ACT.2 亜美 SAILORMERCURY



 冷たい風が吹き荒ぶ。
 巨大な石造りの建造物はその大部分が風化し、本来の原型を留めてはいなかった。
 場所は判然としなかった。建物の形状から、地中海近辺などで見受けられる古代遺跡にも見えるが、それにしては不自然な点が多かった。第一に気候である。季節は五月だというのに、建物の中に吹き込んでくる風には、雪が混じっていた。地中海の近辺で、雪自体が降るなどという場所はあまり聞いたことがない。
 建材も異質な感じがした。神々の遺跡のような形状をしてはいるが、闇よりも深い漆黒の石で組まれた建造物なのである。
 邪悪な空気が漂っていた。
 闇に埋もれていた建物の深奥部で、何かが淡い光を放った。水晶だった。青い冷たい光を放っていた。
「………まだ、見付からぬのか。“幻の銀水晶”は………」
 声がした。女性の声だった。低く、地の底から響いてくるような声だった。水晶の明かりに照らされて、その姿がぼんやりと闇に浮かび上がる。だが、明かりが弱すぎて、はっきりと姿を映し出すことはできなかった。ただ、水晶を捏ねるような手の動きだけが、はっきりと見て取れた。
「………はい。申し訳ありません」
 畏まった男の声が答えた。若く張りのある声だ。
「………われらが大いなる支配者は、パワーを欲しておられる。エナジーを集めよ。そして一刻も早く、“幻の銀水晶”を探し出せ」
 女性の声が再び響いた。抑揚のないゆっくりとした口調であったが、有無を言わさぬ威厳が感じられた。
「わかっております」
 別の男の声が答える。先程の声と比べると、トーンが非常に低い。
「邪魔者がいるとなれば始末をするまで」
「待て、クンツァイト」
 若い方の声が割って入ってきた。
「確かに以前はお前の担当地域であったが、今は俺の受け持ちだと言うことを忘れるな。出過ぎた真似をしてもらっては困るな。………ああ、そう言えば、お前はかの邪魔者を消し損なって、中東支部へ廻ったのだったな」
「くっ」
 クンツァイトと呼ばれた男は、悔しげに呻いた。二の句が継げなかった。実際に失態を犯したのは部下なのだが、指示を送っていたのはクンツァイト本人だった。責任を取らされる形で、過酷な調査が必要となる中東支部へ派遣されたのは、つい一ヶ月程前のことだった。代わって極東支部に着任したのが、南米支部で猛威を振るったジェダイトだった。
「“幻の銀水晶”探索と邪魔者の抹殺。この極東支部長ジェダイトにお任せを! クイン・ベリル」
 若い男は自信ありげに言い放った。

「ただいまーっ」
 うさぎが元気よく帰宅した。
「おかえり、うさぎ」
 出迎えた育子ママは、そのうさぎに続いて帰宅してきた小さな物体に気付いた。
「あらっ。三日月ハゲちゃんも一緒なの? でも、ごはんはまだよ」
 小走りに家の中に飛び込んできた黒ネコのルナは、ひらりとジャンプして育子ママに飛び乗ったかと思うと、その顔を引っ掻いた。もちろん、爪は引っ込めてある。女性の顔を爪で引っ掻くほど、ルナは常識外れではない。ちょっとした不満解消のために、ネコらしくじゃれて見せただけである。
「ママ、何度も言うケド、名前はルナ。ハゲっ言うと、引っ掻くわよ、そのネコ」
 うさぎが注意する。
 月野家にルナが来てから、数日が経過していた。人語を解すルナだったが、見た目はただの黒猫である。迷い込んできた捨て猫と言う肩書きで、ルナは月野家に居座った。もちろん、家族に説明したのはうさぎである。ルナが書いた筋書き通りに、うさぎは名女優ぶりを発揮して、ルナを飼い猫とすることを両親に承諾させたのである。
「あー、おなかすいた」
 机の上に鞄を置き、着替えてからおやつでも食べようかと考えているうさぎを、ドアの隙間からルナが覗き見していた。
「───ルナ。ウチに居座って、あたしを監視しようと言うの?」
 ルナの視線の意味を敏感に感じ取ったうさぎは、何やらご機嫌斜めだった。ルナはうさぎの部屋におじゃますると、机の上にぴょんと飛び乗った。
「何言ってんの! うさぎちゃんはまだ、正義の戦士になったばかりでしょ!? 敵はまた現れるわよ! 教えておかなきゃいけないコト、いっぱいあるんだからっ」
「え゛───あたし、あんなコワイ思いもう二度といやぁんっ」
 力説するルナだったが、うさぎは逃げ腰である。この間は何とか勝てたものの、次も上手くいくとは限らない。
「だいたい、敵って何なのよっ。ルナッ」
「人間じゃない。───ってコトは、うさぎちゃんももう分かってるでしょ!?」
 先日の戦いで、ムーン・フリスビーの直撃を受けた怪物が、砂のようにボロボロと崩れ落ちていく様は、うさぎもその目で見ている。人間ではあんな現象は起きないはずだ。それに、相手が人間であったなら、殺人になってしまう。
「邪悪なモノ。この世に存在してはならないモノよ」
 ルナの話は続く。
「うさぎちゃんには仲間がいるわ。仲間の戦士を早く捜さなきゃ! そして、あたしたちのプリンセスを見付け出して、敵から守るのよ!」
「仲間にプリンセスかぁ」
 真剣なルナに対し、うさぎはどうにも頼りがない。プリンセスと言う言葉に、ロマンチックな印象を受けて、頬を高揚させている。と、その時、うさぎの脳裏にある人物の横顔が浮かんだ。絶体絶命の自分(実際には叱咤されただけなのだが、既にうさぎの頭の中では美化されている)を救ってくれた、あの怪盗紳士タキシード仮面である。
「ねぇねぇ。あのタキシード仮面、そしてセーラーVちゃんは! あのヒトたちは!? 仲間よ、きっと!」
 世間を騒がす難事件を次々と解決しているセーラーVも、もしかしたら自分と同じではないかとうさぎは推測した。ひとりよりふたり、ふたりよりさんにん。仲間は多いことに越したことはない。
「───ふたりめの仲間の、目星はもう付いているの」
 ルナの呟きは、うさぎの耳には届かなかった。

