「長文殿、います?」 扉の向こうから聞き慣れた声がした。 私はその声の主に小さく溜め息をつきながら『どうぞ』と答える。 こんな遅くに彼が府にいる事も珍しいが、私が溜め息をついたのは全く別の理由からで、 それは彼がここに来ると必ず私の仕事が滞る事を分かりきっているからである。 「何かご用ですか」 私は開いていた竹簡を閉じる。 時刻はもう大分遅い。 窓の外の月はもう暫くで中天に差し掛かる。 「あなたがこんな時間までお仕事をなさってらっしゃるとは思いませんでした」 「まぁ、たまにはそんな日があっても良いでしょう?」 私の皮肉も何処吹く風で、彼は相変わらずの人懐っこい笑顔をしながら私の隣に腰を下ろす。 「用件を伺いましょうか」 「徐州の事を、少し聞きたくて」 「ああ・・・呂布討伐の為ですね」 私は今彼がその件について主君から策を練るよう言われていた事を思い出す。 彼はこうやって自分の気が向いた仕事に関しては(それは大抵軍略に限られているのだが) 本領を発揮する。 才があるのは確かなので、他の仕事ももう少しだけでいいから真剣に取り組んでくれれば、と思う。 「何故私に?」 「長文殿、此処に来る前は徐州にいたんでしょう?」 「確かに徐州にはいましたが、それほど長くいた訳ではないですし、 私がいたのは陶謙様の時分で呂布軍についてはあまり詳しくありません。 私にわかるのは郡の人口や収穫量の目安位で・・・」 彼の力になってあげたいのは山々だが、私が答えてあげられるのは本当にそれだけだ。 「それを聞きたいんですよ、長文殿。 呂布を討つ策ならもう、大体決まっています。 今考えているのは徐州の新たな人事で・・・」 正直、少し驚いた。 今まではほとんど内政には興味をしめさなかった彼がそんな事を考えていたとは。 まだ主公から策を出すように言われてからさして間も無い。 なのに彼の目はすでに呂布を討つ事を越えてその先を見ている。 こういう時、彼はやはり天才肌なのだな、と思う。 それが少し羨ましく、そして少し誇らしい。 そんな自分の考えに苦笑しながら、私は部屋にあった徐州に関して書きとめられている 竹簡を持ってきて彼に差し出す。 「どうぞ。徐州についてまとめてあります」 「ありがとう」 答えて彼はまた彼特有の人懐っこい笑顔を見せる。 それから私はその竹簡について数点口頭で補足をする。 彼の事だ、この竹簡と今の補足さえあれば大体を理解するだろう。 「さて、これで用事も済んだでしょう。 もう夜も大分遅いですし・・・そろそろ帰ったら如何ですか?」 促す私に彼は少しだけ寂しそうな表情をみせる。 しかしそれに騙されてはいけない。 その表情は自分が相手に与える効果を計算しつくされて作られた表情なのだ。 ちょっとでもその顔に同情して甘さを見せれば彼は一晩中ここに居続けるだろう。 今日はどうしてもやってしまわなくてはいけない仕事がある。 流される訳にはいかないのだ。 「もうちょっとだけ、ね、良いでしょう?長文殿」 言いながら彼は私の身体に片腕を回す。 「何ですか、その手は」 私は回された腕から抜け出そうと彼の身体を押す。 「・・・右手です。 やだなぁ、そんな事もわからないんですか?」 「・・・!!」 彼から返された、からかうようなその言葉に神経を逆撫でされ思わず怒鳴りそうに なってしまい、慌てて私はその声を飲み込む。 さすがにそれは少し大人気が無いと思ったので。 「少しの間だけ、大人しくしていて下さいよ、長文殿。 あと・・・そう、半刻程で良いですから。」 耳元で囁かれた声が妙に心地良くて、私の腕から抵抗する力が抜ける。 「まぁ・・・、半刻程でしたら」 私の言葉に彼はまたあの笑顔を見せる。 つられて私も少しぎこちない微笑をする。 