帰郷
(99/07/03)
低いざわめきがぼうとあたりを包んでいた。東京国際空港も朝の発着ラッシュを過ぎ、団体客の多い時間帯に入ろうとしていた。
そのコンコースへ黒い大型ハイヤーがなめらかにすべりこむと、中からサングラスをかけた3人の男達が降り立った。慣れた足取りで国際ゲートへ向かった彼らは、ゲートの手前で足を止めた。両側の2人にさっと緊張が走ったが、中央の男はそれを手で制した。3人が反応したのは、ゲートの横に立つ、やはり2人の男を従えた初老の男性だった。
「久しぶりやな。もう6年になるんか。ぼん…とゆうたらもうあかん年やな」
「…田丸さん」
一彰はサングラスの奥から、昔から変わらないゴムマスクのような顔をした「田んぼのおまる」を見つめた。確か定年を過ぎた筈だが、公務員はその後天下りというものがある。両脇を固める男達が明らかに玄人の雰囲気を漂わせているところからみて、公安と大差のない仕事を続けているのだろうと思われた。
3日前、6年ぶりに日本の土を踏んだ時に、ふとこの街のどこかに田丸がいるかもしれないという感傷は持ったが、おそらく大阪へ戻っているだろうと思っていたし、まさか実際に会うことがあるなどとは思ってもみなかった。
「搭乗まで時間はまだあるんやろ。用事がないなら昔話につきあってくれんか。ああ勿論、パスポートの偽造なんかは問題にする気ないんで、それは心配せんでいい」
一彰は苦笑した。そこまで言われて、無視するわけにもいくまい。
「…国際ゲートに部屋を押さえてあります。そちらでも構いませんか?」
「ああ、その方が有り難い。おい、入場チケット買って来いや」
田丸がそう言うと、右手の男がすっと離れてゲート横の自動販売機へ向かった。
窓の外を飛び立って行く飛行機が横切る。ビジネスルームとは違うウィングの、一般人立ち入り禁止エリア内にその部屋はあった。海外からの賓客を迎えるために用意されたVIPルームであることは想像がつく。実は一彰も、李歐に指示されるまでこんな部屋のことは知らなかった。
「ぼんも偉くなったもんやな…。警備以外でここに入ったのは初めてや」
コーヒーを手にして呟くように田丸が言い、一彰は苦笑した。
「大仰なことはしたくないというのが本音ですが、仕方ありません。万が一の時、一般の方を巻き込むわけにはいきませんから」
「賢明な判断やな。何しろ俺でさえ君が東京にいることを知っとったくらいや。昨日、アメリカさんが妙に落ち着かない動きをしとると思ったら、案の定、『野良猫』の内妻が日本に来とるゆう話が入ってきた」
ここ数年、何事もおこらないかと思っていたが、まだ世界の諜報関係者は李歐を放してくれていないということか。一彰には苦笑するしかなかった。李歐が《猫》でなくなり野に放たれた後、《野良猫》と呼ばれていることは、昨年SPの一人に聞いて知っていた。言い得て妙である一方、なんとセンスのない呼び名かと呆れたことを覚えている。そして同時に、「けして表に出てこない陰の片腕」と噂されている一彰が、皮肉をこめて「内妻」と呼ばれているということも。
今や本土有数の複合企業となった櫻花屯のオーナーである李歐には、かつての部下を含め、複数の「表の片腕」が存在した。国際諜報戦の一線からは退いた李歐だが、この世界はきれいごとだけでは過ぎてゆかない。いまだ裏社会と完全に手を切れたわけではなかったし、中央への膨大な額の賄賂は、生き続けるためには止めるわけにいかなかった。けれど一彰は、そういった世界とはまったく切り離されたまま、それでも李歐に一番近い場所にいて、やはり「片腕」と呼ばれる存在だった。
経営陣の一端に座るようになったとはいえ、基本的には一彰はただの工場長にすぎなかった。一彰自身、自分に李歐のような経営能力があるとも思ってはいなかったし、事実、企業体自体への経営参加をしているわけでもない。ただ単に、守山工場を切り回した10年間の経験と、何よりも最先端技術を見てまわり試作品作成に携わった技術力が、たまたま企業戦略と結びついたというだけのことだ。今回日本へ来たのも、それに関してどうしても自分で選びたいと思った機械の買い付けのためだった。李歐は猛反対したが、機械を選ぶことに妥協はしたくなかった一彰は、無理を押して日本へ潜入した。中国人として偽名で入国したというのに、やはり諜報関係者の目は侮れないということか。
「わざわざ日本までやってきて、買うたのは大型機械ばっかりというのも、ぼんらしい。完全オートメーション化されているのに、修理に専門家が要らんやつばっかりうまいこと選んでいったんやってな。そのわりには個人的に使いそうな小型旋盤なんかも混ざっとるとか」
田丸の情報収集力に内心舌を巻きながら、それだけ自分はここでは異質なのだという事実を、一彰は再度味わった。そして、田丸がほのめかしていることも。勿論、拳銃の修理や改造に使える精密機械が欲しかったというのも、今回の売買契約の密かな目的の一つであったのだ。しかしそれは、日本で使うのではない以上、田丸達には何の関係もない。
「彼は今ではただの百姓の親玉に過ぎないし、ぼくも工員の一人ですよ。何故みなさん、そこまでお騒ぎになるんでしょう」
「百姓が聞いて呆れる。バイオテクノロジーの専門家と農業工学の技術者を内外から大挙してひっこ抜いとるそうやないか。日本じゃあるまいに、中国みたいな人件費の安いところで、完全自動化農業機械を開発して主に輸出にまわしとるいうのも、百姓の仕事なんか?」
「ぼくたちがやっていることは、いかに地球上の食糧を確保するか、ですよ。環境問題がうるさくなってきて、たまたま時宜に合っただけのことです」