 ゲームセンター“クラウン”───うさぎが下校途中に寄る格好の遊び場である。ルナが最
近、このゲームセンター近くに出没するようになったのには、うさぎを捜すと言う目的以外、もうひとつあった。
 それは、ゲームセンター“クラウン”の地下に、彼女の秘密のアジトがあるからだった。もともと地下室を作る予定で立てられたビルだった為か、アジトを構えるには充分なスペースがあった。計画があっただけで、結局作られることのなかった地下室になるはずの空間の存在を、知っている者は少ないはずで、アジトの存在を発見される恐れが皆無だと考えたからだ。もっとも、このアジトはルナが自分で作ったものではなく、以前まで彼女の仲間が使用していたものを、現在使っているにすぎなかった。
 うさぎが眠りに付いた後、ルナは窓からこっそり家を抜け出し、“クラウン”の地下のアジトへとやってきた。今日一日掛けて調査した「ふたりめの仲間」だろう人物のデータを、アジトのコンピュータで解析するためだった。
 ディスプレイに少女の顔写真が映し出される。うさぎと同い年くらいの少女だった。ショートカットにした髪型が、彼女によく似合っている。
 今日一日で調査できたことと言えば、この顔写真を入手したことと、誕生年月日、家族構成などが判明した程度のことだった。名前は昨日判明していた。
「水野亜美」
 それが彼女の名前だった。
 ディスプレイに映し出されている顔写真が画面の右側にスライドし、空いた空間に彼女の名前や生年月日、血液型などが表示される。だが、ルナの興味は活字のデータにはなかった。自ら必死で調べたデータだったのだが、活字で表せるような単純なものを、実は欲していなかった。必要最低限の情報として調べただけで、彼女の求めている情報は別にあった。
 ルナは「水野亜美」の顔写真を見つめていた。その中でも注目しているのは、彼女の額であった。「水野亜美」が、ルナの捜している「仲間」だったとしたら、その額には「戦士」である印が浮き出るはずなのだ。浮き出た印が「戦士」のものではなく、「王家」のものであれば、それは彼女がルナの捜している「プリンセス」であることを意味する。だからこそ、ルナは彼女の額に注目しているのである。だが、通常の顔写真に、その印が現れるはずもなく、ルナは彼女の監視を続けなくてはならなかった。「水野亜美」がもし「プリンセス」であったとしたら、邪悪な者共に命を狙われる可能性があるからだ。

 水野亜美は、うさぎと同じ十番中学校に通っていた。学年もうさぎと同じである。クラスが違うので、うさぎも直接彼女と接したことはなかった。
 天才少女と噂される水野亜美は、その称号に相応しく、成績も学年で常にトップであった。いや、彼女の場合、十番中学だけに留まらなかった。全国でもトップの成績を収めているのである。先日行われた中間試験も、全教科満点という偉業を成し遂げた。IQは300と噂され、将来を有望視された少女だったのである。中学卒業後は日本の高校には入学せず、海外の大学へ進学するのではないかと言われている。
 天才少女水野亜美の噂は、うさぎの耳にも届いていた。珍しく遅刻を免れた彼女は、天才少女の話題で盛り上がっているクラスメイトの輪の中に、早速参加していた。
「今度できたクリスタルゼミナールって知ってます?」
 海野が聞いてきた。その名はうさぎも知っていた。確か、超エリートだけが通うことが許されている進学塾である。ゲームセンター“クラウン”の直ぐ近くに、最近開講した塾のはずだ。
「水野さんはあそこへ行ってるんですよ」
 うさぎが相槌を打つと、海野は空かさず自慢げに話す。自らの情報網で得た丸秘情報だそうだ。
「ものすごいお金がかかるって、パパ言ってたケド」
「水野さんは、母親が医者ですからね」
 どこで仕入れた情報なのか、海野はそんなことまで知っていた。下手をすると生年月日や血液型、はたまたスリーサイズまでも知っているかもしれなかったが、そんなことをうさぎは聞く気はなかった。
「頭も良くてお金持ちかぁ………。世界が違うわね」
 なるちゃんが溜息混じりに言う。
「でも彼女ってクールだし、取っつき難そう。友達いないってウワサよ」
 ゆみこの一言は、何故かうさぎの心に重く残った。

