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              私どもの青少年時代 2

五十嵐秀樹

五十嵐明子

8『ピアノを習って、再度の挑戦』

 この大作曲家『シベリウス』の作品との出逢いは、以後心のよりどころとなっていくのですが、これについて書くと話が大分それてしまいますので、ここでは省略させていただきます。
 受験の失敗で『浪人』となった私は、どうしてもあきらめ切れず、両親に土下座し『一浪』と練習用ピアノの購入を懇願したのでした。音楽大学受験は普通の大学とは違い、課題曲等の関係で併願が大変困難で『1校で1本勝負』という面があり、まさに命がけの思いでした。
 先生には引き続き見ていただくことにしましたが、卒業生、しかも浪人となると、やはり母校には行きづらく、先生宅に通いました。でも多忙な方ゆえ休講が多く、スッポカシも大分ありました。さすがの私も、これはとっても悲しかったです。
 予備校には行かず、自宅で普通教科と毎日8時間以上もヒタスラ練習を重ねました。その頃の私の写真は、老けた貧相な顔をして写っています。

 
8『いざ東京へ!』

 『いざ、東京へ!』夏に味わった「くやしさ」をバネに、猛練習開始。同時に、受験希望大学のピアノ講師を紹介してもらい月1回、東京の御自宅に通うことに決まりました。
 土曜の夜行列車に乗ると翌朝6時半頃上野に着くのですが、レッスンは10時からなのです。上野の地下街で朝食をとっていると何度か家出少女に間違えられたこともあります。
 レッスンまでの約3時間の長いこと。喫茶店などに入ったことがなかったので、時間をつぶすために初めて入った時は、悪いことをしているようで(実際、校則で禁じられていました。今の時代では考えられませんが)心臓がドキドキしたのが今では懐かしい思い出です。
 学習院大学前からバスで10分程の所が先生のお宅なので、大学付近の喫茶店で楽典の勉強をして時間をつぶしていました。
日曜日なのに、近くに大学があるせいかそこの中は、いつも学生がいて、そこでは私も大きな顔をして居座ることができました。

9『ああ何と!無情にもまた不合格』

 ところで、ピアノを買ってもらったことについて少々書きたいと思います。
 上京している兄への仕送りで四苦八苦していたあの頃の我が家の家計状態でピアノを購入するなんて、とんでもない大きな買い物、白黒テレビを買う時に次いでの重大事件でした。
 選んだのはヤマハの一番背の低いピアノで色は茶色でした。「長期月賦」で買ったこの大きな買い物に、私よりもむしろ父親のほうがひどく興奮していたのをはっきり覚えています。
 そのやっとの思いで買ってもらったピアノで、朝から晩まで思う存分練習できたのでしたが、それぐらいのことではまだ音大受験のカベは厚かったのです。なんと無情にもまた!『不合格』。 ピアノでステージ経験のない私は、やはりどうしてもカーッと上がってしまい、実力の半分も出せなかったのでした。
 2度も受験に失敗した私には、もう未来は無いのだと、地獄にでも落ちたような気持ちに打ちのめされてしまったのでした。

 
9『ホームレッスンでのエピソード』

 レッスンは、1時間弱でアッとい間に終わりですが、中身は濃いものでした。数カ月後には、同じ大学の声楽の講師を紹介していただき、続いて聴音、ソルフェージュの先生にも付くことになり、一日に3人の先生のお宅を回り充実した受験生活でした。
でも、さすが夜行列車で二晩過ごすのはきつく、東京から帰った月曜の授業はとても辛かったです。
 悲しいエピソードがひとつあります。それは冬の出来ごとで、列車が吹雪のために、途中の駅で立ち往生し半日以上も遅れたのです。先生のお宅には、それぞれ地方から私と同じようにレッスンを受けに来ている人がたくさんいました。
 でも、空き時間があったら・・・と思い連絡したところ、先生が指定してくださった時間では、帰りの列車に乗り遅れてしまいます。仕方がないので泣く泣く諦め、その日は、新宿のデパートをただブラブラしただけの「悲しい一日」でした。おまけに帰りも大幅に遅れ、この時は雪を恨みました。

10『単身、先生を探しにイザ仙台へ』

 でも、両親は「もう1年だけやってみたら」と優しく言ってくれたのでした。今度こそ受験を諦めさせられ、絶対働きに出されるだろうと腹をくくっていた時のこの一言は今でも忘れられません。
 もう心機一転、もはや今の先生にこれ以上迷惑はかけられないと、単身、ピアノの先生と声楽の先生を仙台市に探しに行ったのです。職業別電話帳を片手に。ついでに予備校にも入校手続きをしました。まさにワラをもつかむ大胆な戦法でした。
 それからはうまい具合に事が運び、「聴音」は近所に住むお医者さんのお嬢さまに見ていただくことになり、ピアノ・ソルフェージュと声楽・聴音の先生3人に習うという、まさに「背水の陣態勢」を固めました。楽典だけは得意でしたのでこれまでどうり独学でした。
 このころの不安定な私の心の支えになってくれた先ほどの上品で優しくてきれいな「お嬢さま」に抱いた淡い恋心は想像していただけると思います。

