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・ 五術占い師 入門編  阿藤 大力著 ・  <運命の根本原理と解脱の方法>

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目 次

はじめに          運命を決定するものとは?

五術とは?         命・卜・相・医・山

占い師の重要性       占いを信じ、師に帰依する意味

五術の体系         運命の把握と変容と解脱

開運法           無から有を生み出す無上の宝

難病の対治方法       執着と煩悩の浄化

自己解脱の方法       自分を超える道

筆者の「六つの瞑想体験」  虹の身体の大いなる転移

あとがき          清浄な顕現による世界の救済方法

はじめに 運命を決定するものとは?

古代中国において運命を決定する要因は次の三つであるとされている。

1、命−運命を判断して解釈する占い。(子平、紫薇、七政)

2、運−運勢を判断して正しい選択を行う占い。(太乙、六壬、遁甲や卜易)

3、風水−決定された要因から運命、運勢を判断する占い。(墓相、家相、人相、名相、印

相)

運命学は、生年月日時から運命の形を成す要因を探り、人生の決定要因を判断する。つま

り、運命学では運命というものを決定することは不可能であり、あくまでガイドラインの

予測の範疇である。

運勢学は、運命学を基盤として過去・現在・未来における動向を探り、選択の要因である

地点・方位・時期などから決定する運命を判断する。この運勢学は正確には運命というも

のをシュミュレーションして運命を予測するので運命学より直接的である。

風水学は、選んで決定した墓、家、名、印章をもとに運命と運勢の決定要因を探る学問で

ある。そして、

 運命学が原因、

 運勢学が選択、

 風水学が結果、

をあらわすため、すべての運命と運勢を決定する要因は、風水に委ねられるだろう。特に

個人の運命の最終決定は、名前により行われていることが明らかである。名前には、

 字体−形状−身体

 字音−音節−言葉

 字義−意味−意識

の三者を瞬時に顕現させてしまう力がある。これは古代中国の天地人思想を明らかにした

ものであり、すべての存在をプログラムする条件を兼ね備えているからだ。しかし、命或

いは卜占には、まだ選択の余地や未確定の部分が秘められている。風水の相においては完

全に決定しており、これは契約に似ている。すべての運命の多様性は、名称により形成さ

れ、名前の持つ意味により運命が形作られていく。人はその顕現を実体であると本当に信

じる(錯覚)ことから名前をラベル化(形而上学)して運命を認識している。これを仏教

では無明(マリクパ)といい輪廻の根本原因だとしている。これがカルマの正体であり、

存在の種子たる意識となる。カルマとは、人間の存在理由であり、

 意志−テーマ、契約、決心。

 行為−自動的、他動的、間接的など。

 満足−結果。

のプロセスを辿る。

我々は、独立自存として外部の世界を自分の想い通りに操作しようとして満足している。

だが二元的な状態にあっては、常に意識の中に喪失感、恐怖、不安感、不満が横たわって

いる。そしてその二元的な存在の側面である人間の身口意の投影として眼前に立ち現れた

ものを確定し決定したいがために人は運命や運勢、風水であると概念化して認識している

のである。占いも運命学も宗教もあらゆる思想哲学も現代科学もこの二元的な幻影にも似

たこの世界を生き抜き困難を乗り越えるために存在しているといってよいだろう。それが

当人にとって一番適合する対治方法を用いればよい。本書は五術というすべての多様性に

対応する術と教えによってこれに対治する方法を説くものである。

五術とは? 命・卜・相・医・山

古代中国には五常(仁義礼知信)と五欲(財色食名寿)に相応する王道と覇道という二つ

の生き方があり、王道は努力・学問・修養・根性を土台とした漸進的な生き方である。覇

道は自分の目標を速やかに達成する頓悟的な生き方であり、五術はこの覇道と頓悟的な生

き方を土台としている。諸葛孔明の時代では常に紛争と変動の渦中にあり、このような時

代を生き抜くために五術のエッセンスが生まれてきている。奇門遁甲を初めとする三式と

いう占いは、まさにそのような時代を生き抜く知恵から産まれたものであり、易や子平と

いった三典は国家の安定を求めた知恵として生命論や運命学が誕生したのである。

五術の原型は次の三式・三典から発展したようである。

三式(運勢学)

 太乙 測局 国家の時勢をみる。

 遁甲 方局 方位をみる。

 六壬 占卜 諸事を占う。

三典(運命学)

 河洛(易数) 卜易命理・紫薇命理

 子平     子平命理

 演禽     七政命理(中国占星術)

