七大天使と神々の系譜

追加更新ー失われたイーシェの遺体1.17./18./20.


日本神話の中の神々

双子の神、七大天使と三貴子
これまでずっと気が付かないできましたが、日本神話の中にも仮名としての双子の神と七大天使、九神について触れた箇所があることが判りました。
以下に挙げる仮名は、実際にヤーウェ様やミカエル様、ガブリエル様によって使われたことがあるわけではなく、古代日本の大ユダ(大倭)によるヘブライ一掃によって実際の名が、すべて仮名に書き替えられたものです。
「記紀」記載用の名前として考え出されたものです。
ここで挙げる記載の箇所は「日本書紀」神代上で、それは伊弉諾尊(イザヤ)とその三人の子、天照大神(長女ヘフジバ)、月読尊(長男ヨサブ)、素戔嗚尊(次男スサナウェ)には、ヤーウェ様や七大天使が導き、妨害者としてのダビデも関わったことを仄めかした記述となっているのであります。

《因りて生める神を、号けて八十枉津日神[ダビデ]と曰す。
次にその枉れるを矯さむとして生める神を、号けて神直日神[ヤーウェ]と曰す。
次に大直日神[ミカエル]
又海の底に沈き濯ぐ。因りて生める神を、号けて底津少童命[サリエル]と曰す。
次に底筒男命[ウリエル]
又潮の中に潜き濯ぐ。因りて生める神を、号けて中津少童命[パヌエル]と曰す。
次に中筒男命[ラファエル]
又潮の上に浮き濯ぐ。因りて生める神を、号けて表津少童命[ラグエル]と曰す。
次に表筒男命[ガブリエル]。凡て九の神有す。
其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是即ち住吉大神なり。
底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所祭る神なり。
然して後に、左の眼を洗いたまふ。因りて生める神を、号けて天照大神と曰す。
復右の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月読尊と曰す。
復鼻を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて素戔嗚尊と曰す。凡て三の神ます。
已にして伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、
「天照大神は、以て高天原を治すべし。
月読尊は、以て滄海原の潮の八百重を治すべし。
素戔嗚尊は、以て天下を治すべし」とのたまふ。》(「日本書紀」神代上から)

八十枉津日神(やそまがつひのかみ)とは、サタンとなったダビデのことであります。
そして、その枉(まが)れるを矯(なほ)さむとして生める神、即ちダビデを矯正しようとしてこられた神、これが神直日神(かむなほひのかみ)ヤーウェ様のことであります。
さらに、世界を大きく直す太陽のような神、大直日神(おほなほびのかみ)が20世紀に大王となったミカエル様のことです。
次に、住吉三神と呼ばれる表筒男・中筒男・底筒男には終末時における主要四神中の三神、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの御三方を充てたのであります。
底筒男の「底」は、ロシア民話、七人のセミョーンのうち、六番目のセミョーンに纏わる話から、ヤーウェ神の指示によって充てられたものでしょう。その後、唐の玄奘三蔵が十二薬叉大将に当て字する際、ウリエル様を表す神名に「安底羅」と当て字したのであります。(詳細は『民話・童話と七大天使』参照)
「底筒男命(そこつつのをのみこと)」はウリエル様のことであります。表筒男命(うはつつのをのみこと)がガブリエル様。中筒男命(なかつつのをのみこと)がラファエル様を指すことになります。
表津少童・中津少童・底津少童の三神中、底津少童命の「底」は、サリエル様の名に充てられることになり、「底」を充てて「底津少童命(そこつわたつみのみこと)」とし、サリエル様としたのであります。
そして、後に十二薬叉大将中のサリエル様は玄奘によって「珊底羅」と当て字されることになりました。
天神(ディアウス)地神(プリティヴィ)の関係から、表津少童命(うはつわたつみのみこと)がラグエル様。中津少童命(なかつわたつみのみこと)がパヌエル様を指すことになります。
大ユダのヘブライ一掃により、このように神名はすべて仮名に替えられました。その結果、住吉三神で知られる住吉大社では仮名を祭神として祀ることになったのです。
十二神中に伊弉諾尊が加えられていないのは、列島へ移住して来なかった人であるからに他ならないでしょう。

