ARMORED CORE CRIME OF DAYSCANNER



OUTER MISSION 4


 煉瓦塀が続く緩やかな坂道をカシスは歩いていた。
 彼女に注ぐ地下都市の日差しが、落ち葉と重なって影を作り出す。
 肩に軽く羽織ったオレンジのブラウスが、涼やかな風に揺れ、同じ様に髪を撫でて通り過ぎた。
「あら?」
 坂道を登り切った所に彼女のマンションがあるのだが、昨日に降った雨が残したと思しき、大きな水溜まりが行く手を塞いでいた。
「これは困ったわね・・・」
 彼女の両手は大きな紙袋で塞がっているし、更に右の腕には小さなバックを掛けていた。
 この日は、出不精な彼女が一念発起して、早朝から買い物に出た珍しい日曜日だったのだ。
「飛び越えちゃおっかな?」
 視界を塞ぐ袋から飛び出したフランスパンが水溜まりの大きさを隠す。 カシスは細い首を傾げて、一番近い水溜まりの先の乾いた地面を探した。
「ガッカリだわ。これは無理ね」
 彼女はあっさりと結論を出して肩を落とした。 水溜まりは案外大きく、高目のヒールを履いていた彼女にとっては遠すぎる距離だ。 失敗して、先週買ったばかりのスカートを汚す事を思えば靴が濡れるのは仕方ないだろう。
「もう、絶対に道路公社に訴えるから!」
 意を決してカシスは水溜まりに合皮製のヒールを漬けて渡る。
 それから先、彼女は淡い色の口紅を塗った唇を尖らせながら、マンションのオートロックを解除すると、駆け込む様にして部屋へと入った。
「メール・チェックして!」
 玄関に入るなり座り込んで、靴に染み込んだ水をポケット・ティッシュで叩きながら、カシスは端末に向かって命令した。
 低い起動が響いて、流行り歌を電子音に変えた短いフレーズが流れる。メールが届いていた事を告げる着信音である。
「あらら、珍しいわね」
 カシスの斜めだった機嫌は、自分に当てられた、ちょっと珍しいメールの着信の事で嬉しくなり、少しなだらかになった。
 靴を玄関に置いて、そそくさと端末へと向かう。
 彼女は女性にしては極端にメールのアドレスを教えない傾向にある。
 レイヴンであるから、と言う理由もあるのだが、カシスは以前に勤めていたクラブを辞めてから、基本的に自分一人の時間を満喫するのを大切にする様になっていたのだ。
 誰にも束縛されない時間は、彼女の今までの人生の中で慎ましいが新しい発見だった。 しかし、それとて、しばしば古い友人に邪魔される事が多かったのだが・・・
「つまんないの〜」
 メールは単にナーヴ代の請求書と日照権税の徴収のお知らせだった。
「誰かのお誘いかと思って損したわ!」
 彼女は旧式の部類に入る端末のディスプレイを叩いて頬を膨らます。 自分の自由も好きだが、彼女は良く知った仲間のお誘いならば特例的に歓迎する傾向にもあった。
 お誘いならば豪華な食事が出来たりするからだ。 それに自分一人で長く居ると、世間から自分という存在が忘れられたのかと不安に陥る事もある。
 その辺りは複雑な女心と言えなくもない。
「また、腹がたって来たわ!」
 カシスは再び機嫌を損ねて、端末の前に座ると道路公社の苦情蘭に、あの水溜まりの事を書込む。
「こうなったら私の靴を弁償して下さい・・・そうしないと次は役所に投書します・・・っと」
 打込み終えると幾分機嫌が直ったらしく、カシスは紙袋から食材を取り出して、次々と冷蔵庫へと仕舞い込む。
 靴は玄関に置きっぱなしだ。
 こう言う忘れっぽいのが彼女の長所とも短所とも言える。
 朝早くから開いているストアで買ってきた品物を逐一見る度にカシスの頬が緩んだ。
 理由は至極単純。広告の特価品で目をつけた物が手に入ったからである。鼻歌まじりで立ち上がりつつ、冷蔵庫のドアを足の爪先で閉じると、徐に彼女はベッド・ルームへと移った。
 然程、広くない寝室の一番奥の衣装棚を開いて、カシスは黒い喪服を取り出す。
