天の繰り糸8「人間を演じる人形」
雨水 時雨(MAIL)
「何を焦っているんだ。」
気を落ち着かせようとしてもうまくいかない、無意識に前へ前へと身体が動く。
「まさか、彼女が…。」
彼女は糸について知っていた。しかし、わざわざ詳しく教えてくれた理由が解らない。
それは、フェイクだったのか…?
それとも、気付いて欲しかったのか…?
「何を考えているんだ!まだ何も確かめたわけでも無いのに!!」
あれこれ考えたって答えが出てくるわけが無い、今は…、
「探さないと。」
でも何処だろう?家に居るのか、それともまだ仕事か。
不自然に歩くのが早くなっていく、泥水を跳ね上げながら歩いていく。
「それにしても、何故こんなに焦ってるんだ…。」
くそっ。こんな不安な気持ちも、気分が悪いのも、身体がいう事きかないのも…、全て…。
「寝不足の所為だ〜〜!」
叫んだら少し気が晴れた。
よし、まずは図書館に行こう、居なかったら家に行こう、会ったらゆっくり話し合おう。
落ち着け、落ち着け、彼女が犯人であるはずが無い。」
「んっ?」
なんで、足が止まってるんだ?
あれ?あの二人は何をやってるんだ、こんな雨の中で…。
まさか…、いや、そんな…、嘘だ、馬鹿な…。
止めろ…、止めろ!
「イヴ止めろ〜!」
『人間を演じる人形』
人の声が聞こえた様な気がした、彼女は我を取り戻し、助けを呼ぼうとした。
しかし、そんな暇は無く、彼女の顔はイヴの手によって覆われた。彼女は恐怖に凍り付き、ただ瞳を閉じる事で現実から逃避した。
しばらくは雨音だけが、彼女の入手できる唯一の情報だった。
一瞬だけ、強い衝撃が彼女を襲った。
「ああ…」
彼女はついに来たるべき時が訪れたと思い、酷い悲しみと共に少しの安堵を覚えた。
不思議と痛みは無かった、現実にはこんなものなんだろうと、と彼女は思った。
しかし、再び冷えていく下半身が彼女の正気を取り戻させた。
ゆっくりと目を開けた、どうやら自分は地面に、正確には水溜まりの上に、座り込んでいるのだと解った。
そして、彼女は思い出した様に顔に触った、何度となく、しつこいくらいに。
どうやら…無事の様だった。
次に彼女はすぐにイヴの姿を探した。
それは探さずともすぐに見つける事ができた。
目の前、先ほどと同じ場所に立っていた。
それは先ほどと同じような光景だった、変わった事いえば、男が一人増えている事ぐらいだった。
男がイヴの腕を掴んでいた。
「行け!」
男が叫んだ、しかしその言葉が自分にかけられているのだと気付くのに、彼女は少々かかった。
「行け、早く行け!」
彼女は思い出した様に立ち上がると、言葉に従い、その場から走り去った。
「イヴ…全く…、何やってるんだよ!!」
レインは揺さぶりながら呼びかけるが、イヴは先ほどから女の居た場所をぼんやりと見ているだけだった。
「イヴ…イヴ!」
レインは肩を掴み、無理やり自分の方を向かせる。
「はっ…」
お互いに息を飲む音が聴こえた。
「見つけた…。」
濁った瞳に初めて光が宿り、レインを見た。
「イヴ…。」
レインは黙って見つめていた。
どうしたの?