古事記の十四神
では「古事記」ではどう記しているでしょうか。

《初めて中つ瀬に堕ちかづきて滌きたまふ時、成りし神の名は、八十禍津日神[ダビデ]、次に大禍津日神[ダビデ]
この二神は、その穢らはしき国に到りし時、けがれによりて成りし神なり。
次にその禍を直さむとして成りし神の名は、神直毘神[ヤーウェ]、次に大直毘神[ミカエル]、次に伊豆能売[イーシェ・モシア(イエス・キリスト)]。(併せて三神なり。)
次に水底に滌きたまふ時成りし神の名は、底津綿津見神[サリエル]、次に底筒之男命[ウリエル]
中に滌きたまふ時成りし神の名は、中津綿津見神[パヌエル]、次に中筒之男命[ラファエル]
水の上に滌きたまふ時成りし神の名は、上津綿津見神[ラグエル]、次に上筒之男命[ガブリエル]
この三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神ともちいつく神なり。かれ、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金析命の子孫なり。
その底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
ここに左の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、天照大御神
次に右の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、月読命
次に御鼻を洗ひたまふ時成りし神の名は、建速須佐之男命。》(「古事記」から)

ここではダビデの仮名が二つと、イーシェ・モシアが加わっているので、日本書紀の十二神は十四神となっているのであります。神名の読み方は記紀共同様です。
「記紀」共にダビデの仮名は八十禍津日神・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)です。
そして、この「やそ」とはイーシェ・モシア、イエス・キリストのことです。
つまり、ヤソマガツヒノカミとは、イーシェ像を大きく歪めた神という意味です。(どのようにして歪められたかは『キリスト教・新約聖書における神々』参照のこと)
「古事記」の編纂者の祖先邪馬台国では、ヤーウェ神、聖ミカエル、イーシェ・モシアを主要三神として崇めていたのであります。
ここでイーシェ・モシアを表している「伊豆能売(いづのめ)」とは、どのような意味でしょうか?
「ナムアズ」の母音を変え語順を入れ替えたものです。「彼は避難を告げた」という意味です。
つまり、エルサレムにあってイーシェ・モシアを信じる人達に今人々が居る所は危険であるから避難するよう勧めたという意味です。
その結果、十二弟子を中心とする人々はギリシャへ逃れ、ゼベダイ親族を中心とする人々は、極東の列島へと移住したわけです。その人々の国は邪馬台国として、「魏志倭人伝」に記されることになったのです。(9.16.)

古事記―禊祓い神話の十二神
次の神話は「日本書紀」では六神ですが、「古事記」では身に着けたる物を脱くによりて成りし十二神として、みっちりと記載されています。
この禊祓い十二神は、ヘブライ文を元にして作られた名前で、そこには意味が込められています。
まず原文から。

《かれ、投げ棄つる御杖(みつゑ)に成りし神の名は、衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)。
次に投げ棄つる御帯(みおび)に成りし神の名は、道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)。
次に投げ棄つる御嚢(みふくろ)に成りし神の名は、時量師神(ときはかしのかみ)。
次に投げ棄つる御衣(みけし)に成りし神の名は、和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)。
次に投げ棄つる御褌(みはかま)に成りし神の名は、道俣神(ちまたのかみ)。
次に投げ棄つる御冠(みかがふり)に成りし神の名は、飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)。
次に投げ棄つる左の御手の手纏(たまき)に成りし神の名は、奥疎神(おきざかるのかみ)。
次に奥津那芸佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)。
次に奥津甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ)。
次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りし神の名は、辺疎神(へざかるのかみ)。
次に辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)。
次に辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ)。》(「古事記」から)

ヘブライ文の内容は、エルサレムにおけるイーシェ・モシアの話ですので、聖徳太子を霊媒として出されたヤーウェ神のこの霊示文は、邪馬台国の子孫が編纂する書物(古事記)のために、太子によって割りふられたと考えられます。ですから、同じものが「日本書紀」にはありません。神話中、「タマキ オキザカル」と「タマキ ヘザカル」が「タマキ オキヘザカル」の一つの文とし、「オキツナギサビコ」「オキツカヒベラ」「ヘツナギサビコ」「ヘツカヒベラ」を、「オキツ ナギサビコ ヘツカヒベラ」の一文と解釈し訳出してみました。

