黒い月の影………
何事もなく………というのは語弊があるかもしれない。実際、何もなかったわけでもない。ただ、それほど大きな事件が起こらなかったというだけだ。“毛むくじゃら”のバケモノも、あれから一度しか出現していない。それも、たった一体だけ。操っている者もいなかったので、イレギュラーの出現だったのだろう。
そのたった一度の事件は、セーラーサンが速やかに処理をした。セーラームーンとジュピターがその場にはいたのだが、彼女のレベルアップを計るために、ギリギリまで助けには入らなかった。と、言うより、入る必要もなかった。セーラーサンひとりで、充分対処できてしまった。もちろん、アポロンのサポートがあってのことだが………。
“毛むくじゃら”にされていた女の子(やはり、女の子だった)は、都内の高校の生徒らしかったが、麻布十番近辺の生徒ではないようだった。
そして、更に数日が過ぎた。
爽やかの朝のひとときだった。
レイと陽子は、そろってT・A女学院に登校する。
その爽やかな朝を、見事にぶち壊すかのような声………。
「あら、火野さんおはよう………」
朝から嫌な人物に会ってしまったと、レイはげんなりとした。思えば今日は、寝起きからいいことがない。目を覚ましたとたん、いきなり低級の悪霊たちが枕元で雑談をしているし、ふんどし姿で寒風摩擦をしている優一郎の姿を見てしまうし(レイにとっては、悪いことらしい)、おまけに朝食につくった味噌汁には出汁を取るのを忘れてしまうし、さんざんな朝であった。
そして、極めつけはこれである。一緒に登校している陽子が、気の毒そうにレイを見ている。
「あぁ………。ついてない………」
がっくりと肩を落とした。
「何ですの!? 冴えない顔をして………。おっと、ごめんあそばせ。普段からそういうお顔でしたわね………」
レイの一番苦手な相手───弥勒院玲子は、まるで「白鳥麗子」嬢のような甲高い笑いを発した。数人の取り巻きの女の子を従え、まるで女王様気取りである。いや、実際女王様を気取っているのだ。ただ、レイのように複数の男子校に「追っかけ」がいるという噂は耳にしていない。美人ではあるが、傲慢で嫌味な性格の彼女は、男性にはあまり人気がないのかもしれなかった。
「ほっといてくださらない?」
つっけんどんに、レイは言う。
「そうはいきませんわ!」
玲子がヌッとばかりに顔を突き出す。
あまりにものドアップに耐えられず、横にいた陽子の方が、思わず身を引いてしまったほどだ。玲子の顔が、見るに耐えないと言うわけではない。玲子はもちろん、本人が自負するように美人である。世間一般から見ても、美人であることには間違いない。陽子はただ、驚いただけである。
それが気に食わなかったのか、玲子は物凄い形相で陽子を睨んでいる。
レイはと言うと、さも面倒くさそうに視線だけ、玲子に向けた。
「今日こそは決着をつけてもらうわよ!」
「なんの決着なんですの………?」
「どちらが当学園の女王に相応しいか、よ!」
当然と言わんばかりに、玲子は胸を反らせてみせた。彼女の取り巻きの女の子たちも、同様に胸を反らせてみせる。
「あっそ………。そんなこと………」
どんな用があるのかと思ったら、やはりどうでもいいようなことだった。レイはがっくりと肩を落とす。
「………でしたら、女王はあなたでいいですわよ。あたしはそんなことで、あなたと張り合う気なんてありませんから………」
レイにとっては、正にどうでもいいことだった。どちらが学園の女王かなどということなど、レイには関係のないことだった。だいいち、レイはチヤホヤされるということを、一番の苦手としていた。確かに下級生からラブレターをもらうこともしばしばあるし、愛の告白を受けたこともある。しかし、レイは生憎とそっちの趣味はない。もちろん、男性にはもっと興味がない。
「負けを認めるのね。火野レイ」
玲子は両手を腰に当て、大いばりである。玲子の取り巻きの女の子たちが、恍惚とした表情で彼女を見ている。
「勝手にやっててよ………。もうお願いだから、あたしに関わらないでね………」
うんざりとした顔でレイは言うと、さっさとその場から離れる。背後で聞こえる、玲子の馬鹿笑いが、やけに耳障りだった。
「自分が相手にされてないこと、いい加減分かってもいいと思うんだけどね………」
陽子はひとり、肩を竦める。
生徒が何人も行方不明になっているというのに、T・A女学院は普段となんら変わりがなかった。
変わったことと言えば、陽子が養父母の元を離れ、火川神社に下宿するようになったことくらいだろうか。下宿は彼女の強っての願いであったのだが、レイもその方が彼女のことをガードしやすかったので、断ることはしなかった。陽子の養父母の方も、特別に反対はしなかったという。養父母にとっては、いい厄介払いができたということなのだろうか。
「彼女は、また襲われるわよ」
ルナがああも断定的に言うことは少なかったので、かなりの自身があるのだろうと思う。
囮に使うというつもりは毛頭ないが、陽子が襲われるということは、敵が出てくるということに等しい。敵の真意を掴むためには、やはりその敵と接触する必要がある。もっとも、敵が女子学生ばかり狙うのなら、レイや他のメンバーたちも狙われる可能性はあるのだ。気を付けなければならない。
