中央改札 悠久鉄道 交響曲 感想 交響曲

「Forbidden Lover」 式部瞬  (MAIL)
昨夜から朝方にかけて大地を潤したであろう、驟雨(しゅうう)の残滓が刺すような陽
光を受けてその光を拡散させる。真っ青な空に威風堂々と浮かぶ太陽は、まるで人々に
この季節を再認識させるかのようにその灼熱の手をかざしつづけている。


そんな、蒸し暑い夏の午後だった。
あの不思議なエルフの少女に出遭ったのは。


「あの、君は…。」
「見ればわかるだろ?エルフだよ。」
「あ、そうじゃなくて…。」
「何?エルフの吟遊詩人がそんなに珍しいの?」

初めて交わした会話はおよそ友好的だとは言えなかった。
無け無しの勇気を振り絞ってかけた声は、ぶっきらぼう極まりない仕草で報われること
となった。透き通るような白い肌に、深遠なエメラルドを思わせる髪を短めに切り揃え
ているその美しい少女は、道行く人々がみんなそろって日陰を歩き、吹き出す汗を必死
に拭っている中、汗どころかまるで気温など感じていないかのように噴水の縁に澄まし
て腰掛けていた。と、不意に少し切れ長な瞳を動かし、少女は目の前に突っ立っている
青年を見やると、
「あんた、旅人でしょう?それもかなりの田舎から出て来た…違う?」
「え?なんでわかるんだい?」
「200年前ならいざ知らず、今やエンフィールドは大陸一の魔法都市なんだ。エルフ
なんかにいちいち驚いてるヤツなんてここにはいないよ。」
ぶっきらぼうに呟き、少女は大事そうに抱えているリュートに瞳を落とした。
「それで、あんた私に何か用?」
「あ、用って程じゃないんだけど…あの、僕実は小説家なんだ。」
「………。」
「…ゴ、ゴメン。小説家志望なんだ…。」
「ふふ、正直なヤツね。それで、小説家の卵さんが私に何の用なの?」
その時初めて少女は微笑んだ。そんな些細な仕草からも、この青年の心を強く揺さ振る
のに充分すぎるくらいだった。青年は脈打つ胸の鼓動をさとられないように、慎重に、
一言一言を確認するようにゆっくりと呟いた。
「エンフィールドに伝わる詩を何か聞かせてくれないかな?小説の参考にしたいんだ。」
「そう…まあ、暇だからいいよ。何がいい?“眠り姫の恋”、“復讐の女戦士”、“ピ
アニストの初恋”“魔法少女のおまじない”、…ええと他には…。」
と、指折り数え始める少女。が、青年は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべると、
「あ、ゴメン。それ全部知ってるんだ。他に何かないかな?」
「そう?じゃあ……そうね、あんた悲恋でも聴きたい?」
「え?…うん、できればお願いしたい。」
「じゃあ、詩ってあげるわ。…突っ立ってないでここに座ったら?」
そう言って自分の隣をペシペシと叩いてみせる。青年は少し照れくさそうに頬をかくと、
静かに少女の隣に肩を並べて座った。
「じゃ、始めるよ。」
「うん。」
少女は細く長い足を組み替え、静かに瞳を閉じるとゆっくりとリュートをかき鳴らした。
ポロロン……。
澄んだ音色が耳に心地よく響く。
「遥か昔。それは哀しい別れの詩…。」
少女のしなやかな指がコードを奏で、アルペジオを奏で、やがてその旋律に美しい声の
調べが重なり合う。
「美しいエルフの少女と優しい青年の、哀しい恋の詩……。」




胸がうるさいくらいに脈打ち、手のひらにはじんわりと汗が滲んでくる。
その時、瞬は生まれて初めて刀を手にした時より、初めて実戦を経験した時よりも遥か
に大きな緊張と不安に襲われていたであろう。それもそのはずである。彼は今全く経験
したことのない、強大な問題に立ち向かおうとしていたのであるから…。それは…。

