scene.2


「こんにちは、月野先輩♪」
 放課後、なるちゃんと並んで廊下を歩いていたうさぎを、呼び止める声があった。
「ああ、夢ちゃん♪」
 振り向いたうさぎは、剣道の稽古着姿の夢の姿を見つけた。夢の後ろには、同じく稽古着を着た女の子ふたりがいた。知らない顔だった。
「あたしと同じ剣道部の彩と都夜子(つよこ)です」
 うさぎが自分の後ろのふたりを気にしているようだったので、夢は先にふたりを紹介した。
「こんにちは、坂本 彩です」
「草凪都夜子です」
 ふたりはちょこんと頭を下げた。心なしか緊張しているしているらしい。
「こんにちは、月野うさぎです。宜しくね」
「大阪なるです。宜しく」
 うさぎとなるちゃんも自己紹介した。うさぎが軽いジョークを言えば、後輩ふたりの緊張も和らいだ。流石にうさぎは、場を和ませる技に長けている。もちろん意識してやっているわけではない。“天然”である。
「これから部活?」
 うさぎは夢に向き直る。稽古着姿なのだから部活に決まっているのだが、「お約束」の挨拶みたいなものである。
「はい。月野先輩もですか?」
「あはっ。あたしは、これからなるちゃんとデート」
 うさぎは答えながら、小さく肩を竦める。ふたりは、部活をサボってショッピングに行く予定だった。
「羨ましいですぅ……」
 部活をサボるなんて行動は、運動部では考えられない。
「夢、そろそろ行こ!」
 彩の方が声を掛けてきた。
「あ、ごめん。彩と都夜子は先に行ってて! あたしもすぐ行くから!」
「うん、分かった。先に行くね」
「早く来ないと、先輩に怒られるよ」
 彩と都夜子のふたりは、うさぎとなるちゃんに軽く会釈をしてから、くるりと踵を返した。
「月野先輩。実はお話があるんですけど、明日のお昼休み大丈夫ですか?」
 ふたりが見えなくなってから、夢は少しばかり真剣な表情でうさぎに言った。
「うん。いいよ。なに? 恋の悩み?」
 夢の表情が真剣なので、うさぎも自然とまじめな顔付きになる。
「違いますよぉ………」
 夢は困ったような表情で笑った。
「じゃ、明日お願いしますね。商業科の屋上に来てください」
 夢はそう言うと、うさぎたちに背を向けた。

亜美は職員室にいた。世界史の有馬教諭のところに、質問にきていたのだ。
 大阪出身の有馬は、授業では標準語を使ってくれるのだが、普段の会話はバリバリの関西弁を使う。
「どうもありがとうございました」
「お役に立てたやろか」
 一通りの質問を終え、疑問が解消された亜美は、有馬に丁寧に頭を下げた。有馬は普段の口調に戻ってそれに答えた。
「皆本先生、本気ですか!?」
 亜美の耳に、男性教諭の声が、声が飛び込んで来た。有馬も気付いたらしく、ふたりはそろって声の聞こえた方に顔を向けた。
「もちろん本気ですよ、白川先生」
「あの台本は呪われているんですよ! 生徒の身に何かあったら、どうされるおつもりですか!?」
「危険すぎますよ! 今すぐ止めさせた方がいい!」
 ひとりの女性教師が、ふたりの男性教師に何事か注意を受けている。かなり強い口調だった。 職員室中に響いている。注意をしているのは「教授」と言うニックネームを持つ白川教諭と、大柄でまるで熊のぬいぐるみのような体型の成田教諭のふたりだった。
「呪われた台本?」
「演劇部が春のコンクールでやる劇の台本のことだと思うわ。ちーとばかし、曰く付きの台本なんや」
 亜美の独り言が聞こえたのか、有馬は答えてくれた。
「何かあったんですか?」
「ヒロインを演じる生徒が、公演前に必ず死んでるちうわけや。十年前から、本日この時まで三人の生徒が亡くなってるちうわけやな。きょうびでは、二年前やったやろか」
「きょうび?」
「すまん。最近」
 有馬は亜美にそう行ってから、
「そのくらいにしたらどうやろか? 皆本先生も何ぞお考えがあってのことでっしゃろ」
 言い争っている教師たちの仲裁に入った。
「しかしね、有馬先生」
 仲裁に入った有馬に眉を顰めたのは、体育教諭の鳴沢だった。元自衛官と言う変わり種の教師である。典型的な体育会系かと思いきや、何げにイラストが得意であり、けっこうそのイラストが可愛いと女子生徒からは評判がいい。
「演劇部の件は、皆本先生に任せたらええやないやろか。わいたちが口出しするのも、どうかと思うでよ」
「生徒に何かあってからでは、遅いと思いますが」
 別の声が割り込んできた。有馬が少々嫌な顔をして見せたのを、亜美は見逃さなかった。
「話をややこしくせんでおくんなはれよ。野崎先生」
「その関西弁、やめてもらえませんか。ここは東京なんですから」
 野崎はあからさまに嫌そうな顔をした。進路指導の野崎と言えば、亜美も知らない教師ではない。実際に、野崎に進路指導室に呼ばれたこともある。熱心に指導をしてくれるのだが、実のところは、あまりいい噂を聞かない教師でもあった。
「東京やからって、関西弁しゃべっちゃいけへんって法はないでっしゃろ。わいは関西人やろからね。関西弁しゃべって何が悪いんやろか?」
 有馬は反論する。ふたりはしばらく睨み合っていたが、
「わたしたちが、今ここでいがみ合っていても仕方ありませんね。………皆本先生」
 小さく肩を竦めたのち、皆本の方に向き直った。
「聞くところによると、あの劇をやろうと言い出したのは、三年の生徒らしいじゃないですか。生徒の意見を尊重するなどという、単純な考えで許可をしたなんてことはありませんよね」
「いえ………」
 皆本は短く答えただけで、下を向いてしまった。何か他に理由があるようだが、この場では話せない理由のようだった。
「まぁ、いいです。生徒に何かあれば、皆本先生だけの問題じゃすまされなくなります。一応、教頭に話をしておきますが、宜しいですね?」
「はい………」
 皆本はか細い声で答えるのみだった。亜美は、皆本が何か重要なことを隠しているような気がしてならなかった。

