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渋谷・時空探求

第三話 与謝野晶子と東京新詩社(1)〜渋谷に残るその足跡〜


<東京新詩社跡>

東京新詩社跡木柱
駅から道玄坂をやや登ると、左手にマークシティーの中央口に至る一本の小道がある。
入って間もなく、左手に一本の木柱が立つ。
明治の歌壇をリードした与謝野鉄幹、晶子夫妻の住宅、すなわち二人の主催した東京新詩社がかつてこの地にあったことを示すものだ。

その当時は木柱の位置から、今では商店で埋まった区画の内側へと路地が延びており、奥へ進むと右手に三軒の家が並んでいた。
そのころ路地の反対側にあった渋谷憲兵分隊の幹部用住宅である。
明治34年4月、与謝野鉄幹はどのようなツテかは分からないがこの三軒のうちの一軒を間借りし、その二ヵ月後に恋愛関係にあった晶子を迎え入れた。
憲兵分隊があったのは、現在巨大なシネマコンプレックスである渋東シネタワーの北半分くらいの位置。
新詩社の間借りした住宅があったのは、その南半分あたりだと思われる。

当時の鉄幹は旧態依然とした詩歌の世界を革新すべく、機関紙「明星」を定期発行し、文壇の風雲児として活躍していた。晶子は鉄幹とともに活動にいそしみ、同年8月、歌集「みだれ髪」を出版。

代表作である

その子はたち櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

やわ肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君

に見られるような女性において前例の無い奔放な自己表現は、歌壇のみならず社会に大きな衝撃を与え、様々な批評が飛び交った。

歌人の佐佐木信綱は
「著者は何者ぞ、敢て此の娼妓、夜鷹輩の口にすべき乱倫の言を吐きて淫を勧めんとはする」と晶子を売春婦扱い。
一方で評論家の高山樗牛などは
「其の歌詞新たにして高く、情清くして濃、たしかに一家の風格を備えたり」と絶賛。
賛否両論が巻き起こった。


<渋谷における二軒目の東京新詩社>

「みだれ髪」出版の翌月、34年9月には当時の番地でいう中渋谷382番地に、二人は移転する。
これまでの住処に程近い場所で、今で言うと新詩社跡の木柱の立つ場所からそのままマークシティーへ進み、ガードを潜ったところですぐ右折。
急な坂を登って二つ目の角を左に曲がり、直進して突き当たった辺りから国道246号線にかけての一帯である。
区画整理がなされたため、今の地形からその場所を類推するのは難しいが、おおよそ現在の道玄坂1丁目10番地を中心とする一帯と言えよう。

ここには当時、地元の名士であった男爵の名和長秀という人が広い敷地をもっており、自宅を建てて余った土地に借家を数件つくり人に貸していた。渋谷における二件目の東京新詩社跡地
二人はそのうちの一軒に入居したのである。

写真はその名和邸のあった辺りの現在。
左手の方へと敷地は広がっていた。

隣の借家には粟島狭衣という劇作家が住んでおり、鉄幹と交友があった。
ちなみに狭衣の娘は後年映画女優として活躍した粟島すみ子である。

こちらに移って以降、新詩社の活動は益々さかんになり、石川啄木、北原白秋らとともに明治の浪漫主義をリードしてゆく。

<渋谷における三軒目の東京新詩社>渋谷における三軒目の東京新詩社跡

明治37年5月になると、またも近所の大和田341番地に移る。
当時の地図と現在図を見比べると、それまでの家から二丁坂下の、現在で言う道玄坂1丁目11番地がこの区画にあたる。
転居の理由には、出入りする同人の数も増えて、これまでの家では手狭になったということがあったようだ。

右の写真がその辺りの現在の様子。今は飲食店が立ち並んでいる。
やはり区画整理のため分かりづらいのだが、左手奥の茶色いビルから道路を挟んで右手にかけてのあたりが、かつての341番地。

この頃の晶子は二十台の半ばだが、高名な女流歌人も近所の人々にとっては何やら変わり者と映ったようである。
藤田佳世のエッセイ「大正・渋谷道玄坂」には、晶子が住んだころ地主だった家の孫娘への聞き書きが登場する。
祖母が孫に伝えた晶子というのは

「与謝野さんはうちの家作にいたんだよ。
なんだか変わった人でねえ、囲いも何にもないところで行水を使ったりしてさ、その時分そんなことをする人なんぞあったもんじゃない。
女中さんを使っていなすったが、或る時なんざあ、あたまの毛をふり乱して、はだしで庭に立ったまま、大きな声で旦那と喧嘩をしていたっけが、とにかく普通の人とは違っていたよ」

といったものだったらしい。

下世話な話ばかりになるが、行水と似たような話は息子、与謝野光の回想記にも登場する。
彼はこの家に移った頃まだ二歳である。

「おそらくうちに風呂がなかったんじゃないかなあ。
というのは、お弟子さんからあとで聞いたんですけど、いま井の頭線で渋谷の次に、神泉という駅があるでしょ。
なぜそんな地名出すかというと、踏み切りの左側にお風呂やさんがある。
弘法湯っていう、弘法さんが杖を立てたらお湯が沸いたっていうね。
あすこまでお風呂に行ったっていうんだからね、田舎だったんですねえ」

ちなみに神泉の弘法湯は今は無くなって、あとにマンションが建っている。
ともあれ、この頃の晶子は歌人として活動する一方、編集者として「明星」の仕事に携わり、二年前に長男の光、この年次男の秀を出産し母としての勤めを果たし、暑ければ庭で行水、寒ければ道玄坂を越え神泉の谷を下りて風呂屋に行き…女中さんがいたとはいえ、その生活は随分忙しかったことだろう。

近所の評判などかまっていられなかったのかもしれない。

<現在の渋谷における新詩社の足跡>

現在の渋谷における晶子の足跡を記したものである。
ポインターを乗せると当時の渋谷の道路図(新詩社の位置関係に関わる部分のみ)をあらわす。
当時から現在までに区画整理などがなされているため、その位置を類推するのは難しいが、おおよそ以下の様になる。

★0 現在東京新詩社跡の標柱の立つ位置。
★1 渋谷で最初に東京新詩社のあった辺り。
★2 二番目に新詩社のあった区画。ピンクで囲んだ区画が当時の名和邸。当時の地図に数件の家屋のシルエットも記載されていたため、ここにも記した。このうちのいずれかを借りていたのかもしれない。
★3 三番目に新詩社のあった区画。ピンクで囲んだ部分。


第三話 与謝野晶子と東京新詩社(2)に続く


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