 うさぎの中間試験の成績は、悲惨極まりなかった。とても母親に見せられるような成績ではない。そうでなくても最近は、塾へ通へとうるさいのに、こんな成績を見せたら間違いなく強制的に塾へと行かされてしまう。それだけは絶対に阻止したい。塾などへ行っていたら、遊ぶ時間が減ってしまう。
 色々と思案しながらトボトボと帰宅していたうさぎは、前方を歩く人影を目にした。自分と同じセーラー服を着ていた。横顔がちらりと見えた。
 噂の天才少女だった。
 今まで気付かなかったが、帰る方向が同じだったようだ。
 その天才少女の頭上に、ふわりと何かが飛び乗った。黒毛の猫だった。ルナである。
「ああ、びっくりした」
 頭に飛び乗ってきたものが愛くるしい猫だとしった瞬間、天才少女は安堵の声を上げた。得体の知れないものが頭上から降ってきたともなると、誰しも恐怖心を抱くだろう。天才少女とて、それは同じだった。
「うちもマンションじゃなかったら、こんな猫を飼えるのに………」
 天才少女はそう言いながら、ルナの喉を撫でている。猫は好きなようだった。嬉しそうに頬摺りまでしている。
───みんな言うのと、感じが違うな。
 うさぎの第一印象だった。クールな少女。ガリ勉ロボット。彼女は、クラスの中でもそう陰口を叩かれていた。笑ったところを見たことがない。天才少女を知るうさぎの友人たちは、口を揃えてそう言っていた。だが、今、目の前にいる天才少女は、他人から聞かされていた印象とは大きく異なっていた。笑っているのである。素敵な笑顔だ。こんな笑顔を作れるヒトに、悪いヒトなどいるわけがない。
 ルナがうさぎに気付いた。天才少女の腕の中から、うさぎの頭の上に飛び移る。
「ごめんね、うちのネコなの。大丈夫だった?」
 うさぎは思い切って声を掛けていた。友人の言うことが正しければ、天才少女からは返事が返ってこないはずだった。
「その猫、空からトツゼン降ってきたのよ。天使かと思っちゃった」
 天才少女から答えが返ってきた。しかも驚くような発想で。
 言ってしまってから、自分の言葉があまりにも非現実的でメルヘンチックだったことに気付いた天才少女は、思わず頬を赤らめていた。その仕草がとても愛らしかった。
───なんか、カワイイぞっ。このヒト。
 うさぎはそう感じていた。彼女の陰口を叩いている連中は、明らかにこういった彼女の一面を知らない人たちだと思えた。
「五組の水野亜美さんだよね? あたしは一組の月野うさぎ。このコは、ルナって言うの」
 自分とルナを紹介したうさぎだったが、同時に悪い虫が騒ぎ出した。天才少女と仲良くなれば、テストでのヤマとかを教えてもらえるかもしれないと思ったのだ。いかに楽をして成績を上げるかが、うさぎの永遠の課題であった。
 うさぎの邪な考えに気付いたのか、はたまた別の目的を思い立ったのか、ルナはうさぎの腕から飛び降りると、前方に向かって走り出した。
 ルナを追ううさぎの目が、前方のゲームセンター“クラウン”を捉えた。
「………水野さんは、ゲーセンなんていかない? よ、ね?」
 試しに訊いて見たが、天才少女は首を縦には振らなかった。

「このセーラーVゲームがねっ。すっごく難しくって、すぐやられちゃうの」
 結局うさぎは、天才少女を連れて“クラウン”の自動扉を潜っていた。お目当てはもちろん、セーラーVゲームである。最近のうさぎは、学校の帰り道に“クラウン”でセーラーVゲームをプレイすることが日課となっていた。学校帰りに寄り道をするなと口うるさいルナも、何故か“クラウン”に寄ることだけは咎めなかった。だから安心(?)して、うさぎはゲーセンで道草を食うことができた。
 二回目のプレイがゲームオーバーとなったところで、百円玉がなくなった。キリの良いところだったのでうさぎはプレイを止め、後ろで見ていた天才少女にゲームを勧めた。
 天才少女がセーラーVゲームをプレイしだした途端、“ クラウン”の中の空気が一変した。
 初めてプレイしたはずなのに、次々と面をクリアしていく天才少女水野亜美の周りには、既に人だかりが出来ていた。うさぎが四苦八苦していた面もあっさりとクリアし、天才少女の操るセーラーVは、ズンズンと突き進んでいく。
 唖然とする周囲を尻目に、ついにはエンディングを迎えるにまで達した。もちろん、ダントツで最高得点をマークした。
 いつの間にか人だかりに紛れ込んでいたアルバイトのお兄さんが言うには、エンディングに到達したのは、彼女が初めてらしかった。
 スタッフロールが終了し、ネームエントリーが完了すると景品が出てきた。アクションゲームで景品が出ること事態珍しいのだが、ゲーセンを知らない亜美は、特に驚いた様子はなかった。景品があるなどとは知らなかったアルバイトのお兄さんは、またまた驚かされることになったが、既にうさぎたちの興味はゲームにはなく、出てきた景品に移っていた。
 景品は、変わったキャップの付いたペンだった。
「あたしもほしーい」
 貰えるものならなんでも欲しいうさぎは、亜美のペンを羨ましがった。叩けばもうひとつぐらい出てくるだろうと、ゲームの筐体をボコボコと叩く。ついに根負け(?)した筐体は、うさぎの為に貴重な景品をひとつ無償で吐き出した。やはりペンであったが、亜美のものとは付いているキャップが違った。
 喜ぶうさぎの背後で、アルバイトのお兄さんが嘆いていたが、うさぎは全く気付いていなかった。
「おもしろいわね、月野さんて」
 そんなうさぎの姿を見て、天才少女もクスクスと笑った。
「うさぎって、呼んでよ。あたしも亜美ちゃんて呼んでいい?」
「うん」
 うさぎの申し出に、亜美は快く頷いた。
 ふと、壁に掛けられている時計を見上げた亜美は、塾に行く時間が迫っていることを知った。
 亜美の通うクリスタルゼミナールは、“クラウン”の直ぐ近くにあった。亜美の話では、ゼミは毎日あるとのことだった。
「あたしは勉強くらいしか取り柄がないしね」
 そう言って少し寂しそうに笑うと、すぐに気持ちを切り替えた。
「ママみたいに医者になりたいの。がんばらなきゃ」
 今度は希望に満ちた笑顔を、うさぎに向けた。だがうさぎは、先程見せた寂しげな笑顔の方が、亜美の現在の心境を物語っているようで、ひどく気になった。