「もう、10年になるんだ・・・」
 黒いスーツを手にとって見ながら、溜め息と共に 彼女は急に少し寂し気な呟きを漏らす。
 早朝の珍しい外出も、靴の件で腹を立てて見たのも、この寂しい気持ちを和らげる為かも知れない。
 涙で少し潤んだ目を、彼女の細い人差し指なぞる。
「・・・行かなきゃね」
 カシスは首を小さく振ると、ワンピースの肩紐を解いて喪服へと袖を通す。そして、壁に掛った小さなハンドバックを手に掛けると、ダイニングへと再び戻り、普段使う買い物バックから、黒いハンドバックに財布と化粧ポーチを入れ替えて玄関に立つ。
 具体的な行動に入ればカシスは気持ちを切り替えて悩む様な事はない。 これはレイヴン向きな性格だと、彼女も心得ていたし周りの仲間も認める事だ。 ただ、それは物事を忘れ易い欠点へと直結しているが両方を取れるほど、カシスは大人では無かった。
「ああ・・・靴の事忘れてたわ」
 彼女は足元に置き忘れ、完全に水が染みになった靴を見て、さっきよりも少しだけ悲しい気分になってしまった・・・


 やや日差しが強くなった道をカシスは長いスカートの端が、濡れた地面に触れないように気をつけながら歩く。
 少し憂鬱な彼女の気持ちが前景に和らいだ。 先程の水溜まりに、板を渡した簡素な橋が架かっていたからだ。
「言ってみるモノね」
 カシスが先程、道路公社へ抗議した書き込みが、功を奏したらしい。
 傍らの車道に小さなトラックが停車しており、グリーンの作業服を着た、若い職員がバインダーに挟んだ書類に何やら筆記していた。 どうやら彼が橋を架けてくれたらしい。
 カシスは少し微笑んで、彼に声を掛けた。
「ねぇ、そこの貴方」
 突然、声を掛けられた若い作業員は、驚いた顔を手元からカシスへと上げた。
「僕・・・ですよね?」
 彼は辺りを見回すが、周辺には自分しか居ない。
「そうよ、ちょっと渡るの手伝って下さらない?」
 カシスは普段使わない様な言葉で彼に言った。 彼女自身、内心少しだけ苦笑する。 着ている服装が、自分の物腰を変える事が可笑しかったのと、普段は余程ラフな格好でいるのではないかと自嘲したのだ。
「橋が薄いから、スカート塗れちゃうの」
 カシスは黒いヴェール越しに微笑む。
「ああ、済みません」
 若い作業員は、突かれた様にして、そそくさとカシスへと近づいて行く。
「お願いするわ」
 カシスは、若い作業員に黒いレースの手袋に包まれた細い腕を差し出す。 彼は汚れた軍手をポケットに仕舞って、彼女の手を取る。
 紳士にエスコートされる様な格好で、カシスは小さな橋を渡りきる。
「お帰りまでには、バキュームで吸い取っておきますね」
 若い作業員は照れながら、俯いて帽子の鍔を直しつつ、ポケットから軍手を再び取り出す。
「お仕事、熱心でいらっしゃるのね」
 作業員は首を横に振って、少し笑った。
「いいえ、いつもなら昼寝してる時間ですよ。でも、今日は、ちょっと面倒な人から投書がありまして」
 それを聞いてカシスの顔から、微笑みが消えた。
「そう・・・」
 皆まで聞く必要は無い。答えは一つだ。
「この辺りレイヴンが多いですよ。お気をつけて」
 それを聞いたカシスは、先程とは違う、少し寂し気な笑みを浮かべる。
 若い作業員には、ヴェールの下の表情は読めない。
「ありがとう。助かったわ」
 そう言うとカシスは、彼に背を向けて歩き出した。
 背中の向こうから低いエンジン音と共に、バキュームが水を吸う音が響く。
「レイヴン・・・か」
 そんな彼女の呟きは誰に聞こえるでもなく、虚しく宙に舞うだけだった・・・


 少し離れた広い通りで、カシスは小型のタクシーを拾った。
 車内の合皮シートは彼女には座り心地が良く、少し開けた窓から涼やかな風が髪を撫でる。
 ラジオからは、大破壊前の曲が流れていた。