この三式・三典の占術理論を応用して次の五術(命・卜・相・医・山)が体系されたよう

である。

命−人生のテーマの再検討を行い、あるがままであるかを論じる。

卜−人生の選択、方位、時期の再検討を行い、あるがままであるかを論じる。

相−人生で決定した要因の再検討を行い、あるがままの状態であるかを論じる。

医−人生で行われた医療行為や生活様式を再検討し、あるがままの状態であるかを論じる。

山−人生で信奉した主義、思想、信仰、宗教を再検討し、あるがままであるか論じる。

以上五つのマトリクッスの中でペンディングとなる箇所について病的に過剰な努力を行う

箇所をあるがままに無努力の状態に戻すことで、本来の命、卜、相、医、山の理想の状態

に戻すことである。五術の面談で徹底的に運命、運勢、風水、医山を吟味し、本当の自分

に目覚め、自分を信じ、輝く未来を掴むことができるように導くのが五術占い師の仕事で

ある。

五術占い師は、

 運命

 運勢  

 風水

による運命の総合判断を行い、

 医

により運命の変容と開運を論じて最終的には人生の成功と幸福に導くのである。

占い師の重要性 占いを信じ、師に帰依する意味

占うという行為は、個人のローカル情報であり、個人の日常次元から出発したものでなけ

れば、これ以外の方法で自分自身を認識し、悟りに至る直接の道筋はない。つまり占い師

はその個人の存在を尊重し認めることから出発しているのである。ほとんどの宗教や哲学

は個として尊重されるべき自分自身の苦悩や運命を無視した関係のないところから解脱を

説き、その教団や宗教の信仰と主義思想の建て前と本音を押し付けることから出発してい

る。これでは個人の本質や本性は取り残され、永遠に迷いの境地を彷徨しなければならな

くなる。輪廻から永遠に脱出することが不可能である。それゆえ占い師は伝統的な宗教と

同じように、自分よりも接する人を上に置き、溢れ出すような尊敬と慈悲によって接する

必要がある。そして占い師は出会った人を解脱に導く存在である考えられる。それはその

人のあるがままの状態を指し示すことができるからだ。これは人生の達人と呼ばれる人で

あっても非常に困難だからだ。つまり本分が異なるからだ。占いは占い師の領分だからだ。

本当に個人の存在を細部にわたって明らかにして当人にその結果を正しく見せてあげられ

なければ、占いは人を正しい悟りに導く道筋は生まれてこないだろう。だから占いに臨ま

れる方は、純粋な動機が必要だ。心構えとして無心・純粋・優しさ・まごころ・ひたむき

の気持ちをいっぱいに満たし、不純なひがみ・ねたみ・ひねくれ・たくらみがあってはな

らない。特に真善美の正直・誠実・優雅を壊す、悪意・腹黒さ・ごまかしの心をちょっと

でも持つと自分の純粋な動機が壊れるどころか占う側にも悪い影響を与え、占い自体を汚

すことになる。占いは非常に純粋な意識で行う儀式のような精神活動であるからこれから

占いに触れようと考えている方々はこの点をくれぐれも心して欲しい。

五術の体系 運命の把握と変容と解脱

人間が運命の困難を乗り越えるために、古代中国の運命学は五術という体系を作り出した。

五術の体系とは、以下の通りである。

命−運命判断

 子平は、人生のテーマと器の性質を判断し、事を成す良好な時期を論じる。

 紫薇は、人生の目的と適正を判断し、才能を発揮する方向性と時期を論じる。

 七政は、本人の才能と潜在能力を判断し、人生の各種イベントの最良の時期を論じる。

 卜易は、人生の五福を判断し、易卦の象意から人生を象徴する運命を論じる。

 太乙は、人生の才能と能力を判断するが、どの社会階層に適正があるかと成功するポイ

ントを論じる。

 遁甲は、人生における特徴を判断し、奇門40格によって運命を論じる。

 六壬は、人生における自分とパートナーの関係や人生を三つの段階に分けて総合的に運

命を論じる。

卜−運勢判断

 卜易は、人生のイベント別に一事一占によって運勢を論じる。雑占が主体となる。

 六壬は、人生のイベント別に一時一課によって運勢を論じる。雑占が主体となるが、主

に人事関係における最良の和合時間を選択する。

 遁甲は、人生のイベント別に一時一式によって運勢を論じる。主に最良の時間と方位を

選ぶ。イベントによっては日、月、年の単位の遁甲式を用いる。

 太乙は、人生のイベント別に一時一式によって運勢を論じる。主に最良の時間と方位を

選ぶ。イベントによっては日、月、年の単位の太乙式を用いる。

相−風水判断

 風水は、竜、穴、砂、水、理気からその土地のポイントの風水吉凶を論じ、貴賎富貧を

判断する。

 墓相は、一族の盛衰と貴賎富貧を判断する。

 家相は、家族の盛衰と貴賎富貧を判断する。

 人相は、本人の盛衰と貴賎富貧を判断する。

 名相は、その名前を用いた一時一名(一時期に一つの名)の盛衰と貴賎富貧を論じる。

 印相は、印管一時(印は一事をつかさどる)と言われ印章を用いたある一つの事柄の吉

凶を判断する。

医−変容の道

 方剤は、漢方医療を指す。

 鍼灸は、針灸医療を指す。

 霊治は、精神医療を指す。

山−自然状態に戻す道

 玄典は、老子、荘子、列子の文献が必読書となり、南華密教は西遊記が入門書である。

 養生は、投薬、房中、小周天などの仙道の修行から不老長寿を求める。

 修密は、符呪やまじないによる道教的祈祷法がある。

南華密教には、カギュ派六法と手印が伝えられている。

内火は、からだの健やか

幻身は、こころの確かさ

修夢は、こころの幸せ

光明は、こころの正しさ

中陰は、他人の死

転移は、自分の死

手印は、識功のことである

何をしようかについての決定

 何をしたのかについての記録

五術の命卜相は、個人のあるがまま、生まれたままの素材を吟味して現在の状態と、ある

がままの状態の比較を行い、変容箇所や修正箇所を論じる。

医は個人の身・口・意レベルで歪みを起こしている箇所を吟味して投薬や養生を行うもの

である。医は変容の道を用いるので一時的な病気のみに適用可能であり、慢性病や難病の

場合は山のレベルでの修正が必要である。

山は個人の身口意があるがままの状態であるためにどこか不自然な身口意の状態を無努力

の状態に戻すことである。人は何かに努力し、執着するために自然状態で理想状態である

ことから外れて行く。ゆえに解脱の道からも遠く離れて行くのである。

開運法 無から有を生み出す無上の宝

命の開運 失敗を成功に導く

人生における多くの失敗は次のようにまとめられる。

人生の本来のテーマと違うことで失敗するケース。

人生の方向性において妥協して失敗するケース。

人生本来の適職、適業を従事しないことで失敗するケース。

社会的成功はしているものの人生のテーマが他にあるケース。

失敗の連続により人生に絶望しているケース。

本来あるがままの状態にあれば、本人の実力以上の成功や事業を為すことができるという

ことが命による最高の開運法である。子平推命の原典である『滴天髄』は人の運命を区別

する概念として「清濁」「真仮」「順悖」の三者があり、子平の最高の理論で、生まれたも

った四柱の命式が徹底的に清く、真の時を得て、順というあらゆる吉条件が揃うと必ず一

生富貴となり、その幸福は永続が真で苦労することなく自然のあるがままにその福徳を享

受できると運命判断する。人生の富貴栄華は極まり、その成功は約束されており、幸せな

人生を過ごすことができさらに子孫にまでその威光を残すことできる。まさに極楽浄土、

密厳浄土の清らかな顕現の中で生きるという体験をする。逆に不浄な顕現を体験する濁の

命式は、人に一生苦しみを与える。清濁を合わせもつものはこの二つの顕現である富貴栄

華と辛酸悲惨を経験するという。子平では事を起こす時期によってこの顕現が変化すると

考えている。良い時期に行えば成功という清浄な顕現となり、悪い時期に行えば失敗とい

う不浄な顕現となってしまうのだ。だから後述する奇門遁甲はこの時期に合わせて吉方位

と造作という開運法を行ってまだ成功していない人にこの清浄な顕現を生み出し、反対に

物事がうまく行かない人はその不浄な顕現を打ち消して清浄な顕現に変化させるのである。

卜の開運 方位による開運

人生において、使用した方位や選択が本来のテーマに一致しているかを再検討することで、

もし失敗の選択であるならば成功する方向に修正して運勢を開運する。特に奇門遁甲では、

目的によって用いる占盤の時間単位が異なり、そのときに起こる現象をより目的に合った

純粋なものになるように方位を選ぶことができる。そして時盤は一番速効性があり、月盤

は持続性があるので、時盤では吉方取りの開運を行い、月盤では造作による開運を行うの

である。諸葛孔明が原著であるとされる『諸葛武侯奇門遁甲全書』には、方位を用いる見

解として目的を達成するためにまず迷いや雑念を振り払うために『陰符経』を精読する。『陰

符経』は存在の根本を説くもので、人間の心の本性たる純粋な意識を実現する。そしてこ

の意識をもって祖師のマントラを唱えながら奇門遁甲の方位を実際に使用したのである。

現代人には一見矛盾するように感じられるが、事を成すには、特に国家や人民のために用

いる占いはすべてこのような純粋な意識で行うのが古代中国人の占いという叡智なのであ

る。我欲や自己の願望だけに用いるのではなくそこにはいつも天地人という宇宙の法則・

地球の法則・人間の法則の三者を念頭に置きながら事を為していたのである。だから占い

師は常に天地人と繋がっている必要がある。つまり占いは日常的な物事を行うのに非日常

的な純粋意識をもって事を為すという特殊性があるのだ。裏返して言えば、占いは現代に

おいてその非日常的な純粋意識を人に目覚めさせて悟らせる役割を担っているようである。

奇門遁甲の方位と造作による開運法の各種用途は以下の通りである。

 甲尊は求官 地位(求職)

