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渋谷・時空探求

第一話 宇田川はどの辺りを流れていたのか(1)


ハチ公口から東南に伸びるセンター街の辺りは、現在「宇田川町」の地名で呼ばれ、かつてそうした名の川が流れていたことを覗わせる。
しかし現在の繁華街の様子を見ても、川の痕跡を思わせるものは全く残っていない。この町のどこを、どの様に宇田川は流れていたのだろうか。

左は大正5年(1916)まだ宇田川がこの辺りを悠々と流れていた頃の地図である〔明治42年測図大正5年修正、陸地測量部一万分の一地形図「世田谷」より抜粋〕。

図の左上から右下にかけて流れているのが宇田川。右下のY字路が現在の109の場所。ここから斜め上方へと伸びる道が現在の文化村通り、当時の農大通りである。下に伸びるのが道玄坂。ただし道幅は今よりはるかに狭かった。

農大通りの先にある学校は大向小学校といった。移転、併合をへて現在は区役所そばの神南小学校に吸収されている。跡地に建っているのが東急本店およびBUNKAMURA。

次に挙げるのは、この地図から川と橋、並びに主な道路をトレースして平成現在の地図に重ねたものである〔現在図:平成11年国土地理院発行、一万分の一地形図「渋谷」より抜粋〕。
河川は水色、橋は赤、道路は黄色で塗り分けた。ポインターを図に重ねると、現在の図のみになる。



宇田川はもともと西北の初台方面を流れていた河骨(こうぼね)川など、幾つかの小川が代々木八幡の辺りで合流してできた川だ。今の富ヶ谷交差点付近から、現在の井の頭通り(当時の名は宇田川横丁)に沿う形で渋谷の方に流れてきていた。

ちなみに、この源流のひとつである河骨川が、童謡「春の小川」の舞台である事は有名。

図の左にも川が見える。現在の東急本店、大正時代の大向小学校裏の敷地を通って宇田川に合流していた。これは当時松涛地区一帯に広がっていた、肥前鍋島家の農場の方から流れてきた川である。

合流地点は、今で言うと渋谷BEAM東側の立ち食いそばの辺り。BEAMはゲームセンターやマンガの専門書店、楽器店などの大型のテナントビルである。

以下、川を下りながら見てゆく。

合流地点から間もなく潜るのが松涛橋である。
現在の、東急本店と井の頭通りを結ぶ通り(「夢二通り」の愛称が付けられている)は大正時代からほぼ当時のままに残っているが、これが川と交差する場所にあったのがこの橋であった。
今の渋谷BEAM東端の十字路の位置にあたる。

右の写真は現在の様子。
井の頭通りをを背に、東急本店を向こうに見て撮影しているので、かつての橋は写真中の右下から左上へ架かり、川は右上から左下へと流れていたことになる。

このまま しばらくは現在の道路に沿って流れる。BEAM南側の道路がそのまま川の跡であり、現在この通りには「宇田川通り」の名が付けられている。





やがて今の宇田川交番裏、コンビニエンスストアのある辺りで再び橋を潜っていた。
大向橋という。
橋南岸の東側の土地には明治のころ、伊勢万という米屋の水車があった。これは同41年に廃され、跡地には住宅が建てられる。
この住宅で大正時代に幼少期を過したのが、小説家の大岡昇平〔1909−1988(明治42−昭和63年)〕である。
小学校入学から高校卒業までを渋谷の地で育ち、太平洋戦争時には南方戦線に従軍。戦後はその経験をもとに「俘虜記」「野火」など数々の戦争文学ををあらわし、第二次戦後派の一人として活躍した作家だ。

写真は宇田川交番の裏手から、かつて橋のあった場所を撮ったもの。コンビニエンスストアの店先の辺りが恐らくそうであろう。川の方向は、画面中の右から左へと流れていた事になる。



大向橋から先、川はぐっと南寄りに進路を変え、現在の区画を斜めに横切る形で進んでいた。現在レコード屋の隣、ラーメン屋の建つあたりにも橋が架かっていたようだが、これは地図で確認できるだけで、橋の名前などは分からない。

川はそのままの角度で進み、当時の農大通り、今の文化村通りに向かっていた。現在ある建物で言うと、マクドナルドの裏手をかすめ、靴屋のABCマートの南側を通っていたことになる。

ここにかかっていたのが後藤橋である。
周辺一帯の大地主であった後藤家にその名は由来する。
上の写真は文化村通りをはさんだ向かい側の歩道から、橋のあった辺りを撮ったもの。中央にカラオケ屋の赤い看板が見えるが、その辺りがかつての橋の位置ではなかろうか。

前述した大岡昇平の回想によれば、橋を北側に渡ると左手に空き地があり、春や秋にはドサ廻りの芝居やサーカスが小屋を掛けて興行を打っていたとのこと。
現在マクドナルド前の十字路あたりになるのかも知れない。




宇田川はここから北に若干膨らんだあと、再び進路をもとの方向に戻し、まもなく暗渠となっていた。
大正期の地図上、突然川が途切れる部分がその始まりである。現在アイスクリーム店の建つ辺りであろう。

暗渠といっても現在のようにアスファルトで覆っていたわけではなく、川の上に板を渡した簡単なものであった。
この辺りは当時すでに商店街であったから、立ち並ぶ商家は渡した板の上に店を建て、板の部分は店先の土間などとして利用したのである。

上の写真は109の前から、大正期に河上家屋・商店の並んでいた辺りを撮影したもの。
道幅は相当拡張されたようであるから、実際に川が流れ店が建っていたのは向こう側の歩道、車道の一帯ではなかろうか。


宇田川はどこをながれていたのか《2》へつづく


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