サザンクロス



真夜中に電話のベルが鳴り響く。
ハボックがベッドから腕を伸ばして受話器を取り上げた。
「…もしもし?」
目覚まし時計を確認しながらのその声は、明らかに不機嫌な色。
確かに非常識とも言えるこんな時間に掛かって来た電話の所為で安眠を邪魔されたのだから
無理も無いのだが、昼間のこの男の人当たりの良さからは到底想像つかない
温度の声だった。
「…もしもし?………もーしもーし……」
受話器から相手の声がすぐに聞こえなかったのも更にハボックを苛立たせる要因となっていた。
ああ、もう切ってしまおうか。
そんな事を考えてハボックが受話器を置こうと耳から僅かに離した、その瞬間。
『…少尉、オレ』
消え入りそうなか細い声が聴こえた。
「……エド…ワード…?」
相手の声が耳に届いた瞬間に男の眉間から皺が消えていく。
『…寝てた、よな。当然。…ゴメン、こんな夜中に』
「寝てたっちゃあ寝てたけど。ああ、良い…気にすんな…どうした、今どこに居るんだ?
 ………ああ、ああ。解った。今からそっちに行くから……」
電話に出た時とはうって変わった温かい声で、電話の向こうに居る相手を宥める。
受話器を置くと即座に出掛ける準備を整えて外に出た。
冬の夜中の空気は肌が切れるのでは無いかと思えるほどに冷たくて、ハボックは背を縮こませ
ながら目的の場所へと歩を進める。
冬の夜空を見上げれば、雲ひとつ無い空に瞬く幾千の星。
昼間に少し小雨がパラついていたが、夕方にはすっかり止んで今は快晴だ。
そんな天気とは裏腹に、ハボックの胸中は酷くざわついている。
先刻、受話器から聴こえた子供の声が、頭から離れないのだ。
天才錬金術師と噂されているエドワードとは、司令部でしか顔を合わせた事が無かった。
最近、ショウ・タッカー邸に車で送り迎えする事が多かったので、ぼちぼち色々と話す
ようになったぐらいで。
そのショウ・タッカーが起こした悲劇に、幼い子供は随分と打ちのめされていたようだった。
ハボックは現場検証とその後の処理の為に、エドワードが泊まっている宿屋へ送り届けたのは
別の人間だった。
『泣きそうな顔をしていたわ。…勿論、泣いてなんかいなかったけれど』
美人中尉がポツリと漏らしたその一言が、心にわだかまっている。
「思い詰めてなけりゃ、良いんだけどな…」
コツコツと軍靴を響かせて歩く事30分。
月明かりと街灯の光の下、公衆電話のボックスの前。
そこには真っ赤なコートを着て蹲っている、小さな子供が居た。
どのくらいの時間、そうやってこの場に蹲っていたんだろうか。
エドワードの顔は、表情が作れなくなるほどに強張ってしまっていた。
「…どうした、エド」
努めて明るく声を掛けたハボックに、エドワードは凍りついたままの表情で微かに笑う。
こんなに小さな子供が、こんな表情で笑うものだろうか。
寒さの所為で小刻みに震えてしまっているエドワードに、ハボックは自分が羽織っていたコートを
掛けてやった。
そしてエドワードと同じ目線の高さになるようにしゃがみ込んで、そっと腕を差し出す。
「とりあえずさ、寒いから俺のアパートに来いよ。…此処で凍えるよりマシだろ?」
しかしエドワードはその腕を取る事はしなかった。
じっとハボックの掌の先を見つめて、小さく一言呟く。
「…なんで、アンタ達はヒトを殺せんの?」
エドワードの瞳が、今度は真っ直ぐハボックに向けられた。
「オレが…オレがすげえ頑張ってんのに、アル一人満足に錬成出来ないんだ。
 なのにどうしてアンタ達はヒトを殺す事が出来んの?」
ドロドロに淀んだ胸の内を吐き出すように、エドワードはハボックの腕を掴んで琥珀色の瞳で尚も
ハボックを見据えた。
「なんで…ッ、なんで大事な家族を…あんな風に実験材料なんかに出来るんだよ…ッ…!
 オレ…わかんねえよ……ッ、…少尉も、そう…なんだろ…?」
「…エド、少し落ち着け」
感情の揺れ幅が大きくなってしまっているエドワードを宥めようと、その肩に手を置いた瞬間。
機械鎧の腕が、ハボックの腕を乱暴に振り払った。
「少尉だって平気で…ッ、平気で殺せるんだろ!?」
今までに聞いた事が無い程の悲痛な叫び声が、ハボックの胸を酷く抉る。
振り払われた腕と機械鎧が激しくぶつかった為に、その痛みで一瞬ハボックは顔を歪めたがすぐに
目の前の子供に視線を戻した。
「アルが…、アルがどんな気持ちであの姿のまま暮らしてるのか、なんでアンタ達は判らない
 んだよ!!…なんで……っ、…判ってくれないんだよ…ッ!」
エドワードの腕が、ハボックの胸をどんどんと強く叩く。
ハボックはエドワードを宥める事も、諫める事もしなかった。
ただ、彼の気が済むまで吐き出させてやろうと。
だから、エドワードが吐き出す言葉に、賛同も反論もしなかった。
ハボックはただ、ずっとエドワードの細い体を抱き締めていた。
エドワードが言葉を紡がなくなってからも、ずっと。
…暫くして。
「…ありがとうな、エド」
ハボックが不意に呟いた。
ハボックの軍服の胸倉を掴んだまま俯いていたエドワードが、その声に顔を上げる。
「……少、尉?」
自分があんなに酷い事を言った相手から礼を言われるとは思っていなかったエドワードは、瞳を
瞬かせながら驚きを隠せない表情でハボックを見上げた。
「俺を選んでくれたから、な」
ハボックは大きな掌でエドワードの頭を二、三度軽く叩くと地面に落ちてしまったコートを拾い上げて
エドワードに羽織らせる。
「…どうして…?」
ぽつりと呟いたエドワードの言葉に、ハボックが思わず苦笑を浮かべた。
「……さて、と。宿まで送るよ」
はぐらかすように笑って、ハボックはエドワードを置いて歩き出す。
「少尉、コート…」
「良いから着ておけよ。風邪でもひいたらアルが心配するだろ?」
きっとこの子供は、男の想いになど気付いていない。
弟の体と、自分の体を取り戻す為に前だけを向いているこの子供には。
エドワードに想いを告げるつもりは、ハボックには無かった。
そんな事をしたら、今のエドワードに取ってハボックの気持ちは重荷になってしまうだろうから。
ただ今は、こうして二人で並んで歩いているだけで満足なのだ。
どんな理由があったにせよ。
ただ、必要としてくれるだけで。
大通りまで辿り着くと、エドワードは『もう此処までで良い』と羽織っていたコートをハボックに返す。
「本当に……今日はゴメンな。オレ、どうかしてた」
渡されたコートを受け取り、ハボックは煙草を銜えたまま柔らかく微笑み、返事の代わりに
エドワードの頭を撫でた。
「今日は、星が綺麗だよな」
「……は?」
いきなり何を言い出すのかと言いたげな声を上げて、エドワードがハボックを見上げる。
「星が綺麗だって…お前に教えてやりたくてさ」
ハボックは照れ臭そうに笑って、空に煙を吐き出した。
「…………………」
「たまには立ち止まって、空を見上げる余裕が無いと。…人間は簡単に忘れちまうから。
 綺麗なモンはそこらじゅうに転がってるのにな」
エドワードを真っ直ぐ見つめる碧の瞳はとても優しくて、その視線が直視出来ずにエドワードは
たまらずに俯く。
「エド」
膝を折り、下からエドワードの顔を覗き込んでハボックは尚も言葉を紡いだ。
「綺麗事かも知れないけどな…辛い事をたくさん経験したお前だからこそ、綺麗な物をたくさん見て
 欲しいし…見落として欲しくないし…見せてやりたい」
キュッと唇を結んだエドワードの両目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「…あ…り…っ…、…ありが…と…っ…少尉……」
ぱたぱたと音を立ててハボックの軍服の袖に落ちた涙が染みを作り、それを隠そうとエドワードは
機械鎧の手の甲を目元に当てた。
「良い…のかな…っ…、オレ…こんな…優しくしてもらって…良い…の…かな…ぁ…」
ハボックは立ち上がりエドワードの肩を抱き寄せて、しゃくりあげて泣いている子供の背中をそっと
撫でる。
「……今度会ったら、さ。どっか星が綺麗に見えるとこに行こうぜ」
肩を震わせながらエドワードが頷く様子に、ハボックは気付かれぬようにそっと前髪に口付けた。
――想いを告げたい心の内を、隠すように。


