翅


「文若、お前何か今日は機嫌が悪くないか?」
まだ自分の腕の中で行為の余韻を彷徨っている荀いくに、曹操はそう問い掛ける。
実際、今日の彼は少し様子がおかしかった。
常ならば曹操と二人きりでいる時の彼の纏う特有の雰囲気
(それは笑顔であったり仕草であったり言葉であったりするのだが)
はどんなに激務に追われようが日中に何があろうが、変わる事はない。
勿論それ以外に府内で会う時であってもそれは同じで、彼が怒ったり、
機嫌が悪かったりといった所を見た事は今まで記憶に無い。
これは多分自分以外の府の人間に尋いても答えは同じであろう。
その、彼が。
今日は少し様子が違うのだ。
いつもなら、口付けを与えれば応えてくるその舌先は柔らかく自分のそれに絡み付き、
後はもう曹操のなすがままだ。
このように普段主導権は曹操に有り、彼は曹操の望むまま身体をまかせる。
その役割で互いに満たされているのだ。
しかし今日の荀いくは彼らしくなく妙に挑発的だった。
何度も自分から身体を寄せ、曹操に触れ、口付ける。
その表情に笑みは無い。
それが曹操には荀いくが快楽に溺れる事で何かを忘れようとしているかの様に思えた。
・・・尤も、そんな風に快楽に溺れる荀いくもそれはそれで良いな、
などと思った自分も末期だが。
「・・・そう、見えますか?」
先程の問いに荀いくが答える。
その声も僅かにどこか感情的だ。
「俺が何かやったか?」
「・・・いいえ」
そう言って荀いくは困った様に微笑する。
これは、いつもの表情だ。
「すいません。ただ、自分に少し苛立っていただけです」
「お前が?何が原因で?」
・・・僅かな沈黙。
そして。
ぽつりと荀いくは小さな声で答えた。
「やはり、あの時に殺してしまえば良かったな、と」
「・・・今、何と言った?」
曹操は荀いくの口から零れた、到底彼には似つかわしくない物騒な言葉に
つい問い返してしまう。
それが自分の聞き違いである事を祈って。
しかし、荀いくの口から再び零れたのは。
「ですから・・・あの時殺しておけば良かった、と」
「・・・誰を?」
曹操が声を殺して尋ねる。
「劉、玄徳です」
その答えを聞いて、曹操はしまった、と後悔した。
劉備が帝や董承らと結託して曹操の暗殺を謀ろうとし、失敗した彼が口実を作って
荊州に逃げたのはつい先日の事だ。
荀いくの耳に入れたくないと思った所で、これだけの大事ならば府内のほぼ全ての情報に
通じていると言われている荀いくが事の顛末を知らぬ訳が無い。
ただ曹操が驚いたのはその事で荀いくがこんなに感情的になった事だった。
「私がいながらそのような計画が進んでいたなど・・・。そして劉玄徳。
 ・・・やはりあの者は最初に殺してしまうべきだった」
そう、荀いくは呟いた。
後悔の表情。
「あれは、お前の責任じゃない」
曹操は低く反駁する。
責任感の強い彼からしてみれば、内容が自分の主君の命に係る事だっただけに、
できればもっと早くに自分が気付いて潰してしまいたかったという後悔の気持ちがあるのだろう。
しかしどんなに荀いくが有能であったとしても、限界はある。
しかも今回の一件は曹操自身に原因があると言った方が正しい。
「いいえ。私が劉玄徳に対してそう思ったのは、今回の一件があったからだけではありません。
 以前彼がここへ身を寄せてきた時もそう思いましたし、これから先の事を考えるなら
 やはり彼という存在はいずれ貴方の覇道の障害となりましょう」
語る内容は確かに軍師としてのそれだ。
でもその声音には普段の様な凛とした響きは無い。
「あの時貴方が止めても、たとえそれで憎まれたとしても、彼を取り除くべきでした」
それだけ言うと、荀いくは俯いてしまった。
「何故、そんなにも玄徳の事にむきになる?」
俯いてしまった荀いくの身体を抱き寄せ、曹操は囁く。
荀いくの口から答えは無い。
互いの間に沈黙が流れる。
「・・・どんなに言い繕ってみても、本当はただ、私が個人的な感情で
 劉玄徳を許せないだけかもしれませんね」
暫くして、顔を上げないまま、荀いくが微かな声でそう呟いた。
およそ人間というものを選り好みしそうに無い彼の口から出たその言葉に、
曹操は何も言い返せない。
「貴方の心を知っていて、それでも簡単に裏切ってしまえる様な、そんな彼が。
 ・・・私には理解できないから」
小さく荀いくの肩が震える。
「・・・貴方が誰かに殺されたりしたら」
荀いくが顔を埋めている辺りに温かな滴を感じた。
「きっと、私は、その人を・・・絶対赦さないでしょうね」
普段物静かな彼からは想像できない、激しい、言葉。
時々荀いくは張り詰めた糸の様な、そんな雰囲気を見せる。
・・・特に、曹操の事に関しては。
「俺がそう簡単に死ぬと思うか?
 今までだって死にかけはしたが天が味方してくれた。そして今も生きてここにいる。
 大体、天の他にもこんなに俺の事を想ってくれている姫君がここにいるんだ、
 死にたくてもそう簡単には死ねんさ」
曹操はそんな荀いくの雰囲気を掻き消したくて、わざと明るく呵々と笑いながらそう言い、
俯いていたままの荀いくの顔を指で上向かせた。
荀いくは顔を背けようとするが曹操の逞しい指はそれを許さない。
頬に残る涙の跡を見つけられて、荀いくの顔が朱に染まる。
「見ないで・・・下さい・・・」
消え入りそうな声で荀いくが哀願する。
しかし曹操はそのまま涙の跡を舌でなぞると、瞼に優しく口付け、
瞳の縁に溜まっていた涙を舐め取る。
「文若」
「・・・・・・」
「いつも心配かけて、すまんな」
荀いくが閉じていた瞼を開くと、そこには曹操の少し困った様な表情。
しかしその表情はほんの一瞬で。
すぐにいつもの悪戯っぽい笑みに変わってしまう。
そして荀いくの耳元で囁く。
「でも・・・お前のそんな表情を見たら・・・また、抱きたくなった、と言ったら怒るか?」
曹操は苦笑する。
それを見て、荀いくもつられて苦笑する。
「・・・もう・・・仕方の無い方ですね・・・」
荀いくはいつもの微笑をしながら、そっと、曹操の肩に腕を回した。
そのまま自然と唇を合わせる。
暫くして唇を離すと、曹操が言った。
「俺に死なれたくないなら、ずっと傍にいろ」
「・・・はい」
荀いくが小さく頷いた。