 クリスタル・ゼミナールの授業は、全てパソコンを使って行われる。講師はいない。教科ごとに分類されたカリキュラムが収められたMOディスクが、講師の代役を務める。ゼミ以外でも、MOディスクとノートパソコンさえ持っていれば、いつでもどこでも好きな時間に授業の続きができるとあって、生徒たちからは評価が高かった。
 授業中も終始無言である。パソコンのファンの音とマウスをクリックする音、そしてキーボードを叩く音だけが教室に響いている。各教室には、講師という立場ではなく、アドバイザーとして生徒からの突発的な質問に答えられるゼミの職員が、常時一名待機している。
「水野さん、期待しているわよ」
 授業が終了し、パソコンの電源を切った亜美の肩に、アドバイザーの女性が手を置いて話し掛けてきた。亜美のいる教室専属のアドバイザーである。
「あなたみたいな優秀なヒトが、明日の世界を背負って立つのよ。みんな、あなたを目指しているわ。どんどん勉強してレベルを上げるのよ」
 優秀な生徒を期待の眼差しで見つめる女性アドバイザーだったが、亜美の心には何か不安のようなものが立ちこめていた。理由は分からない。ただ、最近そう感じ始めただけだった。自分はこのまま、こうした授業を続けていてもいいのだろうかと。それは不安と言うより、疑問に近いものだったのかもしれない。

 六時間目の授業は体育だった。
 苦手な部類に入る体育の授業が終わり、残すはホームルームのみ。それが終われば放課後である。パックジュースを飲みながら一息付いているうさぎに、既に着替えを始めているなるちゃんが声を掛けてきた。
「角のフォションのアイスクリーム食べに行かない?」
 寄り道を誘われて断るうさぎではない。それがましてや、食べ物が絡むと尚更である。断る理由など全く無い。うさぎは二つ返事で了解した。
「くりちゃんもいかない?」
 うさぎは、直ぐ後ろで着替えていたはずのくりちゃんを誘った。が、そこにいると思っていたくりちゃんは、既に更衣室を出ようとしているところだった。うさぎの声にも反応せず、何かぶつぶつと言いながら、ひとりでさっさと更衣室を後にしてしまう。
 今日は殆ど話をする機会がなくて、今まで気が付かなかったが、何だか異様にやつれているような気がした。目も虚ろで覇気がない。体育の時間も精細がなかった。
「くりちゃん、クリスタルゼミ行きだしたんだって」
 心配そうにくりちゃんの出ていった後を見つめていたうさぎに、なるちゃんが言った。
「いま、みんな行ってるよねー」
 そのなるちゃんの言葉に、ゆみこが応じた。
「そんなに効果あんの? その塾」
 うさぎが質問する。ここに残された三人は、クリスタルゼミナールには通っていない。うさぎはレベル的に無理があるが、なるちゃんやゆみこなら通っていても不思議はない。
「あたしは行く気はないけどね………。でも、最近お母さんが煩いのよね」
 ゆみこは肩を竦める。なるちゃんにしても、クリスタルゼミナールに通う気はないようだった。
「聞いた話だと、講義は全部パソコンでやるんだって。内容が面白くって、講義に使っているディスクを持ち帰って、家でもガッコでも狂ったようにやるんだって」
 なるちゃんの情報源は、どうやら海野らしかった。海野はと言えば、彼もクリスタルゼミナールには行っていない。本人曰く、本当の天才はそんなところに行かなくてもいいのだそうだ。
「へぇ、ディスクねぇ………」
 勉強は嫌いであっても、どんな内容のディスクなのかが気になってしまうのが、うさぎと言う女の子だった。

 十番中学校の視聴覚室は、事前に申請さえすれば、放課後は五時までなら生徒が自由に使用することができた。もちろん、視聴覚室のスクリーンで映画などが見れるわけはなく、利用する生徒の殆どが、各机に備え付けのパソコンが目当てであった。インターネットにも接続されているパソコンの利用率は高く、視聴覚室の机は今日もほぼ満席であった。
 水野亜美もその中に混じって、パソコンのマウスをクリックしていた。しかし、彼女の場合、インターネットに接続して悪戯にサイトを覗きに行っている訳ではなく、あくまで勉強をするためにパソコンを利用しているのだった。
 使用しているのは、クリスタルゼミナールから支給されているMOディスクである。テスト形式で提出される質問に、答えをキーボードから打ち込み、正解ならば次の質問が画面に現れる。間違えた場合は別の画面に移動して、その正解を覚えるまで勉強することができた。選択問題や○×形式の問題などはひとつもない。全て答えをキーボードから打ち込まなければならない。偶然や勘などでは答えが導き出されないようになっているのである。
 ディスクを開いて次々に問題をクリアしている亜美は、さすが天才少女と言われるだけあるが、亜美にしてみれば、ディスクを使った勉強はあまり面白いものではなかった。キーボードで文字を打ち込む勉強は味気なく、やはりペンを使って自ら文字を書く方が自分に合っていると感じていた。だから亜美は、初めて間もないディスクを閉じ、書店で購入した問題集を見ながら、ノートにペンで答えを書いていた。一通り問題を解いてから、答え合わせをし、間違った箇所を勉強し直すのである。
 そんな亜美をうさぎが発見した。たまたま覗き込んだ視聴覚室に、亜美の姿を見付けたので、入ってきたのだった。
「あ! そのペン使ってるんだー」
 亜美の使用しているペンが、セーラーVゲームをクリアしたときの景品だったので、うさぎは何故か嬉しくなった。
「ねね! きょう、帰りにアイスクリーム食べにいかない?」
 喜々として亜美に話し掛けるうさぎを押し退けるようにして、視聴覚室から男女ふたりの生徒組が廊下へと出ていった。ちらりと見えた表情からは、覇気が全く感じられなかった。瞳も虚ろで、顔に血の気がなかった。
「早くゼミナールへ行かなきゃ」
 男子生徒が女子生徒に向かって呟いているのが、妙に耳に響いた。本来なら聞こえないはずの呟き声だったが、うさぎの耳にははっきりと聞き取れていた。それは亜美も同じだったらしい。
「………あたしもいかなきゃ、クリスタル・ゼミナール」
 思い出したように席を立ち、うさぎを残して視聴覚室を後にした。
「ミ゛ャー」
 ルナが足下から声を掛けてきた。
「ふられちゃったわ、亜美ちゃんに。あんなにやつれて、勉強のしすぎよ」
 うさぎは腰を落として、ルナの背中を撫でながら、小さくなっていく亜美の後ろ姿を心配そうに見送る。
 ルナが何かに気付いて、うさぎの手をすり抜けて視聴覚室へと駆け込んで行くと、亜美の使っていたパソコンの前で、うさぎを手招きした。
「あれっ。なに、コレ? 亜美ちゃんの忘れ物かな?」
 ルナが示すパソコンの置かれた机の上に、一枚のMOディスクが残されていた。

