午後
(99/07/03)
にぶい音がして、枝から下げられた板に3つ、並んで穴があいた。
「よし、随分安定してきたな。耕太は筋がいい」
幼稚園を卒園し学校に通い始めたばかりの耕太の横で、李歐がかすかに笑った。それを見ながら一彰は、耕太から受け取ったブローニングから空になったカートリッジを取り出し、詰め直してやる。
一彰が大陸へ渡った直後はまだ若くひょろひょろしていた桜たちも、7年目ともなるとそれなりに風格を見せはじめ、大きく枝を拓げたものも出始めた。そんな一本の大振りの枝に1m四方の板をぶら下げて、銃の訓練を始めて半年になる。最初は撃った瞬間の衝撃を逃がすだけでも苦労していた小さな耕太も、今ではこんな板切れにさえ集弾させてしまう程度には上達していた。もとより手先の器用だった一彰の血をひいているだけあって、上達速度はこの年齢にしては驚くほど早かった。
「本当は、まずあんたの訓練から始めないといけないと思ってたんだが。銃規制の厳しい国にいたくせに、もう既に銃の腕は確かなんだからな」
横目でかすかに睨むようにして李歐が言う。原口の別荘で銃を撃ち続けた年月を皮肉っているのだろうが、その口調の中にかすかに嫉妬のようなものが混ざるのを感じて、一彰には可笑しかった。
櫻花屯有限公司での日々は、けして平穏無事なわけではなかった。北京の《猫》であることからは解放された李歐も、依然として各国諜報機関の目から逃れられてはいなかった。ここ1年ほどは落ち着いていたが、櫻花屯へ戻った1ケ月後を初めとして何度か刺客が侵入する騒ぎがあり、何事もなかったとはいえ、李歐が気遣わなかったはずがない。笹倉が身代わりになり、李歐自身政治的なしがらみを捨てたとはいっても、CIAの中には、仲間を殺した張本人が生きてここにいる事実を重くみる者もいるのだ。
一彰が気付いていなかっただけで、当初から高台の3軒の家には最新鋭のセキュリティシステムが設置されており、李歐が戻った後はSPも張り付いているようだった。今でもファー・イースタン・シッピングの首脳陣の中には強固な「后光寿派」がおり、陰に陽に李歐をサポートしていることには一彰も気が付いていた。それでも、自分や耕太が李歐の足手纏いになる可能性は多分にある。李歐が耕太に護身術を教え始めたときも、一彰はああと思ったのだった。
一方で遊び盛りの耕太は、最初のうちこそ異議を唱えることも多かったものの、じきに、むしろ銃を撃つことをせがむようになった。時折、銃身を手にとって、大きな目を輝かせながら眺めている姿を見せるようになったときは、内心苦笑したものだった。6歳の自分が銃の部品を手に感じたものを、息子もまた感じている。傍らのリヴォルバーを何気なく手にとって、一彰はまた夢想の彼方に心を飛ばした。初めてこれを見たのは原口と会った料亭だった。櫻花屯での日々で忘れていた拳銃の夢は、李歐と再開しS&Wのリヴォルバー1丁を渡された朝、まるで昨日まで一緒にいたかのように、一彰の手に、心におさまった。その感覚は、10年前のあの日を思い出させるに十分だった。―――その原口が死んでから、もう2年になる。
「ああもう、手が痺れちゃったよ」
耕太の声で我にかえった。あれからまた一つマガジンを空にして、耕太が疲れた、という顔をしていた。
「お父さんは?練習しないの?」
「…そうだな。やっておこうかな」
一彰は耕太に微笑みかけると、手にしていたS&Wを的に向けた。そのグリップに添えた左手に、李歐が軽く触れた。
「いつでも両手が使えるわけじゃない。片手で撃ってみろ」
茶化すように囁いたその目の奥に、かすかな冷酷さが覗いていた。かつてキーナン神父の手紙を読んだ夜、一彰が名づけた「鮮やかな残忍」。その世界が垣間見えた気がして、一彰は一瞬にしろ10年前を思い出し、それから小さくうなずいた。
右手だけで銃を握り直すと、一彰は二発続けて発射した。2つの弾は板の中央やや左よりに、数センチの差で穴を穿った。
「両手なら大丈夫なのに、片手だと少しずれるんだな」と、誰に言うでもなく、判りきったことを李歐は呟く。
「加減を覚えるようにするよ」
そう苦笑して、一彰は李歐の手にS&Wを渡した。
「今日はもう終りか?教え甲斐のない奴だな」
「日が暮れる前に、卵を鶏舎に取りに行きたいんだ。それより、たまには耕太に模範演技でも見せてやってくれ」
