目を覚ますと、少女の顔があった。
だから、思いきって訊いてみた。
「……あなた、誰?」
……と。
星の砂
〜Key「AIR」より二次創作〜
この数日、彼女の姿を見ない。
ずっと、「みちる」のふりをしていた、長い髪の女の子。
彼女はずっと私の傍にいて、「みちる」を演じていた。
だけど、私の「みちる」はもうこの世には存在していない。それは、長い時間をかけて、今ようやく受け止められた事実だった。
彼女にはもう、「みちる」を演じる必要はなくなった。
だから彼女も姿を消したのだろうか?
そして……本来の自分に戻ったのだろうか?
…………。
夢から醒めて……世界の全てが、現実に追いついて。
万事が元に戻った筈なのに、それでも、どこか欠落している、と感じていた。
何かが剥ぎ取られた風景。
足りないもの。それが何なのか、まだ分からなかった。
分からないまま、私の呼吸だけが、この家に木霊している。
みちるはいない、それは分かった筈なのに。
翌日。
私は、霧島診療所に来ていた。
以前からカウンセリングを受けていた事もあったし、何より、他に頼るべき存在を知らなかった。
いや……思い出していないだけ、なのかもしれない……。
少しの会話を交わした後、霧島先生は視線を私の正面に据えた。
「……取り戻して下さい。過ぎた時間の中で、零れ落ちたものを」
「霧島先生……」
「私では……駄目なんです。あなた自身の力でないと」
「……はい」
「……何の力にもなれず、申し訳ありませんが」
「いえ」
霧島先生の、心から申し訳なさそうな声を、私は遮った。
「少し……落ちつきました」
「……そうですか」
先生の顔が、少し緩んだ。
一礼して診察室を出て、昇降口で靴に履きかえる。
ドアに手をかけた時、その向こう側に、サッ、と影が映った。
「?」
入れ違うようにして、髪の短い女の子が、診療所に駆け込んできたのだった。
避ける暇もなく、狭い入り口で、トン、と互いの肩がぶつかった。
「あっ……」
女の子は、少し狼狽したようだった。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
ぺこっ! と、勢いよく頭を下げる女の子。
応えるようにして、私は軽く頭を下げる。
女の子は納得した様子で、診療所の奥へ上がっていった。
そして、私は外の世界へ出る。
……けれど心は、まだ幻の中に。
蝉の声がぎらつく、路上の陽炎のような世界だった。
「ただいまーーーっ!」
背後で、さっきの女の子の、元気な声が聞こえた。
……結局。
私はこの広い家に、一人で座っている。
ブーーーン……という冷蔵庫の音が、やたらと空しく響く。
その音から逃れるようにして、彼女が、「みちる」が使っていた部屋へ入ってみた。
「……」
薄いカーテンの隙間から、夏の朝日が差し込んでいた。
けれど、誰もいない。
私が見ていた夢が、幻が生活していた空間が、ここにあった。
数日間閉めっぱなしで空気が篭っていたので、カーテンはそのままに、窓を少し開けてみる。
振り返ると、一筋の光がベッドのシーツに落ち、床に落ち、そのまま部屋の一隅にある物の足元を照らしていた。
「…………」
筒状のそれに、軽く手を触れてみる。それは軋むこともなく、少しの力で傾いた。
……そう言えば、彼女はよく夜空を眺めていた。
幾億の星と月が廻る夜空。彼女は一体、そこに何を求めていたのだろう。
二つあった望遠鏡も、一つは彼女が持ち去ってしまったのだろう。反射式……とか言う望遠鏡が、そこに一つあるきりだった。
終わった夢の余韻が、まだそこに息衝いているような気がして、軽く目を伏せた。
望遠鏡の横には、少し古くなった勉強机がある。
その天板に、そっと指を走らせてみた。
彼女はここで何を思い、何を考えていたのだろうか……。
ぼんやりとそんな事を考えながら机を撫でていると、コツン、と指先が何かに行き当たった。
「…………?」
それは、片手で掴める程度の大きさの壜だった。
見覚えはあったが、それが何なのかまでは知らない。空色の壜の中に、砂のようなものが半分ほど詰めてあるだけだった。
壜を少し傾けてみると、中に詰められた砂は、音もなくサラサラと流れた。
そしてある程度水平になると、動きを止めた。
……もう一度ゆっくりと、今度は逆へ傾けてみる。
砂はその方向にサラサラと流れて、また凪のように止まった。
綺麗な波を見ているような動きだった。
サラサラ……。
……サラサラ……。
何度も、何度も繰り返した。
その度に、波が生まれ……そして、穏やかな凪に包まれる。
そっと持ち上げてカーテン越しの日差しに透かすと、夜空の星が全てそこに集まったかのように、砂の粒が無数にきらめいた。
人が誰かの幸せを願うと、その結晶が星になる、という童話を聞いたことがある。
人の願いが星の輝きになるというのなら、ここにあるのは、数え切れない願いの集まりだった。
一つひとつが、ささやかな、透き通った願いの光だった。
幾千のそれらが、波に揺られて、凪にあやされる。
私の願いも、ここにあるのだろうか。
……この子の未来が……
それは例えば、生まれてくる筈だった、みちるへの願い。
……に満ちていますように……
あの時、傍に誰がいただろう……。
みちるの幸せを願ってくれた、祝福してくれた笑顔は、誰だったろうか……。
夫がいて……もう一つの小さな笑顔は、誰だったろうか……。
……どうか、この子の未来が……
手のひらで壜を傾けながら、その砂の動きを、ぼんやりと見ていた。
砂は波になり……そして凪が訪れた。
夏の日差しの中、小さな光を無数に帯びた、美しい……凪だった。
……美しい凪に満ちていますように……
「……!」
……美しい凪に満ちて……
「……っ」
……美しい凪に……
「……っ……!」
不意に視界が滲んだ。
止めようもなく、無限の光景が波涛のように吹き抜けて……そして。
目頭が、熱く、霞んだ。
……みちる……うん、いい名前。
……そう? 美凪も、そう思う?
……うんっ。
ザアッ……。
街路樹の葉がざわめいた。
開いた窓から入ってきた風が、カーテンを踊らせる。
忍び漏らす嗚咽に混じって……微かに、潮の香りがした。
……私ね、この時間の海が一番好き。
……あぁ……凪の時間だね。
……海がキラキラして……波の音が、揺り篭みたい。
……綺麗な……美しい凪だね……。
……じゃあ、美凪、にしましょうか?
……何を?
……この子の名前……。
……この子達の未来が、どうか、美しい凪に満ちていますように……。