約束

(99/08/19)




 雪を含んだ強い風が、窓を叩いていた。
 1年で最も寒さの厳しい2月下旬。中国北東部に位置する櫻花屯有限公司は、強い寒気の直中にあった。
「耕太、これ写真の前に置いて」
 一彰に呼ばれ、耕太は窓の前から腰を上げた。櫻花屯に来て3度目の冬。冬には、正月やクリスマスといった歳時記とは別に、二つの儀式がある。1月の耕太の誕生日、そして、2月の咲子の命日だった。
 小さな食器に少しずつ盛り付けられた簡素なご馳走は、かつて咲子が好きだったものばかりらしい。中国では日本と同じものが手に入らないことも多く、多少の変更はあるにしても、毎年、写真を囲んで3人で小さなミサを行うのが習慣だった。一彰から受け取った盆を手に、耕太は今日はテーブルの上に置かれた写真立てと遺骨の前に向かった。
「李歐の奴、遅いな。会議が長引いているのかな…」
 窓の方を眺めながら、一彰が呟いた。どうやら貿易上のトラブルが発生したらしく、朝から李歐は緊急の役員会議に出席していた。大した事態にはならなそうだから夕方までには戻れる、と昼に連絡が入ったものの、まだ家の主は帰宅していない。企業体とはいっても、本来外交的なことは親会社であるファーイースタンシッピングに依存しているため、突発的な事態に対処するには、経営権を持たぬオーナーにすぎない筈の李歐に頼らざるを得ない、というのが櫻花屯の実状だった。本格的に海外進出を始める前に、櫻花屯の中に対外的組織をつくる必要性は、ここしばらく大株主二人の間で話題になっていたところだった。
 もっとも、耕太はそんな事情は知らない。遺影のまわりを飾る花の間に盆を置くと、軽く手を合わせた。写真立ては二つ、日本から持ってきた祖父・守山のものと、最近用意した母・咲子のものだった。その横には咲子の遺骨。…そして耕太は、守山の写真の裏に、ひっそりと隠された2枚の写真に気付いていた。それは、おそらくまだ若い頃の、父親二人の写真だった。李歐の写真は正常な保管状態にあったと見え、古いながらも綺麗な状態だったが、一彰の写真は、端が破れ、かすれ、血の跡と見られる染みまでついたボロボロのものだった。そんな状態でも、その写真が大切にされてきたことだけはわかる。
 父親二人が家にいない間に、何度か耕太はその写真を出して眺めた。年齢以外には、国籍も育った環境もまったく違うと思われる二人の、今の絆が一体どこからきたものなのか、耕太には世界最大の謎と言ってもよいものであった。
 日本で何があって一彰と自分がここへやってくることになったのかは、覚えているような、いないようなだった。工場が爆発事故を起こしたと教えられてはいるものの、そんな単純な話ではなかったと、記憶のどこかで囁く声がする。一度それを問うた耕太に対し、一彰はちょっと困ったような目で李歐を見、李歐は「耕太が大人になったら必ず教えると約束するから、それまでは訊かないでほしい」と耕太に言った。それは男の約束であり、違えようとは思わない。また、日本で一彰は咲子の父が経営する工場を継いだらしいが、それは咲子と結婚するより前であったらしく、守山と一彰の関係もまた、耕太には謎の一つであった。李歐は咲子を直接知らないらしいが、守山は命の恩人なのだという。耕太の名前は、その祖父・守山耕三から一字をもらっている。
 それでも、約束した以上それらは問わない。それが耕太の決意だった。一彰も李歐も、耕太を愛し、守山父娘を慕っている。それ以上何を必要とするだろう?

 窓の外でかすかに車のエンジン音がした。耕太は窓に駆け寄った。高台に建つ李歐の家からは、2台の車が静かに丘を上ってくるのがよく見えた。銀のロールスロイスが静かに家の前につける。後ろに控えたもう1台にはSPが乗っていて、李歐が家に無事入るのを見届けた後、隣りの家―――かつては第二大株主であった故・崔琳の家に待機するのだろう。
「父さん!帰ってきたよ」
「ああ。こっちの料理をテーブルに並べてくれ」
 音で気付いていたらしい一彰がキッチンから顔を出した。それに重なるように、コートを脱ぎながら李歐がドアを開けて入ってきた。「おかえり」「ただいま」といういつもの挨拶がかわされる。
「悪い。ちょっと手間取った」
「いいから、先にシャワー浴びて着替えてこい。その間に食事の支度をしておくから」
「謝謝」
いったん顔を覗かせたもう一人の父は、あっというまに再びドアの向こうに消えた。普段からカラスの行水なので、食事の支度が整うまでにはこざっぱりして下りてくるのだろう。
 キャンドルを用意し、食卓に並べる。用意した聖書は英語だった。国際教育を基本とする父たちのおかげで、耕太もまだ下手だとはいえ英語は話せる。
 予想通りすぐに下りてきた李歐は、耕太に笑いかけてから、一彰を目で呼んだ。さりげなくキッチンの方へ移動して耕太から遠ざかり、顔を寄せて一彰に何やら話しかけている。普段家では穏やかに笑う二人の、時折見せるその澄んだ冷たさに、耕太は既に慣れていた。仕事の、あるいは耕太の知らない何かの世界の。耕太の手は無意識に鋼の冷たさを思い出し、銃を撃つ時の緊張感にそれは少し似ていると思った。
 短い打ち合わせの後、二人は再び穏やかな笑顔になって食卓へついた。李歐が、遅くなってごめん、と耕太に囁いた。
 一冊だけの聖書を、3人で囲む。窓の外は雪、それ以外何もない夜に、静かな祈りが流れてゆく。
 耕太は、どこかで幻の教会の鐘の音が聴こえたような気がした。







 彼らは耕太にどこまで話しているでしょう、というのも疑問です。マイ設定では、耕太が日本の大学へ進学する直前に話したことになってます。でも実際、いきなり「君の父親の一人は元北京のスパイでたくさん人を殺してきて、実母はそれに巻き込まれて殺されたのだ」なんて、6歳のコドモには言わないだろうなと(^^;)ただ、この話の手前に一つ事件が入ってまして(未完・長編)、耕太を利用して李歐あて刺客が入り込み、耕太が初めて人を殺した編、というのになってます。だから、話を聞いていないながらも、薄々感づいてるとは思うのですけれど。
 なお、この三人の宗教がわかりません。守山父娘の葬儀はキリスト教で出してますが、一彰自身がカトリックだったという記述はなく、単に隣が教会だから、ともとれますし。まあ、高村さんの作品なので、全員カトリックでいいんだろう、というこじつけを行っております(^^;)

 
 
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