暖かい日差しに誘われて公園ではしゃぐ子供達や活気のある出店の賑わいなどを、ベン
チに腰掛けて遠くに聞いていた瞬は、落ち着かない様子で懐から懐中時計を取り出した。
長針が12を、そして短針が1を指し示している。この時計は5分程進めてあるので、
実際には今は12時55分である。
「はぁぁぁぁ〜。」
ため息を一つつくと瞬は前髪をかきあげ、再び時計に目を落とした。
「とうとうあと五分か…。ああ〜、やっぱりはやまったかなぁ…。」
そう独語してもう一度深いため息をつき、ちらりと隣に目をやってみる。午前中にアレ
フに強く勧められ、半ば無理矢理に買わされてしまった真っ赤なバラの花束。その美し
く、鮮やかな赤が瞬の中の後悔をさらに大きなものにしていた。
「本当にこんなので喜んでくれるのかよ?笑われるのが落ちじゃないのか…?」
まったく、と額に落ちかかる前髪を煩わしげにかきあげ、前方に目を戻した瞬の胸を今
まで以上の刺激が襲った。待ち人来る、である。
(うわあああ…。来ちゃったよ………。)
そんな事を考えながら慌てて立ち上がり花束を背中に隠す瞬。そんな瞬にゆっくりと近
づいてきた一人の女性、それは…
「おい、瞬。いきなり何の用だ?」
「あ、ああ。せっかくの休みに悪いな、エル。」
「別に。特にやることもないからね。」
そう呟いて前髪をかきあげるエル。彼女がよくやる癖の一つであった。と、その時、
エルフの特徴とも言える長い耳にキラリ、と瑠璃色の輝きがきらめいた。陽光を浴び、
幻想的な深海のような輝きを放つ9月の誕生石、サファイアであった。
「あれ?エル、それって…。」
「あ!い、いや…。」
慌てて髪の毛で耳を隠し、頬を微かに紅く染めて瞳を反らすエル。同時に瞬もハッと
なって瞳を反らし、照れくさそうに頬をかいて見せた。エルの耳元を彩るサファイアの
イヤリング、それは瞬がつい三日程前にバースデープレゼントとしてエルに贈った物で
あった。…厳密に言えば瞬はイヤリングではなく、指輪を贈ったのだが、「女の子に贈
るために指輪を選ぶ」という行為によほど気恥ずかしさを感じたのか、焦ってろくにサ
イズも確かめずに買ってしまい、結局のその指輪はエルの親指ですらブカブカのシロモ
ノであったのである。
エルは相変わらずぶっきらぼうに、だがどこか恥ずかしそうにゆっくりと口を開いた。
「…せっかくお前がプレゼントしてくれたんだからな…。だから少し手を加えてイヤリ
ングにしてみたんだ。…似合わないか?」
「そ、そんなこと!!…あるわけないじゃないか。似合うよ。」
その言葉にエルははにかんだ笑みを浮かべると、
「…ありがと。それで今日は何の用?」
「え!?あ〜…そ、その…。」
「??」
エルに見つめられ無造作に頭を掻く瞬。その時不意に午前中アレフに伝授された“恋の
テクニック”とやら脳裏をよぎった。
(まずはいきなり花束を差し出せ。そして間髪いれずに愛の告白をするんだ。なるべく、
甘いヤツがいいだろう。たとえば…“綺麗な華には刺がある。君もそうなのかな?でも、
だとしても僕はかまわない。君を形作る全てを僕は愛しているんだからね…。”とか。)
正直なところ、瞬はアレフの助言を頼りにする気など全くなかった。が、やはりいざ告
白となるとやはりこういったことに慣れていない瞬は、結局のところ先人に従わざるを
得なかったのである。
(ええ〜い!!もうどうにでもなれ!!!)
「エル!!」
「な、なんだ?大きな声出して!?」
「………。」
エルの質問には答えず、瞬は背中に隠していたバラの花束を目の前に差し出した。そし
て、体中の勇気を振り絞り、考え得るうちで一番甘く、ロマンティックな愛の囁きをし
た…いやするはずであった。が、瞬の口から囁かれた言葉は、
「好きだ、エル。俺の恋人になって欲しい…。」
何の変哲もない、ありふれた愛の言葉であった。
「!!………。」
「………。」
しばしの沈黙。それはあたかも二人の回りだけ時が止まってしまったかのようであった。
そして、先に時の砂時計を逆さまにしたのはエルであった。
「…ああ、いいよ。」
「だよな、やっぱり俺なんかじゃな…。」
「お、おい!いいって言っているだろ!?」
「そう、いいんだ…って、え!?今何て言った!?」
「ば、馬鹿野郎!!…恥ずかしいこと何回も言わせるな!!…だから…。」
そう言うとエルは耳まで真っ赤になり、瞬から瞳を反らした。
「わ、わ、私も…お前の事がす、好きだから、OKだって言ってるんだよ…。」
「…からかってるんじゃ、ないよな?」
「お前なぁ…、じゃあ、これで…どうだ…?」
エルは瞬の手から花束を受け取り、それをベンチに置くとゆっくりと瞬の逞しい肩に手
を回した。柔らかな体の感触、上気した頬の温もり、耳元に感じる吐息、瞬は一瞬何が
起こったのか理解できなかった。そしてややあって、
「…お、おい!?」
「…私が好きでもない男にこんなことするような女かどうか、解ってるだろう?」
「…うん、ありがとう…エル。」
「馬鹿…、お礼を言うのは私のほうだよ…。」
「ふふ、ははは…」
「ふふ…。」
瞬とエルはお互いの瞳の中に自分の姿を認め合い、そしてゆっくりとお互いの唇を求め
あったのであった…。


