あとひとつだった…
けむり巻き上がる影を視界にとどめて、彼女は小さく息を吐く。血のかわりに、霧がこぼれた。
鎖は、このまま、わたしをつなぐだろう。もう、出られない…
そう、せめて。
震える指先を天へ伸ばす。音もなく溶けてゆく爪。
そのこころにわたしを、繋いで。断ち切る剣でさえ、繋がれた鎖をとり去ることができなかったように。
刻んで。いつまでも膿を出すえぐれた傷のように。
おまえたち、永劫に、この城から出ることはできないのだよ……
水に、溶けてゆくわ
もう、記憶にないくらい遠い遠いむかし。光輝く水に素足をひたして、少女は微笑んだ。
ぎぃ ぎぃ ぎぃ
規則正しい風車の軋み。かわることなく、風をはらみ、どこまでも続く。
水は鏡のように冷たく輝いている。少女の華奢な姿を映してかすかに揺らいだ。
ふいに、風が吹いた。髪を梳いてゆく。
少女は柔らかな芝にあがり、歩き出した。そろそろ戻らなくては。
「来る」から。
継承の間にたどりつき、高みに隠れて、少女はいつものように観察する。
一定の間隔をおいてやってくる「彼ら」はとても興味深く、悲哀に満ちていたから。
いつものように、3人の大人は少年を棺に入れた。暴れるでもなく、少年は静かに俯いている。鈍い音をたてて棺が閉じたあと、大人たちは剣を手にして城をあとにした。
痛いほどの静寂が訪れると、少女はようやく少年が入れられた棺まで降りた。はだしの足は音をたてることもなく、ほこりを舞い上げることもない。突然現れた気配に驚いたのか、少年の後ろ向きの肩が震えたのが、棺に空けられた物見の穴から見えた。
「……! ………?」
少年の声は少女のなかでは意味を持ち得ない。少女を女王と化す為の贄はまだ少なすぎた。
ぎりぎりまで顔をこちらに向けて、少年はなにかを訴えていた。棺に繋がれた両腕が折れてしまいそうなほど。
おびえているのだと思い、少女は穴からそうっと手を入れてみた。一段と冷たい空気。少女の白い指が少年の頬に触れた。
あまりに冷たくて、少女は一瞬手をひっこめた。少年の吐く息がどんどん白くなってゆく。もう始まってしまった。
少女はふと、少年の角に触れてみたくなった。氷より冷たいのだろうか。血潮のように熱いのかもしれない。
かじかむ指を精一杯伸ばして、角をつかんだ少女の指には、かすかに影がまとわりついて消えた。
確かめられなかった。
穴から零れ出した黒い霧に足首を浸して、少女は唇を噛む。
もう少しだったのに。また待たなくてはならない。
足元が冷えてきたのに気づいて、一歩下がったとき、少年の姿は霧の闇にまかれて見えなくなっていた。
--------------------------------------------------------------------------
いつのころからか、城に遊ぶ少女のかたわらに、よりそうようにして影があるときがあった。
少女に触れるでもなく語りかけるでもなく、城に満ちる光と闇のはざまで存在していた。
影はだんだん増えてゆく。幾年かに一度、子供がやってくると増える。ではあのとき消えてしまった少年もこの中にいるのだろうと、少女は今も広大な部屋の隅にうずくまった影を見やった。
どこから来たのだろう。彼らは。問いかけてみても沈黙が帰るばかりだった。少女の声が虚しくこだまするだけ。
影に言葉は通じないのかもしれない。少年が放った声も、少女にはわからなかった。
光溢れるテラスに出る。いつものように風が強い。飛ばされてしまいそうだ。
振り返ると、扉のあたりで影が蠢いていた。実体がないとはいえ、風にふきとばされてしまうのかも。想像すると可笑しい。風の中でくるりと回ってみせると影は消えてしまった。
テラスの外、海をへだてた向こうに広がった森を、少女は見つめた。近いようで遠い。強風に乗っても届きはしない。
どこまでも遠くまで続く樹海。薄くけむる白い霧にかすんで限界は見えなかった。あの森から、「彼ら」はやってくる。角のある子供を捧げるため、鋼の衣をまとって。
「そこ」にはどんな生き物がいるのか。少女の身近にあるのは鳥だけ。小さな虫はいるが、鳥より大きなものはいない。
あの森へ、行くことができないのは知っていた。理由などない。誰かに教えられたわけでもない。識っていたのだ。
少女はいずれどこかへかえる。水が海に注ぐように。自然の理に従って。
せめて。
少女は森へ向かって腕を伸ばしてみた。まとわりつく風に少し揺れてしまう。
せめて。どうか。誰かに見て欲しい。わたしはここに居るの。ここに「居た」の……!
--------------------------------------------------------------------------
からだを精一杯丸めて、両膝を抱きしめて、少女は震えに耐えていた。
鳥篭の金属の床が冷たすぎる。塔に吊り下げられている。古びた鎖は今にも千切れてしまいそうに時々軋んだ。落ちれば、少女の白い体など容易に砕けてしまう。
怖いから、震えているのだと、少女は思いこもうとしていた。
そうでしょう? 遥か下方、鳥篭のちょうど真下に集まっているであろう影たちに、心の中で問いかける。
影たちは物憂げに少女を見上げ、そして俯くのを繰り返していた。待っている。
瞬間、背筋に氷を当てられたように、少女は体中こわばらせた。
来た。
最後の贄が。来る。
贄が影に溶けるとき、継承のときが来る。
甘く、こぼれた吐息は黒い霧が混じっていた。悪寒はひどくなる。
ふと、あえかな光に透かした指先は、かすかな電撃を放つ黒い塊になっていた。
少女は、女王へ。
あとひとつだった。
すべての棺が満たされれば我が子は女王となり、わたしの記憶と呪いは受け継がれ、わたしは消えた。
そしてまた空になった棺に贄が満たされ、女王は代がわりしていく。解放の日は間近に迫っていた。
時の流れが止められたこの城では風化などありえないものなのに。何故、棺は朽ちたのだ?
遠く地鳴りが聞こえた。風と水とかがり火の音だけが支配していた城に。少年の声が、時を動かしてしまった。
足りない贄。少年の手。動き出した時。
娘は全てを糧として呪縛を断つだろう。わたしを貫いた剣のように。
遠い少女の日のように、崩れかけた両手をさしのべた。あの日の風ではなく、崩壊する城の砂塵に、からだが揺れた。
わたしはここに居るの。ここに「居た」の……! 城とともに、ここに沈むの……
だから。ヨルダ。
その真白き心に消えない傷を。女王の城という傷を。解放するときのない檻を。
愛しい子…… 忘れないで……
Sole key to this mystery ……
|