 カシスは、古臭いと言われるが、この世に残された人類の財産である大破壊前の物が好きだった。 映画、音楽、絵画など、人類が残せた物は極めて少なく、そのどれもがカシスにとっては、何か大切な気がするのだ。
 運転手が少しだけボリュームを上げる。
「お客さん、この歌好きなんでしょ?」
 後席を振り返りもせずに運転手が、ミラー越しに声を掛けた。
 カシスは恥ずかしそうに少し俯いた。 知らず知らず、歌詞を呟いていたらしい。
「もうすぐ目的地だけど、この歌が終わるまで居てくれていいですよ」
 そう言って、運転手は料金メーターを止めた。
「ありがと・・・」
 そう言ったカシスは、静かに目を閉じ、しわがれた男性ボーカリストのブルースに聞き入った。
 曲の最後に合せる様に車が停まる。
「俺の女房もこの歌が好きなんだよ」
 振り返った運転手は穏やかな笑みを浮かべ、自分の白髪混じりの髪を撫でた。
 カシスは、カードを出すのを躊躇った。
 彼女が連立都市で所持するのを許されているのは、漆黒に銀の印字のカードしか無い。
 それは紛れも無くレイヴンを示す物だ。
 通常の準市民が持つ、緑と白のカードでは無い。
「あんたレイヴンだね?」
 雰囲気を察して、初老の運転手が口を開いた。
 無言でカシスは小さく肯く。
「この商売長くやってりゃ、お客の物腰とかで分かるモノさ」
 穏やかな声だった。 カシスはそっと運転手にカードを差し出す。
「あと、もう一つ分かる事が有る・・・」
 運転手はリーダーに手慣れた手つきでカードを通しながら言った。
「そいつが好きでレイヴンやってるか、やってないかって事だよ」
 カシスにカードを手渡した運転手の手は、彼女にとって暖かく感じられる。
 彼女は決してレイヴンという職業が嫌いな訳では無かった。
 企業に属する市民の歯車の人生か、明日をも知れない、都市から何の保証も無い準市民の浮き草人生。 そのどちらでも無い存在に誇りさえ感じている。
 しかし、レイヴンである事が好きかと問われたら、素直に首を縦には振れなかった。
「私、嫌々レイヴンやってる様に見える?」
 運転手は静かに首を横に振る。
「あんたには、何か目的があるんだろ?」
 カシスは強く肯いた。 彼女にはレイヴンである人生の先に目標がある。
 誰の物でも無い、自分だけの店が持ちたいのだ。
 自分が女である事を武器に稼ぐ道も、彼女の務めていたクラブが潰れた時、選択肢として当然ながらあった。 だが、彼女はそれを良しとせずにレイヴンになる道を選んだのだ。
「なら、何も恥じる事はないよ・・・行きな」
 静かに自動で車のドアが開いた。 外には、厚い壁に囲まれた市民ブロックと準市民ブロックを隔てる壁が聳え立っている。
 カシスは、しっかりと地面を踏み締める様に、そして貴婦人の様な流麗な仕種で車外へと出た。そして、鈍い鉄色の壁を、濃いブルーの瞳に映し出す。
 タクシーは小さな発車音と共に走り出し、それに振り返ったカシスに向かって、テールランプが二度瞬いた・・・


 ここは修羅の世界と天国を隔てる境界線だ。
 準市民の側から見る壁は重い鉄の塊、だが市民の側には緑の美しい自然が投影されるスクリーンになっている。 市民には専用の《空》もあり、所々千切れて暗転している準市民用の人工丸出しの空とは違う。
 カシスは市民ブロックへと続くゲートに向かって歩き出した。
 罅割れた煉瓦造りの歩道は、彼女のヒールを噛む。 それはまるで、彼女の住む準市民の世界へと引き戻そうとする抵抗に感じる。
 躓きながらも、カシスは重く閉ざされた鉄の扉の前へと辿り着いた。
 壁からは、無機質な無人監視機がカメラを忙しなく動かすモーターの音が響く。
『カードをリーダーに通して下さい』
 無人監視機から、場違いな程に優しげな女性のアナウンスが聞こえた。
 《タブレット・コミューン》というこの街は連立都市の中で、最も市民ブロックと準市民ブロックが開かれた処である。 街中の至る所に、この様なゲートが存在し、大規模な物になると列車やメンテナンス・リグが通れる様な所もあった。