〔ヘブライ語修復訳〕
「ミツヱ ツキタツフナト ミオビ」
《(死を)定められた者(イーシェ・モシア)は、私(ヤーウェ)の霊媒から離れて、深い地下牢で叫んだ。》
「ミチノナガチハ」
《いばら(のムチ)によって、彼(ローマ帝国)は悲しみの叫び(イーシェ)を打った。》
「ミフクロ トキハカシ ミケシ」
《彼(ローマ)は取り調べなしに、王位(ユダヤの王)から離れているその王位(イーシェ)を突き刺した。》
「ワヅラヒノウシノ ミハカマ」
《そして、私達のイーシェ、大きく智慧を得た者、彼は私達(のなか)で輝いた。》
「チマタ ミカガフリ アキグヒノウシノ」
《彼(イーシェ)が息絶えたちょうどその時、ミカエルとガブリエルは私達(イーシェを慕う人々)を、私達のイーシェを癒した。》
「タマキ オキヘザカル」
《穏かなミカエル、その彼は確かに心に留めた。》
「オキツナギサビコ ヘツカヒベラ」
《私(ヤーウェ)は、そのヘブライ人としての矢であり虐げる者である王(ビコ)を打ち砕くであろう。》

私の霊媒とは、インマヌエル・イエス様がヤーウェ様の霊示を出す霊媒であったことを言っています。
「ミカガフリ」は、ミカエル、ガブリエル、御二方の名前を簡略化して一つにしたもので、そこに漢字の「御冠」を充ててミカガフリと読ませたのであります。
「ヒベラ」は、ヘブライ人の意味である「ヒブリ」の母音を変えたものです。(9.19.)
「私達のイーシェ」の意味である「宇斯能(ウシノ)」の「宇斯(ウシ)」は、「日本書紀」垂仁天皇の項にある「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」の「于斯(ウシ)」と同じもので、イーシェのことです。(『ゼベダイ親族』の項参照)
この神話には二度使われている「手纏(タマキ)」は、他の歌謡にも度々出て来る「タマキハル」と同様、「穏かなミカエル」の意味に充てた語です。
マキはミカの母音を入れ替えたもの。「タ」は、同様に穏かという意味の「at」の母子音を置き替えたものです。
何故、神名にわざわざ「穏かな」が加えられているのかと申しますと、そうやってダビデの騙るミカエルと本物のミカエル様とを区別したのです。ダビデもミカエルの名を多用したことで、人々が混同し混乱を招くことを避ける必要があり、その為の太子による工夫なのであります。
「穏かなミカエル」は本物を意味しています。(9.21.)
ミカエル様やガブリエル様による癒しですが、20世紀日本の女性霊媒の証言に基づけば、十字架に付けられた辺りから神々の霊はインマヌエル・イエス様の肉体に入っておられたようです。
そして、頭頂部に神の霊による或る種の刺激が与えられ、出来るだけ痛みを和らげられるよう、麻酔効果を生み出す刺激が与えられ続けたということです。
そして、進化レヴェルの高い神の霊の数が、当時の天使、大天使を含めて20体くらいにまで増えていき、エネルギーを肉体に与えることが続けられた。それはイエス様が息を引き取られて遺骸が降ろされ、亜麻布で包まれた以後までも続けられたのです。
と申しますのは、インマヌエル・イエス様の霊魂が肉体からなかなか離れないので、亜麻布に包まれた後も、離れるまで、その癒しのエネルギー放射が行なわれたからです。
その神々の霊によってエネルギーが与えられ続けた結果、トリノの聖骸布に見られるように、イエス様の遺影が亜麻布に焼き付けられることになったのです。
神の霊が死者の身体に入って、内側からエネルギーを起こすのは、霊魂が肉体から離れ易くするためですが、なかなか離れなかったことが、トリノの聖骸布のような副産物を生むに至ったということらしいのです。
このヘブライ文の内容では、ミカエル様方は当時ゴルゴダの丘に集っていたイーシェを慕う悲嘆に暮れた人々の心をも、癒されたのでありましょう。