 職員室を出た亜美だったが、何故か「呪われた台本」のことが気になって仕方がなかった。亜美の鋭い勘が、この後に起こる事件を予期して、警報を発したのだ。しかし、詳しく調べたくとも、演劇部に親しい友人はいなかった。
「どうした? 難しい顔をして」
「あ、神部先生………」
 ついつい考え込んでしまった亜美に、男性教諭の神部が声を掛けてきた。職員室の入り口の前で、難しい顔をして立ち竦んでいれば、誰だって不思議に思うだろう。
「いえ………」
 なんでもありませんと言いかけてたところで、亜美は思い止まった。
「神部先生は、『呪いの台本』のことをご存じですか?」
 思い切って訊いてみることにした。神部は確か、十番高校に赴任してきて十年以上は経過していると聞いている。当然、十年前の事件は知っていると思ったからだ。
「何故そのことを知っている?」
 神部の表情が、急に険しくなった。普段から温厚の神部は、滅多なことでは怒らない。それなのに、「呪いの台本」の話を切り出した途端、表情を変えたのだ。尋ねた亜美の方が驚いてしまった。
「今、職員室で話題になっていました。演劇部が、今度の公演でその台本を使うと」
「そうか………」
 神部は思案するように自分の顎を撫でている最中に、自分を見つめる亜美の視線に気付いて手を止めた。
「この事件に興味があると言う目をしている」
 再び険しい表情となって、神部は亜美に視線を落とした。
 亜美は無言だった。
「自分の身が可愛かったら、この事件に関わらない方がいい」
 神部は亜美に忠告すると、職員室の中へ消えていった。
 この事件には、世間に公表できない何かがある―――。
 亜美はそう直感していた。
「少し、調べてみようかしら」
 亜美がそう呟いたとき、不意にガラリと職員室のドアが開けられた。
 ドアの前で佇んでいた亜美は、思わずビクリと体を緊張させた。
「水野じゃないか。何をしている?」
 職員室から出てきたのは野崎だった。亜美の方をポンと叩くと、彼女の正面に回り込んだ。
「もうすぐ塾が始まる時間じゃないのか? 早く帰れ」
 強い口調で亜美にそう言うと、野崎はそのまま廊下をスタスタと昇降口の方向へ向かって歩いていってしまった。

「えぇっ!? まこちゃんが演技をやるの!?」
 ここはパーラー“クラウン”。
 うさぎから事のあらましを聞いた宇奈月は、目をまん丸にして驚いている。
パーラー“クラウン”(ここ)のバイトはどうするのよ!?」
 宇奈月が慌てるのも無理はない。パーラー“クラウン”は、今人手不足なのだ。演劇の練習のためにまことにアルバイトを休まれたのでは、オーナーの娘である宇奈月にしわ寄せが来てしまうのである。
「週に一回くらいなら、あたしも手伝えますけど?」
 なるが救いの手を出した。
「ホント!? なるちゃん、助かるわぁ。マスターにはあたしから言っておくから、お願いできる?」
 不安げだった宇奈月の表情が、ぱぁっと明るくなった。しっかりもののなるちゃんが手伝ってくれると言うのなら、安心できる。
「じゃ、後で出来る日をメールで入れておきますね」
「あたしも手伝おうか?」
「えっ!?」
 うさぎの申し出に、宇奈月は一瞬だけフリーズした。
「い、いや。うさぎちゃんはいいわ………」
「どうして? まこちゃんがアルバイト休んじゃったら、宇奈月ちゃん困るんでしょ?」
 うさぎの意見は最もなのだが、彼女に手伝ってもらうと、余計な仕事が増えそうな気がしてならない。
「いいから、あんたはまこちゃんの応援でもしてなさい」
 宇奈月の考えが分かったのだろう、なるちゃんはうさぎの左肩に手を添えると、窘めるような口調でそう言った。

