注;この作品によって、不快な思いなどを抱かれる方がおられるかもしれません。
  が、それは作者の勉強不足ゆえのことなので、どうか御容赦くださいませ。


FAREWELL

十八歳、二月十六日

彼女は幻想世界に住んでいるんだ、と僕は理解した。

陽のあたる静かな部屋で、真っ白なベッドに横になり、彼女はまどろんでいるようだった。
微細な粒子がまつげのあたりできらめく。

このまま消えてしまうのではないか、と、
彼女に逢うたびに、僕は恐れていた。
息があさくなって、白い肌がだんだん透明になって、やがて・・・
そんなはずはないのに、ただ無性に怖かった。

今、僕の目の前で眠る彼女はまるで、そう、まるで夢の中の妖精が残した幻影そのものだった。

はかなげで、あまりにも哀しい・・・

十六歳、三月四日

はじめて彼女を見かけたのは、父とともにこの病院の神経科を訪れたときだった。
もう二年ほども前のこと。

僕の父は睦月総合病院の院長で、僕は医大志望の高校生だった。
父は、(半分流されて)医大を志望した僕を、将来有望な僕を、
跡継ぎとしてみなにそれとなく紹介したかったのかもしれない。

あのとき、彼女は確か十六歳。
ベッドの上に起き上がり、小さめのラジカセから流れる音楽を聴いているようだった。
冷たくも暖かい、銀の糸をからめたような、綺麗な曲。
その曲の一節一節を追うように、少女の目がなにもない空中を彷徨う。
僕はそんな彼女を見るともなしに眺めていた。

ちょうど退屈していたから。
父は婦長とともにどこかへ行ってしまっていて、その間、病院内を見てこようと、
あてもなく廊下を歩いた。
そして、ここで、かすかな音色を聴いたのだ。

彼女の部屋の扉は開け放たれていて、それで中の様子がうかがえた。

「何の曲だろう」

つい呟いてしまった僕の声を聞きつけたのか、さきほどからこちらを気にしていた白衣の男が近寄って来て、僕に話しかけてきた。
少女の担当医らしい。
二、三言葉を交わして自己紹介したあと、彼はこう言った。

「ああなる以前にとても好きだったという若い作曲家のものだそうで。
よくわからんのですが、音にはあの音楽にしか反応しないんです。
よっぽどこころに響くのでしょうね。こちらが何を言っているかはわかるようですが」

へぇ、と曖昧にあいづちをうって、僕はふと、ドアのわきのネームプレートに目をとめた。

『・・・水晶』

すいしょう? ほかに読み方があるのだろうか。
そのとき、父が用を終えてやってくるのに気づいた。行かなくてはならない。

振り返ると、担当医が深々と礼をしていた。

同年、五月十日

それから二ヵ月後、僕はふたたび彼女を訪れた。

父からの頼まれものを届けたあと、ふいに不思議な名前の少女が気になって、
僕は彼女のいる病棟へ足を向けた。

二ヵ月前と同じネームプレートのかかった部屋に、しかし彼女はいなかった。
掛け布団は綺麗にたたまれている。枕に使った後はない。
ひょっとして、今日が退院日だったのかと慌てたとき、ちいさなテーブルの上にあった
ノートに気づいた。この部屋は個室だから、彼女のものなのだろう。
ノートを? こころを病んでいる彼女が?
好奇心が頭をもたげたが、そこはこらえて、僕は病室を出た。

「や、桂太さんじゃないですか。どうかしたんですか」

廊下で出くわした担当医の目が、あからさまな好奇と媚びた上目遣いに変じた。
僕はうんざりした。ここでは、僕の顔を知っている関係者は、
みんな同じ表情(かお)をしている。

「いえ、別に」

ぶっきらぼうに答えただけで僕はさっさと帰ろうとしたが、やめて彼女のネームプレートを指した。

「この名前、なんて読むんですか?」

「え、ああ、みきです。水晶と書いて『みき』。綺麗な名前でしょう」

おまえと違ってな。
心の中で吐きすてた。

彼女は、病院の玄関を出たところでみつかった。
睦月病院の前は、大きめの道路に面したちょっとした広場になっている。
広場といってもほとんどが駐車場で、たいてい満車状態だった。
つまり、病院は繁盛していたのだ。