 
10『タイガースを追っかけながら・・』

 でも、東京行きには密かな楽しみもありました。当時流行ったグループサウンズ『タイガース』の熱狂的ファンだったので、上京したときにはジャズ喫茶を渡り歩き「追っかけ」をやっていました。数時間前までバッハ・べートーヴェンを真剣に弾いていたとは思えないような変身ぶりでした。それこそ黄色い声で「ジュリー!」と騒いでいたのですから、まさに「忙中閑あり」です。
 くやしさを味わった夏期講習から4ヶ月後に受けた冬期講習は、猛練習・猛特訓の成果があり、講議の内容も大分理解できるようになっていました。
 約1週間、大学の寮で過ごしたのですが、冬休みだというのに帰省せずに練習に励んでいる音大生も結構いました。「ポロロン、アアア〜、パララ〜、ドンドン・・」練習室からは、ピアノ・声楽・管楽器・打楽器の音がごちゃまぜになって聞こえてきます。単なる騒音にしか聞こえないそれらの音に感動を覚え「もう絶対この音大(国立音楽大学)に入る!」と益々決心を固めたのでした。

11『天上の響き/グレゴリオ聖歌』

 そのお嬢様は家族ぐるみのカトリック信者でした。そして、レッスンの合間にしてくれた教会の話しなどがきっかけで、仙台市にある教会の日曜学校に参加することになりました。ここで出会った人々、体験した事などが、私の将来に大きな影響を与えたのです。特に「グレゴリオ聖歌」の天上の音楽とも思えるアカペラ(無伴奏)のメロディのインパクトはこれまで経験したことがない、とてつもなく大きいものでした。
 そしてごく自然に、混声合唱の聖歌隊で合唱活動を再開し、宗教音楽、特に讃美歌を数多く知ると共に、牧師さんからこのグレゴリオ聖歌の権威のひとりが、私の目ざす国立音楽大学教授の作曲家・高田三郎氏(合唱組曲/水のいのちなどで有名)だと聞き、一日も早く、その教授の授業を受けたい等と、ますます夢はふくらんでいったのです。
 そして、もうひとつの経験が自分の意外な面を見つけることになるのです。

 
11『卒業式には出席せず、上京』

 こうして3年間、夏期・冬期講習を受講し、遊びたい時も程々に、そうして学校祭や球技大会も自主休校。おまけに休み時間は、ひたすら楽典の問題練習。そのため、学校から親が呼び出され「何事も学校第一に考えてください」とキツイお言葉をいただいたりもしました。
 「ピアノを本格的に始めたのが遅かった」というギャップを常に背負っていたため、親も、学校の先生には「音大に合格するためには、子供の好きなようにさせてやりたい」と話したようです。親には、金銭的にもかなり負担をかけた他に精神的負担もかけていたようです。
 3年生の2月上旬になると、卒業式までの間はほとんど学校に行かなくても良くなります。それぞれ自宅で受験勉強をするのです。私の場合、受験日が卒業式とぶつかっていたので、どうせ式には出席できないのだからということで、レッスンを受けるため、早々に上京しました。

12『子供好きの自分を発見』

 日曜学校にたびたび参加しているうちに、幼児や小学生などの歌やゲームの指導を少しだけ任せられる事がありました。そうやって小さな子供達と接しているうちに、特に幼児になつかれる自分を意識し始まったのです。そういえば、中高生の時も近所の小さな子供達にやたら好かれてよく遊んであげたことを覚えています。自分はひょっとしたら、子供達と接する仕事をするのに向いているんじゃないかと、この時期より強く考えるようになってきたのです。
 ところで、右の明子さんの書いているような、受ける音楽大学の教授に付くと、いろいろ情報やコネのことで便利だということ、また夏期および冬期講習を受けておくことが受験では常識のように思われていることを当時知っていたのか知らなかったのか今では定かではありませんが、成人式への不参加と同様、多分に「フン、そんなもの!」という具合に、ヒガミとツッ張りでいたのかもしれません。

