クマ日和
〜Leaf「ToHeart」より二次創作〜
(1)
浩之ちゃん、今日はちゃんと起きてるかな…。
厚く仕切ったカーテンの隙間から、柔らかい日差しがしきりに呼びかける。眠たい目をこすりながら、名残り惜しい布団の温もりからもぞもぞと抜け出し、ベッドの足の方に引っかけていた桜色の薄手のカーデガンを羽織る。
ぱたた、とスリッパの音を立てて階段を降りる途中で、玄関の郵便受けから新聞を取ってきたお父さんと目が合った。
野太い欠伸が、さっきから幾度も朝の廊下に響いていた。
「おはよ、お父さん」
「あぁ、おは…」
歩きながら読んでいた新聞から、ちらり、と目を上げたお父さんが、気もなさげに返事をしようとする。その途中で言葉が切れた。
私の顔をぽかんと見つめる呆気にとられたようなお父さんの顔から、起き抜けの眠気が一気に抜けていくのが目に見えるような気がした。
「…どうしたの?」
「い、いや…まぁ、お前が気に入ってるなら構わんが…」
「?」
何を言おうとしたのか、お父さんは首を傾げながら、台所の簾をのそりとくぐっていった。
なんだろ…まだ寝惚けてるのかな? もう…いざとなれば頼りになるくせに、こういう時はだらしがないんだから。
まるで、浩之ちゃんみたい。
その背中を見送りながら、苦笑する。
その時ふと、台所から流れてくる味噌汁の香りが、密かに鼻をくすぐっている事に気がついた。そこにある、ともすれば忘れがちな日常。
毎日嗅いでるけれど、今の私じゃ作れない香り。お母さんのいつもの味。お父さんのお気に入り。
お父さんだけの、お母さんの味。
なんだか心が暖かくなる。
けど…私には少し遠い風景、かな…。
ちょっと悔しくて、でも嬉しくて、とにかく私は洗面所へと足を運んだ。少し遠くに、お父さん達の会話が耳に入ってくる。
「今日はどうなの?」
「遅くなる…と思うが」
「また呑み?」
「付き合いだからな…すまん」
「あら、今さら謝る事じゃないでしょ?」
「先に謝っておかんと、また締め出されちゃかなわんからな…」
「よく分かってるのね」
冗談とも本気ともつかない他愛も無い会話が、二人の日常を形作っている。意味もなく安心して、私は鏡に向かった。
あ〜あ、ひどい寝癖…。ちょっと梃子摺りそう。
いつものタイミングで軽いため息をつくと、脇に置いてあったブラシを手に取ろうとした。クマのワンポイントがプリントされているのは、もちろん私専用のブラシという証。これを買った時、私が迷わず手にしたのを側で見ていた浩之ちゃんは、「さもありなん」って顔をしてたっけ。
…あれ?
ふと気になって、もう一度鏡を覗き込んだ。
私の顔…何か変だ。
ううん、顔じゃなくて頭の…髪に間に見え隠れしてる、これは…。
この、茶色い二つの物体は…。
と、私の不審に応えるかのように、「それ」が、ぴくり、と動いた。
「のっ……のええええええぇぇぇぇ〜〜〜〜っっ!?」
朝の閑静な住宅街に、奇声が響き渡った。
(2)
ピンポーン…
「うーい、ちょっと待ってろ」
チャイムを何度か押したあとに、中から声が返ってきた。
そして玄関の扉が開き、出てきたのはいつもの眠たそうな顔。
そのぼうっとした表情が、私の顔を見つめること数秒、眠気のかわりに疲労感で一杯になるのが手に取るように分かった。
そして開口一番。
「あのな、あかり…」
うっ、予想通り。
浩之ちゃん、呆れるのを通り越して、同情するような顔してる。
「お前がクマ好きなのは、よおぉ〜く分かってる。俺もそれを悪いとは言わねーけどな…」
ううっ。
なんか小馬鹿にされてるような気がする。
「でもな、頼むからそれだけは止めてくれ」
だから、私だって、こんなのしたくないんだってば。
そりゃあクマは好きだけど、いくらなんでも、これは。
「すっ、好きでやってるんじゃないよぉ〜」
「嘘つけぇ! こんなモノ、こうしてやるっ!!」
「きゃっ!? いっ、いたいいたい、ちょっ、やめっ」
浩之ちゃんが私の頭を抱えて、それをぐいぐい引っ張るものだから、キーンと針を刺したように痛んで、私は思わず悲鳴を上げた。
格闘すること暫し。それが取れないとみると、浩之ちゃんは、やっと手を離してくれた。うぅ…まだズキズキする。
ふぅ、と息をつきながらふと見ると、浩之ちゃんは、妖怪に出くわしたような顔をしていた。お願いだから…そんな目で見ないで。
「どーなってんだ? 取れねーぞ、それ」