長い、長い悲しみと不安、そして孤独の果てにやっと手にしたささやかな幸せ。
瞬もエルもこの幸せがいつまでも続くと、そう信じていた。
…しかし、まだ二人は知る由もなかった。
絶望を司る悪魔が声を殺して、二人に襲い掛かる機会を狙っていたことに…。


瞬とエルがお互いの気持ちを重ね合わせてから二日後、エルはトリーシャと共にさくら
通りをぶらぶらと歩いていた。

「ね〜ね〜、エルぅ〜〜。」
可愛らしい、大きなリボンを揺らしながらトリーシャは自分より二歩ほど後ろを歩いて
いたエルに体ごと向き直った。そして口元に怪しげな含み笑いを浮かべると、いたずら
っぽい瞳でエルの顔を見つめた。
「な、何?変な顔して…?」
「瞬さんと付き合ってるって本当?」
「ッ!!ゴホゴホ!!」
突然のその言葉に、エルはついさっき屋台で買ったタイヤキを喉に詰まらせ、激しく咳
込んだ。
「だ、大丈夫!?」
「ゴホ、ゲホ…。い、いきなり何言い出すんだ!!」
涙目になりながらトリーシャに詰め寄るエル。がその声は自分でも分かるくらいひどく
動揺したものだった。
「ふふ、隠さなくてもいいじゃない。あ〜あ、エルってばボクを裏切って“彼氏イナイ
協会”から脱退しちゃうんだ…シクシク…。」
両手を顔に当て、泣きまねをするトリーシャ。エルは軽くため息をつき、前髪をかきあ
げると、
「な、なんだそれ?そんなの入会した覚えはないぞ!。それに、別にお前を裏切ったこ
とにはならないだろうが…。」
「あ、やっぱり本当なんだね☆」
一瞬の沈黙、そして、
「……誘導尋問だ〜!!!」
「あはは、ゴメンね。」
さすがのエルも屈託のないこの笑顔には弱いらしく、軽く苦笑いを浮かべてみせた。
「まったく…おい、誰にも言うなよ…って、もしかしてもう手後れか…?」
「もう!!ボクそんなにおしゃべりじゃないよ〜!!ローラと〜、マリアと〜…。」
「それを手後れって言うんだよ!!」
指折り数えているトリーシャの十八番を奪う“チョップ”を後頭部に叩き込むエル。
が、その声は大きかったが怒っている様子はなく、むしろはにかんだ、微かな愉悦の
響きがあった。
「あ〜、エルってば何か嬉しそう〜。いいな〜、妬けるな〜☆」
「ば、馬鹿言うなよ、まったく…ッ!!」
とその時、突然の激しい動悸がエルを襲った。体が中から弾けるような、何かが自分を
食い破り外に飛び出そうとしているような激しい衝動。視界が歪み、ひどい頭痛が容赦
なく襲いかかってくる。エルは両手で体を抱きしめるようにするとその場に両膝をつい
て、ガタガタと震えはじめた。
「ど、どうしたの!!エル、大丈夫!?」
「ク…ッ!!ア、アアア…。か、体が…熱い…。」
激しい苦痛、燃えるような高熱、それらに襲われながらもエルは不思議と味わったこと
のない一種の快感をも味わっていた。それは全身に力の満ちてくる充足感であり、それ
に伴う万能感であり、言いようもない開放感でもあった。気を少しでもゆるめるとそれ
らに飲み込まれ自分が自分でなくなってしまう、いや何者かにとって変わられてしまう、
薄れゆく意識の中でエルは直感的にそれを感じていた。
「エル!!しっかりして!!!」
が、トリーシャの悲痛な叫びもすでにエルの耳には届かない。かわりに聞えてきたのは
大地を揺るがすような、低く欲望に満ち溢れた邪悪な声であった。
(コロセ…コロセ…スベテヲハカイシロ…。モウダレニモマケナイ…。スベテクライツ
クスノダ…。)
必死に耳を押さえ、激しく頭を振るエル。しかしその声はあたかもエルの心に直接語り
かけるかのように語り続けた。
(ナニヲマヨウ?オマエハワタシトヒトツニナレルノダゾ?モウダレニモマケナイ、
ダレニモバカニサレナイ。ニクムスベテヲハカイシツクセルノダゾ?)
「やめろ!やめろやめろやめろ、やめろーーーーーー!!!!」
「エル!!」
地面にうずくまり、肩で荒く息をするエルに駆け寄りながら、トリーシャは心の片隅で
ある事を思い出していた。それは一ヶ月程前に瞬と共にカッセルから聞いたエルの前世
についての話であった。
(…もしかして、エルの中の邪竜族が覚醒したんじゃ…。)
「エル!!お願い!しっかりして!!」
「ウウ……シ、シュン……。」
「!!瞬さんだね!?すぐ呼んできてあげる!だから頑張って!!」
そう言い残すとトリーシャは何事か、と二人の回りを取り囲んでいた人々に向き直り、
「お願いします!!エルを励ましてあげて!!」
そう叫ぶと返事も待たずに人波をかき分け全速力で駆出したのであった。