どくん、心臓が震える。
思考に遮断がかかる、意識が暗闇に飲み込まれていく…。
「また……か…よ…」
レインの膝から崩れ落ちる。
「何故、そんな悲しい目で私を見るの?」
イヴがそう聞く、が、そんな事はどうでも良かった。彼の瞳の中の私が悲しんでいる、それが気になる。
「やっぱり、あの子がいるからなの?」
無表情だった顔が、初めて歪む。
イヴはフードをかけ直すと、女性とは思えない力でレインを抱え上げ、雨の中を歩きだした。
彼女は雨の中を走っていた、無我夢中、ひたすらに走っていた。その為に、前方より接近する日常に気がつかなかった。
ドンッ、
「………!」
息の切れてていた彼女は声を上げる事もできずに、三度、水溜まりの上に座り込んだ。
すると、すかさず一本の手が、目の前に差し出された。
「どうも…すみません…。」
流石に、今度はいきなり怒鳴ったりせず、謝りながら手を握り立ち上がる。
「傘が無ければ走るのも仕方無いわ。それよりも、そんなに濡れて大丈夫?」
その聞き覚えのある、否、先ほど聞いたばかりの声に驚き、彼女は顔を上げる。
そこに居たのは…?
「イ…ヴさん?」
思わず卒倒しかける彼女、危うい所で抱き止めるイヴ。
「大丈夫?あら、貴方は…。」
抜群の記憶力を誇るイヴの頭が、役所の窓口係員の一人、彼女の事を思いだす。
「あ…、貴方…さっき…、公園の前に…。」
彼女は震える声で問うた。
「公園に?私が?そんな事は有り得ないわ、私は今、仕事を終えたばかりなんですもの。」
その一言で、彼女の中で何かが閃いた。
ーこの人と、さっきの人とは…、違う?!ー
どう気づくなり、彼女は激しくイヴに言った。
「貴方…、貴方にそっくりな黒づくめの怪しい奴が公園に!私…、私、襲われそうになって…。たぶん、あれが顔裂き魔よ…。」
いきなりの剣幕に一瞬怯むイヴ、しかしすぐに言っている事を理解すると、只でさえ作り物めいた顔から暖かみが引いていった。
「本当に…私にそっくりだった…?」
「え、ええ確かよ。私、やられそうになったんだけど、男の人が…、そう自警団の人。確か、あの人も見たことがある…、誰だったっけ…。」
彼女は雨の中で考え込んでいた、しかし目の前に居たイヴはすでに居なくなっていた…。
「うっ…。」
レインが薄く目を開けた。
「寒い…。」
雨で体温が下がっている事が解った、しかし頭だけはぼ〜っとして熱かった。
「大丈夫、すぐに暖かい所に連れて行ってあげるわ。」
誰かの声にレインは少し意識を取り戻す、そして己のおかれている状況を少し理解した。
どうやら、雨の中、誰かに背負われて何処かに連れて行かれる所らしい…。
レインの思考が次の段階、自分の事、相手の事に及ぼうとした時、更に頭がぼ〜っとして、折角の思考を止めてしまった。
「風邪…、ひいちゃったんだな…。なら…、寝なきゃ…。」
レインはそのまま瞳を閉じた、しかしその意識が沈んでしまう直前、何かが彼の魂を揺さぶった。
「姉さん!!」
レインを背負うものの動きが止まった。
ゆっくりと振り向く、背負われたままレインは声を発した者を見た。
ー酷く悲しい瞳…、けど…ー
そこまでだった、彼は何故か安心して眠りについた。
「姉さん。」
誰かが再び呼びかけた。
「お久しぶり、我が妹。名前は何て言ったかしら…。いえ、私達にはそんなもの関係無いわね、私達はただの雛形のレプリカなんだから…。」
そう言って人形は笑った。造り物の見せる作り物の笑顔。
「リリス姉さん、なのね?」
呼び止めたイヴ=ギャラガーはきいた。
「そう、貴方がイヴになったのね、おめでとう。でもね、所詮は人形なのよ私達は。イヴ、リリス、雛形が演じた名前、昔話にも出てくるわね。イヴ、素直に貴方にはそれがぴったりだわ。」
その時、彼女は少し自嘲的に笑ったのかもしれない、しかし造り物の笑いに変化は無い。
「もう…、つまらない事は止めて。」