「あのね、これ、多分…本物…だと思う」
「はぁ?」
「なんでだか分からないけど、ちゃんと神経も通ってるみたいだし…」
「んなバカな。あ、それともあかり、お前まさか」
「?」
「今まで隠してたけど、実は人の皮を被った獣だったとか…」
「ひ、ひどいよぉ〜」
「ばーか、冗談だ。人でもケダモノでも、あかりはあかり、だからな」
「……」
なんか納得できないなぁ…。
それでも、いつも通りの浩之ちゃんの素振りが嬉しかった。
「取り敢えず、そいつをどーするか、だな…」
「うん…このまんまじゃ学校に行けないし」
「俺は行ってもいいんだけどな。結構面白いと思うぜ」
「ひ〜ろ〜ゆ〜き〜ちゃあ〜〜ん」
いつもの意地悪と分かっていても、ついつい情けない声が出る。
「…冗談だ。とにかく誰かに相談してみて…」
「誰かって?」
「そうだなぁ、志保とか…」
「浩之ちゃん…それ、本気で言ってる?」
「だったら、どうする?」
浩之ちゃんが、悪戯っぽくにやりと笑う。
「お願い、止めてやめて」
「分かってるって」
あらかじめ予測していたかのように、浩之ちゃんは、ふぅ、と息を吐いた。その横顔で、どうしようかって一生懸命考えてくれてるのが分かる。
「…っと。そうだな、まぁとにかくだ」
浩之ちゃんが、ちらりと思い出したように腕時計を見た。
(3)
「ひっ…浩之ちゃ〜ん、待ってよぉ〜」
「誰のせいで走ってると思ってんだっ!」
「そ…それは…」
「おーら、キリキリ走れ〜ぃ!」
「ひ〜〜ん」
浩之ちゃんの家の玄関先で漫才やってるうちに、いつの間にか遅刻ぎりぎりの時間になってしまっていた。結局、公園を突っ切って走っていく事に…あぁ、いつものパターン。
これで、コレさえなければ、完全にいつもの事なんだけどなぁ。
頭にくっついたままの、クマの耳をちょっと意識してみる。と、それがピクピクンと動いた。
返事しなくていいから。
「おっ…おい、あかりっ!!」
ふにゃ?
前を走っていた浩之ちゃんの叫び声で、ふっと我に返った。途端に、自分の周囲の景色が目に飛び込んでくる。
えっ…? 車道?
血の色をした信号。
黒い巨大な風。
どこか遠くへ響くようなクラクション。
そして…。
……。
キキキキーーーーーッ!
目を瞑る寸前に見た空には…あれ、鳥は飛んでたかな?
激しいブレーキ音が何故か、映画のスクリーンに映るように、乾く。
「あかり…あかり! 大丈夫かっ!?」
浩之ちゃんがガードレールを飛び越えて駆け寄ると、私の肩を掴んで揺さぶった。そんなに強く掴まないで…痛いよ。
「う、うん…大丈夫…だよ、浩之ちゃん」
本当のところは、なんだか頭に霞がかかったみたいに、周りがぼんやりしてる。今更に膝がガクガク震えて、思わず浩之ちゃんの肩にしがみついた。
「ったく、何ボーっとしてんだ…」
「申し訳ございません。御怪我はございませんでしたでしょうか?」
いつの間にか、車を運転していた人が降りてきていた。燕尾服がよく似合うおじいさん…執事さんに典型というものがあるなら、この人なんてまさにそれなんじゃないだろうか。
と、浩之ちゃんが息を呑むのが判った。
「セバスチャンっ? てことは…」
セバスチャンと呼ばれた人の後ろで、ぺこりと頭を下げる人影。あ。
「芹香先輩っ? …と、なんだ、綾香も一緒か」
「なんだ、とはご挨拶ね。送り迎え一緒なんだから、いて当然でしょ」
「へーへー…どうせ俺等はヒーコラ走っていく身ですよ」
「僻まないでよ。浩之らしくもない」
「ね、ねぇ、浩之ちゃん…」
「ん…あぁ、あかりは知らないか」
浩之ちゃんはコホン、と咳払いを一つする。その仕種が何だか仰々しく見えて、少し可笑しい。
「こっちの西女の服着てるのが綾香、芹香先輩の妹だ。で、そっちのじーさんが洗礼名セバスチャン、二人の下僕…」
「違いまする」
紹介する浩之ちゃんの台詞に、セバスチャンさんが割って入った。
「あ? 似たよーなもんだろ」
「まず、洗礼名ではございません。愛の! ニックネームなのです!!」
「…頭いたい…」
声高らかに両手を空へと広げるセバスチャンさんの後ろで、綾香さんが眉間をつまんで呟いた。芹香先輩は…なんだかコクコク肯いているけど、どっちの意見に賛成してるんだか、ちょっと分からない。
「それから下僕ではなく、執事です、し・つ・じ」
「ひつじ?」
浩之ちゃんが、わざと聞き違える。
「しぃ・つぅ・じぃ、でございます」
