく影二つ。微かに聞こえる笑い声は、老人と少女のものとも、二人の若い男女のそれとも聞き取れる、何とも不思議な温かさに包まれていた。