| 一面の闇である 螢でもいるのだろふか? 時折小さな灯りがふわり…ふわりと明滅を繰り返しては 私の周りを飛び交っている さくり…と踏み拉く下草は露を含み私の裾をしっとりと濡らしていたが ソレはまったく不快には感じず何処かゆったりとした酩酊感を私に与えていた そう…例えば水底から月を見上げているやうな 老木の幹に凭れ濃厚な大気を身に纏っているような…そんな酩酊感だ 辺りは一面の闇 生き物と云えば私と飛び交う小さな灯りのみのやうで 此処が何処かは判らぬが酷く嬉しい心持で 口笛なぞ吹きつつ辺りを彷徨っていた 突然、ざぁ…と風が吹き袴の裾をバタバタと翻らせ ぴちゃぴちゃと露を私の顔に巻き上げた ほう…と溜息をつき腰の手ぬぐいで露に濡れた顔を拭っていると 何処からかザワザワと声が聞こへる ナンであろう?とふと肩越しに見返れば 明々と無数の燈明の群れ 灯りの中には大小様々な影が蠢いていた 何者だろふかと目を凝らせていると アチラも私に気付いたやうで手招きをして私を呼んでいる どれどれ…と一歩其方に踏み出したとたん 気がつけば燈明の下に座っていた 眩しき灯りに目も慣れて廻りを見回してみれば 其処には物の怪 鴉のやうな者も居れば赤ら顔の天狗のやうな者も居る 山の様に大きな者も居れば掌に乗りさうな者も居た 如何にも私は酷く驚いて声も出ないやうになってしまった すると物の怪どもは嬉しさうに手を叩いて 私に話しかけて来た 『やぁやぁ是はヒトの客人とは珍しや』 『そちゃ何処より来られた』 …嗚呼そう云えば私は何処から来たのだらうか? 『そりゃ聞かずと判っておろうが』 『そうじゃそうじゃ』 『そうりゃお客人こちゃ来て呑みゃれ』 『今宵は我等が月下の宴じゃ』 月?さて月など全く見えぬが…と天を仰いで見れば 真白な月が煌煌と輝いている 『お客人ナニを不思議さうなお顔をなされておられるのじゃな』 『誰ゾ客人に盃を』 『さてさて一献』 『我等が酒を』 『呑みゃれ呑みゃれ』 物の怪の一人に手を引かれ座の中央に座りなおすと 彼等に勧められるままに私は盃を受け取った 手に受けた盃は 先ほど明滅していた小さな灯りを集めたやうな 透明で艶やかな色をしていた 私の腰ほどの背丈の 狐のやうな物の怪が酌をしてくれる 白い着物に緋縮緬の半襟が酷く艶めかしい まじまじと眺めていたら かの物の怪は恥ずかしさうに目元をぽぅと染めるので まるで処女といるやうで私の方も気恥ずかしく思えた 『さぁさお客人お呑み下され』 『幾らでも有りますれば心行くまでお召し下され』 盃を覗きこめば其処には なんとも芳しく透明でそれでいてとろりとした酒が注がれていた 嗚呼…是は一体如何云った物なのだろうか? 『おやお客人が是を何かとお尋ねじゃ』 『さても是こそ此処に咲きたる花の露』 『桜・竜胆・椿に牡丹、蓮に笹百合・桔梗・おだまき』 『菊花・蝋梅・雪ノ下・朝顔・浜木綿・仏の座、梅に小手鞠・女郎花』 ほう…何だか季節がばらばらなのだなぁ… 『あいや其れこそ花のみにあらず』 『松に柏、杉に竹、桂・菩提樹・楡・紅葉』 『数え唱えりゃ数限りなく』 『露も露とて只の露に有らず。宵の朝露、朝(あした)の夜露』 『葉枝に乗るは細雪・淡雪・霜・霙』 『垂りて落ちたる露集め百年(ももとせ)千年(ちとせ)醸し出す』 『さればほれ、口に香ばし鼻に芳しまことに旨し酒となる』 『我等が眷属宴の酒と相成る訳に御座ります』 物の怪達は入れ替わり立ち代り 謳うやうに囃すやうに この芳しい酒の謂れを 私の耳へと囁き合う その言の葉の 揺れの一つ一つが 先程の酩酊感を一層 強くうっとりと感じさせるやうだ… 嗚呼…私は今だこの酒を口にしてはおらぬのに 是は如何したものだらう 何様な酒は味わった事も聞いた事も無い 外国(とつくに)の酒でも是ほどの物はさうは無いだらう 『そぉりゃお客人眺めて居らずに先ずは呑みゃれ』 『そうじゃそうじゃ』 『我等が月下の宴先ずは祝おうて下され』 彼等に勧めらるるままに酒を一口口に含んだ 嗚呼… 何と云う味わいであろふか 花の蜜のやうに甘くもあり 初夏の木々を渡る風のやうに爽やかでもあり 原生林の苔の中に在るやうなそんな濃厚さでもある 何と形容すればよいのか判らぬが 酷く嬉しいやうな寂しいやうな 私の内に在る感傷を揺さぶるやうな そのやうな心持に私を誘う味わいであった なるほど是なら月下の宴に相応しい… 『おぉ…お客人過分なお褒めを頂けるとは』 『まっこと我等も嬉しい限りじゃ』 『我等の自慢の酒じゃものなぁ』 『さぁさぁもっと呑みゃれ』 『なみなみと注いで差し上げよ』 『さぁさ我等も呑もうぞ心行くまで』 『さうじゃの今宵は月下の宴じゃ』 『呑もうぞ舞おうぞ』 かの物の怪達は一段と嬉しげに私に酒を勧めると 自らも盃を酌み交わし ある者は謳い ある者は舞い ある者は語らい またある者は月を仰ぎ見ていた 艶やかな衣の物の怪がひらり…ひらりと舞う様は 誠に美しく勇壮で儚く 奏でられる音曲は 華やかでいて物悲しい 全てはこの酒の為せる技であろふか? ふと私はこの酒の名を知りたくなった 『おぉ…この酒の名でござりまするか』 『この酒には名なぞ有らぬぞ』 『左様々々』 なんと…この酒には名が無いのか 私は酷く驚いた 『お客人…この酒に名を付けてみなさるか』 にやり…と笑いながら 一人の年老いた物の怪が云った 『この酒に名を付けることが出来るのならお客人の望みのモノをしんぜやう』 望みの…モノ? 『さよう望みのモノじゃ…なんでもしんぜやう』 嗚呼…私が望むモノとはなんであろふ? 金?女?それとも地位か? 嗚呼…酷く胸が痛い… 私はなんとか酒の名前を付けてみやうと 色々と考へてみた しかし考へれば考へるほど 名なぞ浮かばず 先ほどまでの酩酊感も消えてしまいさうになってゆく 嗚呼… 是は… 是はまるで… …まるで≪夢≫のやうだ… そう呟きを洩らした途端 物の怪達が大声で笑い出し始めると ぐにゃり…と風景が歪みだした 私は酷くくらくらとして盃を手から滑らし 嗚呼… 割れてしまふ… 手を伸ばして受けとめやうとした途端 私は目を覚ました 酷く惜しいやうなほっとしたやうな そんな気分がしてしかたがなかった |