「つまらない…、そうつまらないわ、私達の存在そのものが。貴方は、何故あの男に従うの?いえ、貴方ほどに高性能に作られれば、少しくらいは恩を感じる事ができるのかしら?それとも、そんな感情も作られたの?」
会話が成り立たない、イヴは溜め息を一つついた。
「私には姉さんが味わった苦しみを知る事はできません、けど助けになる事はできるわ。」
「苦しみ、それさえも作られたもの。助け?私はそんなものは望んでいません、私の望むものは一つだけ…。」
「話合っても無駄なのね。だったら、その人だけは置いて行って下さい、その人には何の関係もないわ。」
瞬間、造り物の笑いが崩れる。
「貴方は…、私からこの子まで捕ろうというの?そこまで満たされているのに、まだ何かを望むの?人の様に限り無い欲望までもが作られたのかしら…。」
会話が成り立った。しかしイヴは喜びはしない、リリスの瞳が怪しく光っていた。
「貴方にだけは…渡さない…。」
リリスが片手を垂らす、何かが鈍い光を放つ…。
二人がしばし睨み合い、時間が止まる。
時が止まってしまうと、そこは人形劇の舞台の上の様であった。しかし、操る者は仕事を忘れている。
それを思い出させたのは、意外な人物だった。
「おい、お前等、こんな所で何をしている。」
アルベルトが悪い視界の中、目を凝らしながら声をかけた。
「おい、こんな所で何をしている!」
近づきながらもう一度言う。
「あれ?…イヴ…が二人?!」
雨の中、幻でも見ているのではないかと何度も目をこする。すると、リリスが少し表情を曇らせ、右手を動かす。
「……!」
イヴが無言でアルベルトを弾き飛ばす、油断していたアルベルトは見事に水溜まりに飛び込む。
「何すんだ!」
起き上がりながら叫ぶアルベルト、しかしその目の前を何かが通った。
…ガタン!
突如、街灯が崩れ落ちた。いや、何かに斬られ、上の部分がずり落ちた。
アルベルトは直感的に危険と以上を察知した。そして異状の元は…、黒づくめのイヴだ。
「おい、あいつは誰だ…。」
アルベルトは自分の知っていると思われるイヴに聞いた。
「私の…姉さんよ…。」
「…なるほど…。」
苦虫を噛み潰した様な顔になるアルベルト。
その時、リリスがくるりと背を向けた。
「おい、何処に行く気だ、待て!お前に聞きたい事が…!」
「イヴ、またね。今度は貴方が来なさい。」
リリスが着ていたローブをひらめかした。黒い布が辺りに残っていた光を全て吸い込むかの様に広がり、アルベルトとイヴの視界が一瞬黒く染まった。
再び、僅かな光が輝きを放ち始めた時、リリス達の姿は無かった…。
「レインさん。」
イヴは人前で出せる最大限の声で呼んだ。しかしその声は、降りしきる雨に吸われ、はかなく消える。
「説明してもらおうか。」
アルベルトがイヴを掴んだ、イヴが顔を歪める。
アルベルトは手に生暖かい感触を覚え、慌てて自分の手を見た…、赤い。
「おい、まさか!?」
そう、先ほどアルベルトを突き飛ばした時、イヴは代わりに自分が糸で斬られていたのであった。
何とか我慢している様だったが、その出血から傷口が深いのは明らかだった。
「とりあえず、まずは医者か…。」
アルベルトは、この雨の中を延々と戻らなくてはならないと思うと、少々うんざりした。
「よし、これで良いだろう。」
トーヤは鮮やかな手つきでイヴの傷口を手当てした。
「終わったか?じゃあ、話を聞かせてもらおうか。」
治療の間、背を向けていたアルベルトが二人の方を向く。
アルベルトは黙って待つ、しかしいつもは物事にははっきりと答えるイヴが、何故か珍しくも少し困った顔をして、ただトーヤの顔を見た。
何かを察し、頷くトーヤ。
「アルベルト、悪いが席を外してくれ。」
「何言ってるんだ!イヴ個人の事なら良いが、どうやら事件にも関わってるようだからな、聞かないわけにはいかない。」
「関係する事があれば後で俺が教えてやる。だから今だけは席を外してくれ。」