 ここは、市民ブロックに面した住宅地には必ず一つは接地されている所謂《路地》に過ぎない。 利用する者など、週に一人が精々だろう。
 この街では、都市の運営方針が物品・人員共に激しい流通に重きを置いている。
 これは連立都市では異例の事と言えた。
 隣の街である《リガ・シティ》など、東西の二ヶ所しかゲートは無く、それすら半ばガードに占拠された形にになっており、市民ブロックに入るには特別な許可が必要なのだ。
「市民ブロック南部の《アモンデュール教会》に行きます。許可を」
 カシスはリーダーにカードを通し、声紋照合の為に目的地を告げる。
 ややあって、一つ目のゲートが開いて、カシスは前へと進む。
 即座に後ろのゲートが閉じて、彼女は隔離された。 そして、仄かなクレゾールに似た匂いのする気体が密室に充満する。 一応、伝染病の菌を滅菌しているのだろうが、効果の程には疑問が残る物だ。 そして、同時に銃器などの危険物を所持していないかどうかのチェックが成されている。
 レイヴンは特に念入りに検索され、一般人よりも時間が掛けられるのだ。 しかし、これとてレイヴンが本気で銃器を持ち込む気ならば、こんな片手間なチェックなどパス出来るに違いない。
 だが、それに失敗すれば、この密室がそのまま棺桶に変るだろう。 天井のスリットから、ライン・ビームと機関砲が降り注ぐ様になっているのだ。
 カシスは形だけの検問に、内心うんざりしていた。
 普段ならば頼まれても、市民ブロックなどには寄り付かないのだが、今日はそう言う訳に行かない。
「母さんの命日じゃ無かったら、こんなトコ本当に御免だわ。人をバイキン扱いして・・・」
 カシスは焦れて、なかなか開かない出口を軽く爪先で蹴る。
『チェック終了。通過を許可します』
「ありがと」
 形だけの検問に、形だけの礼を口にして、カシスはそそくさと、最後のゲートを潜った。
 街路樹に溢れ、コンクリートで滑らかな舗装が施された道は先程の世界とは雲泥の差だ。
 空も一際高く、美しく見える。 光ファイバーの質が段違いなのだ。
「もう、やんなっちゃう!」
 カシスは服に付着した匂いをハンカチで叩いて落とそうとするが、無駄な努力に終わっている。 元々、防虫剤の匂いが染み付いているので、匂いがする事自体は大した違いは無いのだが、気になるのだから仕様が無い。
「帰りは絶対にタクシーで越境するわ!」
 車でブロックを行き来するのは、都市に移動税を納めねばならず、普通の者は無駄な出費を敬遠するのだが、彼女は小さく心に誓った。 確か去年も彼女は、ここで同じ事を呟いていた事を思い出してカシスは少し笑った。
 多分、また来年も同じ事を言うのだろう。
 それはレイヴンとして、彼女が生き残っていられればの仮の話ではあったが、彼女には、それが小さな生きる目標になればな、と少し感じる。
 そう思いつつ、微笑みながらカシスは振り返ってゲートの入り口をヒールの先で去年と同じように軽く蹴飛ばした・・・


 並木通りを進むと、小高い丘に建つ教会が見える。
 カシスは、その懐かしい景色が映ると、自然と駆け足になっていた。
 十年も前に、ここに彼女が住んでいた時と同じ風が運んで来る匂いに鼓動が高まる。
 カシスは当時、許されるならば、ずっとここで暮らしていたかった。 だが、それは叶わない願いだったからこそ強く感じた事かも知れない。
 カシスの母は生前、この教会の司祭であった。
 彼女の母は、当時、都市で暴走したカウンター・マフィア・ガードを非難し、思想面から圧迫を掛ける為に一命を投げ打ったのだ。
 そして実際、その一年後に凶弾の前に倒れる。
 まだ幼かったカシスは、準市民であった父の家へと危険を避ける為に養女に出されたが、自らの境遇を悲しんだりする事は無かった。
 母を心から敬愛し、彼女の成した行為を気高い物と、幼いながらにも思ったのだ。