 乙奇は求安 幸福(縁談、平穏)

 丙奇は求財 金銭(求財、交易、貸借)

 丁奇は求知 名声(勉強、創作、試験、声誉)

 戊儀は求信 交際(求医、接待、交際、統制、養生)

 己儀は求情 人気(愛情、書絵、芸能、娯楽、統制、養生)

 庚儀は求寿 健康(寿命、錬金、殺敵、離別、狩猟、牧畜、養生)

 辛儀は求道 信仰(求道、採茶、宴会、製薬、耕作、毀性、教育、修密)

 壬儀は求勝 勝利(求勝、布陣、鋳兵、地雷、略奪、煎餅、菓子、漬菜、屠殺)

 癸儀は求定 秩序(求秘、行刺、探索、捕縛、漬肉、潜入、埋葬、冤罪、転禍、理容)

相の開運 位相の修正

本来の風水に戻すことで開運して成功に導く

 墓相

 家相

 人相

 名相

 印相

によるそれぞれの開運法がある。人の運命で起こる幸福と不幸の最終決定はどうも風水の

段階で行っているようである。良い運命を持つ人は良い運勢のときに良い風水を選んで天

地人の大いなる自然の流れに身を任せて事を為しているので必ず成功しており、たいした

成功ではなくても平穏で清浄な顕現の人生を歩んでいる。そして悪いときには、無理に事

を為そうとしないのでほとんど失敗がないのである。そしてその人の心の本性と繋がって

いる命も人も物もどんなに切り離されバラバラにされようと必ずその人から決して離れる

ことはなくむしろ望まなくても向こうから自然に集まって来てその人を永久に守ってくれ

るだろう。しかし悪い運命の人は悪い運勢のときに悪い風水を選んで自然の流れに逆行し

て無理に事を為すので一時的に成功したとしてもその栄華は永く続くことはなく、その人

の心の本性と繋がっていない命も人も物も維持しようと執着するとどんなに一生懸命努力

しても細心の注意を払ったとしても自然にその人の手元から離れて行って失われてしまう

のである。あるいは反対に自分を滅ぼす険悪の状況を作り出す原因となるだろう。つまり

不穏で不浄な顕現の人生を歩んでいるのだ。そしてそれは当人の心の本性がその運命の善

悪に関係なく最高の運命を容認して選んでいることも確固たる真実だ。その人の今の瞬間

にどのように自分で意識し、どのように契約したかで、運命はそのとき決定される。最悪

のテロリストとなることもあるし、人類を救う救世主となることもあるし、一般の何の影

響も与えない人となるかも知れないが、すべてこの今の社会を救うための大いなる存在と

して顕現しており、誰一人欠けることを望まない状況であることを悟ることだ。今この時

の状態こそ自然状態で完成していると悟らなければ、無上の苦しみを与える輪廻の状態に

陥るだろう。

特に命卜相の相の問題に欠陥を持つ者は、改名する必要がある。これは改名というよりも

原初の自分の清浄な有り様を現す名前に戻すことで清浄な顕現の運命に切り替えることが

必要であろう。しかし名前を改名したとしてもその人の意識が前とまったく変わっていな

ければ運命の変容は起きないはずである。自分を観察することだ。自分はどんな存在でま

たどんな存在であるかを信じているのかまた社会家庭にどんな態度を取っているのか自分

の限界を吟味するのだ。そして自分が作った限界の壁を打ち破るために自分を信じ、自分

の名前を信奉し、確信することからすべてが始まる。これは仏教においても帰依と菩提心

が基本であることと共通している。自分自身を信じ、帰依し、発菩提心を起こすことが運

命を開運する唯一の道だ。

奇門遁甲風水の原典である『太乙紫微靈臺秘典九総八卦造宅三白都天撼龍經』の中で「元

宮入福救貧生仙産聖」という書物が引用されているが、奇門遁甲は古代中国では玉冊天書

と呼ばれ「無から有を生む無上の宝」であるとされている。それは古代中国が理想とした

聖仙という人物を生み出すことができるからだ。この書名のタイトルが説く生仙産聖の仙

とは優れた才能を持った神童を指し、聖は優れた政治家を意味する。風水は理想の龍・穴・

砂・水・理気の方位の座相に位置することでそのような土地から聖仙の人材を輩出するポ

イントを発見したのが風水占いの本質である。そしてそのような条件にさらに墓相、家相、

人相、名相、印相を理想的にすることで聖仙の人材を顕現させることも可能である。筆者

の生地は龍穴砂水が人遁という形状の土地であった。この人遁は人の和を得て「才似諸葛

(諸葛孔明の才能に等しい)」と言われている。また玉女守門という風水でもあり、「才高

如山、学深似海(才能は山の如く高く、学問の深さは海に似る)」とされている。筆者が昨

年訪れた中国の諸葛村は、やはり人遁の風水であった。山の形が三つ叉に分かれた壬儀で

穴が丁奇の形をしていた。これに対し筆者の生地の山は台形をした戊儀で穴が丁奇で前方

と後方に砂の岡があり、その間を千曲川が取り囲む風水である。

医の開運 特効薬を必要としない

医療行為の方向性が正しいか、医師の選択に誤りがないか再検討する。医の変容の道が正

しい道ではない場合もあり得る。医とは変容の道であり、解決、解脱の道ではないことを

悟ることである。医術の手術や投薬は変容し変成する道であり、根本は自己過信、傲慢な

心の作用であることを忘れてはならない。難病に効くと言われる宗教的な護摩や祈祷もま