結局いつもこうして彼には勝てないのだ。 仕方無く、暫く私は彼の腕の中で大人しくしていた。 彼はめずらしくそこから先は何もしないで他愛も無い話を耳元で語る。 それが不思議で、話が途切れた時を待って彼に問いかける。 「あ・・・、あの、奉孝殿・・・」 「何ですか?」 「いえ・・・、その・・・、めずらしいですね、あなたが何もしないなんて」 正面から向き合っていないのを良い事に、少し目線を逸らしながら私はそれとなくそう言った。 一瞬彼が言葉を失くし、そして小さくくすくすと笑い出す。 「何だ、長文殿、何か期待していたんですか?」 かあっ、と私は顔に血が昇るのを感じる。 「そんな事・・・無いですけど・・・」 「俺だってたまにはただこうして触れているだけで満足な時もありますよ。 でも、長文殿が不服だって言うのなら俺ももう少し何か考えますけれど」 「だから、何も期待などしていないと・・・」 ・・・嘘。 それは自分が良く知っていた。 多分彼もわかっている。 「ではお望み通りにしましょうか。 本当は、これだけで帰ろうと思ったんですけどね」 『これ』と言いながら彼はそっと私の唇を盗む。 そっと触れるだけの羽の様な口付け。 「・・・ああ、もうすぐ日が変わりますね」 指を私の着物の襟から忍び込ませながら、彼がそう呟いた。 言われて窓の外を見れば、赤みを帯びた丸い月が中天にある。 「あんなに緋くて、まるで月じゃないみたい」 そんな事を囁きながら彼は背後から私を抱きすくめ、髪をほどく。 「・・・っ」 いきなり首筋を強く吸われて、思わず小さな声が私の口から漏れた。 「人間の身体はね、長文殿。 月の満ち欠けに影響されるそうですよ」 「・・・・・・?」 彼に触れられた所から絶えず湧き上がる熱に翻弄されて、その口から零れた 言葉の意味を理解するまでに僅かに時間がかかった。 「緋い満月は、人の情欲を煽るそうです。 だから、もうほら、こんなに・・・」 ああ、だから、こんなにも身体が熱いのか。 私も、そして彼の、体温も。 それがどちらの物かすら判らない位に身体を合わせる。 正面から深く貫かれて、その痛みとも快楽ともしれない感覚に、私の爪が彼の肩に 紅く細い痕を付ける。 「長文殿、もっと、力、抜いて。でないと、・・・」 彼が、耳元で少し苦しげにそう、囁く。 「そんな事・・・言われても、」 『無理』と答えようとした唇を塞がれる。 舌先が口腔を這い回り、時に唇を優しく噛まれる。 繰り返し押し寄せる快楽の波に意識を手放しそうになる。 ・・・そして訪れる、終末。 気だるい浮遊感の中で、緋い満月だけが私の瞼に焼きついていた。 「では、そろそろ帰ります」 乱れた着物を整えて、彼は立ち上がった。 「明日、朝議が終わったらその仕事手伝いますよ。 二人でやれば、午前中に間に合うでしょう?」 彼はそう言って机の上にある竹簡を指差す。 「その言葉、忘れないで下さいね」 溜め息をつきながら私はそう答える。 さすがに今これから仕事をする気分にもなれない。 確かに二人でやれば明日の午前中には片付くだろう。 「今日は、ありがとうございます」 「?・・・ああ、徐州の件ですか」 不意に礼を言われて一瞬戸惑う。 「それもありますけど、その後の事も」 「後?」 「今日は、俺の誕生日なんです。 新しい歳の一番初めに一緒にいるのは長文殿がいいなって思ったから」 ・・・・・言葉が出なかった。 そんな事、全然知らなかったから。 「それではおやすみなさい、長文殿」 呆然としている私を残して、彼は部屋を出て行った。 「どうしてこう、妙な所で素直ではないんでしょうかね」 そう呟きながらも、私はやがて巡り来る次の同じ日の事を考え、小さく微笑した。 <終> |