中央改札 悠久鉄道 交響曲

「裸足の女神 前編」 式部瞬  (MAIL)
鬱蒼と茂った木々達は、あたかも無限に広がる空を侵食するかのようにその四肢を伸ば
し、蒼く冷めた月の光の進入を頑なに拒みつづける。日中の力強い日差しであれば、そ
れらの防壁など簡単に突き破り森の中の獣道を照らし出すこともた易いであろうが、
弱々しい月光にそれを期待するのは少々酷のようで、道は一寸先も見渡せないほどの、
絶対の闇に支配されていた。
そんな、森の精霊や森を寝床とする獣達をも恐れさせ、その進入を許さない闇の中を、
一人の青年が一心不乱に駆けていた。腰まで届くであろう美しく長い金髪も今は見る影
もないほどに乱れ、白皙の肌にも玉のような大粒の汗を浮かべている。
「おのれ…おのれ!!愚民共がぁ!!!」
走りながら、幾度となく口にした呪その言葉を吐き出した。
「何故私を認めない!死にぞこないのじじいどもが!!」
叫び、青年は不意に足を止め、空を見上げた。木々の合間を縫って降り注ぐ月の微光が
力なくその顔を照らし出す。白皙秀麗、一見すれば青年は名のある貴族のような気品に
満ちた顔立ちをしている。しかし、それらを遥かに凌駕する、「醜さ」が青年にはあっ
た。口元には肉食獣めいた下品な笑みを浮かべ、そしてアクアマリンのように澄んだ水
色の瞳には「狂気」という染色がなされていた。
「エンフィールド……秘法……くくく、神だ!私は神となるのだ!!」
男性にしては高い、澄んだ声に熱が孕(はら)み、その表情には恍惚とした笑みが浮かぶ。
「今は、優秀なれど…人だ…。愚かで、脆弱で、群れなければ何もできない人に甘んじている。
だが!!」
独語し、手に握られている凶凶しい杖に目を落とす。
「これと…エンフィールドに眠る秘宝で…ククク…ハハハハ…ハーハハハハハハッ!!!」
悦と狂気に半々に彩られた高笑いが、闇に吸い込まれるかのように響き渡り、消えていく。
そして、青年は再び駆出した。狂気に濁る瞳を、まだ見ぬエンフィールドへと向けながら…。

青年が消え去り、再び静寂が辺りを支配し始める。その刹那、漆黒の闇の一部が水面のように
波打ち、歪んだ。形を歪め、拡散し、収縮し、やがてそれはヒトの形を形成した。
「ククク…」
現われたのは銀髪の青年であった。両の瞳を隠すように、顔には不気味な眼帯を、腰には曲
刀を下げている。
「憐れだな。あんなオモチャを手にいれただけで神になったつもりでいる。クク…」
前髪をかきあげ、サディスティックな笑みを浮かべ青年は続けた。
「さあて、どうする、瞬。いつぞやほざいていた“想いの力”とやらでこの災厄を払いのけて
みせるか?もっとも、ククク…そんなものが、あれば、の話だがな。ヒャハハハハハハハハ!!」
漆黒の底に、笑い声が響く。そしてそれが闇に飲み込まれ消滅した時、青年の姿も霧のように
消えて無くなっていた……。


週末の公園、抜けるように澄み切った清廉な青空、降り注ぐ日差しも穏やかとくれば、人が
集まるのも無理はないよな…。
瞬は公園内を行き交う楽しそうな親子連れや、寄り添う恋人達をボンヤリと眺めながら軽く
前髪をかきあげた。そしてふと、他人から見れば自分達もきっとそう見えているであろうこと
を思い出し、苦笑した。
「どうしたの?何か面白いものでもあるの?」
「ん…いや、それよりもそろそろ休もうぜ、マリア。」
自分の腕に、他人の目も気にせずに腕をからめているマリアに優しく微笑む瞬。が、それとは
反対にマリアは少しだけ不満げに顔をしかめた。
「え〜、だってせっかくのデートだもん。もっと遊ぼうよ〜。」
デート、などという言葉で具体的に表現されると妙にこそばゆいものである。それでなくても
今日はずっと腕を組んで歩いていたし、たまに肘の辺りに妙に柔らかな感触があったりと、健
全で少し純情なこの青年は朝からドキドキの連発だったのだから、少しくらいゆっくりしたい
