―――かつり。 微かに窓を叩くような音がして、俺は読んでいた雑誌から目を上げる。 「よぉ」 唇を挨拶の形に動かしながら窓の向こうで笑っていたのは、赤い外套を纏った子供。 窓からの不謹慎な見舞い客は、エドワード・エルリック。 ・・・もう長い事会ってなかった、愛しい子供。 エドワードは真っ青な空に金色のおさげを揺らしながら、そっと両手を合わせる。 窓に掛けられていた鍵は、簡単に空に溶けて消えた。 エドワードは窓を開けると勢い良く足場にしていた木から部屋の中に飛び込む。 「・・・随分と派手な見舞い客だな」 思わず俺が苦笑すると、エドワードも小さく笑った。 「ホントは正面から入ってこようと思ったんだけど・・・何か警備が厳しくて」 ホムンクルスの一件のせいでこの病院は厳重に警護されていた。 エドワードの性格からすると、そんな中を気を使いながら入ってくるのが煩わしかったの だろう。 「・・・で。何しに来たんだ、大将」 「見舞いに決まってんだろッ。・・・少尉が、怪我したって聞いたから」 エドワードは照れくさいのか唇を尖らせながらぶっきらぼうにそう言うと、ポケットから 何かを取り出して俺の腹の上に置いた。 「・・・コレ、見舞い」 エドワードが俺の腹の上に置いたのは、いつも吸っている煙草の箱。 「アンタの好きそうなモン、他に思いつかなかったから」 「サンキュ、大将」 ベッドの傍らの椅子に腰掛けたエドワードの頭を、いつものようにわしわしと撫でてやる。 こんな些細な事でさえ、エドワードが座っていないとしてやれない自分が苛立たしかった。 「・・・な、少尉」 「ん?」 「少尉・・・退役なんて、しねぇよな?」 エドワードが、俯いたまま俺の意思を確認するように呟く。 「・・・お前、その口ぶりだとブレダ辺りから聞いて知ってるんだろ、俺の足の事」 エドワードはこくりと頷いてみせた。 「あの人の足手纏いになる事も、解るよな?」 こくり。 エドワードは素直に首を小さく縦に振る。 「・・・そこに、退役を申請する書類がある」 俺はベッドサイドに置いてある封筒を目で促した。 「受理されるかどうかは分かんねぇけど、来週には出そうと、思ってる」 それは、考えて悩んだ末に出した俺なりの結論だった。 ―――あの人の下に、動けない駒はいらない。 「・・・・・・そっか」 エドワードは低い声でそう呟くと、椅子から立ち上がる。 顔を上げたエドワードは、一瞬だけ、泣きそうな顔で笑った。 でもそれは本当にほんの一瞬の事で。 「オレ、そろそろ行くから」 短くそう言って、エドワードは窓の方へと踵を返す。 「お前とアルが身体取り戻したら、俺の田舎にも顔見せに来いよ」 俺は赤い背中にそう声を掛ける。 「・・・絶対行かねぇ」 子供は窓枠に手を掛けたまま無愛想にそう言うと、不意にこちらを振り返った。 エドワードは、鋼の手を上げて俺に敬礼をする。 「・・・少尉、敬礼は?」 俺は黙ったままエドワードを見つめる。 「・・・まだアンタも軍属だろ。上官に向かって敬礼は?」 俺は、困ったように微笑いながら静かに敬礼した。 「アイサー、鋼の錬金術師殿」 「宜しい!」 エドワードはニッと笑うと、窓枠に足を掛ける。 「なぁ、少尉」 背を向けたまま、エドワードは言葉を紡ぐ。 「オレ・・・少尉の軍服姿好きだったよ。咥え煙草でハンドル握ってるトコも好きだったし、 丁寧に銃の手入れしてるトコも、かったるそうに書類眺めてるトコも、」 良く通る、エドワードの声。 「全部、好きだから・・・だから、諦めんなよ。自分に価値が無いなんて決め付けんな。 アンタがどんなになったって、必要かどうかを決めるのはアンタ自身じゃなくて、 オレ達周りの人間だ。オレだって、今も守りたかったモノも守れずにいるけど・・・ ・・・でも、この手で自分に出来る精一杯の事をしようと思う。アンタだって、必要と してくれる人がいる限り、その身体でも出来る事が絶対ある筈だから・・・・・・ 退役なんて、すんなよ」 エドワードが、首だけでこちらを振り返る。 ・・・真摯な、黄金色の眼差し。 「・・・またな」 エドワードはそう言い残すと、再び木に飛び移り両手を合わせる。 透明な硝子が、俺とエドワードを遮って。 子供は赤い外套を翻すと、まるで空に溶けるように姿を消した。 俺は腹の上に残された煙草の箱と、書類の入った封筒を交互に見比べる。 「・・・あの馬鹿、ライターも置いてけ」 俺は風のように去っていった赤い子供の真摯な眼差しを思い出すと、小さく笑った。 「入るわよ、ジャン」 退役の書類を持ったお袋が病室に入ってくる。 「おう、悪いなお袋」 お袋は突然筋トレを始めた俺を見ると、驚いて駆け寄ってきた。 「まだ傷口が完全に塞がってないのよ!?」 「だって身体がなまるもんよ」 お袋は心配そうな顔をするけど、俺は止める気は無かった。 「ダチにゃおまえに隠居は似合わねぇって言われて、上司にはとっとと登って来いって 言われて・・・」 とどめに、あの子供にあんな目で「諦めるな」なんて言われたら。 「・・・じっとしてらんねーじゃねぇか」 俺はあの黄金色の瞳を思い出して、小さく笑う。 「退役、とりやめるの?」 お袋は、俺に静かな声でそう尋ねた。 昔からそうだった。 俺がこうしたいと決めた事はきちんと理解してくれるお袋だった。 俺が軍に入る時も、そして今も。 だから、悪いけどもう一度だけ我侭を言わせてくれ。 「いや、こんな状態でしがみついても迷惑になるだけだ。でも・・・軍にいなくても、 追いついて喰らいついてやるよ」 たとえ軍属のままでなくても、俺には俺なりにやれる事がある。 俺を必要としてくれる人達に、してやりたい事がある。 「・・・・・・悪ぃな、我侭息子で」 お袋は、小さく微笑っただけだった。 一人になった病室で、手を動かしながら俺は窓を見る。 あの時のたった数分間で俺の中にあった迷いや戸惑いは消し飛んでしまった。 「ホント、敵わねぇよお前には」 窓の外の景色を眺めながら、俺は鮮やかな黄金色の瞳を思い出して今は何処にいるのか すら分からない愛しい子供に想いを馳せる。 いつか。 互いに全てが終わってゆっくりと向き合える日が来たら。 その時に、伝えてやろうと思う。 あの日のお前の言葉が、俺を救ってくれたんだ、と。 ・・・ただ、ありがとう、と。 |