その広場の花壇に、彼女は腰掛けていた。
そばには誰もいない。
背中の半ばまで伸びた髪が風にゆらめいていた。

「日光浴?」

彼女の近くによって声をかけてみた。反応はない。
彼女はじっと遠くをみつめていた。
僕が隣に座っても、動かない。
一瞬、僕は自己の存在というものに疑問を抱きかけた。
それほどまでに、彼女は独りだった。

「僕は・・・桂太。「みき」さんだろう? いい名前だね」

返事はもちろんなし。
故意に無視しているのではないことは、彼女が入院していることでわかっていたが、
なんとなくきまりが悪くなった。
もう帰ろうと腰を浮かせたとき、わずかに、声を聴いた。
笑っていた。いや、これは正しく無い。彼女は、微笑していた。
長い間待ち望んだ恋人をみつけたような、そんな輝きで。

ところが、焦点が僕にあわさると、愕然とした光が瞳に宿り、
あっというまに消え去った。
あとには、はじめと同じ、茫洋とした彼女が残った。

僕は『違った』のだと思った。
すくなくとも、彼女が待っている誰かでは、僕はなかった。
なぜか傷つけられた僕を置いて、彼女は幽霊めいた足取りで病院内に消えていった。

十六歳、六月から、一年間

それからというもの、僕は頻繁にあの病棟を訪れるようになった。
彼女のことが気にかかって、十日に一度は顔を見ずにはいられない。
どんなに話しかけても彼女は僕に気がつかず、ただぼうっとしているだけだった。

十一月に入ると、さすがに父が僕の行動を不審に思い始めたらしく、
探るようなめつきで問いつめられたこともままあった。
そんなときは極力こころを落ち着け、

「将来のために、病院の雰囲気とか、そういうものに慣れておこうとおもって」

と答えた。
何度か不毛な会話をした末に、ようやく父は納得したようだった。
そうだ。彼女のもとへ行くのは医師になるためであって、他のなにものでもない。
父が疑ったように、下心あってのことでは決してない。
そのつもりだった。


やがて僕は、とある理系大学に無事合格し、多忙な新生活に慣れる頃には、
彼女のこともずいぶんわかるようになっていた。

例えば、家族構成は彼女を含めて四人。
そこそこの資産家らしい父親と、いつもダイヤの指輪をきらめかせた母親、
そして少し年の離れた姉ひとり。
一見ごく普通の仲のよさそうな一家のようだが、実はそうでもないらしかった。
彼らが彼女の見舞いに来たのは、僕が知っている限りではたったの二回。
家族がいても彼女はまったく反応せず、すぐに両親たちは肩をすくめて帰っていった。

彼女は、日中の大半を、ベッドの上であの曲を聴いて過ごしている。
ときどき、病院の外の花壇に腰かけていることもあった。
あまりにも静かな生活。

一度だけみかけた食事風景。
プラスチック製の食器に盛られた食事を、看護婦がスプーンにすくって
彼女のくちに運んでいた。
銀色のスプーンが唇に触れると、彼女はちょっと身を引いたが、
しつこくさしだされると、観念したように一口食べた。
彼女のわりと整った顔が哀し気にゆがむのを見たのは、それが最初で最後だった。

あとで看護婦にきいたのだが、彼女は食べたものをそっくり吐いてしまうこともあるそうだ。
それをきいて僕はぞっとした。

彼女は「たべる」ことを恐れているんじゃないか。
いのちを喰らうことを怖がっているんだ。
そういえば、ずいぶん昔に読んだ童話に、そんなことを考えた鳥がいたな。
彼女はその鳥に似ている。
・・・『よだか』

十八歳、一月七日

「あけまして、おめでとう」

いつものことだが、こう挨拶しても彼女は無言で、空気に溶けてゆく音楽を聴いていた。
その日、僕は普段と同じように彼女の部屋を訪れ、同じようにベッドのわきの椅子に座った。
はじめて逢った二年前より、彼女は格段に痩せている。
細い右腕には点滴の太い針が深々と刺さっていて、
僕は痛々しさについ目をそむけた。

