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シューベルトの「ます」五重奏曲レポート


Schubert

【作品解説】
旧全集版冒頭ページ
 シューベルト(1797-1828)の室内楽作品の中で最も有名なのがこの曲だろう。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとコントラバスという珍しい編成(通常はピアノと弦楽四重奏)のこの曲が生まれたのは1819年のこと。
 この年の夏に彼は、シューベルトより29歳も年上ながらその才能を高く評価するバリトン歌手フォーグルの誘いで、旧友シュタードラーと共にウィーン西方、リンツ近郊のシュタイアという町を訪れた。シュタイアはフォーグルの出身地でもあった。ここで彼は鉱山を経営するジルヴェスター・パウムガルトナーの歓待を受けたらしい。自身アマチュアながらチェロを弾き、シューベルトの歌曲を愛したこのパウムガルトナーから、歌曲「ます」の主題を用いたピアノ五重奏曲の作曲を依頼されたのである。すでにシュタイア滞在中にシューベルトは作曲に着手、ウィーンに戻って間もない秋には完成された。楽譜はさっそくシュタイアーに送られて、おそらくパウムガルトナー家で初演されたのだろう。
 といった解説はどの本にも、どのCD解説にも書いてあること(上記も小生の書いた解説文からの引用)だが、実はほとんど推察なのである。
アルベルト・シュタードラー(Albert Stadler) この地方の生まれで、神学校以来のシューベルトの親友。詩人でもある。

【基本資料】
ピアノ五重奏曲「ます」に関する問題
まず出発点となる確実な資料があまりにも少ないのである。
 1.この曲の自筆楽譜は残されていない
 2.作曲に関する本人の記述が何もない
 3.初演に関しても直接の資料がない
 4.楽譜はシューベルトの死の翌年1829年に出版されている
次に、補助的資料には次のようなものがある
 1.第4楽章の原曲である歌曲は1820年に文芸誌の付録として初出版された
 2.シュタードラーが1858年に書いた手紙に当時の回想がある
Steyr, Linz, St.Florian
シュタイアの場所。左上がリンツ、中央に、後に触れるザンクト・フローリアンがある。
 といったことで、出発点はシュタードラーの回想から始めなければならない。これはシューベルトの没後に、その資料を収集していたフェルディナント・ルーイプに宛てて書いた手紙に残されるもの。「ます」に触れた部分を要約すると次のようになる。「彼はこの曲を、珠玉のようなその小さな歌に魅せられていた私の友人ジルヴェスター・パウムガルトナーのために書いたのです。パウムガルトナーはシューベルトに、そのころ世に出たばかりだったフンメルの五重奏曲、正確には七重奏曲の構成、楽器編成と同じ形にして欲しいと希望したのです。シューベルトはこれをすぐに完成しましたが、総譜は自分の手許に残しておきました。」
 さらに続けて、シュタードラー本人が自分用にコピーし、さらにパート譜を書き起こして、パウムガルトナーに送ったことも記されているが、「長い歳月が経って、もはや正確に記憶していないことに関してはむしろ削除(されたい)」と付記されている。
 年号や場所に関する記載が何もない点を別にすれば、作曲に関する第1級の資料に違いない。
 そこで年号を探すことになる。シューベルトが友人(ずっと年長!)のヨハン・ミヒャエル・フォーグルと共に上部オーストリアを旅したのは1819年、1823年、1825年の3回である。ともにフォーグルの故郷であるシュタイアに滞在し、そこでこの町の音楽家や音楽愛好家と親しい時を過ごしている。パウムガルトナーはその一員で、アマチュアのチェロ奏者。その家庭で音楽会が開かれていた。

【問題点】
 しかし問題が存在する。
 1.歌曲を使って…と依頼されたからには歌曲を知っている必要があるが、歌曲が出版されたのは1820年である。
 2.手本にと示されたフンメルの五重奏曲(まったく同じ編成)が書かれたのは1820年ごろで、出版されたのは1822年であった。
 3.さらに、言及のある七重奏曲は1816年に出版されているが編成がピアノ、管楽器、弦楽器となっており編成がまったく異なり、言及の意味がわからない。
 このことから対象は1823年か1825年に絞られるのだが、シュタードラーは1823年にシューベルトに会った記憶がなく、1825年には彼はリンツに移っていた(ただしごく短期間シューベルトに会いに出かけたらしい)。
 こしたことから、老齢のシュタードラーの回想は記憶が曖昧になったのではないかという説が出てきた。

ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(Johann Michael Vogl) シューベルトの歌曲を広めた功労者
ジルヴェスター・パウムガルトナー(Sylvester Paumgartner) シュタイアー在住の鉱山経営者。アマチュアのチェロ奏者であり、自宅でしばしば音楽会を開いた。

【解決】
 ところがどうやらこの問題を一気に解決するような資料がひょんなところから発見された。場所はリンツ近郊のブルックナーゆかりのザンクト・フローリアン修道院。ここの書庫から一対の「ます」の手書きのパート譜が発見されたのだ。
 これがどうやらシュタードラーが書き起こしてパウムガルトナーに送られたパート譜そのものであるらしいのだ。しかもこのパート譜と(後の)出版楽譜には微妙な違いがあり、おそらくこれが当初の形で、出版に際してシューベルトが手を加えた形跡が伺えるのである。
 加えて、手本にと示されたフンメルの五重奏曲とは七重奏曲からのピアノ五重奏用編曲版であった可能性が強くなった。出版は七重奏曲とおそらく同時であり、「ます」の特殊な編成も合致している。楽章構成も「ます」の変奏楽章が加えられた以外は類似している。このことで、シュタードラーが「フンメルの五重奏曲、正確には七重奏曲」と書いた意味もはっきりして来たのだ。
 となると問題は歌曲「ます」の誕生のみ。シューベルトが歌曲に着手したのは1817年で、以降1821年までに5つの稿が書かれたことが判明している。もっとも有名なのは1820年の第4稿でこれが後に出版されたのだ。つまり1819年の時点ですでに第3稿(1818年)まで完成していたのである。また変奏曲のもとになったのも第3稿であったと考えられるフシがある。
 加えて、シューベルトの仲間たちはシューベルトのために詩を探して提供し、歌曲を筆写して仲間内に広める役割を果たしていた(シュタードラーもその一員で、彼が筆写した楽譜のみで伝えられる作品も少なくない)。一方シューベルトはそこで歌われるたびに、新しく手を加えていたのである。
 ここからは推察の域に入るのだが、シュタードラーは「歌曲に魅せられていた」と書いているだけで、出版楽譜のことを語っている訳ではない。つまり、1819年にその場で聞いたと理解することも可能である(滞在は数日に及ぶ)。比較的新作に当たるので、シューベルトは(フォーグルといっしょでもあり)楽譜を持って行ったことも充分に考えられるのである。しかし、すでにシューベルトの友人たちを通じてそのコピーを所有していたこと考える方が妥当かもしれない。ウィーンの友人たちの間では手書きの楽譜のコピーがすでに幾つか出まわって歌われていたのだから、それを入手していた可能性も高いのである。
 つまり歌曲との関連をこう考えれば、問題はすべて氷解し、シュタードラーの記憶はすべて正しかったことになるのである。
 こうした紆余曲折の末に、1819年にパウムガルトナーのために書かれたことがほぼ確実となり、そのために以上の調査の過程は解説書にも載らなくなったのである。
 残念ながら、シューベルトの自筆楽譜がどこかからひょっこり出現でもしない限りこの疑問に終止符が打たれることはないのだろう。

【「ます」という魚について】


 さて、シューベルトが…、いやシューバルトが書いた歌詞の対象となる魚は何だろうか。まず手許のCDで魚が描かれているものを探す→写真。ドイツ語の"Die Forelle"は日本の「ます」とはかなり異なる小ぶりの川魚である。独語辞典ではカワマス、イワナとある。
カワマスの解説を読むと、レイクトラウトよりもブラウントラウト(Bachforelle=学名salmo trutta fario)らしい。
Salmo trutta lacustris。色といい、これに違いない。
Tierische Links: Fische / Forelleシューベルトの詩が載っているのだが、特徴的な斑点は見られない?。これは疑問。
歌詞と魚。偶然見つけたサイトのイラスト。こっちにははっきりと斑点がある
The Vienna City Library Schubert Collectionのページには各種画像がある(ものすごく重いが)。中に仏語初版楽譜の表紙もあるが。残念ながら釣っている魚は判別不可能

シューバルト(Christian Friedrich Daniel Schubart) ドイツの詩人、作家、作曲家(1739-91)。「ます」の詩の作者であり、自身でも同じ詩に作曲している。シューバルトのサイト。ここにはシューバルト自身の「ます」の譜面もあり、音も聞ける!。
Die Forelle

どこから入手したか不明になってしまったイラスト。
著作権保有者不明につき無断で使用…ごめんなさい。

made by K.Umezawa 2002/12/30
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