 後に亡くなった父から聞かされた話では、教会へと帰依した立場の母は、父と結ばれた事を罪に思い、贖罪の意味で、レジスタンスとの繋がりを持ち、理不尽に殺される準市民の味方をしたのだと言う。
「お母さん・・・」
 懐かしい空気を胸一杯に吸い込んで、カシスは母を呼んでみた。
 悲しくはなかった。
 嬉しさの余り頬が綻ぶ。
 彼女が、この世で一番誇りに思う母との再会は、例え母が冷たい石に姿を変えていても嬉しい物だ。
 緑の下生えを踏みしめて、カシスは道を外れ近道して走って行く。
 日曜の教会からは、パイプオルガンの音と微かに歌声が聞こえた。その正面から見て、右の奥に母が眠る墓地がある。
 目を凝らすと、その近くから爆音と共に大型のバイクが一台過ぎ去って行くのが見えた。
 隣には黒塗りのセダンが停まっている。
「あら?」
 彼女は車に背を預けて、咥えた煙草に火を着ける男に見覚えがあった。 向こうの男も、こちらに気づいたらしく訝しげな視線を送っている。
 黒いヴェールで顔が隠れているから、彼にはカシスとは分からない。
 喪服の女が、歩道を使わずに芝生を踏みつけながら向かって来るから当然と言えば当然だ。
 怪訝な表情で男が近づいてきた。
「どうかなさいましたか?」
 彼はカシスが暴漢にでも追われているのかと思っているのだろう。
「ちょっと道に迷いまして」
 カシスは声音が変えて答えると、男は手を差し伸べて、芝生と道とを隔てる柵の切れ目へと彼女を誘導した。
「一目で分からないなんて、レイヴン失格ね」
 道に戻ったカシスは、からかう様にヴェールを上げて男に顔を見せる。
「なんだ貴様か・・・」
 男はあからさまに眉を寄せ、曇った表情を向ける。
「連立都市4位のレイヴンが、ここで何してるの?」
 カシスは意地悪く問い掛ける。
 男の名は《ヴェルデモンド》。
 彼女の言うとおり連立都市のベスト・ランカー・レイヴンの一人だ。
 その知名度とは裏腹に、実際の姿を見た者は極端に少ない。
「あのデカイのと言い、お前と言い、今日は会いたくない奴に会う日だ・・・」
 ヴェルデモンドは肩に掛けた、濃い緑のカーディガンを直しながら言う。
「さっきの単車は《ワイルド・カード》だったの?」
 カシスは彼の去った方向を見たが、その姿は当然ながら消えていた。
「今日は、この教会に眠る《シスター・ルラエ》の命日だからな。奴はレジスタンス時代に何度か彼女に助けられた事が有る。私もよく世話になった」
 カシスは、その事は初耳だったが、ヴェールの下の彼女の顔は綻んでいた。
 母がまた一つ、誇らしく感じられたのだ。
「ところで、貴様は何しに来たんだ?」
 面倒臭そうにヴェルデモンドが問う。
「私の母の命日なのよ」
 カシスは、あえて自分の母の事を言わない。 隠す訳では無いが、一番に自分が大切にしている事を無闇に言いたくないだけである。
 だから、カシスは、この事を他人に話した事は一度も無い。
「偶然とは言え、貴様の様な阿婆擦れの母とシスター・ルラエが同じ命日で、同じ場所に眠るとはな」
 ヴェルデモンドの不用意な言葉に、カシスはカチンときた。
「人の母さんを悪く言わないで!」
 ヴェルデモンドは、この言葉に対して軽く鼻で笑うだけだ。
「母親が分かってるだけ幸せと思うのだな。世の中には知らん奴も大勢いるんだ」
 カシスは、ふと気がついた。
 この男は多分、自分の母親を知らないのだ。
 そう考えると、さっきの言葉は彼なりにカシスが羨ましかったのかも知れないと思える。
 少しの沈黙の後、オルガンの響きが止み、教会の鐘が大きく鳴った。
 ヴェルデモンドは、そそくさと振り返って、教会の扉を見つめる。 彼の下げられた右手は、カシスに向け小さく振られていて《あっちへ行け》を告げていてた。
 やがて教会から小さな女の子が、母親と思しき金髪の女性に手を引かれて出て来る。