た変容の道であり、医のように直接的ではなく間接的な医療的行為であることを忘れては

ならない。

山の開運 あるがままに無努力に因果を超える道

あるがままで、無努力の教えに住することであり、苦行、戒律、布施を奨励しない。あら

ゆる宗教行為を再吟味し、本来の状態に戻して行くことであり、本当の修行に導くことで

ある。それはあるがままに無努力に因果を超える道に向かうことである。

山には、

 放棄の道−四聖諦と八正道(三十七菩提分法)、身のレベルで戒律が土台。

 変化の道−密教、輪廻と涅槃(不浄な顕現と清浄な顕現を体験する)、口のレベルで言葉

(マントラ)のエネルギーが土台。

 自己解脱の道−ゾクチェン(アティヨーガ)、大いなる完成、意のレベルで瞑想が土台。

の三者があるが、完全解脱して執着や煩悩を解除する方法は自己解脱の段階に至らなけれ

ば解決しない。

難病の対治方法 執着と煩悩の浄化

難病の根本的な原因はあるがままの自分の状態ではなくなることであり、本来の自己から

逸脱した過剰な行為をしたために生じた現象である。一般の病気は、方剤や鍼灸によりい

とも簡単に治すことが可能である。霊治のレベルの治療はおもに精神的トラウマを解除す

ることである。原始仏教が説く、幻身の悟りでもあると言える。人は誰でもアーラヤ識に

過去世の生におけるカルマの薫習や痕跡を引きずりながら生きているとよく言われる。幻

身は物質次元の顕現であり、人は多様性を持つ情報を個々に記憶しており、それが今世に

おいてまるでテープレコーダーを再生するかのように同じ運命を知らず知らず繰り返して

いるのである。このアーラヤ識の情報をクリア(浄化)しない限り、人は記憶された同じ

情報に支配されて同じような運命の軌跡を歩んでしまうようである。これこそが運命を形

成する究極の原因だ。輪廻の根本原因だ(つまりアーラヤ識は行為の決定と記録が情報と

して記憶されている。)その本質は仏教が説く執着や煩悩が原因であるようだ。仏教では人

は煩悩という病気に犯されていており、様々な不幸の原因を作り出していると言う。これ

はあらゆる多様な現象を真実であると概念化して信じたときから人類の不幸が始まってい

る。人間の意識は物質次元で顕現しており、セラミックや磁気テープのようにあらゆる情

報を記憶してしまう。しかし、仏陀はその物質的な顕現を光次元の顕現に変換することで

解脱を可能にした。つまり、光の次元は存在するけれど存在しない、つまり、空なのだ。

誰もが光を掴むことはできない。光は記憶する土台がないのだ。物質ではないからだ。ゆ

えに難病に特効薬を施す必要はない。仏陀が説く解脱することこそ医の究極の治療であり、

最高の医療、最高の妙薬を施したことになるのである。これにより治らない病気は存在し

ないのである。治らないと思う人間の限界概念が実は難病を増殖する土台であると悟るべ

きである。

自己解脱の方法 自分の限界を超える道

筆者は、五術のエッセンスを究明していくうちに五術のルーツがボン教の九乗と呼ばれる

埋蔵経典の中にその精髄を垣間見ることができたのである。そしてその中に仙道や仏教で

説く人間の究極の完全解脱の境地を実現する方法と共通した現象を見出したのである。そ

れは「ゾクチェン」と呼ばれる自己解脱・自然解脱の道であった。これは五術で説かれる

仙道と多くの共通点を持つことだ。その究極の境地は「虹の身体」と呼ばれるものだ。筆

者の知るところでは、これはボン教やチベット密教のゾクチュン・無上ヨーガタントラ・

カーラチャクラタントラの究極の悟りの結果として得られる顕現であるとされている。中

国の仙人の伝説にある屍解仙もこれと同じ境地を得たようである。虹の身体は存在の消滅

を説くものであり、まさに有から無に帰す完全解脱の道だ。これに対して五術は明らかに

無から有を生み出す方法だといえる。

現代において筆者が発見した運命を乗り越える「無上の二つの宝」がある。この二つの宝

は陰陽の対極の関係にあると考えられる。

 無から有を生み出す無上の宝−奇門遁甲は社会的成功を成就する。(究極の世俗諦)

 有から無を生み出す無上の宝−ゾクチェンは解脱を成就する。(完璧の真諦)

奇門遁甲は、風水のあらゆる側面を理想形態に調整し、個人として究極の三身を得る無上

の教えである。

ゾクチェンは、二元論を乗り越えるための「身口意の金剛」という乗り物であり、それは

速やかに悟りに至る。

法身−三典 命 意 本質

報身−三式 卜 口 発音

化身−風水 相 身 姓名

姓名は、人生に直接的な作用を及ぼし瞬時にして運命を形作る。あるがまま(如実)の本

来の自分の原初の境地となる姓名はあるがままに無努力で完成している。五術は個人の運

命のマトリックスを現し、あらゆる側面から個人の本質にアプローチする方法である。そ

してすべてが「心の本性(原初の境地、土台)」に直接アプローチすることで速やかに仏性

を獲得して行くのである。ここで用いる姓名は、奇門遁甲の究極のロジックから導き出し

たものであり、完璧で究極であり、まったく否定的な部分がない純粋意識(リクパ、明知)

