櫻筺(さくらがたみ)

(2004/07/23)












 純白の花弁を見上げて、少年はわずかに目を細めた。
 まだ幼い少年の前に、そのサクラは静かに威容を晒していた。背はそう高くはないが幹は太く、中央部は洞となっており、小さな祠が祭られていた。
 サクラは、親を喰らい、子を喰らうという。根から萌芽(ぼうが)して株立ちとなり、最も強い幹が他の幹を巻き込んで体内に取り込む。根元近くで芽吹いた若木は、時には親に喰われ、時には親を喰らい、幹の厚みを増していく。喰らわれた幹は、勝者を支える礎となり、朽ちた後には洞となる。根からは成長阻害物質を分泌し、他のサクラが近づけば枯らす。そうして決して他者と馴れ合わず、孤高に立つ。
 その厳しさを持ちながら、春には淡い花をつけ、儚げに散る。サクラという木の、その両極端な顔。
 あのひとにこれほどふさわしい木はないだろう、と少年は独白した。そのサクラは、今、遅い春に満開の花を咲かせている。
「今年の花には間に合ったようだな」
 少年の背後から、白髪の老人が近づいてきた。少年は桜から目を離さず、それに答えた。
「長いこと任せきりで悪かった。さすがに今は催眠誘導だけで大陸を渡るのはつらいな」
「胎児換生にこだわるから、あんな遠方に生まれることになんだろが。そもそも今ガキなんて世界中探してもそういないんだから、近場の人間で手を打っておけばいいだろ。神官様に身を投げ出す連中なんていくらでもいるだろに」
「……。あのひとが、それは望んでいない」
 少年はわずかに目を伏せ、続けた。
「もっとも、そろそろやむを得ない事態になりそうだが…」
 数十年前から、世界的に出生率が激減してきていた。胎児換生したくとも、必要な時に胎児がいない、という時代はもう遠くはないだろう。
「ま、神官様は生まれ変わってると思ってる連中も多いことだから、急に成人換生ってのも問題あるかもしれねぇけどな。しかし、いつまでも俺が養子引き受け先になれるとは思ってないほうがいいぜ」
「何百年前から同じことを聞いているだろうな。…お前もたいがい苦労症だな、長秀」
 ようやく振り返り、苦笑しながら少年が言えば、老人は「けっ」と吐き捨てた。
「少なくとも俺には、地球の最後の夜明けを見ようなんて根性はねぇよ。そこまでつきあえないから覚悟してな」
 そこまで言って、長秀はふと真顔になって、問うた。
「…本当に、最後まで歩くつもりなのか、直江?」


 数度に渡る大震災は、かつて「伊勢」と呼ばれた土地の地形を変えていた。地名は変わり、言葉は失われ、伊勢神宮は廃墟となり、ただ、桜は今も変わらぬ姿で、聖域としての土地の要となっていた。
 地球的な気候変動に伴い、ヒトの姿も変わっていく。乾燥化の進む大気に合わせるように、変形した皮膚を持つ子供も世界的に増えていると聞く。…そう、まるで、爬虫類のウロコのような。

 少年は――直江は、口元から苦笑のかたちを消すと、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「あのひとは、今でもちゃんとここにいる。ここで、一緒に生きて、歩いている。それを感じていられることが、どれだけ幸せかわかるか?この想いを途中で切ることなど、俺にできるわけがない」
 ふわり、と、その言葉に反応するかのように胸元が温かくなり、直江は微笑んだ。もう既に欠片すら残っていないその気配は、それでも、にじむ光のように、幾度換生しても胸の中に灯っている。
 裏四国はとうに解消され、今空海の分身は姿を消した。何度も繰り返し観たビデオは、文明の衰退に合わせるように、朽ちて再生できなくなっていった。既に、高耶の面影を脳裏に映すことは難しい。ただ気配だけは、変わらずにここにある。思念は発しない、当然言葉は交わせない。それでも、直江には感じることができる。常に直江を案じ、守ろうとしている、景虎の気配を。