「あれが、貴方のご家族?」
「そうだ、今日は日曜だから教会に用があった」
 ヴェルデモンドは面倒臭気に、カシスの方へと向きもせずに言う。
「貴方は教会で祈りは捧げないの?」
 家族に自分との関わりを知られたく無い事を見抜いたカシスは、わざと更に尋ねる。
「私は仏教徒だ。早く母の墓前にでも行け」
 相変わらずの物言いに、内心カシスはムッとする。 しかし同時にカシスは、ここでピンときた。
 ヴェルデモンドが娘に内緒でレイヴンをやっている事はワイルド・カードから聞いて知っていたし、それがバレるのが何より嫌だと言うことも、カシスは心得ている。
『これはチャンスね。日頃バカにしてる罰よ』
 先程の言葉のささやかな復讐心と悪戯心が、カシスに芽生えた。
 ヴェルデモンドは、そそくさと家族の元へと向かい女の子の手を引きながら車へと進む。 後に母親が笑顔で続く。
 カシスは優雅な足取りで黒塗りのセダンの助手席の前へと歩き出し、ヴェルデモンドに声を掛けた。
「あら、奇遇ですわね。先日はどうも」
 ヴェルデモンドは俄かに表情を曇らせる。
「あ、いや・・・こちらこそ」
 もっと表情を曇らせたのは、後ろに立つ妻の方で、ヴェルデモンドは後ろを振り返って焦り出す。 普通ならここで『どこそこの何々さんだ』とか言って、妻に紹介するモノだが、ヴェルデモンドには即座に上手い嘘が出てこなかったらしい。
 日頃、レイヴン稼業と家族サービスに手一杯で、彼女の居そうな酒場などに寄り付かない証拠だ。 加えて、恐らくレイヴン稼業の際は《残業》などと言っているに違いない。 益々もって、妻からすれば日頃の夫の行動へ不信感が募るに違いない。
「また、お店にいらして下さいね」
 ここで、カシスは追い討ちをかけた。
 ヴェルデモンドから、短い舌打ちが聞こえる。
 少女を後席に座らせたヴェルデモンドが妻の手を取ろうと手を差し伸べるが、彼女は無視して娘と同じ後席へと座り込んだ。 見知らぬ女性が挨拶もなく、紹介もされないで夫と気安く話しては妻として面白くはないのだろう。
『憶えていろよ』
 ヴェルデモンドは小声で助手席に立つカシスへと言い放つと、運転席へと駆け足で周り込む。
 ドアが強く閉められ、ヴェルデモンドは運転席から振り返って後席の妻へと何やら言訳を始めている。声は聞こえないが、車外からカシスが見ても上手い嘘は吐けないらしく、妻のご機嫌は相変わらず直っていそうにない。
 カシスは吹き出しそうな笑いを堪えて、小さく手を振った。
 返事の変りに爆音が響き、土煙を起てながら急な加速で車は走り出す。
 彼の日曜はこれから散々苦労するに違いない。 まぁ、これからデパートにでも行って、妻のご機嫌を精々とるしか無いだろう。
 小さな復讐を遂げたカシスは胸が晴れる思いだ。
「人を小馬鹿にした態度ばっかりする罰ね」
 カシスは小さくなって行く車を見送りながら、笑って呟いた・・・


 教会の脇にある階段を上り、小高い丘になった墓地にカシスの母は眠っていた。
 石畳の道をカシスは確かめる様に歩く。
 雰囲気を重視して井戸の形にわざわざ造られた水場を曲がると、直ぐに母の墓石が見える。
 カシスは駆ける様にして、母の元へと辿り着いた。
 墓前は彼女が想像していたより遥かに奇麗で、雑草など一本たりとて生えてはいない。
 先に来た友人のワイルド・カードが抜いてくれたに違いない。
 墓前には何故か菓子パンと、白いバラが添えられていた。更に菊の花と、何やら変な匂いのする細い香が地面に突き刺さっている。
「あの二人が来たのね・・・でも、祈り方ってあると思うんだけど」
 取りあえず、カシスは香に着いた火を消して、菓子パンをバックの中に仕舞う。 変な取り合わせの花は如何ともし難く、出来るだけ奇麗に纏めて墓前へと飾るしか無かった。
 更にカシスが良く見ると、墓石には酒らしき物が掛けられており、慌てて水場へ向かい奇麗に洗い直す事もしなければならなかった。