バタン!!
ノックもなく、力一杯にドアを押し開き店内に飛び込んできたトリーシャに瞬は軽く溜
め息をついてみせると、
「お前ね…。」
「ハアハア、そんなこと言ってる場合じゃないよ!!」
乱れた呼吸を整えようともせず、トリーシャは力一杯叫んだ。
「ハアハア、エルが……前、カッセルおじいさんが言ってた事が…。」
「!!何だって!?おい、トリーシャ!詳しく話してくれ!!」
「!い、痛い…。離して。」
「あ、す、すまん…。」
思わずトリーシャの両肩を力一杯掴んでしまった瞬は慌てて手を放すとばつが悪そうに
前髪をかきあげた。
「…エルの中の邪竜族が…?」
「うん、さくら通りを一緒に歩いてたら突然苦しみだして、それで瞬さんを呼びに…。」
「わ、わかった。とにかく早くエルのそばに行ってやらないと!!」
そう叫ぶと、瞬はトリーシャの返事も待たずに弾かれたように外へ駆出した。そんな瞬
の背中を見つめながら、トリーシャは無意識のうちに服の端をギュッと握り締めていた。
(…あんなに取り乱した瞬さん、初めてみたな…。もしボクがエルみたいになっちゃっ
たら、同じように取り乱してくれるのかな…。)
そんな事をふと考えてしまったトリーシャは、慌てて頭を振るとその想いを払拭した。
そして一度だけ、胸の辺りをギュッと強く掴むと、全速力で瞬の背中を追ったのであっ
た。