と思うのも無理はないのかもしれない。
「でもホラ、この人混みだろ?ベンチでゆっくりするほうがいいんじゃないか?」
「ん〜……まあ、そうかも…。あ!」
不意にマリアが声を上げた。長い付き合いだ、瞬はこの声の意味するところを瞬時に理解した。
マリアが瞳をキラキラさせて瞬を見上げるのと、瞬がサイフから硬貨を取り出したのはほとん
ど同時であった。
「や〜ん、だから瞬って大好き〜☆」
「ははは、大好きなのはアイスクリームだろ、まったく。」
苦笑いと照れ笑いの中間のような複雑な笑みを浮かべて、マリアに硬貨を手渡す瞬。
「何がいい?」
「まかせる。」
「え!?新発売の納豆キムチでいいんだ?」
「…バニラでいい。」
「あはは、じゃあ買ってくるね!」
本当に嬉しそうに微笑んで、マリアはアイスの屋台へと駆けていった。そんなマリアを優しい
瞳で見つめていた瞬は、今しがた空いたばかりのベンチに腰を下ろし、ゆっくりと足をくんだ。
(…運命ってヤツは、本当に不思議なもんだよな…。)
マリアの女の子らしい、小さな背中を見守りながら、瞬はふとそんな事を考えていた。
確かに、考えてみれば不思議なものである。まったく知らない、赤の他人同士だった二人が、
ほんの些細な出来事で出逢い、惹かれあい、そしていつのまにかお互いがお互いをかけがえの
ない存在として必要とし始めるのだから。と、そこまで考えて瞬はふと自分が誰よりも愛しい
と想っている少女との初めての出逢いを思い出していた。

二人の出逢いは包み込むような春の光が優しい、そんな休日の午後のことだった。
考え事をしながら歩いていた瞬と、慌てて走っていたマリアは、この公園の中央に位置してい
る通称“Happy Lovers”と呼ばれる噴水の前で見事に正面衝突してしまったのだ。
今思えばこれが紛れもなく二人の始まりであったのだが、この事を思い出すと瞬は今でも苦笑
いを浮かべてしまう。なぜなら尻餅をついてしまい、涙目で非難の声を上げているマリアに、
この馬鹿正直な青年は思わず“…白”と呟いてしまったのだから。
「まったく、おかしな出逢いかたをしたもんだ。」
静かに独語し、前髪をかきあげる。瞬自身は、これはこれでなかなか運命的な出逢いだな、と
思うのだが、マリアに言わせれば「最っっっっっっ低の出逢い!!!」らしい。まあ、夢見る
多感なお姫様の前にやっと現われた白馬の王子様の第一声が「白」ではいささか憐れといえば
憐れではあるが。何はともわれ、これが二人の出逢いであったことに間違いはない。
最初はお互いに相手のことをそれほど意識してはいなかった。マリアは自分の趣味ゆえに、
「魔法が得意な人じゃないとヤダ!」と言ってはばからなかったし、瞬は瞬でその時は人を好
きになる余裕などなかったし、そもそもそういう方面には疎い性格だった。
「単なる知り合い」、二人の関係を説明するのにこれ以上適切な言葉はなかった程である。
だが、時の流れは不思議なもので、いつのまにか「単なる知り合い」は「友達」となり、「友
達」は「仲間」となり、「仲間」は「恋」に変わり、やがて「愛」へと育まれていった。
何も知らなかったマリアのことを、今では誰よりも知っている…瞬は胸を張ってそういえる。
気の強い眼差しの奥に隠された、女の子らしい暖かで、慈愛にみちた瞳を。
負けず嫌いで意地っ張りな性格の裏に隠された、ピュアで優しい心を。
幼さの残る小さな唇に隠された、心の隙間を満たしてくれる温もりと柔らかさを…。
そして、それは瞬が心からマリアのことを大切に思い、必要に思い、愛していることの証拠
に他ならなかった。と、その時瞬は無意識のうちに自分が微笑んでいることに気がつき、慌て
て咳払いをして辺りをみやった。幸い道行く人々はそれぞれがそれぞれの休日を楽しむことに
夢中らしく、瞬のことを見ている人は誰もいなかった。ホッと胸をなで下ろす瞬。と、その時
不意に誰かが自分の隣に腰を下ろした。それは陽光を浴びてサラサラと風になびく赤い髪と、
