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湿気を含んだ風は、例え晴れていても今が梅雨の時期だと言うことを強く思わせた。 洗った後きちんと乾かしたはずの髪が身体にまとわりついてくる様な気がして鬱陶しい。ぱさり、と肩越しに後方へ追いやる。 その拍子に上を見上げると何日かぶりの星空。 その中をゆっくりと移動する赤い点滅。 美花はわずかに眉根を寄せた。 遠くからはばたばたと物音。笑い声。 それを聞いて、眼を伏せ、軽く息を付く。 美花は寮に背を向けると中庭に歩く向きを変えた。 据え付けられた明るくはない照明が、ぼんやりと植えられた木々を浮かび上がらせている。 蒼い闇が所々に溜まっていて、まるで海の底のようだ。 美花はその感じが好きで、日課のようになってしまった眠る前の散歩には良くここに来る。 何だか落ち着くのだ。 校舎の壁際の砂利の上に腰を下ろし、膝を抱える。ふぅ、と軽い溜息が出てまた空を見上げる。 赤い小さな点滅がさっきよりも遠くへ行ってしまったのが眼に入った。 それが更に小さく小さくなっていくのを何とはなしに見送った。 あの飛行機は何処へ向かっているのだろう。 中に乗っている人達は、どんなことを思っているのだろう。 ふいと眼を逸らしことんと音を立てるように膝の上へ額を落とした。 今度見つめる先は風で緩く揺れる木の葉。 ただただ、見つめる―――。 そうやって何も考えずに時間を過ごすのも実は好きだった。頭の中が真っ白になる感覚は、嫌いではなかったから。 眠れないときにそうすると眠れるような気も、した。 寝るにはまだ早すぎる時間だが、何となくそうしたい気分だった。 今夜、私は眠れるだろうか。 ―――眠りたい。何も考えずに。 ぼぅっとしてきた頭の中。 と、ふいに昼間自分が放った言葉が甦る。あの勝負の後に、放った、言葉。 (彼ならきっと―――) 口の中で、もう一度繰り返してみる。 そう、彼ならきっと、良い成績を残すに違いない。今までどれだけ欲しても手が届かなかったキャメロット杯のタイトル。 きっと彼は、それに近付くための大きな力になるに違いない。 少なくとも、この私を倒したのだから。 自惚れでもなんでもなく、それは彼女の自信。今までの自分に対する。 しかしそれを上回って、彼は凄かったのだ。文句なんて、言うつもりはさらさらない。 だから、良かったんだ。瞼を閉じた。私でなく、彼がキャメロット杯に行くことになっても。 より強いものが行けば、タイトルは近くなる。子供でもそんなことは判る。 何より欲しいものは、それ。 だから、良かったんだ。そう、思う。思うのだ。 本当に? 本当に…そう思っているのに。 パット勝負の後、負けたのにとても晴れやかな気分になっていた。だから気付かなかった。 片隅の方にあった、小さな、翳り。 ―――気が付きたくなかった。 だけど。時間が経つごとに、広がってくる。どんどん、速く、大きく。 納得したはずの勝負だったから…気付きたくなかった。 今更、持ちたくないのだ。全て決まってしまった後なのに。はっきりとした、自分でいたい。だから、こんな気持は、今更。 「…間違ってない」 間違っていない、間違っていない。私のあの時の、決断は。 自分で決めたことに、後悔だけは、したくないのだ。 小さく呟くと、美花は膝を抱いている手に力を込めた。 「…黒峰?」 突然、上から声が降ってきた。 物思いに耽っていたせいだろうか、人の気配に全く気付いていなかったので、美花は必要以上に驚いた。 ばっと声をかけてきた人物を見上げる。脚の下で石が少し派手に音を立てた。 すらりとした長身の男子。 「…東堂院…」 よくよく見知った人物だったので、美花は秘かに安堵の息を付いたが、戒は予想以上のリアクションをうけて驚いて眼を見開いた。 