92年の地球サミットに続き、つい先日の地球温暖化防止京都会議の議定書締結により、排出量取り引きが急に脚光を浴びてきたのは事実だった。大規模緑化事業を兼ねる櫻花屯は、今後、中国とっての「蓄財」になることは間違いないだろう。それに加え、徐々に国外輸出に回し始めた缶詰類に関し、「安かろう悪かろう」のイメージが払拭されないmade in CHINAの製品を、外見だけでも高級感を持たせようというのは、商品の付加価値をつけるという意味で、日本人である一彰の自然な発想だった。そのために必要となった今回の機械だ。
「ぼくたちは、純粋に事業経営をしているだけなんです」
かぶせるように一彰は言った。その言葉に嘘はなかった。政治の話など、あの桜の園には似合わない。自分たちが見ているのはただ、千年先の緑の大地だと、彼らはどうすればわかってくれるのだろう。
「…おだやかな顔になったな」
ふと、田丸が呟くように言った。
「6年前、何もかも失って、希望という言葉一つを持って国を出て行った君を見るのは、実はちょっとばかりつらかったんや。しかし、あの『約束』は、無事に花開いたということなんやな…」
一彰は少しばかり括目した。田丸のそんな穏やかな笑みを見るのは初めてだった。ああ、この人も自分を真剣に心配していてくれたのか、という不思議な感覚が湧き起こった。守山が死んで以来、ずっと忘れていたそれは、父の気配であった。田丸が自分に声をかけてきた理由が、その時わかった気がした。共に苦い悔恨を抱いた6年前の事件に続く日々が精算されたことを、田丸は確認したかったのだろう。
「…ええ。ぼくは、自分で選んだ人生に満足しています」
穏やかに一彰は言いきった。おそらくこれも初めての、自分に対する肯定だった。
それを聞いて、満足そうにうなずいた田丸は、付け足しのように尋ねた。
「后光寿…いや、今は李歐といったか。つくづく名前の安定しない男やな。元気なんか」
安定しないのではなく、本名に戻っただけなのだ。一彰はそう思ったが、勿論表情には出さず、無言で聞き流した。おそらく出自は完全に消され、本名と知ったところで何物をももたらさないではあろうが、SPたちが聞き耳をたてているだろうここで、それを教えてやるいわれはない。
「元気ですよ。今でもふと20代の頃と変わらないのではないかと思うことがあります。…そうですね、ぼくからは、田丸さんも昔と変わらないように見えます」
「俺はもう60過ぎたんやぞ」そう言って田丸は破顔した。皺の数の分だけ確かに年月は男の顔の上に落ちていたが、それでも、やはり「田んぼのおまる」の印象は、36年前とまったくかわっていなかった。
一彰が連れてきたSPの一人が、ちらりと一彰に合図を寄越した。そろそろ搭乗ゲートへ向かう必要がある時間だ。
「…ああ、もうこんな時間か。すまなかったな。昔話と言いながら、尋ねるばかりになってしもうて」
「いえ、お会いできて幸いでした」
一彰は右手を差し出した。その手を田丸がしっかりと握り返す。国際的謀殺事件の重要参考人として取り調べを受けた22の年から、いくつの転変を経て、こうして自分達は握手を交わしているのだろうと思うと、一彰の胸にかすかに去来するものがあった。
「次に帰ってくる時は、偽名なぞ使わなくとも、国賓として堂々とやって来いや。その頃には俺もガードマンか何かに転職して、警備に当たっとるかもしれん」
そんな風に、何を憚ることもなく、故国に出入りできるような世界になったなら。そんな、見果てぬ夢のような願いを響きの中に感じ取り、一彰はただ、かすかな笑みを返しただけだった。そんな日は来るだろうか。かつて日本にいた頃は疑ってもみなかった、政治や国際的な勢力争いとは無関係に、人が人として当然のように生きていける日が。
一彰はサングラスをかけると、一転して緊張感を全身にみなぎらせ、田丸に向かって一礼した。SPに続いてVIPルームを出る。歩きながら、それでも、と思う。自分も李歐も、そんな日が来ることを信じ続けていくのだろう、と。
次に来ることがあるかどうかもわからない故国を後にする感傷は、思っていたよりも小さかった。いつのまにか、自分の故郷は大陸になっていた。風の渡る広大な大地と、そこに立つ男の傍らこそが、自分の帰って行くべき場所なのだ、と。
迷いを一つ、断ちきった気分だった。逃げるように日本を後にした6年前と違う自分を発見し、一彰はかすかに微笑った。
搭乗案内のアナウンスが3人の背を追ってきていた。
設定的には1997年12月。…一彰何歳か計算したくないんですけど、京都議定書ネタなので年代を確定せざるを得ず…。(しかも2004年になってもまだ排出権取引はメイン稼動してないし)田丸さんは64歳ですねえ。天下りは62歳が限界では(^^;)そういう細かいところはスルーして頂けるとたすかります。
そもそも、李歐って、この時点で国際的にどういう立場になっているのだか。実は、中国で機械化の開発はやってもムダだと思うので、多分これくらいしか年がたってないなら、開発なんぞしてないと思います。中国の少子化政策が逆に人口減少を引き起こした後ならともかく(^^;)
ええと、そのへんも含めて、細かいツッコミは見逃して頂けるとありがたく…。
ちなみに、国際賓客用VIPルームは実際どこかにあるだろうと思うんですが、国際線乗ったことがないので、感覚がつかめません。国内線のビジネスルームならよく利用してるんですけど。(羽田のビジネスルームのクロワッサンは美味しいです)
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