その時、アルベルトはいつもは気丈なイヴが憔悴した顔をしているのを見て、折れた。
「解ったよ、ドクター。」
「ごめんなさいね、アルベルトさん…。」
アルベルトは答える代わりに背を向けた状態で片手を上げて、部屋から出て行った。
「詳しくは聞かん、話せる事だけ話せば良い。」
二人になるなりトーヤが言う、イヴは静かに語り始めた。
「私が姉の事を知った、いえ思い出したのはつい先日の事。父の部屋を整理していた時、父が私に残した手紙を見つけたのだけれども、その時に一緒に父の日記も発見したの。」
イヴの思いがあの日記に内容に到り、ただでさえ曇っていた表情が更に悪くなる。
「ある日レインさんに『糸』を見せられて、姉がこの街に帰った事を知った…。あの糸は本当に特別なの、だから身内以外に知っている人なんて居るわけが無い。私は姉を探し始めた、そして…、」
あの夜の事を思いだす、イヴ。
「私達は一昨日の夜に再会した…。」
「なるほど、レインを助けたのはお前か…。」
「助けたと言うほどではないわ。私が声をかけようとすると、すぐに逃げてしまったから…。」
話が一旦止まる、しかしすぐに再開される。
「私が姉を探して、話題になっている占い師にまでたどり付いたのは昨日、でも少し遅かったみたいローラさんから数日前から居なくなったって聞いたわ。でも、しらみ潰しにでも探そうと思っていたら、今日見つけた…。」
「なるほど、お前の事情は解った。さて、お前の姉の事を聞いても良いか?」
返事代わりに一つ頷く。
「詳しい事は言えません、姉の身体には生まれつき障害があった、それは女性としては致命的な…もの…だった。」
珍しく語尾を濁す。
「子供…か…。」
トーヤが悟る。おそらく子の生めぬ身体だったのだろう、否、イヴの様に完全に人として機能しているのかという所も怪しい…。
「ある日、その事を知ってしまった姉は、その日男の子をさらってしまった…。」
ーそれが、レインの事件なのか…ー
トーヤはあまりの事件の出来すぎ感に顔をしかめた。
そして、レインの事を簡単にイヴに説明した。
ー貴方は…、私からこの子まで捕ろうというの?そこまで満たされているのに、まだ何かを望むの?ー
イヴは先ほどの言葉を思いだした…。
「父の日記には、姿を消した姉は二度と戻って来なかったと書かれていたわ。」
「そして、その居なくなった姉が何故かは解らんがこの街に帰って来て、占い師の真似事をやり、何故かは解らんが罪を犯し、ついにはレインをさらったというわけか…。いや、レインの事だけは理由は解らんでも無いな…。」
無言で頷くイヴ。
そして一通り話し終え、沈黙が流れた。
「それで…」
トーヤが沈黙を破り、イヴに尋ねる。
「それでどうするつもりだ、お前は?」
「どうするって、それは…、」
「一つ忠告しておく、お前一人で解決しようと思うなよ。これがお前の家の問題と思うなよ、いいか、それは大きな間違いだぞ。」
トーヤが急に厳しい口調になる。
「お前の姉の凶刃にかかった者が出た時点で、これはお前の家の問題ではなくなった。後は、少し無責任かもしれんが、自警団に任せて、お前の出番は姉が捕まった後だ。」
イヴはしばらくは黙っていたが、一つ頷く。
「解ったわ、ドクター。」
「良し、今日はもう家に帰って、ゆっくりと傷を癒せ。」
言われて、イヴは静かに立ち上がった。
「そうだ、姉の居所に何か心当りは無いか?」
イヴは黙って首を振った。
「そうか…、まあこの街で占い師をやっていたんだ、そうそう遠くに寝泊まりはしていないだろう…。」
トーヤは一人納得すると奥の部屋のアルベルトを呼んだ、入れ代わる様にイヴがクラウド医院を出る。
「それじゃあ、ドクター。」
「ああ、養生するんだぞ。」
そう言って、イヴは去って行った。
イヴは外に出るなり、扉の方を向いて頭を下げた。
外は…、いまだ雨が止む事無く、逆にまるで世界全ての人々に降りそそぐかの様に、更にその勢いを増していた。