を実現する。この姓名は真善美であり、ブッダの法身と報身と応身を瞬時に倶現する。人

間を超えた如来・菩薩・観音・明王・阿羅漢の存在と同等の名前である。しかしこの名前

は誰もが潜在能力として秘めている側面だ。奇門遁甲は人の隠された仏性を引き出すロジ

ックだったのだ。「無上の二つ宝」を融合することで究極の身口意の金剛まさしく金翅鳥に

乗って光速を超え一瞬に仏性に至るはずだ。

ゾクチュンの説では、化身は、ツェルという概念で説明することができる。もともと自分

が発したエネルギーであるにもかかわらず、それがあたかも湖面に映った月のように外部

の世界のように見える。その結果、外部の世界から切り離された、閉じた自己の中に封じ

込められたように感じられる。この外部の世界は他者として経験する。つまり、自分と他

者は各々が独立した存在のように見誤るのである。実際には、なにも起きていない。ただ

人はその現象を現実であると執着した結果、その顕現に支配されてしまっている。これは

本人の内部に由来するものであって対象に由来するものではない。そして報身は、ロルバ

という概念で説明できる。ロルバでは、その顕現が主観的に自分の内部次元の心眼にエネ

ルギーとして映し出されたとき、それが自分自身の原質の投影であると純粋に理解してそ

の本性が空であることを悟れば、智慧と慈悲が発現して清らかな化身の浄土の顕現だと悟

ることができる。これが涅槃である。しかし反対に理解しそこなってそれに執着すれば、

煩悩が発現して不浄な顕現の中に入りこんで輪廻を経験することになる。人は心の内部次

元で報身の不浄な顕現と清浄な顕現を体験する。これが『チベット死者の書』の中有(バ

ルド)の経験であり、密教が行っている変容の道である。過去世回帰はこの報身の不浄な

顕現と清浄な顕現を当人にロルバとして顕現させて本当に当人の過去世であるかのように

見せているのだ。そして法身は、ダンという概念で説かれる。ダンは、本来、人のエネル

ギーは形を持っていないが、執着の結果、人は意識の連続体の流れにあるカルマの痕跡(薫

習)によって身口意あるいは外的な環境として知覚されるものが生じてくる。その特徴は

無量の生の間に積み重ねられた原因によって、決定される。まさに二元論の幻影に限定づ

けられてこのカルマ的顕現が本当に自分のものであるように見える。しかしその存在の種

子たる意識がその存在の対象に映し出されたものに本当に自性が無いと悟ったときその存

在の種子は崩れ去る。つまりこの二元論の幻影が切り裂かれると、自らの真にあるがまま

の、原初の根本状態を経験する。これが二元論を超えたブッダが経験した無限の意識を持

つ法身の境地だ。

法身(ダン)は、三昧の境地において、顕現してくるすべてのエネルギーは、原初の境

地の飾りとして感覚される。

無−真理の身体。あるがままのリアリティの身体。無限の意識。

 報身(ロルバ)は、原初の境地のエネルギーが、その生命体にとって主観的に、その内

部次元においてあらわれてくる。

  有−幻の身体、意生身(中有、幽霊)、カルマのエネルギー。不浄な顕現。

 空−虹の身体、慈悲のエネルギー。清浄な顕現。

化身(ツェル)は、原初の境地が光としてあらわれたことを因として生じる。

  有−不浄な身体。原子で構成し、物質次元で顕現する。カルマの種子は報身の幻身を

土台に記憶され再生する。輪廻。

  空−清浄な身体。光子で構成し、光子次元で顕現する。カルマが浄化され尽くしカル

マを積み重ねて記憶する土台がない。涅槃。

解脱の階梯は次のように行われる。

1、三昧への直接的な導き入れ    銅冊、南華密教。セムデ、ロンデ、メンガクデ。

2、虹の身体の土台をつくる導き入れ 銀冊、テクチュー。

3、虹の身体への直接的な導き入れ  金冊、トゥゲル。

4、虹の身体からの直接的な導き入れ 玉冊、ゴールデンレター(ガラップ・ドルジェ)。

5、クンチェ・ギェルポ(シュリーシンハ、ヴァイローチャナ)。

人の存在は、運命学という限りある概念に収まりきるものではない。しかし、それに近づ

けることはできる。逆に「ア」字のような原初の境地を意味する「生じたこととてなく」「無」

の状態に収まりきることもできる。それならば、名前という限界概念にあっても「ア」字

と同じ境地の悟りの状態にあれば大いなる悟りが得られることは必然で如実である。名前

は存在する三身のすべてのモードを兼ね備えているのであるから姓名は個の存在を象徴す

るものであり、存在そのものである。名前がなければすべてが平等であるかもしれないが、

存在の意味を問うことができなくなる。悟るために名前をツールとして利用しようと考え

たのが奇門遁甲である。それゆえにその存在の如実にあるがままで無努力に住するのが自

己解脱の方法であり、自分という限界概念を打ち破る唯一の道だ。この究極の名前を持つ

者こそがすべての生命体の根源に秘められた法身を覚醒させるパワーがある。まさにその

大いなる無限の意識を支配することができれば、どんなに絶望的な社会の状況に置かれた

としてもそれらをことごとく覆す大いなる力となって人類すべてを救済する希望の聖仙と

なるであろう。

筆者の「六つの瞑想体験」 虹の身体の大いなる転移 

筆者は生まれながらのカルマと自分に与えられた姓名によって与えられた苦しみを開放す

るために究極の解脱の道を求めて永遠なる迷いの道を彷徨した。最初に門を叩いたところ

は幻身の悟りを説く宗教だった。原始仏教を信奉しながらも真言密教というものを土台と

していたため、筆者は究極の悟りに至ることはなく、10年で挫折を経験した。そして自

ら悟りに到る方法はないかと五術の研究に没頭していった。しかし五術の活動を行うこと

で自分自身が南華密教『西遊記』で説く様な妖怪や化け物のように変化していくことが解

った。これは人が持つマイナスの想念の不浄な顕現に支配されシンクロしてしまったから

だった。そんなときに友人の紹介でクリヤー・タントラのレベルの宗教と出会った。そこ

には幻身として作ってしまった不浄な顕現を清らかな顕現に変える方法を持っていた。筆

者はその方法によって身体・言葉・意識が浄化され観音菩薩のような顕現に変化すること

ができた。そしてそこの宗教を信奉する方々も清らかな幻身の悟りを得て身体はオーラで

輝き存在していないような透明感があった。しかしあくまでその宗教のロジックによるも

ので作り出した幻身であったので永遠にその状態を維持することは不可能だった。(『西遊

記』ではその宗教のことを「観音禅院」であると指摘している。)筆者は多くの方々を同じ

悟りに導くために過剰な行動をしたためその宗教から不本意にも除名を言い渡された。そ

