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私どもの青少年時代 2 |
五十嵐秀樹 |
五十嵐明子 |
8『ピアノを習って、再度の挑戦』
この大作曲家『シベリウス』の作品との出逢いは、以後心のよりどころとなっていくのですが、これについて書くと話が大分それてしまいますので、ここでは省略させていただきます。 |
8『いざ東京へ!』
『いざ、東京へ!』夏に味わった「くやしさ」をバネに、猛練習開始。同時に、受験希望大学のピアノ講師を紹介してもらい月1回、東京の御自宅に通うことに決まりました。 |
9『ああ何と!無情にもまた不合格』
ところで、ピアノを買ってもらったことについて少々書きたいと思います。 |
9『ホームレッスンでのエピソード』
レッスンは、1時間弱でアッとい間に終わりですが、中身は濃いものでした。数カ月後には、同じ大学の声楽の講師を紹介していただき、続いて聴音、ソルフェージュの先生にも付くことになり、一日に3人の先生のお宅を回り充実した受験生活でした。 |
10『単身、先生を探しにイザ仙台へ』
でも、両親は「もう1年だけやってみたら」と優しく言ってくれたのでした。今度こそ受験を諦めさせられ、絶対働きに出されるだろうと腹をくくっていた時のこの一言は今でも忘れられません。 |
10『タイガースを追っかけながら・・』
でも、東京行きには密かな楽しみもありました。当時流行ったグループサウンズ『タイガース』の熱狂的ファンだったので、上京したときにはジャズ喫茶を渡り歩き「追っかけ」をやっていました。数時間前までバッハ・べートーヴェンを真剣に弾いていたとは思えないような変身ぶりでした。それこそ黄色い声で「ジュリー!」と騒いでいたのですから、まさに「忙中閑あり」です。 |
11『天上の響き/グレゴリオ聖歌』
そのお嬢様は家族ぐるみのカトリック信者でした。そして、レッスンの合間にしてくれた教会の話しなどがきっかけで、仙台市にある教会の日曜学校に参加することになりました。ここで出会った人々、体験した事などが、私の将来に大きな影響を与えたのです。特に「グレゴリオ聖歌」の天上の音楽とも思えるアカペラ(無伴奏)のメロディのインパクトはこれまで経験したことがない、とてつもなく大きいものでした。 |
11『卒業式には出席せず、上京』
こうして3年間、夏期・冬期講習を受講し、遊びたい時も程々に、そうして学校祭や球技大会も自主休校。おまけに休み時間は、ひたすら楽典の問題練習。そのため、学校から親が呼び出され「何事も学校第一に考えてください」とキツイお言葉をいただいたりもしました。 |
12『子供好きの自分を発見』
日曜学校にたびたび参加しているうちに、幼児や小学生などの歌やゲームの指導を少しだけ任せられる事がありました。そうやって小さな子供達と接しているうちに、特に幼児になつかれる自分を意識し始まったのです。そういえば、中高生の時も近所の小さな子供達にやたら好かれてよく遊んであげたことを覚えています。自分はひょっとしたら、子供達と接する仕事をするのに向いているんじゃないかと、この時期より強く考えるようになってきたのです。 |
12『周囲の優しさに包まれた日々』
その時、すでに心に決めていたことがありました。「もし、受験に失敗したら、そのまま東京で浪人しよう」と。そのため、寝具他日用品すべてを親戚の家に送ったのです。寝泊まりは親戚の世話になるから良かったのですが、困ったのは練習用ピアノです。叔母に頼み何とか探してもらいましたが、見ず知らずのお宅で、そこの子供さんが学校へ行っている間に練習するのですが、それがなんとも苦痛でした。ピアノはまだいいのですが、声楽は悲惨でした。まだ完成していない声で「ア〜ア〜」やるのですから、そこのお宅そして隣近所は、さぞかし迷惑だったことと思います。でも、とてもよくしていただき、ほとんど毎日練習しに行っていました。 |
13『3回目の挑戦に、着々と準備』
まあ、それぞれ3人のプロに習ってみると私の知らないことばかり。フォーム、発声法、少ない時間でうまくなる能率の良い練習法など・・1レッスン(ピアノと声楽の先生)ごといくらいくらと我が家にとっては相当高い謝礼でしたが、内容はこれまで受けてきたものとは雲泥の差がありました。それらを深く教わらなかった自分は、これまで2度も落ちるはずだと身にしみて思い知らされました。 |
13『受験番号1844イッパツヨシ』
受験日までの半月の間。都内のあちこちにある先生宅に通うための交通費。そして月謝に相当するほどのワンレッスンの謝礼。新札が足りず、お札にアイロンをかけたりして、それをワンレッスンごと「のし袋」に入れたのを両親から手渡された時は「絶対に合格しなければ」と思いました。この頃の両親の生活は、かなり大変だったようで、妹までわたしのためにいろんな意味での我慢を強いられたようです。こうして家族みんなを巻き込んでしまっての音楽大学受験でした。 受験番号1844「イッパツヨシ」もちろん一発で合格。この喜びは、一生忘れません。自分の努力ももちろんですが、先生そして家族の温かい励ましのお陰で希望通りの大学に合格できたのです。小学校の時からの夢が、夢で終わらず実現できた事は本当に幸せだと思います。苦労して入つた大学だったので、もちろん、4年間まじめに「寮生活」を送りました。 ここで、ひとまずペンを置きます・・ |
14『初めて見た父親の男泣きする姿』
依然として、公開の場でピアノ演奏の経験の無い私でしたが、「聴音」の先生のグランドピアノを御好意でたびたび弾かせていただいたり、声楽を聴いてもらったお陰で、これまでになく自信がついていました。そして3人の先生の「絶対大丈夫!」の言葉を背に受けて、準備万端怠りなし、両親と「水さかずき」を酌み交わすような気持ちで三度目の挑戦に上京したのです。ズラリと並んだ試験官の教授の前で、もう決して火ダルマにはなりませんでした。 ♪∴∵¨.......... 上にもどる |
14『入学式で見た老けこんだ男性』
私は先週の会報で音大に合格したところまで書いたのに、おや〜、隣の秀樹さん、まだ続けて書いているなんて・・私より2年も多く御飯を食べているから仕方無いのかも知れませんが。 ♪∴∵¨................... 上にもどる |
という私どもの境遇を書いてみましたが、これらで得た 数多くの経験、そして失敗などから得た教訓は、 現在の「いがらしピアノ音楽教室」の皆さんへの レッスンに生かされています。 おしまいまでお読みいただきまして どうもありがとうございました。 五十嵐秀樹・五十嵐明子 |