―――永劫の孤独を、埋めて余りある幸福をおまえに。

 遠い日、高耶が告げた言葉。しかし、と直江は思う。確かに、淋しい夜はあった。耐えられない切なさに涙を流した日もあった。それでも、いつも自分の中に感じられるその光は、いたわるように、包み込むように光るのだ。いつしか、直江は気付いていた。淋しさと孤独は別のものだと。
「永劫の孤独など、俺は信じない。例えあのひとの気配がここから消えてしまったとしても、彼のことを考えている間は、俺はけして孤独じゃない。むしろ、この時間が終わってしまうことのほうが怖いんだよ、長秀」
 全ての不純物を削ぎ落とし、痛いほど純化された殉教者の表情に、長秀は何度目かのため息をついた。千年以上昔から、繰り返してきた問い、同じ答え。それでも、急激に人類は勿論ありとあらゆる生命体がゼロカーブを描き始めた、今だからこそ。
「…それでいいんなら、俺に口出すことはねぇよ」
「すまんな」
 かすかに微笑って、直江は続けた。
「それで、この10年の報告を聞こうか。西海地震の浄化は済んだのか?」
 途端に長秀は嫌そうな表情を作った。
「あーやだやだ。さんざんノロケたかと思ったら、急に大将ヅラしてやんの。はいはいはい。西海地震どころか、その後の中部火山帯連鎖噴火も知らないんだろお前は。どっちも1万人規模で死んでるが、去年までには大方の浄化が済んでるよ。まだ海岸線にたまに迷い霊が出ると報告は入ってるが、白衣女の手で足りてるようだ。むしろ、地下水分断がまた進んで、廃墟化した街が増えたことのほうが問題だな。ここも、神殿内に奇跡的にオアシスが湧いてるからいいが、人類が滅ぶよりは、この島から人がいなくなるほうが早いと思うぜ」
「そうか…」
 直江はかすかに眉をひそめる。この桜がある限り、自分はこの神殿の守人で居続けるつもりだが、それはいつまで続けられることだろう。
 いや、まだだ、と直江は頭を振る。
 まだ、「約束の時」は訪れていない。遠すぎてほとんど思い出せないが、時空縫合で見たのは、確かにこの「聖域」だった。少なくともそれまでは、自分はここにいるはずだ。
 自分には役目がある。あのひととの、あの幸せな「終わり」を迎えるために、そしてこの「最上」を歩き続けるために、かつての自分を送り返すこと。

 その時自分は、福音を得るだろう。

「ま、神官様ヨミガエリの報告は明日にしてやるから、今日はゆっくり桜と語らってこいよ。多分、成田も景虎の帰りを待ってたと思うぜ」
「すまんな。たすかる」
「気が済んだら夜食くらい用意させてやる。家は覚えてるな?」
「ああ。…本当にいろいろとすまない、長秀」
 ふわりと微笑んだ少年の表情の中に、ふと高耶の表情を見た気がして、長秀は瞠目した。ああ、と思い、一瞬目を閉じる。お前はまだ、本当にこの男の中にいるんだな、と。長秀にも既に、景虎の面影どころか、言語を含めて当時の記憶などほとんど残っていない。それでもふとした折に、こうして気付かされるものがある。―――確かに、そこにいる。
 滲み出そうとする涙を隠すように、長秀は直江に背を向け、ひらひらと手を振った。まさか自分が、こんなにもこの主従と長くつきあうことになるとは思ってもみなかった。しかしそこにあるのは、後悔ではなく、諦めにも似た満足なのだ。
(いい加減ヤキが回ってるよな、俺も)
 胸中で独白して長秀は歩き出す。確かに、この二人につきあっている冥界上杉軍のメンバーは、少ないとはいえ他にもいる。霊齢は既に神と呼んで差し支えない。しかし、換生するだけの力を残しているのは、直江を除けば既に自分一人だけになっていた。
 遠い昔、この二人の結末を見届けたいと思っていたことがある。ひとつの区切りは確かに見た。しかし、こうなってなお、この二人は高みを目指そうとするらしい。景虎と融合した直江の魂の力は、今や長秀よりずっと強い。おそらく、魂核寿命は自分が先に尽きるだろう。
(それでも、せめてそれまでは―――)