 
12『周囲の優しさに包まれた日々』

 その時、すでに心に決めていたことがありました。「もし、受験に失敗したら、そのまま東京で浪人しよう」と。そのため、寝具他日用品すべてを親戚の家に送ったのです。寝泊まりは親戚の世話になるから良かったのですが、困ったのは練習用ピアノです。叔母に頼み何とか探してもらいましたが、見ず知らずのお宅で、そこの子供さんが学校へ行っている間に練習するのですが、それがなんとも苦痛でした。ピアノはまだいいのですが、声楽は悲惨でした。まだ完成していない声で「ア〜ア〜」やるのですから、そこのお宅そして隣近所は、さぞかし迷惑だったことと思います。でも、とてもよくしていただき、ほとんど毎日練習しに行っていました。
 試験日までの約半月、ピアノ、声楽それにソルフェージュの、3人の先生のお宅に一日おきの割合で通い何とか手応えを感じるようになっていました。先生方がみんな温かく迎えてくださったことが、大きな心の支えでした。

13『3回目の挑戦に、着々と準備』

 まあ、それぞれ3人のプロに習ってみると私の知らないことばかり。フォーム、発声法、少ない時間でうまくなる能率の良い練習法など・・1レッスン(ピアノと声楽の先生)ごといくらいくらと我が家にとっては相当高い謝礼でしたが、内容はこれまで受けてきたものとは雲泥の差がありました。それらを深く教わらなかった自分は、これまで2度も落ちるはずだと身にしみて思い知らされました。
 ピアノは武蔵野音楽大学出身の中年の女性、声楽は宮城教育大学中年男性講師(現在は教授)の門をたたいたわけですが、受験願書に自分の付いた先生の出身大学を書く欄があったような記憶があります。でも、その時はそのようなことを考えている余裕などはありませんでした。結果的にはそれらは合否に全く関係なかったことでしたが、音楽に対する取り組み方と生徒に対する温かい心をこの先生方から大分学んだように思います。
 そして、いよいよ3回目の挑戦・・

 
13『受験番号1844イッパツヨシ』
 受験日までの半月の間。都内のあちこちにある先生宅に通うための交通費。そして月謝に相当するほどのワンレッスンの謝礼。新札が足りず、お札にアイロンをかけたりして、それをワンレッスンごと「のし袋」に入れたのを両親から手渡された時は「絶対に合格しなければ」と思いました。この頃の両親の生活は、かなり大変だったようで、妹までわたしのためにいろんな意味での我慢を強いられたようです。こうして家族みんなを巻き込んでしまっての音楽大学受験でした。
 受験番号1844「イッパツヨシ」もちろん一発で合格。この喜びは、一生忘れません。自分の努力ももちろんですが、先生そして家族の温かい励ましのお陰で希望通りの大学に合格できたのです。小学校の時からの夢が、夢で終わらず実現できた事は本当に幸せだと思います。苦労して入つた大学だったので、もちろん、4年間まじめに「寮生活」を送りました。
ここで、ひとまずペンを置きます・・

14『初めて見た父親の男泣きする姿』

 依然として、公開の場でピアノ演奏の経験の無い私でしたが、「聴音」の先生のグランドピアノを御好意でたびたび弾かせていただいたり、声楽を聴いてもらったお陰で、これまでになく自信がついていました。そして3人の先生の「絶対大丈夫!」の言葉を背に受けて、準備万端怠りなし、両親と「水さかずき」を酌み交わすような気持ちで三度目の挑戦に上京したのです。ズラリと並んだ試験官の教授の前で、もう決して火ダルマにはなりませんでした。
 そして合格の発表は、上京していた兄からの呼び出し電話(我が家には電話がありませんでした。)にて知らされました。もう言葉にならない感動。普段から涙もろい母親はもちろんですが、いつもはおとなしい父親が、この時私の手を取り、声を上げて男泣きしたのを私は生まれて初めて見ました。
 そして、これからも更にイバラの道が待っているとも知らずに、再び憧れの東京へ・・(完)

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14『入学式で見た老けこんだ男性』

 私は先週の会報で音大に合格したところまで書いたのに、おや〜、隣の秀樹さん、まだ続けて書いているなんて・・私より2年も多く御飯を食べているから仕方無いのかも知れませんが。
 ところで、入学式の日、新入学生の中にやたら老けこんだ男性がいるなあと思っていましたら、何とその人と同じクラスになってしまったのです。次の日、また何と、素足に下駄履きで、そのうえ楽譜や教科書を入れた風呂敷包みを持つて教室に来るんですから、あきれかえってしまいました。雨傘のことを「コウモリ」と言うし、私も田舎者だけれど、それ以上の人だワなんて思っていましたら、クラスの自己紹介の時、その人が宮城県出身と分かり、同じ東北人どうし何か気が合ってしまったのです。そしてお互いの音楽的境遇を話しているうちに何か共通点があることを知ったのです。
 そうやってその後どうなったかは . . 読者の皆さん、プライバシーが . . (完)

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という私どもの境遇を書いてみましたが、これらで得た
数多くの経験、そして失敗などから得た教訓は、
現在の「いがらしピアノ音楽教室」の皆さんへの
レッスンに生かされています。
おしまいまでお読みいただきまして
どうもありがとうございました。

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