二人が再会の約束を果たしたのは、風景を四角に切り取られた病室の中。


「大将…どうした、こんな時間に?」
面会時間をとうに過ぎてからエドワードが訪れた時、ハボックはいつもと変わらぬ笑みを浮かべて
エドワードを迎え入れた。
病院を訪れる前に先に司令部に顔を出していたエドワードは、マスタングやハボックの容態を
ブレダから聞いていた。
そして彼を打ちのめしたのは、ハボックの両足がもう動かないと言う事実。
どんな顔をして会えば良いのか解らなかった。
それでも、エドワードは会わずには居られなかった。
どうしても、彼には伝えなければならない事があったから。
僅かに開いている病室の窓からは、秋の涼しい風が吹き込んでくる。
その風がカーテンを揺らした。
「悪い、ちょっと窓閉めてくれるか?」
ほんの少しの距離なのに、今のハボックには届かない。
その事が、何よりもエドワードには悲しかった。
「……ブレダ少尉から、聞いた」
窓を閉めながら、エドワードが呟く。
「……あの夜、少尉と一緒に見た星空が、オレの支えだった」
エドワードはベッドに歩み寄り、ハボックの掌に自分の鋼鉄の掌を重ねた。
「今までも、これからも…変わらない」
その掌を、ハボックがしっかりと握り締める。
「……ここからの星も、案外綺麗だろ?」
ハボックが笑いながらエドワードに問い掛けた。
エドワードは返事の代わりに、そっと。
そっと、ハボックの唇に口付けた。
「……今日の夜が、これからの俺の支えになる」
ハボックは笑いながらそう呟く。
「ありがとな。…もう行ってくれ、大将」
その言葉にエドワードは頷き、『さよなら』と告げるとドアへと歩き出す。
扉を閉める寸前、エドワードの唇が微かに言葉を紡いだ。
「全部取り戻したら、会いに行くから」


――そうしたら、オレが少尉の足になるから。だから、…待ってて。


空には、南十字星。
誰も知らない、二人だけの誓い。



―――いつかまた、この星空を共に見上げられる日が来る事を信じて。