そう言いながら一彰が考えていたのは、例え銃の腕が上がったところで、実際に人間を相手にして、自分や耕太が発砲できるのかどうか、ということだった。木片に向かって撃つのとはわけが違う。あるいは、物心ついた頃から櫻花屯で李歐から帝王学を学んで育った耕太なら、可能なのかもしれない。けれど、日本の常識に骨までどっぷりつかって生きてきた自分は、どうか。22の頃の情熱は、既に残り火がちらちらとくすぶる程度になってしまっている。
そんな一彰の心中を察したのかどうか、ちらりと視線をよこした李歐は、しかしすぐに耕太に向かって笑いかけた。
「よし。じゃあ、見てろよ」
そう言うと、李歐は無造作に銃を持った手を挙げた。次の瞬間、鈍い音がして木片をつないだ糸の一本が切れ、片方の支えを失った木片は大きく揺らいだ。わっ、という耕太の感嘆の声と重なった次の銃声は、いとも簡単に大きく揺れる糸を断ちきり、木片を地面に落とした。
「もうトシのお父さんはともかく、これからの耕太はこれくらいできるように…いてっ」
「誰がトシだ。同い年のクセに」
「ぼくの方が2ケ月若い」
へらず口を叩いて、李歐は白い歯を見せた。そのまま3丁の銃を片付け始める。後でその手入れをするのは自分の役目だ。
「卵使うって、今日の晩御飯、何?」
一彰の服の裾をひっぱって耕太が聞いた。「天津飯」と答えると、「やった!」と喜ぶ。
「なんだ? 耕太、天津飯好きか?」
李歐の問いに一彰の方が答えてやる。
「日本にいる頃、こいつ納豆かけご飯が好きだったんだけど、こっちではなかなか手に入らなくて。で、似てるだろうと思ってかわりに天津飯をつくってやったら、これがお気に召したらしい」
「なあんだ。納豆が欲しいならいくらでも空輸してやるのに」
「1食ウン万円の納豆かけご飯か?」
一彰は苦笑する。確かにこの友人ならやりかねないだろう。桜1000本に5億円をかけた奴だ。
「え、欲しい欲しい!」
無邪気に耕太がはしゃぐ。その頭をくしゃっと撫でると、一彰は無言で帰路を促した。きっと、来週には日本からの空輸便が届くのだろう。かつて海を越えてやってきた、今でも大切にしているあの木馬のように。
夕照がゆっくりと空を染め始める。今はまだ、来るかもしれない重い現実は考えないようにしよう、と一彰はひとつ結論を出した。自分という人間は、いつもそうやって生きてきたのだから、と。手の中の鋼の重さを、一彰は意識の内から振り払った。
落ちた木片を回収しに行った李歐が追いついてくる。三人はそのままゆっくりと丘を上がって行った。
その後の話を当人は書いて下さる気がないようだ、ということで、読みたければ自力で書こう、という基本に則って始まった、本編より長いその後のパロディ編の、第一話なのでした。
いったいどこにそんな情熱があったのか、今でも不思議ではありますが、中国事情から地理的な考証から、黒龍江省の土壌条件に桜を植えるための土地改良方法まで、いろいろ調べまくりました。わからないことは多いんですけどね。中国では本当に納豆かけご飯が手に入らないのか、とか(笑)
この話も、その後の李歐とファーイースタンと櫻花屯との経済的関係とか、本当に中央と手を切れたのか、とか、耕太の進路、櫻花屯内の社会・教育基盤の整備状況、などご本人も設定してなさそうな部分がネックになって、結局自己設定と言うことで開き直って走ってます。
この当時は外資系企業は中国内部で動けなかったため、ファーイースタンシッピングを貿易母体として、コングロマリットみたいな形で櫻花屯が存在し、オーナーは中国人の李歐で社長は別人という形でいいのかな、それで行くぞ、と一人納得してたりします。
惜しむらくは、これ書いてた当時、これから延びると思っていたバイオテクノロジーや排出権取引の話が、現在暗礁に乗り上げた状態になってるところでしょうか。今から修正するのも無理なので、当初設定のまま走ってます。というか、特にこの後書いてないんですけど(^^;)
その後の話については、各自それぞれ想いがあると思うのですけど、私にとってはこの設定なんです、ということでご了承ください。
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