(…エル。…。)
爪が充血するほどに拳を強く握り締め、祈るような思いで走り続ける瞬。
…しかしその祈りは悪魔の薄ら笑いと共には無残ににも打ち砕かれたのであった。
さくら通りにたどり着いた瞬は、不意に立ち止まり、そして絶句した。
「な…なんだ?これは…。」
瞬の視界に最初に飛び込んできたもの、それはあたかも台風が直撃したかのような辺り
の惨状であった。夜の街を優しく彩るガス塔は不自然に捻じ曲がり、四季の移ろいを人
々に知らせる街路樹達は無残にもなぎ倒されていた。およそ人の力でおこった被害とは
思えないその状況に瞬は自分の頬を冷や汗が流れるのをいやにはっきりと感じていた。
「こ、これが邪竜族の力、なのか…?」
「…瞬さん!わ!?な、何これ…?」
「トリーシャ…。」
「…もしかしてエル…が?」
「考えたくないが…多分エルの中の邪竜が…!!!危ない!!。」
叫ぶや否や瞬はトリーシャを思いきり突き飛ばし、自らも身を翻した。
ドゴオオオオオオン!!!!!
その半瞬後、すさまじい轟音と共に二人の立っていた大地に巨大な氷の槍が突き刺さっ
た。いや、槍と形容するのはいささか不正確であったかも知れない。なぜならそれは全
長3〜4m、幅に到っては1mを超しており槍と言うより柱に近い物であったのである。
「…ア、アイシクルスピア、なのか…?」
「ウソ…。こんなに巨大なの、見た事無いよ!?」
「確かに…ケタが違う…。!!」
その時、瞬は背中に恐ろしい程強大で、ドス黒い殺意を感じ、慌てて後ろを振り向いた。
エルであった。が、それは瞬がよく知っている、本当は素直で優しいエルではなかった。
殺意に満ちた冷たい瞳、だなしなく半開きになった唇、そして額にくっきりと浮かびあ
がった黒い斑点…。
「エ、エル…?」
「…シネ。」
無感情な言葉と共に激しいうねりをあげてエルの回し蹴りが瞬を襲った。
「ク!!」
反射的に左手でトリーシャを突き飛ばし、同時に右手でそれをガードする瞬。しかし…、
ゴキィ!!!
鈍い、骨の折れる音と同時に瞬は吹き飛ばされ、民家の壁に叩き付けられた。一瞬息が
つまり、気が遠のきそうになる。
「グオオオオオオ!!!」
「瞬さん!!危ない!!」
「何!?ク!」
トリーシャの悲痛な叫びに薄れ行く意識を取り戻した瞬は直撃するすんでのところでエ
ルの大二撃から身をかわした。が、壁に叩き付けられた時痛めたのであろうか、体の動
きに脚がついていかず瞬はその場に片膝をついてしまった。
(しまった!!)
慌てて立ち上がろうと上体を起こし、上を見上げる瞬。その視界に飛び込んできたのは
魂が凍りつくようなエルの薄ら笑いと天高く振り上げられた拳であった。そして、エル
は無表情で瞬を一瞥すると、その拳を振り下ろした。咄嗟に左手で頭をかばう瞬。だが
そんなことが無意味でることは瞬本人が一番よく分かっていた。今の、邪竜の力に目覚
てしまったエルの力の前では焼け石に水であることを。恐らく左手ごと頭を潰されるか
頚骨を砕かれるか…いずれにしても即死であろうことを。そんな、目の前に鎮座する死
の片鱗を見つめながらも、瞬は不思議と恐れを感じてはいなかった。代わりに彼の心を
満たしていたもの、それは自分の無力さを呪う自己嫌悪に他ならなかった。
(…結局、俺はエルを救ってやれないのか…?なんで、なんでエルがこんな目に合わな
くちゃいけないんだ!?畜生!!何もできないのかよ!!!)
交錯する様々な想い。
だが瞬の口から零れ落ちた言葉はただの一言だった。
「エル…。」
「!?…ウウ、ナ、ナニヲスル…?」
まるで瞬の言葉に反応するかのように、エルでない者がエルの声でそう吐き出した。
そしてそれと同時に振り下ろされた拳が、瞬に直撃する寸前で軌道を変え地面を砕いた。
「!?エ、エル?」
「うウ…し、シゅん…。」
今の衝撃で砕けて血まみれになってもなお瞬を狙おうとする右腕を、左腕で必死に押さ
えつけながら、エルは苦悶の表情で最愛の人の名を呟いた。
「エル!!大丈夫か!?」
「ば、馬鹿野郎…。じ、自分の、心配を…しろ…。」
歯を食いしばり、必死に言葉を吐き出すエル。大粒の汗を顔中に浮かべ、吐き出す息も
限りなく荒くなっていた。
「エル、今助けてやるからな…。」
言っていて、自分で滑稽だと瞬は思った。
一体今自分に何ができる?
苦しんでいるエルにしてやれることと言えばただ名を呼ぶくらいしかない。
助ける?どうやって?俺に何ができる?エルの苦しみを拭ってやれるのか?
そんな疑問が浮かんでは消えて行く。だが、それでも瞬は諦める訳にはいかなかった。
エルは、自分にとって自分自身よりも大切な人なのだから。そしてまぎれもなく、それ
を愛と呼ぶのだから…。
「エル…。」
呟き、エルの頬に手を伸ばす。だが、
「!だめだ!!近寄らないで!!!」
悲痛な叫び声と共にエルは慌てて飛びのいた。
「だめなんだよ…。それ以上…寄らないで…。私に…あなたを殺させないで…。」
衝撃的で、そして、絶望的な言葉だった。
耳を塞いで否定したくても、鼓膜を突き破り脳髄に刻み込まれてしまう、言葉…。
それは自分の中の邪竜族の血を押さえつけるだけで、いや、もうそれすらもかなわない
というドス黒い絶望の証左に他ならなかった。
「そんな…そんなこと、言うなよ…。なんでだよ…なんでなんだよ…。」
体が震え、声が震え、もはや自分で何を言っているのか、そして何を言うべきなのか、
それすらも瞬には解らなかった。ただ無力にも目の前で苦しむ恋人の小さくなっていく
命の灯火を見守るしかなかった。
と、その時苦悶に満ちていたエルの顔に一瞬だけ淋しげな笑みが浮かんだ。
それは申し訳ないような、別れを惜しむような、そんな哀しい笑みだった。
「…エ、エル…?」
「…やっぱり…私には……無理だったのかな…。」
「な、何を言ってるんだよ…?」
声が震えている。
本当は解っていた。
エルが言いたいこと。
二人を分かつ、絶望のこと。
だが、それを認めてしまうことを理性が完全に拒否していた。
「お前とさ……ガラにもなく…腕を組んで街を歩いて…。」
「………。」
「そして…多分にあわないけど……綺麗なドレスを…ねだったりして…。」
切れ長の瞳から、一すじの雫が頬を伝わる。
最愛の人の心に少しでも傷痕が残らないように、必死に微笑みを浮かべる。
だが、それがかえって健気で痛々しく、瞬の心を深く突き刺した。
「…海の見える家に、住んで…。紅茶を飲みながらチェスをして…。二人で夢中に
なって…子供がお腹すいたって泣いて…。」
「………ッ。」
視界が滲む。
「そうやって……ずっとお前と……幸せに……クッ!!あああアアア…。」
右腕が、それを押さえつける左腕が、そして体中が激しく震え出す。まるで、押さえつ
けられていたマグマがまさに噴出する寸前の活火山の鼓動のように、エルの体は激しく
震えていた。
「エル……。」
「…も、もう限界みたいだ……。瞬…。」
再び苦悶の鳴咽が漏れ、エルの体の震えがより激しくなる。
「や、やめろ!!やめろぉ!!!」
「さ、さようなら……。い、今まで、ありがとう…な…。」
「やめろ!!やめろ!やめろ!やめろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!」
だが、その叫びが報われることは、なかった……。
ドス……。
振り上げられた左腕が、正確に、エルの胸に突き刺さった…。
一瞬の間。
そして…。
まるで糸の切れたマリオネットのように、エルの細い体は朱に染まる大地へと崩れ落ち
たのだった……。