してその行為は「?」と呼ばれる否定的なレッテルを貼ることで行使された。そして筆者

が行ったことで同じように「?」が入ったとされてその宗教から除名宣告された人が多く

出た。筆者を立場上犯罪者扱いした人や恨み憎んだ人もいた。筆者は多くの人々にたいへ

んな迷惑をかけたことを真剣に反省した。しかしこの現象は筆者がその宗教に入信した頃

から起きており、筆者としてはなんとかできないかと非常に心を痛めていた事柄だった。

そんな折り筆者がその当事者となってしまったのだった。もう他力本願ではなく自力でこ

の問題に直面する決心をした。そしてその宗教によって「?」が入ったとされて今でも苦

しんでいるすべての人々を本当に真剣に救うために全身全霊と全プライドを賭けて大いな

る帰依と本当の発菩提心を起こした。すべての衆生を救うために命がけの誓願を立てた。

そうして真剣に修行していくうちにその宗教が信奉するロジックをすべて自分自身の内外

に顕現させることができるようになった。しかしその方法では解脱できなかった。それは

自分自身が自己解脱、自然解脱の境地に到っていなかったからだった。他の真似や物質的

なものに頼った解脱は不可能であり、その宗教の信奉するすべてのロジックを究明し、理

解し、再検討を行った。そしてその「?」の解決方法がチベット密教の各派の教説と実践

を調べているときに偶然発見できた。それがゾクチェンの自己解脱の道だった。筆者はニ

ンマ派に伝わるゾクチェンの自己解脱の具体的な修行を自分なりに工夫して行った。そし

て自分自身が信仰上での見解の多くの矛盾と自分勝手な宗教解釈でまったく誤った修行を

していたことを大きく悔いて真剣に反省した。気がついたらゾクチェンのテクチューの修

行を行ってすでに一年の月日が過ぎていた。このとき次の段階に行うトゥゲルの修行は謎

だらけだった。そんな頃ボン教のゾクチェンを紹介した『知恵のエッセンス』を1月15

日に購入した。なんとそこにはテクチューとトゥゲルの修行法が書かれていた。これはト

ゥゲルの修行をせよというメッセージであると受け取り、一大決心し、トゥゲルの修行を

開始した。筆者は『虹と水晶』に写真で掲載されているダライ・ラマ五世の秘密寺院のト

ゥゲルの壁画を参考にヤントラヨーガとロンデとトゥゲルの姿勢を熱心に行った。最初は

全身が重くなり、動けなくなったがそのお蔭で身体全体のすべての微細な器官のプラーナ

が通る道筋を感じることができた。身体の外部には白い煙のようなプラーナが湧き出した。

この顕現はロンデの修行の成果だった。セムデに関しては、中沢新一さんの『セム』の「ゾ

クチェン最古の五つの文書」を読むことで法身の意識であるセムデの空性の側面とロンデ

の意識の側面を悟り、意識と空性の不二が最終的な真実であることを体験した。特に『菩

提心 金翅鳥タントラ』の次の説に大いなる感銘を受けた。

「執着不能なものに執着することと、執着のさなかにありながらそれに執着しないこと

が、執着の大王ともいうべきもので、最高の大執着であると知られている。」

「行為を離れ対象に限定されず、対治によってなすべきことがない。無用な意味などは

なく、この自性から精髄としての自性が生じるが、これは法身と異なることなく、真実

にしていたるところにわたって無思考である、この広大な精髄に、常に留まろうと願う

のが、聖仙というものである。」

これらを含めた古文書の精読を行った結果、すべてのゾクチェンのエッセンスであるセム

デ・ロンデ・メンガクデの原点がここに書かれていることを発見した。そしてテクチュー

とトゥゲルとヤンティの修行法もこの文書の中に隠喩という形で散りばめられていること

を悟った。

メンガクデの修行については、ナムカイ・ノルブ・リンポチェの『ソクチェンの教え』『虹

と水晶』にその修行のエッセンスが書かれていることを読み取り、多くの実践に役立った。

座右の銘として常に「覚醒の境地のカッコー(六行の金剛の詩)」と「金剛の歌」を精読す

るや否や速やかに三昧の境地に入れたことと三昧に長くとどまることができた。

筆者は2007年旧暦一月十五日の満月の夜に覚醒したことを確信した。それは『ダライ・

ラマのゾクチェン入門』の「束縛からの解脱をもたらすタントラ」と「英邁にして光輝あ

る王の卓越した教え」を精読しているときだった。パドマサンバヴァとダライ・ラマ五世

の清浄なヴィジョンが筆者の意識の中に入って来るのを感じたその瞬間に意識の次元が大

きく入れ変わったような覚醒を感じた。つまりこれが虹の身体からの直接的な導き入れだ

ったのである。筆者はこの境地が本当のニルバーナであり、自己解脱であると確信したの

である。今まで筆者はゾクチェンの正式な灌頂を受けるチャンスがなかった。というより

も日本人がゾクチェンの灌頂を受けることは言うまでもなく不可能だった。命がけの修行

が不可能を可能にしたと言って良いだろう。筆者がクリヤー・タントラの宗教の説く「?」

という不浄な顕現を打ち破るきっかけとなったのは、般若心経の空の境地をはじめて体験

し、ニルバーナの本当の意味を悟ることができたことである。それまでは観念上の空を理

解していたに過ぎなかった。これは自らが行った行為を大いに恥じて悔い自らが自らを責

め立てたことで心と身体がボロボロとなり、死んでも本望であると覚悟したときであった。

(つまり筆者の阿藤大力の姓名が意味する「洗心革命」を完璧に行ったとき)この苦悩は、

すべて自らの心が勝手に作り出した幻影であると体験した。そしてその本性は空であるこ

とを悟った。これが仏教で説くまさしく執着と煩悩であることを体験したのだった。それ

まで筆者は概念よる上っ面のみの執着と煩悩を理解していただけで本当の意味での理解を

していなかったことを悟った。そして自分の責任で「?」が入った人を何とかしてくれる

ようにその宗教に直訴しようと覚悟し、まさに討ち入りして果てもよいという思いで向か

ったがまったく相手にされず門前払いを食らった。そしてなんとかその人達を救ってくれ

るように心からその宗教の本尊に向けて無心の境地で手を合わせて祈ったとき、今までま

ったく見たこともない黄金に輝く八輻の輪がはっきりと心眼に顕現した。そしてそれはほ

んの一瞬の出来事だったことを今でもありありと覚えている。

(これは後で調べて解ったことであるが、最初は『チベット死者の書』に書かれている「…

…ヴィローチャナ如来が白色の身体をして獅子を背に坐し、手には八輻の輪をかざし……」

の八輻の輪が描かれている絵にそっくりだった。そしてボン教の資料にオルモ・ルンリン

という国について「……形状については八本の輻を持つ車輪状の天空に相応する、八弁の

花として描き出されている。……」という記述が筆者の見た顕現に一番近かった。)