眠そうなタレ目がちの二重瞼が印象的な少女であった。
「あ、すいませんけど連れがいるので……!!貴様…。」
そこまで言って瞬は言葉を飲み込み、少女を射すくめるような視線で睨み付けた。いくら姿
形を変えようとも、瞬には嫌でもわかってしまう。背筋に冷たいものが触れるような、心臓
を鷲づかみにされるような、悪意と殺気…。忘れようにも、決して忘れることなどできない。
「シャドウ…。」
はき捨てるようなその言葉に、少女は美しい唇の端を不気味に歪め、焦点の合わない瞳を虚空
に泳がせた。
「ククク…」
「…昼間からほっつき歩いているとは、名前に似つかわしくないな。」
「ヒャハハ…これは手厳しい。だけど、光があるからこそ、影(シャドウ)は存在するんだぜ。」
「…何のつもりだ…?決着でも付けにきたのか?」
「ククク…。」
小馬鹿にしたような薄ら笑い。しかしそれは限りなく冷たく、戦慄さえも覚える笑みであった。
「………。」
「確か今、自警団の無能な連中は雷鳴山のモンスター討伐に駆り出されていたな。」
「…それが、どうした?それに乗じてまた何かやらかすつもりか?」
「いや、ククク…別にこんな街に興味なんてねえよ、俺はな。クククク…。」
意味深なセリフと共に再びシャドウは薄ら笑いを浮かべる。
「どういう意味だ?」
「このままだと、この街の連中は一人残らず殺されるぜ。」
「!!何だと!?おい、どういうことだ!!」
「クク、言葉通りさ。」
そう呟き、シャドウは一枚のフォートを瞬に投げつけた。そこに写っていたのは一人の青年
であった。長い金髪に白皙秀麗な美青年、だが、その美しい顔の裏には狂気が見え隠れして
いる。
「…なんだ、こいつは?」
「クレヴァル=ギルドア、東方の軍事国家グリム=ノヴァの元老院の一人…になるはずだった
男だ。今、この男はここエンフィールドへ向かっている。」
「何故だ?」
「フン、この街の地下に眠る古代遺跡に旧世界の秘法があるんだとさ。それを使って神とやら
になるらしい。クク…憐れなもんだ…。」
「………。」
「明日の午後にはレテ川の辺にたどり着く。」
そう言ってシャドウは濁った瞳で瞬を一瞥した。言葉はなかったがその表情は「止められる
ものなら、止めてみせろ」と嘲笑していた。
「貴様の差し金か!!」
「クク、誤解してもらっては困る。俺は親切にもこの街の危機を教えてやってんだぜ?」
「……何故、俺にそんなことを教える?」
「簡単なことだ。」
呟き、視線をマリアの背中へと移す。
「もし、あの憐れな狂人なお前の大好きなお嬢ちゃんを傷つけたりでもしたら、あまつさえ
殺すようなことがあっては俺が困る。」
「…どういう意味だ?」
「お前はクレヴァルを死ぬほど憎むだろう?死ぬほど怨むだろう?それじゃあ困るんだよ。
俺が俺としてお前を殺せる時まで、お前の負の感情は俺一人にそそいでもらわないとな。」
「…訳の分からないことを……だったら守ってみせるさ。この街も、マリアも。」
「ヒャハハハ、甘くみないほうがいいぜ?こいつはサモナー(召喚士)だ。街に入れちまった
らゲームオーバーだ。自警団もいない今、この街は壊滅、皆殺しだ。」
「………。」
確かにシャドウの言う通りだった。自警団がいない今、物量で攻められては防ぎようがない。
自分一人の力で全ての人の命を、そしてマリアを守ってやることは……正直難しいといわざる
をえないだろう。
「ククク…ま、せいぜい死なないように頑張ってくれよ。」
沈黙する瞬にシャドウは呟き、不気味な笑みを残したまま立ち上がり、雑踏の中へと消えて
いった。その背中を険しい眼光で睨み付ける瞬。と、その時、
「…………。」
背後に刺すような視線を感じた。振り向いて、瞬は自分の予想の正しさを思い知らされるこ
ととなった。立っていたのは、マリアだった。両手にアイスを持っての仁王立ち、瞳には明ら
かに嫉妬の炎が揺らめいている。
ドカ!