「母さんは、お酒は飲まないのに・・・本当に馬鹿な人達ね」
 短い溜め息を吐いてカシスは、墓前へと跪く。
 しかしカシスの心中は穏やかな、そして誇らしい気持ちで一杯であった。
 母は偉大な人だったという、何よりの証であるからに他ならない。
 彼女は漸く落ち着いた墓前に跪くと、静かに目を閉じて祈りを捧げ始める。
『今年も無事に来れました。いつも見守ってくれてて有り難う』
 改めて母と向き合っていると思うと、カシスの目に熱い物が込上げてくる。 しかし、彼女は母の前では涙を堪える。
 カシスは母が人の涙を見るのが嫌いな人であった事を良く知っていたし、誰かの痛みを止める為に立ち上がって命を落とした事も理解出来ていた。 会うたびに《人の痛みの分かる、強い子になってね》と言われた事を彼女は忘れない。
「ちょっと、お母さんの言った意味と違うかも知れないけれど、私は強くなりました」
 カシスは、そう墓前に向かって微笑んだ。
 風が緑の匂いと木々が奏でる穏やかな響きを運んで来る。
 準市民市街では連日の様に企業間抗争が死者を増やし続けているが、この場所には無縁の別世界と思われる位に平穏な時間が流れていた。
 自分も永遠の眠りは、ここでしたいとカシスは強く思う。
「また来年も来られる様に頑張るからね」
 母の頬に触れる様に墓石に手を当てたカシスは、微笑みながら立ち上がる。
「やっぱり、歩いて帰ろうかな?」
 カシスは晴れ晴れとした気持ちで、母の墓石へと背を向けて歩き出した。 その背中に穏やかな陽の光が注いでいた・・・


 カシスは準市民街へ出るなり、徒歩で帰宅する様にした事を早速に後悔した。
 天の水瓶を割った様な激しい雨が降っていたからである。
「もう!天気予定になかったわよ、こんな雨!」
 空よりも、カシスの表情の方が曇っていた。
 準市民街の天気は、よく言えば自然的、普通に言えば極めて杜撰と言える。 三日に一度は、天井の給水バルブが緩んでいるのか、配布されている天候予定表とは大きく外れ、大雨が降ったり、逆に降らなかったりするのだ。 気温すらも年に一、二度は異常を来たす事もある。 それ故に、準市民は市民よりも頑健な肉体を有するという研究発表もなされたが、そんな事は今のカシスにはどうでも良い事以外の何物でもない。
 兎に角、カシスは入ってきたゲートの前で雨宿りするか、駆け抜けてタクシー・ターミナルまで行くかの選択に迫られた。
「でも、喪服が濡れるの嫌だし・・・」
 足元に跳ねる水沫を気にしながら、カシスはターミナルまで行くのを断念した。 携帯ナーヴを持っていれば、タクシーを呼ぶ事も出来るのだが彼女は、今時珍しい位に携帯嫌いなので所持していない。
「止むまで待つしかない・・・か」
 とは言ってみても、予定表外の雨は人工空の故障が多い為、直るまで降り続く事になる。酷い場合だと、二日降り続けた時もあった。
 都市側は地面に染み込んだ雨滴を結局は循環させてタンクに戻し、リサイクルしているので、水に関しては無頓着極まりない。加えて連立都市はリガ・シティに湖クラスの大きさではあるが、人工の海すら有しているので、なおさらに呑気な水資源管理状態なのだ。
「空気と光の方が大切な気でいるのよね」
 誰に言うでもなく、カシスは俯いて呟いた。
 その目を落とした足元に、小さな影がカシスの方へと近づいて来る。
 良くみると、小さな影は小猫らしかった。
 黒い毛をずぶ濡れにしていた為、カシスには一瞬それが何か分からなくて驚いた。
「猫じゃないの!」
 カシスは降り注ぐ雨も忘れて、体を小猫から逃げるようにして反らす。
「私、最高に猫嫌いなのよね・・・」
 更に彼女は、取り分け黒猫というのが大の苦手であった。そんな彼女を気にも留めずに、小猫はゲートの屋根の一角を占領してしまう。
「うわ・・・最低」
