今回は写真満載のため、ページが重いことご了承下さい。
昔、小学校の音楽室の片隅で気むずかしそうな顔をした肖像画を見上げながらこ う思ったものだった。
「むかしむかし、びょうきにかかってみみのきこえなくなった、さっきょくか がいました。さっきょくかはしのうとおもい、いしょをかきましたが、びょうきをの りこえてりっぱなきょくをのこしました。ぼくはえらいなとおもいました。」
引っ越し魔、ベートーヴェンは生涯に150回引っ越しをしたと言われますが、転々 と引っ越しをする中でもとくにウィーンの北のデーブリング、ハイリゲンシュッタトを避暑地として好み、ここで数多くの作品を残しました。空爆を受けることの無かっ たこの地域には、今でもベートーヴェンの移り住んだ家々が残っています。
ハイリゲンシュタットでは耳の治療としての鉱泉浴をベートーヴェンはしていま したが、この湯治場跡がハイリゲンシュタット公園として残り、ベートーヴェン像が 残っています。
ハイリゲンシュタットのベートーヴェンの家々を回るにはU4(地下鉄)の終点、国 電ハイリゲンシュタット駅からバス38Aに乗り、4つめで降り、バス停の右側にハイリゲンシュタ ット教会でそこを起点にすると良いでしょう。バスを降りたら右手の細い道をはいり 、最初のかどを曲がるとそこがプローブスガッセ(Probsgasse 6)、まもなくハイリゲ ンシュタットの遺書の家が見つかる筈です(赤と白の旗を目印に)。
真ん中の扉を入った正面に市立の博物館になっている、ベートーヴェンの部屋が有 ります。ここでは1802年に交響曲第二番が作曲され、「ハイリゲンシュタットの遺書 」の日付は1802年10月6日となっています。この遺書は彼の死後、彼の机の中から発 見されました。
また、このプローブスガッセを通ってて行くと、プファール広場(Pfarrplatz 2)に突き当たりここにもベートーヴェンが1817年に住んだ家があります。
この家の隣には写真のような案内板があり、これをもとにハイリゲンシュタットの散歩をされると良いでしょう。
この家の奥にエロイカガッセという小道があり、それを北上して行ってつきあた る小川に沿った道がベートーヴェンガング(ベートーヴェンの散歩道) で、その小川こそ田園交響曲第二楽章の小川だそうな。でもコンクリートで治水されたいまでは当時を忍ぶことは難しいかも知れません。
その小川からほど遠くなく、1817年にベートーヴェンが田園を作曲した家があり ます(Kahlenbergerstrasse 26)赤と白の旗が外されているので銘板に注意)。 ほぼハイリゲンシュタットを一回りしたので起点(最初に降りたバス停)に戻ってグリンツィンガー通り沿いを少し坂を上るようにして行くと、まもなく左手にベートーヴェンが1808年に詩人のグリルパルツアーと一緒に住んだ家があります(Grinzingerstrasse 64)。
以前はピンク色をしていましたが、現在では白色に塗り替えられています。
このハイリゲンシュタット一帯は葡萄畑を背に、「ホイリゲ」という名のワイン 作り居酒屋が立ち並ぶ飲んべ通りです。ベートーヴェンの家の近くにも入り口に松の小枝を飾ったホイリゲが立ち並びます。
ベートーヴェンの時代にウィーンの市街地から馬車で半日かかったというこの周 辺は、割と早く10世紀ごろから開けていました。付近でホイリゲを営んでいるAさん( 72歳・仮名)によると、「ワシの家族は16世紀から代々ワインを造っている」とのこ と。ベートーヴェンもきっとここのワインで酔っぱらったことでしょう。ベートーヴ ェンのみならず数多くの人々にハイリゲンシュタットは愛され、前出のグリルパルツァー、アインシュタイン、カール・ベーム、前オーストリア大統領ワルトハイムなど もこの近くに居を構えていました。
夜にもなるとこの近辺は路上駐車で一杯になります。ということは.......みなさ ん酔っぱらい運転には気をつけましょう(でも最近オーストリア警察は酔っぱらい運転に対して厳しくなったそうな?)。
もし、ウィーンで時間があればこのハイリゲンシュタットの教会の横の坂(Hohewarte)を登っていった先に市電37番の駅が終点があり、そこから二つ目か三つ目の駅で降りると通りの左側にベートーヴェンが交響曲第三番「英雄」を作曲した家(エロイカハウス/Doeblinger Hauptstrasse 92/市立博物館)見つけることが出来ると思います。
「二十八にして悟りを開くこと(哲人になること)は容易でない、それは芸術家に取ってなおさらの事だ」
1802年10月6日、ハイリゲンシュタットの遺書より。