「何だよ、寝てたのか? いくら何でも風邪ひくぞ」 「…違うわ。ちょっと考え事をしていたの」 「ふうん」 特に興味もなさそうに、相づちを打つ。 「…あなたは?」 「ちょっと散歩。久々に晴れたし、」 一呼吸置いて、 「またしばらく見れない風景だしな」 と、庭の方に視線を巡らせた。 小学校の時から親元を離れ生活している場所だ。今となっては、年に何度かしか帰らない実家よりも、ここの寮の自室の方が余程自分の場所、と言う気がする。 しかしやたら遠征が多いこの学園。時々懐かしくなるのはここなのだ。それは美花も同じ事で。 それが判っていたので、美花はそうね、とだけ答えた。微かな笑顔と共に。 柔らかな輪郭の、滅多に見れないそれに瞳が奪われている自分に、東堂院は気付いているのかいないのか、少ししてからぱっと目線を外した。 「準備はもう出来たの?」 「あぁ」 「早いのね」 「そうか?」 「祐美子の部屋とかからは、まだがたがた音がしていたけど」 「馴れてないんだろ」 短い会話を繰り返す。明日は選抜メンバーがイギリスへと旅立つ日。初等部の面々にとっては殆どが初めての海外遠征だ。 …本当だったら、私も今頃…。 無意識にそんな考えが浮かんできて、そしてそんな考えをした自分に気付いて、心底イヤな気分になる。自分に対して。 もう、決めたことを、決まってしまったことを、うじうじと蒸し返して。 そう言う人にだけはなりたくないのだ。く、と薄い唇を噛んだ。 なりたくないのに。 「黒峰?」 無口なのはいつものことだが、いつもと様子が違う。 長い付き合いでそれを感じた戒が彼女を呼ぶ。 僅かな反応しか得られなかった。どういうことだろう。戒は判らなくて眉をひそめた。 いつもとだいぶ様子が違うことだけは判るのだが、どうしたものか…。 とりあえず。腕時計で時間を確認した。 「そろそろ戻ろうぜ、明日早いんだし」 「…えぇ」 聞こえるか聞こえないか、と言った微かな返事。らしくない。 「…先に行っていて」 こちらを見ない。いつもなら馴れていないと相手が怯みかねない三白眼(人のことは言えない)で律儀に相手を見て話をするのに。 「…具合でも悪いのか?」 ずっと座り込んだままだし、腹でも痛いんだろうか。 そう思い、戒は自分もしゃがみ込んで美花の顔を覗き込んだ。 「黒峰?」 目の高さを合わせてやって呼びかけて、ようやく、美花は戒を見た。 …今まで見たことのない様な、複雑な表情で。 掠れた、絞り出すような、普段からは想像も付かないような声音で、小さく言う。 「……どう、しよう、私、」 「?」 「たぶんいま…ものすごく、戒くんに嫉妬してる」 「…は?」 まるで想像もしていないことを言われて戒は何だか間抜けな顔になった。 が、美花はいつもとは違うながらも真剣なことに代わりはない表情。 言われた意味がよく判らないので、とりあえず読解してみることにした。 「…嫉妬?」 「ええ…多分」 「何でだ?」 「……」 黙られる。これでは判らない。先を促そうとするとその前に美花が話し出す。 「あなたにだけじゃなく…多分他の人にも」 「誰にだよ」 「…プライマリーの子達とか」 「…?」 何か共通点があっただろうか? 自分と、初等部の後輩達。 「美花、一体…」 「おかしいわ…自分で考えて、決断したことのはずなのに。もう決まってしまったことなのに…どうしよう…」 美花の薄い手が、顔の半分を覆った。 「私…やっぱりキャメロット杯行きたかった…」 「美花…」 「強い人が行くべきだって言うことも、もう決まってしまったんだから今更どうしようもないって事も判ってるけど…」 どんどん語尾が小さくなる。 愚痴になってきた、と、美花は自覚していた。こんな事を話したいわけではないのに。話したからと言ってどうなるものでもないだろう? 「…どうやってあきらめよう…?」 