「…でいいのか? 綾香」
「単なる呼び名の問題でしょ? 実際が変わらなきゃ、どうだって」
「……」
いかにもさばさばとした風で、綾香さんが肩にかかった髪を払いながら言った。そういう問題なのかな…。と、本人と目が合った。
「ところで、そちらは?」
「あ! あっ、あ、あのあのあの、私…」
あの来栖川のお嬢様と話しているんだと思うと、途端に口が吃ってしまう…ダメだなぁ、私。
「あー、こいつは神岸あかり。俺の幼馴染みだ」
浩之ちゃんが、すっ、とフォローに入ってくれた。というより、きっと見てられなかったんだと思う。
「それだけ?」
「それだけ。…一体何を期待してたんだ?」
「別にぃ」
そう言うと綾香さんは、くすっ、と笑った。それだけ…って、浩之ちゃんはそりゃそうなんだろうけど、きっぱり言われると、ちょっと。
「ふ〜ん」
好奇心に溢れた目で、綾香さんが私に近づいてくる。
どどどどどど、どおぉ〜しよおぉ〜〜。
「悪くないわね。ただ…コレはちょっと、趣味分からないけど」
そう言うと、私の頭に生えてる物体を、ピン、と軽く爪弾く。
その後ろで、芹香先輩が微かに、あ、と声を上げたのが聞こえた。
(4)
「じゃ、これは…転送生成の失敗なわけ? 転送合成?」
しおしおと小さくなった芹香先輩が、こくん、と肯いた。
「しかし、なんでまたクマなんぞを…え? いつも俺が世話になってるから、あかりに何かお礼がしたかった? なんでそこへ先輩が絡んでくるんだよ?」
私だって、本物のクマなんて貰っても、どうしようもないんだけど…浩之ちゃん、やっぱり鈍感。まぁ、芹香先輩の事だから、間違っても「私の寝込みをクマに襲わせてあわよくば」なんて事はないと思うけど。
その時、赤くなって俯く芹香先輩と浩之ちゃんの間に、綾香さんが、さっ、と割って入った。
「まぁまぁ、良かったじゃないの。原因も判った事だし、これにて一件落着」
「してない、してない」
思わず私も一緒に突っ込んだ。
「なぁ先輩、これ、外す事はできねーの?」
芹香先輩を振り返った浩之ちゃんが、私のクマ耳をふにふに触りながら尋ねた。…ちょっと、気持ちいいかも。
「あ、出来る? で、どのくらいで…さ、最低でも一週間!?」
イレギュラーに発生した術を解くには、通常よりも長い準備期間を必要とするという。まず発生過程を解明して、それから術の準備に取り掛かるからなんだって。料理みたいなもんなのかな。偶然できちゃった料理を、もう一度作るみたいな感じで。
でも…このまま少なくとも、一週間はいなくちゃならないんだ…。
今にも泣きそうな気分で浩之ちゃんを見ると、浩之ちゃんは今まで見たことないくらいヘンテコな顔をしていた。心配するんなら、もっとまともな顔をしてくれてもいいのに。
「浩之ちゃん」
「……」
「浩之ちゃん?」
「………」
「ひ〜ろ〜ゆ〜き〜ちゃ〜ん」
「…はっ? あ、あぁ、あかりか…」
目の前でぱたぱた手を振って見せると、ようやく浩之ちゃんは我に返ったようだった。…もう。
「あ、せ、先輩。もっと…その、早くできないのか? …そうか、無理か…え? 他の媒体に移す事ならできる? すぐに?」
こくん。
「そ、それだ! それやろうすぐやろういまやろう」
「浩之ちゃん、もっと説明聞いてからでも…」
「なんだよあかり、それに未練でもあるのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
ただ、ちょっと先輩の表情が気になった。少し悩んでいるような顔。
「じゃ、誰に移すかを決めなきゃね。」
綾香さんが、さっさと話を進めようとばかりに口を開いた。
「…は?」
「は、じゃないわよ。移す、っていうんだから、その移す先を決めなきゃ。あ、言っとくけど、生命波形の違う媒体には移せないからね。 同じ種…まぁこの場合は人間でないと」
すらすらと、芹香先輩の代弁のような綾香さん。
「いや、なんで綾香がそんな事知ってる?」
「ふ…伊達に姉さんの妹やってるわけじゃないわよ」
そう言うと、綾香さんは少し、いやかなり遠い目をした。何も聞かない方がいいみたい。
「…といっても、もう決まってるようなもんだけど。ねぇ?」
そう言ってウィンクを向けられた人の顔が、恐怖に引きつった。
それから約二週間の間、私と浩之ちゃんは、リムジンを運転するクマ耳を校門で頻繁に見掛ける事になる。
尊い犠牲に、合掌。