 長秀の後姿を見送ってから、直江は桜へ近づいた。樹齢を軽く千年は越すこの桜は、既に何世代目になるかわからないくらい、喰い合いし続けて巨木となっていた。幹は生き物のようで、ゴツゴツとした肌は、時間の重みを感じさせる壮絶さを持っていた。
 根元にあった巨石は、桜の成長に伴っていつしか幹に飲まれ、今では再び洞の中にその姿を現していた。人の姿に似たその石の前には、桜と共に弥勒菩薩を祭る祠が創られている。
 直江は祠の前に来ると、「お久しぶりです、譲さん」と小さく呟いた。自分の中の景虎の気配が、かすかに揺らいだような気がした。多分彼も、10年ぶりの再会を喜んでいる。
 桜を背に、直江は廃墟を振り仰いだ。傾きかけた石の鳥居は、それでもまだそこに立っている。時間になれば、本殿には信者達が集まり、祈りを捧げることだろう。
 こうして星の滅びが確定した今でも、人々は神に祈る。畏怖し、敬愛する。裏切られても踏みにじられても、心はいつかそこへ還ってゆく。
 自分の場合は、還るべき場所が自分自身になっただけなのだ、と直江は思う。景虎の居る「ここ」こそが、岬の家であり、故郷であるのだと。ならば、自分の祈りはどこへ還るだろう。
 かすかに鐘の音が響いてきた。10年ぶりに聴く祈りの鐘だった。やがてそれに続くように、神殿から声明が流れ出す。人は何に祈り、何を願うのか。
 ふと、桜の木が揺れ、白い花弁が舞った。直江を慰撫するかのように、はらはらとまとわりつくように舞い降りてくる。
 そのひとつを掌に受け、直江は微かに微笑んだ。
 自分の祈りは、ただ一つの誓いとなって、今でもずっとかわらない。ただこの一言だけを、永遠に捧げ続ける。



―――あなたを愛している…。












「自分の痛みとして”永劫”というものを読者に体感させた」という一点において、それまで山のように積みあがった不満点や矛盾点を全てひっくり返して、私にとっての最高評価を得ている完結編、なんですが。
完結後、感想や後日談二次創作を求めて初めてサイト巡りをしてみたんですが(それまでミラパロは全く興味なかった)、何か求めるベクトルが違うとか、やたらと悲劇扱いしているとかが気になって、いつもの「誰も書いてくれないなら自分で書いてしまえ」なのでした。

植物ウンチクが入るのは、もう既に私のサガなのでお許しください。しかし、心御柱から芽吹いたものだ、とありましたが、ヒノキは萌芽しないんですよ先生(^^;)(ちなみに萌芽力の強いクヌギやコナラも、40年も生きればもう芽は出せなくなります) ヤマザクラか何かの土埋種子が、泉の水で芽吹いたと考えたほうが自然なんですけど。
個人的にカスミザクラを想定しているので、「純白・小振り・花期が遅い」が前提となってます。伊勢に自生し得るサクラの中では、最も高耶にふさわしい気がして。公式見解は「この世にふたつとない新種」ですが。
突っ込みついでに書いてしまえば、「イセ」を「高坂の見た時間軸と同じ」とした原作はおかしいんですよね。高坂が見たのと同じ=信長が勝った世界だから、直江が神官やってたり、高耶が闇戦国の英雄と呼ばれたり、といったことはありえないはずなので。だから、私は「イセ」が実際の未来となったのだと思っています。この時点で日本語を解する者がいないということは、千秋たちと死に別れて久しい、ということでもありますね。

本当は、地球最後の夜明け編を先に思いついていたんですが…単細胞生物の知能から見た地球の説明なんて、(私も含めて)誰も読みたくなかろう、と思ってやめました(苦笑)
ミラ書くなんて最初で最後だと思うので、ラストは「氷結の夜」と同じ言葉でしめたかったと察して下されば幸いです。
余談ですが、タイトルの「筺」は、音としての「形見」と、意味としての「籠・いれもの」との掛け合わせになっています。

 
 
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