そのままもつれた二つの影は、再び闇に紛れていった。



<終>




あなたを守るために
私はツバサになりましょう
あなたが翔ける時はそれを支えるものに
あなたが傷ついた時はそれを癒すものに
あなたが泣く時はそれを包むものに
たとえこの身がどんなに穢れようと構わないのです
私が本当に怖いのは
あなたがいない世界だから




多分補足しないとちっとも話の意味が分からないかと思うので説明を。
劉備が帝や董承たちと結託して曹操を暗殺しようとした直後の話ですね。
久し振りにコーエーのCDドラマの曹操の巻を聴いていたらバレて逃げた
劉備に対して曹操が怒るシーンがあって。
たまたま荀いくもそのシーンに出てきていたのでちょっとこれを
書いてみようかなー・・・、と。(苦笑)
見事玉砕しました。(爆)
荀いくって劉備みたいなタイプ嫌いそうだなー、とか、
やっぱり自分の想い人を殺されかけたら荀いくだって怒るよねぇ・・・、
とかそんな事を書きたかったんですが、途中色々書き足してるうちに
何だかまとまらない変な話になっちゃって。
お題に入れようにもちょうど良いお題が無かったし、このまま
没にしようかとも思ったんですが、リサイクル推進してみました。
曹操はいつも通りですが荀いくは大分いつものウチのと人格
違っちゃって猛反省。ちなみに下書きは全部携帯でした・・・。(苦笑)
タイトルは「翅」で「ツバサ」と読みますー。
林檎機で字出るかな〜。(汗)