「……ちゃん。おじいちゃん、だいじょうぶ?」
「…ん……。」
少女の声に老人は悪夢から目を覚ました。
意識が戻ると共に潮の香りと波の音が感覚の中に流れ込んでくる。
老人はもたれていた大木から背を離すと、すぐ目の前で心配そうな瞳で自分を見詰めて
いる少女の頭を軽く撫でてやった。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう…。」
「ねえ、おじいちゃん。」
「なんだい?」
「なんでまいにちここにきてるの?おじいちゃんもここがすきなの?」
少女の真っ直ぐな視線を受けながら、老人は少しだけ遠い目をして口を開いた。
「恋人に会いに来ているんだよ…。」
「こいびと?」
「ああ、ごめん。好きな人に逢いに来てるんだよ…。」
「え?でもおじいちゃんしかいないよ??」
「そこに、いるよ…。」
老人はそう呟いて岬にポツンと立てられた墓標の影を指差した。
そこには一輪の花が、淋しそうに、憂いを抱いて咲いていた。
八枚ある花びらのうち、七枚は深遠なエメラルドの色。
そして残りの一枚は眩く輝く黄金の色。
「あのおはな?」
「そう…。ほら、あの花はこの岬にたった一輪しか咲いてないだろう?」
「うん。」
「だから、おじいちゃんは毎日逢いにきてるんだよ。きっと淋しがってるから…。」
「そうなんだ…。おなまえはなんていうの?」
「エル、ていうんだよ。綺麗な名前だろう?」
「うん。じゃあ、わたしもまいにちエルにあいにきてあげるね。」
「ああ、きっとエルも喜ぶよ…。」
呟いて老人は再び大木に背を預け、ゆっくりとその瞳を閉じた…。