「ひとりでは、絶対に行動しないように」
アポロンは、皆にそう注意を促していた。
「あら、おはよう。火野さん」
再び声をかけられたレイは、「またか」という風に振り返った。
「ああ!」
振り返ったレイの表情が、ぱあっと明るくなった。声をかけてきたのが、あの嫌味な女ではなかったのである。
「おはようございます。ことの部長」
レイは暖かな笑みを送る。ことのも同じく、暖かな微笑みを返す。
「部長はやめてくださらない? あたしはもう高等部じゃないんですから………」
そう言って笑うことのは、今年高等部から短期大学部へ進級していた。ことの面識のない陽子は、軽く会釈をしただけだった。会話には加わらない。
T・A女学院の短期大学は、同じ敷地内にはない。徒歩で五分程離れた場所にある。ことのがこちらに来ているということは、当然何か理由があるのだろうが、レイは恐ろしくて質問することができなかった。何となく、その理由が分かっていたからだ。
「でも、短大部の方でも、『超常研』を作ったんでしょう?」
さりげなく話題を逸らすつもりが、レイは墓穴を掘ってしまった。
「まあね」
ことのはウインクしてきた。ことのにしては珍しい仕草だった。レイは「しまった」と心の中で叫んでいた。「超常研」の話題だけは、避けなければならなかったのだ。
「秋の学祭には、今年も協力してくださいね」
超常現象研究部部長・更科ことのは、レイの両手を取って、にこにこしながら頼み込む。
レイは四年前の中等部の二年生だった頃から、同じく中等部の三年だったことのの超常現象研究部、略して「超常研」の学園祭の出し物に協力していた。高等部には「超常研」はなかったために、一去年のレイはクラスの出し物だけにしか参加をしていなかったが、昨年生徒会の委員長になったことのが、強引に「超常研」を作ってしまったことで、去年から再び参加させられることになってしまっていた。今年はことのが高等部から短大部へ移ったこともあり、今度こそ解放されると考えていたのだが、そうもいかないようだった。超常現象研究会なるサークルをことのが作ったらしいのだ。
「え、ええ。ぜひ………」
ことのに頼まれると、どうも嫌とは言えないレイは、これで今年の学祭では「超常研」の出し物として、占いの出店をやるはめになりそうだった。レイが正式に部活動に参加している弓道部の方で、特別に何の催し物をやらないことを、ただひたすら祈るだけである。
ある意味では、ことのもレイにとっては苦手なタイプなのかもしれない。
「じゃあ、また………」
軽く会釈をして、レイはきびすを返す。と、
ドン。
向きを直したとたん、レイは人とぶつかってしまった。
「す、すみません。シスター………」
ぶつかった相手がシスターだと分かると、レイは慌てて頭を下げた。
「まえを見てあるかないと、事故にあいますわよ………」
「!!」
レイは自分の心臓が停止したのではないかと思った。
レイを注意したシスターの額には、黒い三日月のしるしがあった。その三日月を見たがために、レイは心臓が止まる思いをしたのだ。
シスターはあのときと同じく、四人連れだっていた。そしてレイは、あのときと同じ、最後尾を歩くシスターとぶつかったのだ。
シスターは冷たい笑みを浮かべてレイを注意すると、前をゆく三人に付いて、ゆっくりとした足どりで歩いていく。
「火野さん、どうしたの? 顔色が悪いわよ………」
陽子が心配して覗き込む。
「ありがとう………。平気よ………」
曖昧な笑みを浮かべるレイは、緊張したように、校舎の陰に消えていったシスターたちの方を凝視したままだ。
「………なんか、焦げ臭い………」
ことのが硬い表情で呟く。彼女にとっては思い出したくない過去が、脳裏を巡る。まさかという視線を、恐る恐るレイに向けている。
弾かれたように、レイは走り出した。四人のシスターを追う。
見つけた。倒れている。ひとりだけ。他の三人のシスターの姿は見えない。
その光景に、レイは茫然と立ち尽くしてしまう。
「きゃあ!!」
遅れてきたことのが、レイの背後で悲鳴をあげる。
「こんなことって、こんなことって………!!」
ことのは両手で顔を覆って、大きくかぶりを振っている。
「人間の、自然発火………?」
陽子が震える声で、小さく言った。
(あのときと、全く同じだ………)
レイは戦慄を覚えていた。四年前のあのときと、全く同じ光景に出会したのだ。
まるで、デジャ・ブーだった。
レイは小刻みに震えていた。偶然に、こんなことが起こるわけがないと考えたからだ。
明らかに、なにものかの手が加えられている。確信に近いものがあった。
やつらが再びやってきたのか………? あのときと全く同じ状況を作って見せ、自分たちに対する挑戦状のつもりなのか?
肌が粟立ち、喉がカラカラになった。
「ブラックムーンの生き残りがいるって言うの………? まさか、今度のことにも絡んでいるの………?」
そう思ってはみたものの、まだなんの接点もないことも、レイには分かっていた。
まだ、偶然の域を脱していないのだ。