 既にゼミナールへ向かってしまった亜美に、その日の内には会えないと判断したうさぎは、MOディスクを一端家に持ち帰ることにした。次の日に渡せばいいと考えたのだ。
 正門を出たところで、何やら元気良く一枚のチラシを配っている女性が目立っていた。
「さあ、いまなら入会金はタダ!」
 その女性は甲高い声を張り上げながら、下校する十番中学校の生徒にもそのチラシを配りまくっていた。
「あなたもメキメキ実力が付くわよ!」
 うさぎは目の前に出されたチラシを、反射的に受け取ってしまった。別に受け取るつもりはなくても、目の前に出されると手が勝手に出てしまうのである。お陰でうさぎ部屋には、広告を兼ねたポケットティッシュが、山のような在庫となっている。
「亜美ちゃんだ」
 チラシを見たうさぎは、その場で足を止めた。
 チラシはクリスタル・ゼミナールが、生徒を募集している旨の広告であった。その広告に、天才少女と謳われる亜美が、顔写真付きで載っていた。
「うさぎちゃんも入って、少しは勉強したら?」
 足下のルナが嫌みっぽく言う。
「えー!? いやーん、こんな塾」
 うさぎは言いながらチラシを丸めると、肩越しに道端に投げ捨てる。ルナが咎めるが、一足遅かった。
「おい、そこのおだんご頭。オレはゴミ箱じゃないぞっ」
 そのうさぎの背後で、不機嫌そうな声がした。
「あ! あー、こないだのっ」
 振り返ったうさぎの目に飛び込んで来たのは、うさぎが今投げ捨てたチラシを握りしめて、こちらを睨んでいるタキシード姿の青年の姿だった。
「今、しゃべってなかったか? その猫」
 掛けていたサングラスを外しながら、タキシード姿の青年が淡々とした口調で質問してきた。
 これにはうさぎもルナもギョッとせざるを得なかった。どうやら会話を聞かれてしまったらしい。
「まっ、まっさかぁ! 猫がしゃべるわけないじゃない! 空耳じゃないの!? さ、さよなら〜〜〜」
 慌ててその場を取り繕い、うさぎは正に逃げるように、青年の前から姿を消した。

 あまりにも慌てていたので、逃げる方向などろくに考えてもいなかった。気付いた時には、十番中学校の正門の前にいた。つまり、戻ってきてしまったのだ。
「ちょうどいいわ、うさぎちゃん。さっきの亜美ちゃんの落とし物のクリスタル・ディスク。ガッコのパソコンを借りて、どんなデータが入ってるか見てみましょうよ」
 足下からルナが言ってきた。
 うさぎとしてもディスクの中身が気になっていたので、ルナの意見を聞き入れることにした。問題は学校の視聴覚室に入れるかどうかであった。時間は五時を回っている。視聴覚室の利用ができなくなる時間だ。いかなる理由があろうと、五時を過ぎると視聴覚室の利用ができなくなってしまう。
 案の定、視聴覚室の入り口のドアは、鍵で閉ざされていた。使用者がいないばあいは、必ずと言っていいほど、ドアには鍵が掛けられている。鍵が掛けられていると言うことは、裏を返せば中に人はいないと言うことになる。秘密のディスクを調査するのには好都合なのだが、中に入れなければ、何の意味もなさなかった。
「うさぎちゃん、ちょっとどいてて」
 ドアの前で立ち往生しているうさぎをどけると、ルナはぴょんとジャンプをした。鍵穴の前でくるりと回転した後着地をすると、
「もう入れるわよ」
 そう言ってうさぎを見上げた。
 うさぎは半信半疑でドアに手を掛ける。
「え!?」
 さっきまでビクともしなかった視聴覚室の重厚なドアが、何の抵抗もなくするりと開いた。
「ルナっては、すっごーい!!」
 うさぎが目をまん丸にして驚いてみせると、ルナは得意そうにニッと笑った。