大きな音をたてて瞬の隣に腰を下ろすマリア。そして不機嫌な顔でアイスを一つ瞬に突き出す。
「キレイな人だね!何!?ナンパでもしてたの?」
「…………。」
「アイス、早く取ってよ!手が疲れるでしょ!!」
が、瞬はマリアの非難の言葉も、突き出されたバニラのアイスも、まったく気にせず、無意識
のうちにマリアの肩に手を伸ばし、少し強引に自分の側に引き寄せた。そして間近に迫ったつ
ぶらな二つの瞳の中に自分の顔を認める。
「な、なに…?」
「ん…ああ、マリア。」
「何よ…?」
「かわいいな、お前…。」
「な、な、何よイキナリ!?」
瞬の突然の言葉にマリアは一瞬にして頬を赤く染め、つい、と瞳をそらしてアイスを食べるこ
とに専念するふりをした。そんな些細な仕草の全てが、瞬にとっては愛しかった。
(守りたい、この娘を…。絶対に、どんなことからも、守ってあげたい…、たとえ…)
肩に回した手に、少しだけ力がこもる。
(俺が、どうなろうとも、この娘だけは…守ってみせる。)
「マリア。」
「な、何よ…。」
「アクセサリーを買いに行こう。」
「え??な、何で??イキナリどうしたの?」
「何だっていいじゃないか、何となく、お前にプレゼントしたいんだよ…。嫌か?」
「そ、そんなこと……あるワケないじゃないの…。でも、いいの?」
「ああ、目が飛び出るほど高くなければね。」
「うん!あはは、あのね実は新しいアクセサリーが欲しいと思ってたんだ〜。」
「そりゃ好都合だな、ははは。」
二人は立ち上がり、今度は瞬のほうからマリアの腕に自分のそれを絡めた。寄り添い歩き、二
人は公園を後にしたのであった。


「んん〜これもいいけど、これも可愛いし…。」
「マリア〜これなんかどうだ?」
「あ!それもキレイ…って、あ〜ん、こんなにあったら決まらないよ〜!!」
かれこれ一時間近く、この調子である。無理もない、幸か不幸か、今日はたまたま大陸から
珍しい装飾品や宝石などが大量に持ち込まれたということらしく、ここ夜鳴鳥では突発的に
装飾品のバーゲンを開催していたのであるから。選択肢は多ければいいというものではない、
ということなのだろうか。
「う〜んう〜ん…。」
漆黒の夜空を思わせるように、黒く染められたシルクの上に置かれたイヤリングとネックレス
を何度も目で行ききし、「よし!」と言っては「やっぱりさっきの指輪が…」と、店内を行っ
りきたりと忙しいマリア。せっかく瞬が買ってくれるのだから、できるだけ記念に残るような
物が欲しい、とは言ってもあまり高い物を買ってもらう訳にはいかない…中々に難しい注文と
言える。
「値段なんか見なくていいぞ。気に入ったのにしろよ。」
真剣に悩んでいるマリアに瞬は苦笑いと共にそう呟き、自分でもショーウィンドウへと視線を
落とした。と、ふとよく見慣れた輝きが瞬の目に入った。
「…キレイな指輪だ。」
瞬が見つけた指輪は金色のリングの上に、少し小さめのエメラルドのような宝石が装飾された
ものであった。しかしそれはエメラルドよりやや明るい感じがし、見る角度によってはオリー
ブのような黄色と褐色を合わせたような輝きを放ち、また光のあたり具合によってはライトグ
リーンへとその輝きを変える、なんとも不思議な宝石だった。
「…なんか、マリアの瞳に似ているな…。色といい、コロコロ変わるところといい、はは。」
「お、瞬君、それに目が止まったのかい?」
その指輪に目を奪われていた瞬に、恰幅のいい店主が自慢げに話しかけてた。
「キレイな宝石ですね。」
「そうだろう、これは私が直接この目で見て買い付けた自慢の逸品なんだよ。」