日本書紀―黄泉の国神話の六神
前出の古事記「禊祓い神話の十二神」に該当する神話は「日本書紀」では「黄泉(よみ)の国神話の六神」であります。まずその部分の抜粋から。

《一説では伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は大樹に向って放尿された。これが大きな川となった。
泉津日狭女(よもつひさめ)がこの川を渡ろうとする間に、伊弉諾尊はもう泉津平坂(よもつひらさか)につかれたともいう。
そこで千引きの磐で、その坂路を塞ぎ、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と向い合って、縁切りの呪言をはっきりといわれた。
そのとき伊弉冉尊がいわれるのに、「愛するわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃるならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ絞め殺そう」と。
伊弉諾尊が答えていわれる。「愛するわが妻が、そのようにいうなら、私は一日に千五百人ずつ生ませよう」と。そしていわれるのに、「これよりはいってはならぬ」としてその杖を投げられた。
これを岐神(ふなとのかみ)(塞えの神)という。
またその帯を投げられた。これを長道磐神(ながちはのかみ)という。
またその衣を投げられた。これを煩神(わずらひのかみ)という。
またそのさるまたを投げられた。これを開囓神(あきくひのかみ)という。
またその履(くつ)を投げられた。これを道敷神(ちしきのかみ)という。
あるいはいわゆる泉津平坂というのはまた別のところではない。ただ死に臨んで息が絶えそうなときをこういうのだと。
ふさがる磐石(いは)というのは、冥界の入り口にふさがっている大神をいうのである。
別名を道返大神(ちかえしのおおみかみ)という。》(「日本書紀」から)

この中で「古事記」の十二神と重複しない語は「泉津日狭女(よもつひさめ)」「泉津平坂(よもつひらさか)」「さるまた」「履(くつ)」「道敷神(ちしきのかみ)」「磐石(いは)」「道返大神(ちかえしのおおみかみ)」ですが、「さるまた」は「サルメト」或いは「サルメツ」がヘブライ音に近い表記になります。
これらを「チカエシ イハ」「サルメト」「クツ チシキ」の三つの文と捉えたのが次の訳出です。

〔ヘブライ語修復訳〕
「チカエシ イハ」
《彼(イーシェ)はしばしば火(神の霊)、ヤハウェを叫んだ。》
「サルメト」
《彼(イーシェの霊魂)は死体から離れた。》
「クツ チシキ」
《彼(イーシェ)は荒野の民(ユダヤ教徒)を削り取り、(ローマ属領下のユダ王国を)沈めた(消した)。》

これは「古事記」のヘブライ文の内容をさらに補っている形ですが、文章を分けて神話を作りながら、ヘブライ文を封じていった結果、古事記の分、日本書紀の分と、二つに分けることになったのだろうと推察します。
この場合の「火」とは、神の霊を意味し、「イハ」とはヤーウェ神を指す神の意味です。
イーシェは神をしばしば叫んだということです。「新約聖書」には十字架に付けられたイエスがアラム語で「エライ(ヘブライ語ではエリ) エライ  レマサバクタニ(我が神、我が神、どうして私を見捨てるのですか?)」と叫んだことが録されていますが、何度かそれが繰り返されたということらしいのです。
死体から離れた彼とは、イーシェの霊魂を意味します。このことは人間の霊魂が永遠の生命であることを表現しています。当時、イーシェを慕う人々は永遠の生命の確証を得たのであります。「イエスの復活」とは、永遠の生命を確証したという意味でしかありません。
荒野の民を削り取ったとは、幾ばくかのユダの民をユダヤ教から離れさせたことをいっています。
イーシェ・モシア処刑後のユダ王国はローマによって滅ぼされましたが、神の側の認識としては、イーシェが神々の力添えを得て、ユダヤ教の国を終わりに導いたということであるらしいのです。
ユダヤ教徒が、ヤーウェ神が押したイーシェ・モシアに対して、国を挙げて全面的に帰依するのが理想でありましたし、ヤーウェ様もそう望んでおられたのです。ところが現実にはそうはならず、ヤーウェ神を信奉している筈のユダヤ教徒が、イーシェ・モシアを処刑へと向わしめたことが神々の怒りを買いました。
その結果、ユダヤ教の国は滅んだのです。(9.25.)