ポロロン……。
リュートの音色が淋しげに響き渡る。
「それからしばらくして、その老人も亡くなってしまった。その魂と体は恋人と共に
同じ岬に葬られた…。それは全てを純白に染めてしまう雪の季節…。そしてそれから
毎年冬に一輪だけ、その岬には蒼い花が咲くようになった…。」
「………。」
「だけど“エル”が咲くのは夏の間だけ…。強く想っても、涙を流しても、二人は同じ
時を過ごすことも、出逢うことすらもできない…。」
「……。」
「…そして今でも、二人は待っている…。いつか出逢える日を夢見て。許されない、禁
断の…“Forbidden Lover”を、待ち続けている…。」
ポロン……。
アルペジオが終わり、哀しい恋の詩は結末を迎えた。
それは、あまりにも悲痛で儚い恋の詩……。
「………。」
「………。」
しばらくの沈黙。
少女はゆっくりと瞳を開くと、軽く息を整え青年に向き直った。
「…ふう、どうだった?何か参考に……ち、ちょっと…。」
「…え?」
「…あんた、泣いてるの?」
「だ、だって哀しいお話じゃないか……。お互いが想い合っているのに……うう…。」
青年は絞りだすようにそう呟くと、服の袖でゴシゴシと涙を拭った。そんな青年の仕草
に少女はまるで母親のような温かい笑みを浮かべる。
「あんた、優しいんだね…。それに、純粋なんだ…。」
「そんなこと、ないよ…。……あのさ…。」
「なに?」
「二人は、今でも出会えないままなのかな…?」
その問いに少女は茜色に染まりかけた夕暮れ空を仰ぎ見て、呟くように答える。
「…そんなこと、ないと思うよ。神様だって意地悪ばかりしないよ、きっと…。多分、
私があんたに出逢ったみたいにこの世界のどこかで巡り逢っているわ。」
「そう、だよね…。」
「うん……。」
それきり、二人は押し黙った。
青年はもう涙は流していなかったが、悲しみと、そしてほんの少しの希望を抱いた瞳で
沈み行く太陽を見つめ、少女はその横顔をただ見詰めていた。
そしてどれくらい時が流れたであろうか。
漆黒に染まってしまった夜空に満天の月と無数の星が瞬く頃、青年は静かに立ちあがり
少女へ向き直った。
「今日はありがとう。」
「どういたしまして。…ねえ、あんたいつまでここに滞在するの?」
「多分、明日の午後一番の魔道列車で神聖都市まで…。」
「そう…。じゃあ…。」
呟いて少女はその細く華奢な手を青年へと伸ばした。
「え?な、何?…あ、お金?」
「ば、馬鹿!…わ、私も連れてってよ…。」
「え?」
「私、なんかあんたのこと気に入っちゃった…。いいでしょ?」
少女は頬を真っ赤に染めながら、それでも真っ直ぐに真剣な眼差しで青年を見つめる。
「え、え〜と…。」
「お願い…。」
「……。あ〜、そ、その…、コホン。」
わざとらしく咳払いをし、青年はゆっくりと少女の細く華奢な手に自分のそれを重ねた。
「……売れない小説家志望の僕でいいなら…。」
「ふふ、これからも、よろしくね。」
「う、うん。」
月明かりに照らされる二人。
やがて寄り添い、宵闇に煙る街へと消えて行く…。


−名もなき岬にて−


「おかあさん。」
小さな女の子が母親を呼ぶ。
「なあに?」
「みて、おはな。エルがことしもさいてるよ。」
「本当、綺麗ね。あら…?隣にもう一輪咲いてるわね。」
「ほんとうだ。あおいおはなだぁ。」
女の子のその言葉に答えるかのように、花が風に揺れる。
肩を並べて、まるで、恋人同士のように寄り添いながら…。

「Forbidden Lover」
この詩に後日談が付け加えられる日も、そう遠くないのかもしれない。




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