「何ていう宝石なんですか?今まで見たことないんですけど。」
「ああ、“ペリドット”と言ってな、その美しさゆえに昔は人の持つ“知恵”と比較される
ほどの価値が認められていたんだとさ。あと、確か八月の誕生石だったなぁ。」
「八月の…。」
店主の言葉を反芻する瞬。八月といえば、そう…
(マリアの誕生石ってことか……これなんか、プレゼントにピッタリだな。)
そう考え、今だに難しい顔でショーウィンドウを覗きこんでいるマリアの背中に声をかける。
「お〜いマリア、ちょっといいか。」
「何〜?」
「これなんかどうだ?」
駆け寄って来たマリアに瞬はペリドットの指輪を指さしてみせた。これならきっと気に入って
くれる、瞬は確信にも近い自信を持っていた。が、
「ヤダ。」
即答である。何となく肩透かしを食らったような感じの瞬は軽く前髪をかきあげてみせ、
「気に入らない?キレイだし、これお前の誕生石なんだってさ。きっとお前を守ってくれると
思うんだけど。」
瞬のその言葉にマリアは少しバツの悪そうな顔で、消えそうな声で静かに呟いた。
「うん…キレイだし……気に入らないなんてことは、ないよ。けど…。」
「けど?」
「……少し、高いよ…。瞬、無理しないでいいよ?」
健気で、少し諭すような、まるで母親のように慈愛に満ちた瞳で瞬を見上げるマリア。そんな
仕草に瞬は胸の奥が不思議と暖かくなるような気がし、無意識のうちにマリアの頭を優しく
撫でていた。
(変わったよな、お前は…。)
優しい笑みと眼差しを向けながら、瞬は心の中で呟いた。昔は確かに違った。少なくともただの「友達」でしかなかった頃のマリアであればきっと喜んでこれを選んだであろう。それは自
分勝手とか、人のお金だからとか、そういう事ではなく、言わばそれがマリアのマリアたる所
以というか、性格だったからである。しかし今は違う。瞬のことを思い、自分が気に入っても
高いから遠慮をした。行為ではなく、“思ってくれる、気にしてくれる”、その心がなにより
も嬉しかった。
「ありがとう、マリア。でも、俺はこれをお前に贈りたいんだ。」
「うん、だけど…。」
「ふふ、いいんだよ、これくらい。余裕で許容範囲さ。親父さん、これを下さい。」
「あ、あ、ダメ!やっぱり高いよぉ。」
慌てて瞬と店主の間に割ってはいるマリア。そんな剣幕に店主は少し困ったような顔を瞬に
むけ、
「どうするね?」
と軽く微笑んでみせた。
「それを贈りたいんです。」
「ダメ!ダメだってば!!一ヶ月くらいお昼ご飯食べられなくなっちゃうよ?」
「別にそれくらいなんでもないって。」
「ダメダメダメ!」
あくまで譲らない二人。こんな頑固とこは結構似ているのかも知れない。と、そんな二人の
会話に割ってはいるかのように、店主はその大きく、暖かな手の平でマリアの頭をわしわし
と掴んでみせ、軽くおどけてみせた。
「ちょ、何すんのよ!」
「その位にしときな、お嬢ちゃん。男が女に指輪を贈りたいって言ってるだぜ?ここで断った
ら男の立つ瀬がないってもんだ、なあ?」
そう言って今度は瞬に微笑む。つられて瞬も軽く微笑み返す。
「ま、そういうこった。ここは一つ彼氏の心意気をくんでやんなよ、な?」
「………。」
無言で瞬を見上げるマリア。困ったようなその顔に、瞬は優しく微笑みかける。やがて、マリ
アはゆっくりとその小さな唇を動かし始めた。
「…じゃあ、マリアもこれが欲しい。瞬、プレゼント、してくれる?」
「ふふ、よろこんで。じゃあ親父さん、お願いします。」
「あいよ、毎度あり〜。最高におしゃれにラッピングしてやるぞ。」