彼女が痩せ始めた原因は、その睡眠時間にある。
変化が始まる前は八時間。
ところが一年ほど前からどんどん増え続け、いまでは平均十九時間も眠り続ける。
そのために食事は一日一回だけ。それもほんの少しの量。
たりないぶんは点滴でおぎなっている。

僕は恐怖を感じ始めていた。
もしこのまま眠る時間が長くなり続けたら。
めざめることがなくなってしまったら。

「きょうは、いいものを持ってきたんだ」

僕は紙袋から、小さなレンガの鉢に植えられた観葉植物をとりだした。
家の近くの花屋でみつけたものだ。
鉢植えは、見舞いの品としては縁起のいいものではないとは知っていたが、それでも買った。
黄緑色の丸みをおびた葉をたくさんつけたこの木が、
彼女を眠りから引き離すことができればいいけれど。

ベッドに横たわった彼女に見えるように鉢を持っていってやると、
意外なことに、彼女の瞳に光がともった。
ほっそりした指がふるえながら伸び、一枚の葉にそっとふれた。

「・・・どう? 可愛い木だろ?」

彼女はなにかいいたそうに口を開いたが、僕にはよく聞き取れなかった。
視線と手が植物から離れたのを確認すると、僕は鉢を明るい窓際に置いた。

嬉しかった。
ほんのわずかとはいえ、彼女の興味をひき、彼女に話させることができた。
ここに通いつめた間、そんなことは一度もなかったのだ。
根気よく彼女に逢い続ければ、いつか話ができるようになるかもしれない。

また眠りに落ちた彼女の前で、僕は胸を高鳴らせていた。

永遠の十八歳、二月二十八日

彼女が死んだ。

その日は珍しく朝から起きていたという。
いつものように音楽を聴いていたが、突然病院の外にでて、そのまま道路に飛び出した。
交通量の激しい通りで、彼女は、はねられた。

即死だった。

僕はなにも知らずに病院にきて、そしてどうしようもない後悔に襲われていた。

重く沈んだ暗い部屋に、ろうそくや線香の煙りがゆらいでいて、
純白のシーツにおおわれて横たわる彼女。
寝台のそばには幾人かの医師や看護婦がいて、無言のままたちつくす彼女の家族になにかささやいていた。

清潔な白。
いつかはまとうはずだったのかもしれない、無垢な色・・・
だけど、だけどそれは!
それは彼女が生きていればこそ、
彼女にぬくもりがあってこそだったのに・・・!

叫び出しそうなのを耐えきれなくなって、僕はそっと霊安室を出た。

「あ、桂太さん」

無意識に辿り着いた彼女のいない部屋に、あの担当医がいた。
自分の患者が死んだとあってはさすがに媚びを売る気にもならなかったのか、
僕らはしばらく無言でベッドの前にたっていた。

「このノート・・・」

医師がさしだしたのは、あのノート。
いつか彼女の部屋で見たノートだった。

「担当のわたしにすら見せてくれなかったんですよ。
ここに、彼女を理解するために必要ななにかが書かれていたのかもしれない。
もう・・・必要もないものです」

僕にノートを手渡すと、医師は出ていった。

僕は膝の上に置いたノートを見下ろした。
やっぱり彼女が使っていたのか。
僕に残された、たったひとつの、形見。

薄っぺらいが、かなり使われて痛んだページをめくる。

白、白、白。
すべて白紙。

なにかを書いて消したような跡。
破り捨てた跡。
なにかの染み。

彼女の手にあった証拠はあれど、意味のある言葉はなにひとつなかった。

最後のページにたどりついて、僕はたまらなくなって、目頭をおさえた。

『FAREWELL(サヨナラ)』

僕に、いや、彼女のまわりにいた誰に、彼女が救えたものか!
彼女は帰ったのだ。
僕ではない運命の恋人のところへ!
ああ、だけど、それでも・・・

僕はふと、窓辺で光をいっぱいに受けて輝く葉に目をむけた。

「さよなら。どうか、しあわせに。
君がすきだったよ。
みき」

fin


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