 陽もすっかり落ちてしまっていた。
 家の方向が同じである絵美菜と志帆は、人気が少なくなった十番商店街を、一の橋の方向に向かって歩いていた。ついさっきまで、和恵と沙輝とも一緒だったのだが、元麻布に家のあるふたりは、十番温泉付近で絵美菜たちと別れた。
「ねぇ、絵美菜」
 ようやくふたりきりになったところで、志帆は絵美菜に話し掛けた。ふたりは幼馴染みである。学校では「永嶺先輩」と呼んで敬語を使っている志帆だったが、ふたりきりの時は普段の話し方に戻る。
「結城先輩も言ってるけど、この台本はやめた方がいいと思う」
 絵美菜がやろうとしてる演劇が、呪われた劇であることは当然志帆も知っていた。そして、ヒロイン役の女生徒が、公演前に必ず変死を遂げていることも。実は志帆は、最後までこの劇をやることに反対していたのだ。
「………もし絵美菜が死んじゃったら、あたし………」
 志帆は足を止めると、前を歩く絵美菜の背中に向かって、か細い声で言った。姉のように慕っている絵美菜の身にもしものことがあったらと思うと、志帆はいてもたってもいられなかった。本当なら、台本を変更したいのだ。
「縁起でもないこと言わないの!」
 絵美菜は立ち止まるとくるりと反転し、志帆に笑顔を向けた。
「大丈夫、あたしは死なないよ! この台本が呪われた台本でないと言うことを、あたしが証明してやるんだ。そして、死んでいった人たちの無念を晴らしたい。その為に、あたしはヒロインをやることにしたの」
「絵美菜、まさか!」
 志帆は絵美菜の本心が分かったような気がして、顔色を変えた。もしかすると絵美菜は、自分を犠牲にして「呪い」の正体を突き止めようとしているのではないかと感じたのだ。
「そんな顔しない! あたしは大丈夫だからさ!」
「………あたしが男だったら、絵美菜を守ってあげられるのに………」
「その気持ちだけで充分よ! さ、早く帰ろ! お母さん心配するよ」
 絵美菜は一の橋方面に向き直ると、スタスタと歩き出した。志帆は不安げに、その小さな背中をしばらくの間見つめていた。

 結局家路に向かったのは、十九時に近かった。
 台本の読み合わせやら何やらで、思った以上に時間が掛かってしまったのだ。
「バイトが休みの日でよかったぜ」
 まことは深い溜め息を付いた。明日からのことを考えると、気が重くなってきた。
 とぼとぼとした足取りで、自分のアパートへと向かう。この時間では、パーラー“クラウン”に行っても、誰も仲間はいないだろう。宇奈月に助っ人を頼まれるのがオチだ。疲れていて、気分良く手伝ってあげられる気がしない。
 前方に人影が見えた。ひとりである。見覚えのあるシルエット。
「おーい! 亜美!」
 まことはそのシルエットに声を掛けた。
「塾帰りにしちゃ、ちょっと早くないか?」
 時刻は十九時である。塾の帰りにしては少し早い時間だった。逆に行くには遅すぎる。
「麻布図書館で、ちょっと調べものがあって………。今日は塾はお休み」
「ふぅーん………」
 亜美が塾を休むなんて、珍しいこともあるもんだと、まことは思った。
「まこちゃんこそどうしたの? こんな時間に」
「ああ、あたしは演劇の練習」
「え!? まこちゃん演劇もやってたっけ?」
 事情を知らない亜美が驚くのも無理はない。まことは肩を竦めながら、
「臨時で助っ人を頼まれちゃってさ」
 と、亜美に事情を説明した。
「じゃ、『呪われた台本』のことは知ってるのね」
 亜美は急に真顔になった。
「知ってるのか!?」
 亜美の口から台本のことが出てくると考えていなかったまことは、驚きを隠すことができなかった。
「ええちょっとね」
 亜美は曖昧に答えた。
「あたしのクラスの永嶺絵美菜っ子が、ヒロインの役をやるんだ。あたしに助っ人を頼んだ張本人だけどね」
「そう………。ヒロイン役の子が、公演の前に必ず変死するそうね。職員室でも問題になってたわ。………皆本先生って、演劇部の顧問だっけ?」
「ああ、そうだよ。今日も顔を出した。厳しく演技を指導されたよ………」
 まことはその時のことを思い出したのか、渋い顔をして、右の頬を人差し指でポリポリと掻いた。
「事件が公になっていないと言うことが、ちょっと気になるのよ」
 亜美は言った。
「二年前にも事件が起こっていたのに、あたしたち何も知らなかったわ。これって、おかしいと思わない?」
「何か裏があるってのか?」
 まことの表情に、緊張の色が走った。背筋に冷たいものが流れる。
「まだ分からないわ」
 亜美は首を横に振った。
「そうか、調べものってのは、この事件のことか」
 まことは合点がいったように、一回だけ肯いた。亜美は小さく笑みを浮かべた。
「どんな事件か、ちょっと調べてみるか。変化のない日常に、ちょっと退屈してたことだ」
「あたしもよ」
 ふたりは顔を見合わせると、声を出して笑った。