 パソコンの起動の仕方など、ろくに知らないうさぎだったが、ルナがさっさと起動させてくれたので、横で見ているだけでよかった。
 MOディスクをセットした。オート・ランのプログラムが入っているのか、ドライブに挿入すると、MOディスクは自動的に起動し始める。無数に星が煌めく宇宙の映像がディスプレイに映し出され、クリスタル・ゼミナールのロゴが画面中央の位置に閃光とともに出現する。
「おお! かっこいい!!」
 うさぎが喜んだ。SF映画さながらのオープニングである。
 派手なオープニングの後は、いきなり地味な映像になった。「クリスタル・ゼミナール超上級問題集」というタイトルが流れ、問題集の画面に切り替わる。
「コレが塾の講義? なぁんだ、フツーの問題なのね。熱中するって言うから、期待してたのに」
 何の変哲もない問題集だった。ただ、次の画面に移るには現在出題されている問題に正解を出さなければいけないらしいく、間違った答えを入力すると、百科事典のようなページに強制的に移動させられてしまう。
 「フツーの問題集」とうさぎが言えば、うさぎでも正解が出せる問題集のような気にさせられてしまうが、それは大きな間違いである。うさぎは見た目で判断しただけで、問題の内容までは見ていない。見ていたら、フツーの問題集などと言う言葉は出てこなかっただろう。大学院レベルの頭脳を持っていなければ答えが導き出せないほど、その問題は高レベルのものだった。
 さすがのルナも三問ほど正解を出したところで音を上げてしまった。
「だ、ダメだわ。難しすぎる………」
「だらしないわねぇ………」
 うさぎが呆れたように言うが、もちろん彼女が代わりにできるはずもない。
「何か拍子抜けしちゃったわね………。もしかして、裏バージョンがあるんじゃないの?」
 何を血迷ったのか、うさぎはパソコンをガンガン叩き始めた。テレビの写りが悪くなったときは殴ればいい、と昔の人は言ったものだが、現代の精密機械にそんな荒療治が通じるわけもない。反対に壊れてしまう。
 案の定、ディスプレイの写りが悪くなった。画面は一面の砂嵐状態である。
「こ、壊しちゃったかな?」
 これにはさしものうさぎも青冷めた。ポケットから慌ててハンカチを取り出すと、パソコンの周りを拭きだした。
「何してんのよ、うさぎちゃん」
「指紋を拭き取ってるのよ。証拠隠滅しなきゃ、先生に怒られる」
 全くどこでそんなことを覚えたのか、うさぎはパソコンを壊した犯人が自分だとバレないように、証拠となる指紋を消そうとしていたのだ。
 ガー、ガ、ガ、ガ、ガー………。
 パソコンが妙な音を発している。いよいよもって、まずい展開である。
「うさぎちゃん、静かに!!」
 オロオロとしているうさぎを、ルナの緊張した声が制した。
「………ささげよ!」
 パソコンに接続しているスピーカーから、まるで地の底から響いてくるかのような声が、雑音とともに聞こえてきた。
「我らが大いなる支配者のしもべとなれ! そして、幻の銀水晶のデータを集めよ!」
 次第に雑音が緩和され、声がはっきりと聞こえてきた。スピーカーからは繰り返し、同じ声で同じ内容の言葉が聞こえてくる。
「な、なによこれ………」
 うさぎは言葉を飲んだ。まさか、本当に裏バージョンがあるなどとは思ってもいなかったのだ。
「これは敵の洗脳カリキュラムよ! 急がないとみんなが危ないわ!!」

 同じ頃、タキシードを着たあの青年も、うさぎたちと同じ画面を見ていた。ただ少し違ったのは、彼の目が正気を保っていたことだった。洗脳カリキュラムを見ても、特に影響を受けるわけでもなく、また驚いた様子もなかった。
 ただ、無言で画面を見つめているだけだった。

「うさぎちゃん、急いで!」
 ルナがうさぎを促す。
 ふたりは十番中学を既に飛び出し、クリスタル・ゼミナールに向かって走っていた。
「あたしの予想が正しければ、クリスタル・ゼミナールは完全に敵の手に墜ちているわ。と、言うより、その経営者が敵である可能性が高いわ!」
 ルナは走りながら言った。
「でもルナ! どうやって入ったらいいの!? あたしはゼミの生徒じゃないから、受付を通してもらえないわよ!」
「大丈夫。ゲーセンの景品のペンを使えばね」
「へ!? ペン!?」
 立ち止まったうさぎに、ルナは振り向いてから意味深な笑みを浮かべた。

「急患が出たとのご連絡を頂きましたので、入らせて頂きます!」
 クリスタル・ゼミナールの受付の前を、若い女医が疾風の如く駆け抜けていった。
「そんな連絡した?」
 ふたりの受付嬢は駆け抜けていった女医の後ろ姿を見送りながら、お互いに首を捻り合った。どこの教室からも急病人の連絡は来ていない。よくよく考えてみると、女医がひとりだけ来たというのもおかしな話である。ウインドゥ越しに外に目を向けても、救急車が来ている様子はなかった。
「変ねぇ………。一応、事務室に連絡をしておきましょうか?」
 困惑した受付嬢は、事務室に連絡すべく、受話器を取って内線番号をプッシュした。

