カールスプラッツの光と陰

 オペラ座から地下のU1,U2,U4のカールスプラッツ駅になっている、地下アーケードを抜けていくと、レッセル公園に出る。この公園があるカールス広場(カールスプラッツ)は、私にとっては雑然とした印象を与える。現在見られるこの広場の形は、19世紀末の都市計画に基づく物ではあるが、この広場を分断している大通り(ロートリンガー通りとウィーンツァイレを結ぶ幹線) 、そして広場の色々な方面に向けて歩いて行くのに地下道を利用しなければならないという制約が、なおさらその印象を雑然とした物にしているに違いない。
 さて、もちろんこの広場の目玉はマリア・テレジアの父君がその死の直前に、ペストの終焉を祈願して、フィシャー・フォン・エルラッハ父子(サルツブルグの殆どのバロック建築を造った建築家) に命じて作らせた、カールス教会。でもそこから目を左に移すとウィーン市立博物館、楽友協会キュンストラーハウス、手前にオットーワーグナー作のカールスプラッツ駅工科大学、さらに奥に目を転じると、セセッション(分離派会館/ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ作)などウィーンを代表する建物が建ち並ぶ。

このレッセル公園の周辺をすこし散策してみると、このホームページのテーマに当たる、音楽家の足跡に巡り会える。

アントニオ・ヴィヴァルディ、この人がウィーンで亡くなったと言う事実はあんがい知られていないが、このカールス教会の右横にある、工科大学の壁にここでこのイタリア人作曲家が1741年に亡くなったことが記されている銘板が有る。この工科大学の建っている場所にはもともと貧民墓地があり、晩年の活動がよく判っていないこの作曲家の名前は、ここの墓名録のなかから発見された。同じく工科大学のヴィヴァルディの銘板の左横にヨハンとヨハンとヨーゼフ・シュトラウス兄弟がここの学校で学んだことが記されている銘板がある。

さらに壁づたいに左側の通り、カールスガッセを入って行くとブラームスが亡くなった1872年から住み、1897年4月3日にここでなくなったことが記されている銘板があります。建物の二階に取り付けられているので良く注意してみないと見落とします。Okistaという旅行会社の丁度反対側にあります。カールス広場には楽友協会の向かいにこの作曲家の銅像も有ります。

さて、カールス協会の右横の通り、アルゲンティナシュトラッセを入ってすぐのカールス教会の横に、モーツアルトの先輩の宮廷作曲家、クリストフ・グルックの銅像が有ります。その向かい側にはシマノフスキの住居が見つけられるはずです(銘板に注意)。

今日レッセル公園を歩いているとヴィヴァルディが生きた時代を想像することは出来ない。
しかしその痕跡を知りたければこの広場の一角にある、ウィーン市立歴史博物館を訪ねてみよう。19世紀の音楽に関する資料も充実している。

 

「残念ながら、ヨハネス・ブラームスの作品にあらず」
ブラームスがアリース・シュトラウスから扇子にサインを求められ、「美しき青きドナウ」の最初の数小節を書いた後に記す。