そしてその顕現を見たとたん執着と煩悩に翻弄されていた気持ちが一瞬にして消え去り、

安らかな気持ちを取り戻したのである。これこそがいつもお経で唱えていた無上菩提であ

ると悟った。このとき筆者はゾクチェンの洗礼を受けていたのかも知れない。ある人はこ

の「?」の恐怖によって顔が真っ黒になり、嫉妬に狂った人は醜くなり、恐怖に怯えた人

はありもしない災難を呼び、明らかに精神分裂症になっている人もいた。これが密教の説

く、サマヤ戒の悲劇であり、人の執着と煩悩が増殖した結果が起こした現象であると筆者

は悟った。つまりクリヤー・タントラのレベルでは煩悩を浄化して解脱することはできな

かったのだ。密教のレベルでは煩悩を智慧に変容するだけで実際にそれを行えるのは数十

年も修行したグルに限られており、その方法ではどんなツールを用いたとしても一般人の

暴走して増殖する煩悩を止めることも浄化することもできなかったのだ。密教の変化の道

は所詮二元論の限界の壁に閉じ込められており、執着と煩悩の根本的な原因をまったく解

決していなかったのだった。筆者は密教の変化の法というものが人の運命に対治する方法

としてこんなにも脆く儚いものであることを本当に悟った。しかしゾクチェンの自己解脱

の方法ではこの執着と煩悩を解決する自然解脱の方法があった。その方法とは顕れてくる

煩悩を放棄することや変容するのではなく、その流れに任せ煩悩を心の本性へと解き放つ

ことで自然に解脱させる方法だった。最初筆者は上手にできなかったがコツを掴むと要領

よく煩悩を自然開放できるようになった。そして筆者はこの自然解脱の方法を確信し、生

命に対する一切の執着を捨て去り、まさに捨て身でこの「?」と対面し、本当に純粋な帰

依と大いなる力である菩提心を生起したことで自分の幻想が生み出した「?」の不浄な顕

現の発生のおおもとであるカルマの種子を完全に消滅させることに成功した。さらに執着

と煩悩の根本原因である二元論を乗り越えたことで大いなる勝者と成ったのである。つま

り、すべての拘りと執着を完全に捨て去ったとき理解と解脱が倶生し、仏性に到達したの

である。筆者は虹の身体の大いなる転移を悟ったのである。その要因は次の「六つの瞑想

体験」からであると推測できる。

1、すでに幻身の悟りを得ていたこと。

2、究極の空を確信し帰依と菩提心が完璧に行われたこと。

3、無上の智慧と慈悲が発現して統合したこと。

4、幻身と虹の身体を彷徨したこと。

5、過去世における多くのグルやラマとの出会いとテクチューを完璧に行いトゥゲルの顕

現が現われた。

6、すべての執着を捨てたとき、法身である真理の身体から無限の意識を授かり、報身で

ある虹の身体から直接な灌頂を授かった。

筆者が虹の身体の悟りを成就したことを宣言しても周囲の人々は誰もそれを理解し信用す

る人はまったく存在しなかった。それは無理もないことであり、現代において虹の身体を

顕現することは血脈がすでに断絶しているのでどのような師弟関係を結んだとしてもまっ

たく不可能であることは明らかだ。しかし筆者の内面において遠い昔自分自身の過去世の

清浄なヴィジョンがなぜかあなたの過去世はシュリーシンハ(ロンチェンパは中国の禅師

と呼んだ)であるよと耳元で囁くのである。

(つまり過去世回帰には不浄な顕現と清浄な顕現の陰陽に対応する二つの顕現があり、そ

れを施す導師によって立ち現れる顕現が異なることが解った。これは極めて重要なことで

あり、筆者がリクパの智慧によって発見した究極の真理の一つに数えられるであろう。も

う一つは解脱のアプローチに陰陽のゾクチェンが存在することだ。つまり奇門遁甲が陽の

解脱法に区別される。)

この顕現を現実のものであると確信したときから筆者の状況が大きく変化したのである。

驚くことにトゥゲルの修行に出てくる顕現が自分自身の周りに突然起き出したのである。

しかしそれ以前にその兆候はすでに起こっていた。昨年筆者が船井メディアさんで企画し

て頂いた「阿藤大力と行く中国風水ツアー」に参加された方々が写真にトゥゲルの顕現を

鮮明に写し出していた。そしてそれは筆者の意識と身体にもトゥゲルの顕現が立ち現れて

来た。特に身体的な顕現において幻身は清らかなオーラが物質次元に顕現するのだが、筆

者はその顕現をも超えた虹の身体の顕現が突如発現して来たのである。

幻身の悟りを得たレベルでは目に見えるものはすべてオーラに包まれて見えるようになる。

(これはどんなに清らかに見えてもどんなに原子の粒子のクラスタが微細になったとして

も、また0.∞無限大の1という極めて微細な原子レベルになって見えなくなったとして

も実際に存在するものなのでゾクチェンでは、完全なる解脱ではないと見なされている。

そして物質次元である限り、嘆きの門を突き破って解脱することはできない。人間は嘆き

の門の前で絶望に平伏すだけだ。なぜなら原子レベルで存在しているからだ。虹の身体は

光子次元で存在するのでその差は天と地ほどの違いがある。)

