その人は長い髪を結ぶ事もせず、鳶色の瞳を俺に向けていた。 「元気そうね」 「おかげさまで」 かつて自分の上司だった彼女。 こうやって二人きりで会うのは3年ぶりになる。 「…変わったわね、ハボック少…いえ、大尉」 「それはお互い様でしょう。アンタだって変わった…マスタング夫人?」 俺が揶揄うように語尾を上げると、元・ホークアイ中尉は静かに首を横に振った。 カフェで向き合ってオレンジジュースを飲む彼女のお腹は、少し膨らみを帯びている。 今度の10月に産まれるらしい、と言う話はブレダから聞いていた。 「変わってしまったのね、あなた。……さっきからちっとも笑わない」 「…………」 5月の温かな日差しを受けて、穏やかに笑った彼女の表情はまるで俺を憐れんで いるかのように見えた。 「…あの人を、恨んでる?」 その問い掛けには答えず、コーヒーに口を付けて一口啜る。 彼女の瞳をじっと見据えたまま、何分間の沈黙ののちに俺は口を開いた。 「………エドワードを失った事に関して、准将を恨んだ事は、ありません」 思い出したようにぽつりと答えた俺を、今度は彼女がじっと見詰めていた。 「ブレダ中尉が、あなたの事を心配していたわ」 「どうして」 「自分から進んで危険な地域に行こうとしてるって。戦場でも前線にしか行かないって。 酷い怪我を負う頻度が高くなっているって。……とてもあなたの事を心配していたわ」 「………そうですか」 「まるで死にたがってるようにしか見えないって」 そこまで言うと、彼女は両手で顔を覆った。 「……国境に行くなんて、死にに行くようなものじゃない…!!」 3年の月日の間にかつて共に闘った仲間達は、それぞれの道を歩んでいた。 軍を辞めて家業を継いだ者の居れば、そのまま軍に残った人間も居る。 勿論全員が同じ隊に配属される事は無く、残った者全員がバラバラの地域に 飛ばされた。 クーデターを起こした人間に軍執行部の対応は当然のように厳しく、また同僚達の 態度も180度ガラリと変わった。 正直、居心地の良い場所とは言えなくなってしまった、俺の職場。 聞こえよがしに嫌味を言われる事も、面と向かって罵られる事も、日常茶飯事だった。 自分を部下にする事を拒まれる事もしばしばで。 確実に俺は『軍の厄介者』になっていた。 それ故にマスタング准将の直属から離れ、新しい上司に気に入られるためには危険な 任務を成功させるしか方法が無かったのだ。 クーデターを起こした人間にも関わらず、3年間で2回昇進出来たのはひとえに実践的な 功積を上げてきたから。 そして、2週間後にはドラクマとの国境に近い駐屯地に配属される。 ブラッドレイ大総統が行方不明になった事で、アメストリスを狙うドラクマが侵略行為を 開始したのだ。 事態を重く見た軍司令部は、即刻国境の警備を固めようと派兵する事を決定した。 その第一派派兵の中に、自分の中隊も入っていた。 ……クーデターを起こしたような人間を厄介払いしようとしているのは、俺にも判っては いたが。 俺は極力彼女を興奮させないよう、静かな口調で言葉を紡ぐ。 「確かに国境は今危険な地域にですけど…別に俺は、死にたがってるワケじゃありません。 ただ……俺はエドワードが帰ってくるまでに、それなりの地位に就いていたい。 その為には、どんな手段を使ってでも出世します。 今度だってそうです。上手い事ドラクマを撤退させる事が出来れば、また昇進出来る」 俺が昇進に拘るのには、理由があった。 あの時。 間道を抜けてリゼンブールに戻ろうとしたエドワードに銃口を向けた。 その事を俺は今でも後悔している。 もしもあの時、銃口を向けるより先にアイツの腕を掴んでいたら、今と違った未来が あったのかもしれない、と。 そしてあの時、俺がそれなりの地位に就いていたのならばもっとあの二人を助けて やれていたのに、と。 だから。 エドワードが再びこの国に戻って来た時には、今度こそ全力で護ってやれるように。 そして我武者羅に働いていないと、エドワードの事ばかり思い出してしまうから。 そんな3年間を過ごしていたら、笑い方などすっかり忘れてしまっていた。 笑いたくなるような事など無かった、と言うのも事実ではあったけれど。 「泣かないでくれませんか。周りがこっちを見てる」 すっかり冷め切ってしまったコーヒーを飲み干し、ハンカチを取り出して泣いている目の前 のかつての上司に差し出した。 「まるで俺がか弱い妊婦を苛めている、おっかない軍人みたいじゃないですか」 「……何が違うのよ…」 「……そうですね。こんな事をアンタに話すのも筋違いだ。 でもあんまり泣くと、お腹の赤ん坊に障りますよ……中尉」 レシートを手にして席を立つと、一度だけかつての上司に向かって敬礼をした。 「休憩も終りですので、失礼します」 胸のポケットから煙草を取り出しながら立ち去ろうとした瞬間、背中越しに『待って』と 声を掛けられた。 「さっき言った事、取り消すわ。あなたちっとも変わって無かった」 其の声は、かつて俺が毎日のように聞いていた、凛とした副官の声そのもので。 俺は思わず足を止めて振り返った。 じっと此方を見詰めている鳶色の瞳。 3年前と何一つ変わって居ない。 リザ・ホークアイ中尉そのままだった。 「変わったと言ったのはアンタでしょう?」 俺は、どんな顔をすれば良いのか判らず、それでもその視線から顔を背ける事も出来ずに 居た。 中尉は首を何度か横に振ると、相変わらず凛とした声で俺に言った。 「……変わって無いわ。煙草…吸わなかったもの。 私と一緒に居る間、お腹の子に気を使ってくれてたんでしょう? ………昔から優しいのよね、あなたは」 その言葉に。 俺は何も言う事が出来なかった。 どんな言葉を返せばいいのか判らずに、その場を立ち去った。 煉瓦作りの通りを、軍靴の音を響かせながら官舎へと戻る。 『変わっていない』と言う言葉は俺の胸に響いた。 変わったと思いたかったのに。 あの時の俺のままで居ることは許されないと、そう決めていたのに。 『変わらなければならない』と。 エドワードを失ったのは、あの日の自分の未熟さだと。 今でも右手には、あの時の傷が残っている。 エドワードを失った、あの日のままの傷痕。 俺は2週間後には国境に旅立つ。 もうきっと彼女とは二度と会う事は無いだろう。 セントラルに戻ってこれる確率も、果てしなく低い。 それだけ戦闘が激しい地域になるだろうと、誰もが予想出来る事だった。 もしも願いが叶うのなら、もう一度お前に会いたい。 敵の弾に当たって血塗れになった俺の体を抱いたお前に看取られて死にたい。 そんな願いが叶えばいい。 ―――ねがいよ叶え いつの日か そうなるように生きていけ――― |