 小猫に近寄れないカシスは、少し屋根から離れてしまい雨の雫がかかる位置まで寄らなくてはならなくなってしまった。
「何の因果でこんな目に合うんだろう?」
 泣きそうな顔でカシスは、恐々小猫を見る。
 小猫は彼女に目もくれず、雨の降りしきる先を見詰めていた。
「おすましなんかして・・・嫌な奴」
 カシスはプイとそっぽを向くが、小猫の様子が気になって仕方ない。
『飛び掛かってきたら、どうしよう・・・汚い足が服にペタペタついたらヤだな・・・それよりも噛まれたりしたら絶対に夢に見るんだろうな』
 などと、止めど無く心配が募り、チラチラと小猫の方を見てしまう。
 そんなカシスには一瞥もくれず、小猫はじっと一点を見詰めている。
「どこ見てるんだろ?」
 カシスは微動だにしない小猫に少し安心したのか、視線を小猫が見ている所へと向けてみた。
「あ・・・」
 思わずカシスの唇から声が漏れる。
 そこには、無残にも母親と思しき黒猫の遺体が横たわっていた。
 恐らく車に跳ねられたのか、赤い血が地面へとこびりついている。 雨に濡れていても血が流れない処を見ると、数日か前に死んだ様子であった。
 カシスが口を押さえながら、小猫を見る。
 相変わらず微動だにせず、小猫は母猫だったと思しき遺体から目を反らそうともしない。
 激しい雨のせいか、珍しく通りかかった車は地面の母猫の遺体に気付かずに、その上を無情にも通り過ぎて行く。
 車が通った、その後には姿勢が変った遺体が再び雨に打たれていた。
 小猫は瞬きもせずに、ただ一点を見ていた。
「仕様が無いわね・・・」
 カシスは溜め息を一つ吐くと、雨の中を歩き出し母猫の遺体へと近づいて行く。 そしてハンカチで遺体を包む様にして、小猫の元へと運んでやった。
「私がレイヴンやってて良かったわね」
 普通の女性ならば、恐らく気持ち悪がって出来ないであろう事を彼女は軽くやってのけ、小猫へとしゃがみこむ。
「猫の貴方に言っても分からないだろうけど、貴方の母親は死んだのよ」
 小猫に指差してカシスは諭す様に言った。
「貴方は生きてるんだから、いつまでもここに居ては駄目よ」
 カシスの言葉など、聞きもせず小猫は、じっとハンカチに包れた母猫を見ていた。
「私の言う事が分からないなら、飢え死にするまで、そうしてるといいわ・・・」
 そう言うと、カシスは立ち上がってゲートの屋根を後にした。
 もう、充分に雨に濡れてしまったから、このまま徒歩で帰る気になったのである。
 少し気になって、カシスは後ろを振り返るが、小猫は相変わらず微動だにせず、黒い影が二つ雨に滲んでいる。
「これだから猫って嫌いなのよね。もう、勝手になさい、人がこんなにしてやったのに!」
 カシスは通じる筈も無い罵声を小猫に浴びせると、降りしきる雨の中を駆け出した・・・


 窓の外の雨を眺めながら、カシスは暖かいコーヒーカップに唇をつけた。
「全然、止まないわね・・・」
 濡れた髪を乾かしながら、バスローブの胸元を直すと、カシスは寝室へと向かう。
 クローゼットの取っ手にはハンガーに掛った、びしょ濡れの喪服が掛けられている。
「これ、縮んだら最悪ね」
 喪服の裾を、細く白い指先で確かめる様にしてカシスはそう呟くと、ベッドへと転がる様にして横になった。
 枕元には幸せそうにして、黒い小猫が蹲っている。
「結局、こうなっちゃったのよね・・・」
 瞼を左手で押さえながら、カシスは小さく何度も首を振る。
 つくづく自分の人の良さを悔やんでいるかの様な仕種だが、彼女の口元は綻んでいた。
「名前・・・何がいいかな?」
 そう、一言呟いたのを最後に、彼女は静かに寝息を起て始める。
 小猫はまどろみながら、先程とは違った優しい視線で彼女の穏やかな寝顔をじっと見る。
 こうして彼女の多忙だった一日は終わった。
 外の雨は一頻り強くなる。
 その雨音は妙に心地よく、この部屋の住人達には響いていた・・・


OUTER MISSION 4 《完》