 若い女医はうさぎの変装だった。
 ゲームセンター“クラウン”での景品のペンは、ルナがうさぎにプレゼントした変身ペンだったのである。ペンの魔法によって、うさぎは様々な恰好に変身することができた。
 クリスタル・ゼミナールへ侵入するために、うさぎは咄嗟に女医の姿に変身したのだった。変身をする際に、「美人の女医」と限定するところが、うさぎらしかった。
 階段をを脱兎の如く駆け上がる。ふらふらと夢遊病患者のように歩く一団が、教室に向かっているのが見えた。
 うさぎはその中に亜美の背中を見付け、一段と足を速めた。
 教室へ飛び込む。
 既に授業は開始されていた。薄暗い教室の中で、ディスプレイの光だけが不気味に輝いている。生徒たちは何かに取り憑かれたかのように、パソコンを操作していた。騒々しく飛び込んできた女医に対しても、全く興味を示さない。
「みんな、パソコンから離れて! 廃人になるわよ!!」
 女医の姿のうさぎは叫んでみたが、反応はなかった。まるで、うさぎなど見えていないかのように、生徒たちは一心にキーボードを叩いている。亜美も同様だった。いつの間にか机に腰掛け、パソコンを起動させている。
「誰だお前は!? 医者など呼んだ覚えはないぞ!」
 授業を妨害する形となっているうさぎに対し、アドバイザーらしい女性が怒鳴ってきた。鋭い眼光で、うさぎを睨み付ける。明らかに殺意が感じられる視線だった。
 うさぎは思わず身震いする。
「うさぎちゃん、セーラームーンに変身よ!」
 ようやく追い付いてきたルナが、足下から叫ぶ。しかし、いきなり変身しろと言われても、まだ心の準備ができていない。しかも、相手が本当に敵なのか判然としないまま、変身してしまってもいいのだろうかと言う考えも浮かんだ。だいいち、変身すれば戦わなければならないのだ。また、痛い思いをしなければならない。
「その恰好じゃ戦えないわ! 早く!!」
 ルナに急かされて、うさぎはようやく変身する決心をした。半分やけくそである。
 うさぎの体は光に包まれ、セーラームーンの姿へと変貌を遂げる。
「純粋な向学心につけ込んで洗脳するなんて、許せなーい! 愛と正義の戦士セーラームーン参上! 月にかわって、お・し・お・き・よ!!」
 変身しさえすれば、その気になってしまうのがうさぎだった。テレビの戦隊ヒーローよろしく、格好良くキメポーズを取ってみた。名乗りを上げるキメポーズは、変身ヒーロー(ヒロイン)の「お約束」である。これをやらなければ、次の行動に移ることができない。
 だが、現実はそれほど甘くはなかった。恰好よくキメポーズを取ったその直後に、敵から奇襲攻撃を受けてしまった。キメポーズを取っている間に攻撃を受けないのは、テレビドラマだからである。実際には敵は待ってはくれない。隙だらけのセーラームーンは、鋭利なカミソリのような切れ味をもつテスト用紙の乱舞を、モロに食らってしまった。
「ど素人め! 隙だらけだよ!!」
 切り傷だらけのセーラームーンに冷ややかな視線を送りながら、嘲るように言ったのは、先ほどの女性アドバイザーだった。
「妖気!?」
 ルナが全身の毛を逆立てて、女性アドバイザーを睨み付ける。
 セーラームーンは声も出ない。ルナに言われるままに変身したのはいいが、気分良く名乗りを上げている瞬間に奇襲攻撃を受けたことで、あっという間に戦意を喪失してしまった。ぺたんとその場に座り込んでしまっている。
「お前、知っているぞ! 以前にも我らの行動を妨害したやつだな」
 女性アドバイザーの顔付きが、見る見るうちに変化した。美しかった顔立ちが、醜悪な表情へと変わっていく。目が吊り上がり、口元からは牙が覗いている。爪が五センチほど伸び、鋭利な刃物のような光を放っていた。
「死ね!」
 醜悪な怪物へと変貌を遂げた女性アドバイザーは、素早い動作で腕を振り上げた。彼女の周囲でテスト用紙が巻き上がり、次いでセーラームーンに向かって襲いかかる。
 戦意を喪失して座り込んでいたセーラームーンは、その攻撃を避けられなかった。肌を切り裂かれる痛みにようやく我に返ったが、血だらけの自分の手足を見て、更に戦意を失ってしまう結果となった。
「いたーいっっ! もう、塾もテスト用紙もキライよ───」
 ついには泣きべそをかき始めてしまった。と、同時に強烈な超音波が無差別に周囲に放出される。セーラームーンの円状の髪飾りは、彼女の防衛本能を関知して、自動的に超音波を放出するのである。自分の意志でコントロールすることもできるのだが、戦士として未熟な今のセーラームーンに、それを制御するだけの技量はなかった。故に、本能だけで、無差別な超音波の放出になってしまうのである。
 周囲に発せられた超音波は、パソコンのディスプレイの画面や窓ガラスを容赦なく粉砕し、壁に罅を走らせた。
「うさぎちゃん!! やたらと泣いて、その超音波発しないで! 気を付けないと亜美ちゃんたちがっ」
 亜美や他の生徒たちの身を案じて、ルナが大声で叫んだ。壁に罅を走らせてしまうほどの超音波である。生身の人間が長時間この超音波を浴びていると、体組織が破壊され、命を落とすことだって考えられる。
「そうだった! 亜美ちゃんは!?」
 ルナの声でようやく我に返ったセーラームーンは、泣くのをやめて周囲に視線を流した。亜美の姿を捜す。
 いた。しかも、最悪の状況になっていた。怪物が亜美の背後から襲いかかり、左腕で首を締め上げていたのだ。我を忘れて泣いていたセーラームーンには、何故そう言う状態になっているのかが理解できない。
「おのれ、何故洗脳されぬ!! ディスクの勉強をサボったな!」
 怪物の声が聞こえる。次いで、しっかりとした亜美の声。
「サボってなんかいないわ! 勉強は自分の力でやるものよ!!」
 亜美の声は喉の奥からやっと絞り出したような声だったが、明らかに意志を持って反発している声だった。クリスタル・ディスクをあまり使用していなかった亜美の洗脳は、完全ではなかったのだ。恐らく、セーラームーンの超音波を受けて正気に戻ったところを、怪物に捉えられてしまったのだろう。他の生徒たちは、セーラームーンの超音波を受け、気を失ってしまっていた。
 亜美は顔面蒼白だった。怪物の左腕は、亜美の喉元に深く食い込んでいる。あれでは圧迫されて呼吸ができない。
「もう、ダメ………」
 消え入りそうな亜美の声だったが、何故かはっきりと耳に伝わってきた。戦いに慣れていないセーラームーンは、自分が次にどういう行動を取ったらいいのかが分からず、その場に立ち尽くしている。
 ルナはここで賭けに出た。自分の勘を信じて、この状況を打開すべく叫んだ。
「亜美ちゃん、ペンよ! “クラウン”で貰ったペンに、強く念じて!!」
 意識が朦朧としていた亜美だったが、ルナのその声は確かに亜美の耳に届いていた。
(ペン!? “クラウン”で貰ったあのペンに、何があるの!?)
 あれはただのペンではないのか? 苦しい息の中、亜美は思案した。そして、今の声はいったい誰の声なのか?
「亜美ちゃん、早く! このままじゃ殺されちゃうわ!!」
 再び声が聞こえた。
(殺される? そうだ、あたしはこのまま殺されるんだ………。いえ! まだ、死ぬない! 死にたくない!!)
 亜美は藁にもすがる思いでペンに念じた。自分の秘められた力の解放を。死にたくない、その一心で。
 その亜美の魂の叫びに、ペンが反応した。凄まじい閃光を放つ。同時に亜美の額に、紋章が浮かび上がった。
「やっぱり!!」
 ルナはその紋章を見たとき、自分の直感が正しかったことを知った。
 霧が発生した。冷気を伴った濃い霧である。教室全体が霧に包まれた。
 突如亜美から発せられた凄まじい閃光に驚いた怪物は、思わず亜美を放してしまった。更に直後に発生した霧のために、姿を見失ってしまう。
「霧!? ルナ、どこ!? 亜美ちゃんは!? 何も見えないよ!!」
 困惑したのは敵だけではなかった。状況が把握できず、セーラームーンも半ばパニック状態だった。
 声を頼りに索敵を行っていた怪物が、セーラームーンの声に反応して接近してきた。ルナを捜すことに神経を集中させているセーラームーンは、怪物が接近してきたことに気付かない。
(切り刻んでやるわ)
 無防備のセーラームーンを標的に決めた怪物は、口元に笑みを浮かべた。