意気揚々とカウンターに戻る店主の声を聞きながら、瞬とマリアはお互いに少しだけ頬をサク
ラ色に染め、口元を綻ばせて横目で見詰め合ったのであった。


夜鳴鳥を出た時、すでに太陽は一日の仕事を終え西の彼方へと消えようとしていた。
焼けるような赤から橙色へ、そして青白い夜の色へと、大空のキャンパスには見事なグラデ
―ションが描き出されている。自然が生み出した雄大な抽象画にしばし目も心も奪われて、
立ち尽くす二人。と、不意に瞬はマリアの細く、小さな手を優しく握った。
「!!」
「……。」
「……。」
一瞬肩をビクッと小さく震わせたマリアだが、すぐにはにかんだ笑顔で瞬を見上げ、そして
瞬の指に自分のそれを絡めた。
「そろそろ帰ろうか、送るよ…。」
「うん…。」
どちらからともなく、二人は歩きだした。少しでも長く一緒にいるために、いつもよりずっと
遅く…。
「ねえ、瞬。」
「ん?何?」
「あ、あの…何て言うか…今日の瞬っていつもとちょっと違うね。」
「…そうか?」
「うん、なんか、いつもより優しいっていうか、包容力があるっていうか…。あ、あはは。」
呟いた後で照れたようにマリアは微笑み、胸に抱いた小箱に目を落とした。そんなマリアに、
瞬も口元を綻ばせ、照れくさそうに前髪をかきあげた。

ずっとここまま二人でどこまでも歩いていければ……そう考えたことも二度や三度ではない。
しかし、楽しい時も苦しい時も、時という物は平等に流れるもので、二人の時もやがて終わり
を告げる…。

「ここでいいよ、今日は本当にありがとう、瞬。」
「ああ…。」
「じゃあ、また明日、だね…。」
「……。」
「…どうかしたの……あ…。」
マリアの言葉を遮るように、瞬はその華奢な体を強く抱き寄せ、そして、
「ん……。」
「……。」
マリアの小さな、微かに震えている唇に自分のそれを重ねた。
短い、唇を押し付けるだけの、子供っぽい、口付けだった。
「ん……ねえ、どうしたの、いきなり…?」
「…………。」
「…瞬?」
「…ごめん…嫌だった…?」
「ううん、そんなこと、ないよ…。でも、ちょっとドキドキしたかな。」
「はは、実は俺も少し…。」
「ふふ、あはは、ヤダ、何それ〜?」
コツ、と軽く額を触れさせ、二人ははにかみながら微笑みあった。
「じゃあ…。」
「うん…。」
「さようなら。」
「え…?」
別れの言葉を残し、瞬はマリアから離れた。そしてもう一度だけ微笑みかけ、そして夕闇の
向こうへと消えていった。その姿を見送りながらも、マリアは瞬の最後の言葉がやけに頭の
中を巡っていることに気がつき、何故か胸の奥に微かな痛みを感じた。
(さようなら…いつもは“またね”だよね…。…ううん、考えすぎだよ、瞬はずっとマリアの
側にいてくれるもん…。)
「また明日…ね?瞬…。」
呟いたその言葉は夜の闇に侵食され、瞬の耳に届くことはなかった…。


翌日の早朝、エンフィールドはこの季節には珍しい、深い霧に覆われていた。
朝もやに煙るさくら通りを、一人の青年が歩いていた。
腰には曲刀を下げ、そして利き腕の手首には愛する少女からプレゼントされた緑色のバンダナ
を結わえている。
「………。」
大きな御屋敷の前に行きついた青年はそこにいるであろう、愛する小さなお姫様に、片膝をつ
き、そして静かに呟いた。
「行ってまいります…俺の大切な、守るべき人、マリア=ショート…。」
そして立ち上がり、青年は門へと向けて歩き出した。
その胸に決意と、愛しい人の微笑みを刻み付けながら…。




中央改札 悠久鉄道 交響曲