しかし虹の身体の悟りを得たレベルではすべてが五色の虹に包まれて見えるようになった

のである。これは虹のティクレと呼ばれるトゥゲルの修行の成果による顕現である。手は

発光し透明感は以前の幻身とは比べようがないほど清浄な身体として顕現しはじめたので

ある。リクパから大いなる慈悲と智慧が湧き起こり、すべての成就者の資料が覚醒した境

地を述べていることを悟った。だから人間がいくらこのような成就者の書いた資料(たと

えば『ミラレパの十万歌』)を読んでもまったく理解できない理由が解った。そしてこのよ

うな奇跡を起こした筆者の瞑想体験を『五術占い師』に書かなければならないと感じた。

まったく努力することなくすらすらと文章が湧き出てくるのは驚きである。リクパとは空

海の説いた求聞持聡明法そのものであると感じた。リクパに住することは非常に穏やかで

清らかな境地であり、無上の快楽を享受しているようだ。この無上の幸福をすべての人々

に分かち与えられる。そしてこの無上の歓喜をすべての虹の身体を成就したグルとこれか

ら誕生するすべてのブッダに捧げる。

あとがき 清浄な顕現による世界の救済方法

現代は今誰もが共通の不浄な顕現を見ているといってよいだろう。そしてそれに共感する

ものは、つまり顕現に支配されてしまったものは、同じような顕現を体験するだろう。こ

れは顕現が問題ではなく、その人の内部次元にその根本原因があることを理解しなければ

ならない。現代の今この時代のこの時にみんな同じような共通の社会的顕現が立ち現れて

いるの過ぎないのである。どんなに大変な天変地異が起きたとしても明日核戦争が起きて

地球上の人類が一瞬にして消滅したとしても、それは、共通の顕現であり、個々の心の本

性から立ち現れた真実の顕現であるので、それを認めて受け入れるしかない。そのような

闘争や戦争が起こるその根本は、すべての意識が独立自存の国家、社会、会社、家庭、個

人というように、各個がその存在を信じてしまったことからこの不幸が始まっていること

を確信することだ。つまり心の本性から離れて独立自存して存在するものなど一切ないの

だ。ゆえにすべての国、社会、会社、家庭、個人が独立自存ではないのだからその人の眼

の前に立ち現れた人や物事は自分の心の本性が純粋に映し出したものに過ぎない。自分が

何らかの手助けができるという確信があるならば、ただ純粋に救ってあげれば良いのだ。

時代性を持つ社会的な集合意識は、個々の心の本性から立ち現れてくる。その根本は社会

でリーダーシップを取っているある特定の個人が発信した情報を社会が支持するか支持し

ないかによって社会的顕現を決定する土台ができあがっているようだ。人々の集合意識は、

風水やある特定の土地の文化、宗教、産業が大きな影響を与えており、国家的意識、社会

的意識、地域的意識、会社的意識、家庭的意識、個人的意識のそれぞれを形作るようだ。

それに付け加え通信機能が発達した現代社会において、すべての社会意識が通信産業のメ

ディアやインターネット、携帯電話によって特にテレビから瞬時に情報として個人に植え

付けられている。清浄な意識ないし不浄な意識であれ本日のニュースを見た人はそのニュ

ースからすべての社会共通の情報を意識に記憶している。ベストセラー、大ヒット曲、大

ニュース、究極の大ブレイクなどはすべての人々に清浄な顕現として立ち現れるが、その

反対のニュースは不浄な顕現として個人や社会を暗くさせるだろう。ジャ−ナリズムや批

評はその人の見地から是々非々の解釈をああでもないこうでもないと戯論を戦わせ本質的

に社会や人々を乱し迷わせている。これは無意味な行為であるといえよう。このような現

代の状態から出来上がった個人の意識を土台にして未来の顕現が立ち現れて来ているので

ある。

子平推命では、個人の運命の顕現が清浄、清濁、不浄の三種類に区別しており、清浄な命

式の人はゾクチェンのあるがままに無努力で純粋に生きて行けば社会を浄化しよりよい社

会を顕現させる土台になる。反対に不浄の命式は本人の行為が本当に社会を害していると

悟ったならそのような生き方を反省して改めその行為の根本を悟り勇気をもってその行為

を棄てるべきだ。これは釈迦が説いた本当の放棄の道であり仏教の伝統である。清濁の命

式の人は、密教の変容の道によって不浄な顕現を清浄な顕現に変化させることで人々に純

粋な意識を植え付けて行くことだ。すべての人々が本来あるべき社会的立ち位置に本当の

意味を持って立って虹の身体を得たとき、すべての社会におけるカルマ的な顕現は浄化さ

れて社会的涅槃が実現するであろう。五術は、個人、家庭、会社、国家を救う究極の方法

だ。個を救い守るということは社会を救い守ることだったのだ。社会は個人の意識の集合

体であり、個々の運命が清浄な運命の顕現に変って行けば自ら社会も清浄な顕現が立ち現

れる社会となるであろう。五術は頓悟的に純粋な意識によってより効果的に無駄な時間を

かけずに個人を救い、家庭を救い、社会を良くする活動ができるのである。

一般に社会の大半の人々は政治が一番に社会を良くしてくれると信じている。国家の政治

は国民の意識をどれだけ支持したかによって存在意味が問えるといってよいだろう。しか

し政治は根本的に政権の奪還と闘争によって覇権を牛耳ることが目的であり、新しい政権

が既存の政権を転覆することで成り立っている。その覇権争いに多くの人を巻き込んでい

るだけでいつ国民を救う良い政治が正しく行われているか疑問である。つまり政治は抑制

と搾取の道であり、多様な問題に国は警告と強制によって秩序を保とうとしているのであ

る。この政治の本音と建て前を裏返せば警告は脅迫になり、強制は暴力になり兼ねないの

である。だから政治はその規制が行過ぎたり緩め過ぎたりすると戦争やテロの恐怖を生み

出す根本的な土台となってしまうのだ。美しい国をつくろうとするスローガンは素晴らし

いが、政治の本質は本当に国家、社会、会社、家庭、個人を救済するシステムをまったく

持っていないことを理解することが必要である。つまり政治は人々に社会的マナーを守り

法律の秩序に従えということしか認めていないのである。しかし古代中国では徳をもって

政治を行うというスローガンをもっており、本当に人の上に立つべき人が他薦によって選

ばれることであり、聖人君子をその宗とする汚職しない政治家を社会は求めていた。まさ

に諸葛孔明のような優れた人材を社会は欲していたのである。古代中国は姓名を二文字に

することで社会的秩序を保とうとしたのである。これは姓名学では外格という対社会との

関係を癸儀の秩序を求めるという求定に設定していたのである。これは奇門遁甲の概念で

ある。古代中国は国家を安定させ発展させるために細部にわたって奇門遁甲のロジックを

用いていたのである。つまり王の対治の方法に裏と表つまり本音と建て前があったのだ。

中国以外の国家はこの王の対治の法を持っていなかったために国の秩序が大いに乱れたの

だ。これを中国では「胡帝胡天」「胡思乱想」と呼んでいる。実際に奇門遁甲は諸葛孔明以

後、唐、宋、明、清朝の各王朝に奇門遁甲が残されている。少なくとも個人の幸せが社会

の幸せをもたらすのであるから不幸であると思う人は開運して運命を変容すべきだ。一番

よい解決方法は究極の悟りを得ることだ。素直に純粋に清浄な顕現(光明)の中に包まれ

ながらただあるがままに無努力に如実に住し、為すべきことを為して生きて行けばよいの

だ。

これまで筆者を導いてくださったすべての多くの方々の善悪を問うことなしに無上の感

謝の辞を心から述べさせて頂いた。

そしてすべての人々を自分と同じ自己解脱の境地に導く決意と一人でも多くの方々をニ

ルバーナ(彼岸)に導く決心をした。

それから五術占い師に出会った人はどんな人であろうとも「無上の二つ宝」によって理

解と解脱が倶生するなかで必ず仏性に至ることを確信した。

なぜなら筆者がその前例を為しており、筆者が虹の身体の覚醒を得た境地から出てきた

言葉であり、この方法なら必ずすべての人々を救えるからだ。

「無上の二つの宝」の融合から大いなる悟りと大いなる力を得た

2007年4月 清明 阿藤 大力

参考資料

『ダライ・ラマ』 ゾクチェン入門 宮坂宥洪訳    春秋社

『宇宙のダルマ』 ダライ・ラマ十四世 永沢哲訳  角川書店

『虹と水晶』 ナムカイ・ノルブ著 永沢哲訳     法蔵館

『ゾクチェンの教え』 ナムカイ・ノルブ著 永沢哲訳 地湧社

『智恵のエッセンス』 ボン教のゾクチェンの教え   春秋社

『セム』 第6+7合併号  中沢新一   ゾクチェン研究所

密教秘伝『西遊記』     張 明澄著       東明社

密教秘伝『西遊記』と小周天 張 明澄/篠原曠安著  東明社

『奇門遁甲開運術』     佐藤六龍著      ナツメ社

『金印玉章訣』       不明           手稿

 *  *  *  *  *

読者の皆様へ

本書は筆者の「虹の身体の転移」の悟り体験をインターネット上に始めて紹介したもので

あり、筆者の体験によって今この時を苦悩の境地に置かれている方々に少しでもこの体験

を見聞することで手助けや修行のヒントになればと思い、今回はこの内容の公開にふみき

りました。多くの批判や改善点、至らない部分があると思われますが、あるがままの筆者

の純粋に悟った境地を書きしたためたものです。いずれは一冊の書物として著作する企画

も現在検討中です。多くの障害、壁、うまく行かない、あるがままでない、確信がもてな

いと思われる方は筆者の五術面談を受けられることをお勧めします。

阿藤大力の五術占い師 面談(天命、開運、姓名) 現在開催中!!

面談希望の方は電話・FAXにて、お名前、生年月日時(生時不明の方も可)、性別、出生

地、現在地、本名(ふりがな)、別名(芸名、ペンネーム)を表記の上ご希望面談日時をご

予約ください。新しい姓名をご希望の方は自分の選んだ名前の字音の候補を幾つか挙げて

お送りください。 

  五術占い師事務所:TEL/FAX 0422−71−3925