「……」 考えてみれば、当然の事かも知れなかった。 1年間、最終目標にしていたもの。つい昨日まで手の中にあったそこへの切符。ほぼ確実に捕まえていたそれが、突然無くなってしまったのだから。 自分が言い出したこととはいえ…。 戒はなんと言ったらよいのか判らず、美花はそれ以上話したくなくて、口を噤んだ。 沈黙が、舞い降りる。 それを先に破ったのは、美花。 「…ごめんなさい」 「え?」 「突然変なこと言って。忘れて。ただの愚痴だから」 美花は何とか『いつもの表情』をつくった。まだ少し無理があったが。 「…戻りましょう」 「……そうだな」 ぎりぎりまで戒は考えたが良い答は思い浮かばなかった。 お互い無言で歩いて、あっという間に美花の部屋の前に着いてしまった。 「じゃ、お休みなさい。…自力で起きなさいよ」 「…判ってるよ…」 ちっと低く舌打ちした戒の眼に、開けられた美花の部屋の中が見えた。 自分の部屋にあるものと変わらない、ベッド、机、クローゼット、ゴルフバック… 「じゃ…」 「待て!」 閉めかけた扉の隙間から、無理矢理部屋に入ってきた戒に、美花は驚いた顔をした。 「何…?」 「マーカー」 「え?」 「お前のマーカー、1つ貸せよ」 「…買っていないの?」 「いーから」 「…?」 戒の真意を測りきれないままに、美花はゴルフバックを開けると、中に入っている愛用のパターを取り出す。グリップにつけているやっぱり愛用(と言うかお気に入り)の青いマーカーを外し、パターをしまう。 「…なんなの?」 振り返っても怪訝そうな顔のまま、美花は尋ねる。マーカーを差し出す。受け取って、戒は答えた。 「しょうがねぇからな、替わりだよ」 「何の?」 「お前の」 今度は美花がきょとんとする番だった。戒はマーカーの脚を独楽のように廻して弄んだ。 「連れてってやるよ、イギリスまで」 その言葉に美花は言った後どうにも照れているらしい戒の顔を見つめて、それから表情を崩した。嬉しかったから。 「…ばかね」 「ほっとけよ」 「…でも…ありがとう…」 幼なじみの心遣いがたまらなく嬉しかった。 さりげなかったり眼に見えていたり、その時々だけれど、戒は美花のことを助けてくれていた。 だからだろうか。 さっき必要以上に愚痴をこぼしてしまったのは。 …戒にとってはいい迷惑だったかも知れないけれど。 美花は右手を差し出した。 「…頑張ってね」 戒もその手を握り返す。 「あぁ」 また、手の中のマーカーを弄んで、 「せっかくパッティングの天才から借りたマーカーだからな、いつもよりパットは調子いいかも知れねぇし」 「…まさか…」 ふ、と美花は自嘲気味にもとれる表情をした。 「天才は私じゃないわ。ランスロットよ」 今日見ていたでしょう? 「…あぁ、でも、」 続きを言おうとして、戒は言葉を詰まらせ言い淀んだ。 不信に思う美花と繋いだ手を取り合えず放して、寝るわ、とドアに向かう。よく見ると何だか頬のあたりが赤い。 「東堂院?」 言葉と目線で、美花は続きを促した。あんなところで切られたら、気になるではないか。 顔だけ美花の方に向けて、それから背けて、溜息を1つ付いてからドアノブに手をかけた。 「でもやっぱりな、オレが今まで見たゴルファーの中で、一番パターが上手いのはお前だよ。…オレの中では、だけどな」 一息に言うとついでのようにおやすみと言い捨てて戒は出ていってしまった。 その耳は何だか赤くなっていたような。 残されたのは突っ立ったままの美花。 少しして、くすりと小さな笑みをこぼした。 「…なぐさめて…貰ったのかしら…」 こころに引っかかっていることが解決したわけではないけれど。 とりあえず今夜は眠れそうな、そんな気がした。 Fin
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