「ルナぁ」
 セーラームーンは半ベソをかいていた。このままでは再び超音波を発しかねない。
「!?」
 背後で何かの気配がした。と、思ったらふわりと体が宙に浮く。
「今だ! 蹴り上げろ!!」
 声が聞こえた。セーラームーンは声に支持されるままに、思い切り右足を蹴り上げた。
「セーラームーンキーック!!」
 技を放つときにその技の呼称をするのは、変身ヒーロー(ヒロイン)の鉄則である。セーラームーンもそれにならって、咄嗟に叫んでいた。
 バキッ!
 爪先が何かに当たった。霧が濃いために、何に当たったのか分からない。セーラームーンは知らなかったが、今の蹴りの一撃は襲ってきた怪物の顎にカウンターヒットしたのだ。怪物がもんどり打って倒れている姿も、霧のためにセーラームーンからは見えない。
「すぐ目の前に敵がいるんだ! 気を付けろ!」
 セーラームーンはここで初めて、自分が抱き上げられていることに気付いた。体がふわりと浮いたような気がしたのは、抱き上げられたからだったのだ。
「タキシード仮面!?」
 抱き上げられていたが為に、セーラームーンはタキシード仮面の顔を間近で見ることができた。
(うそーっ また会えた!?)
 再び会うことなどないだろうと思っていただけに、セーラームーンは思わず胸躍らせた。頬が紅潮する。
 セーラームーンの脇の下に手を回して抱き上げていたタキシード仮面は、優しく彼女を床に降ろした。
「早く友達を助けてやるんだな」
 タキシード仮面はそう言うと、霧の中へと消えていった。
「そこか!!」
 タキシード仮面の背中に見とれていたセーラームーンの耳に、怪物の怒りの声が聞こえてきた。
 我に返ったセーラームーンは、声の聞こえてきた方向に向かって、咄嗟にムーン・フリスビーを放った。直後に怪物の断末魔の悲鳴が聞こえた。当てずっぽうに放ったムーン・フリスビーだったが、確実に怪物にヒットしていたらしい。
「タキシード仮面は!?」
 セーラームーンはタキシード仮面の姿を捜した。これで、二度助けられたことになる。ちゃんとお礼を言いたかった。
 しかし、既にタキシード仮面の姿は、どこにも見られなかった。
「………いない………」
 セーラームーンは切ない気持ちになった。何故かは分からないが、胸の奥が苦しかった。
「うさぎちゃん!」
 足下にルナが駆け寄ってきた。次第に霧が晴れてくる。
「ルナ! 亜美ちゃんは!?」
 セーラームーンは今度は亜美の姿を捜した。亜美は怪物に襲われていたのである。安否が気になった。
 ルナが一点を見つめている。セーラームーンもルナが見つめている先に目を向けた。
 何か人の形をしたものがぼんやりと見える。霧が晴れる。
「亜美ちゃん!?」
 見えていた人型のものは、亜美だった。しかし、亜美の姿はさっきまでの十番中学の制服姿ではなかった。セーラー服はセーラー服なのだが、自分と同じデザインのものだった。
 自分と同じデザインの制服。それは即ち─── 
「亜美ちゃん、その恰好………」
 セーラームーンは自分と同じコスチュームを身に着けている亜美を、唖然として見つめている。
「思った通りだったわ」
 ルナが自慢げ言う。
「その頭脳。あたしたちのブレーン。水を自在に操り霧を起こす、水星の守護を受けし者。セーラーマーキュリー! 捜していたわ、あなたを」
 ルナの言葉に、亜美は驚きを隠せない。
「あたしはセーラーマーキュリー!? あたしが戦士!?」
 亜美は信じられないと言った表情で、自分の姿を見つめている。
「亜美ちゃんが仲間!? うそぉ、やったぁ!」
 手を胸の前で組み、喜びの声を上げるセーラームーン。共に戦う仲間がいるということほど、心強いものはない。天才少女水野亜美が、自分と同じセーラー戦士だと知れば尚更だった。彼女が共に戦う仲間だと知ったセーラームーンは、この時、千騎の兵を得た武将の気分になっていた。