失われたイーシェの遺体
亜麻布に包まれ墓に納められたイーシェの遺体はどうなったのでしょうか?
その件については「古事記歌謡」の中に収められており、これも「新約聖書」には無い古代日本独自の情報であります。次の二首がそれです。

景行天皇の項《そこで大和においでになる后たちや御子たちは、みな下って来られて、御陵を造り、そのまわりの田の中を這い回って、泣き悲しんで歌われた歌は、
「ナヅキノタノ イナガラニ イナガラニ ハヒモトホロフ トコロヅラ」
(記34〔35〕)
お墓の近くの田に生えている稲の茎に、その稲の茎に這いまつわっている野老の蔓のようなわたしたちよ。
(現代語訳)
すると命の魂は、大きな白い千鳥となって、空に飛び立って、海に向かって飛び去った。》
(古事記)
景行天皇の項《このとき、美夜受比売の着ている襲の裾に月の障りのものがついていた。それで、その月の障りを見て命が御歌に、
「ヒサカタノ アメノカグヤマ トカマニ サワタルクビ ヒハボソ タワヤガヒナヲ マカムトハ アレハスレド サネムトハ アレハオモヘド ナガケセル オスヒノスソニ ツキタチニケリ」
(記27〔28〕)
(ひさかたの)天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、かよわく細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、月が出てしまったことよ。(現代語訳)とお歌いになった。》
(古事記)

この歌謡はヤーウェ様による太子を通して出された霊示文です。
これは墓の話であるということを、和文でも御陵として仄めかされています。
ユダヤの国の議員であったアリマタヤのヨセフという人が、ローマのポンテオ・ピラトに遺体の引き取りを申し出て、許可されます。
処刑後、十字架から降ろされたイーシェの遺体は亜麻布で包まれ、墓へ納められますが、内容はその直後(恐らく翌日の安息日)からのものです。

〔ヘブライ語修復訳〕
「ナヅキノタノ」
《彼(アリマタヤのヨセフ)が彼(イーシェの遺体)を(墓に)納めたちょうどその時に彼(ダビデ)は(どこかへ)飛んで行った。》
墓へ納められた後も、神々の霊が遺体の中に入って居られたが、ダビデはどこかへ飛び去って行ったらしい。そして。
「イナガラニ」
《(墓に)現われた者(ローマ兵)は私(ヤーウェ)を(他へ)移した。》
墓に現われた者、恐らく数人のローマ兵だと思われますが、遺体を墓から運び出したのです。
その時に、遺体の中にはまだヤーウェ様が居られていて、ローマ兵は遺体と共にヤーウェ様も一緒に他へ移したのです。
この時既に、イエス様の霊魂が体から離れていたとしても、ミカエル様やガブリエル様方と一緒に居られてお守りされておられたでしょうから、ヤーウェ様は遺体に残っておられたと考えられます。
「トコロヅラ」
《彼(祭司)は、性急に語る者(ローマ兵)に従い、(遺体を他の遺体と一緒に)積み重ねた。》
イーシェの遺体は、遺体置き場へ運ばれたらしく、そこにはユダヤ教の祭司が待っていて、遺体を運んで来たローマ兵の指示に従って、他の遺体と一緒に積み重ねられたのです。
遺体搬送は一目につかない真夜中に行なわれたでありましょうから、誰にも気が付かれることなく搬送は完了したのであります。
「ハヒモトホロフ」
《彼(祭司)は(墓から)消え去った死体を覆った。》
祭司は、遺体を何かで覆って、イーシェの遺体とは気付かれないようにしたのです。
この遺体を盗み出した時が、納められた晩のことであったのなら、翌日の安息日には墓は空であったことになります。
そして、この安息日の翌日の朝、マグダラのマリアや弟子達が墓へやって来て、遺体が無くなっていることに気付くのであります。人々にはその時から遺体が失われたことが広まっていくのです。('05.1.17.)
遺体を盗み出したのが何故、ユダヤ教祭司とローマ兵か、と申しますと、「新約聖書」には次の記述があるからです。

《そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。
しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」。》
(「マタイ伝」26章3〜5)
これは、処刑前の話ですが、処刑後の事として次の記述があります。
《夕方になってから、アリマタヤの金持ちで、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。
この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。
ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。
マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。
あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。
ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。
そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。
ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。
そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。》
(「マタイ伝」27章57〜66)
ここに記述されているように、祭司長達がピラトに番人の申し入れをした時には、墓の中は既に遺体は無く、盗み出された後であったことになります。準備の日の夜に盗み出し、翌日、この番人をつけることの申し入れをしたことになるからです。
イーシェが預言した「三日後の復活」が気になって早々に盗み出したと考えられるのです。
そして、「記27」の歌謡ですが、内容は墓から遺体が無くなったことが発覚した以降のことから始まります。
秘密裏に盗み出すよう指示を出したのは、当時のユダヤ教の最高権威者、大祭司のカヤパであったのです。

「ヒサカタノ」
《彼(カヤパ)は、私(ヤーウェ)の最も小さい者(イーシェ)(の遺体)をずたずたに裂いた。》
つまり、遺体をずたずたにして、復活出来ないようにしようと考えたと思われるのです。
「アメノカグヤマ」
《同族の者(カヤパ)は、彼ら(同族の民)の死体を打ったのだった。》
「トカマニ サワタルクビ」
《彼(カヤパ)は(遺体を)渡した者(の指示)に従って、消えたもの(遺体)を捜す者を置いた。》
これで、カヤパが遺体を盗み出させたことが、人々には判らなくなってしまったのです。
「ヒハボソ」
《彼は臭くなったもの(死体)を(ふっと)吹いた。》
「タワヤガヒナヲ」
《彼は悪臭を放つ移したもの(イーシェの遺体)に、しるしを付けた。》
カヤパは、死体置き場に何度も足を運んで、度々遺体を見ていたのでありましょう。
遺体が腐ってしまうと、誰が誰か、見わけがつかなくなるので、カヤパはイーシェの遺体にしるしを付けて見分けられるようにしたのです。
「サネムトハ マカムトハ」
《即ち、彼(カヤパ)は貴方(イーシェ)の死体を憎み、貴方の死体で彼は腐った。》
これは死体が腐ったという意味ではなく、死体でカヤパが腐ったという意味です。
「アレハスレド」
《貴方(カヤパ)の神(ダビデ)は小躍りした。(小躍りして喜んだ)》
ダビデが、ヤーウェ様から離れイーシェの遺体から、早々に飛び去ったのは、カヤパらに早く遺体を盗み出させることを促がすためであったのかも知れません。
「アレハオモヘド ナガケセル」
《彼(カヤパ)は、(彼らを)救う同族の者(イーシェ)を呪い、長(大祭司)として打ったのだった。》
「オスヒノスソニ」
《彼(イーシェ)は繰り返し、旅立つ者を集めた。》
イーシェによって度重ね集められた人々が、ギリシャへ移住した人々、大倭列島へ移住した人々で、その中に、後の大倭王、饒速日命(にぎはやひのみこと)が居たわけです。(『饒速日命』の項参照)
「ツキタチニケリ」
《彼(カヤパ)は私(ヤーウェ)の代り(イーシェ)を苦しめた。
彼(イーシェ)は裂かれた。》

これらは、ヤーウェ様によるカヤパへの裁きの言葉であります。
そして、遺体が無くなった後日の話。

《(安息日の翌日)女たちが(墓から離れて)行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った。
「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼(イーシェの遺体)を盗んだ』と言え。
万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。そこで彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。
そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。》
(「マタイ伝」28章11〜15)
(1.18.)

彼らは、死体が生き返って起き上がるのではないかと思い込んだらしいのですが、ヤーウェ様の意図された「三日の後によみがえる」とは、永遠の生命を持つ霊魂としてイーシェが三日後によみがえるという意味です。
亡くなったばかりの死者の霊魂に神々が力を与え、その霊魂が人に話しかけたり、自由に動き回ったり出来るよう調整し一人立ち出来るようになるまでには、少なくとも三日は掛かるということなのであります。
そして、この三日後のよみがえり、の預言は実現したのです。
弟子達はみな霊魂となったイーシェからそれぞれ話し掛けられました。弟子達の間では、それまでおぼろげであった永遠の生命に対する認識は、その時以来確信に変わったのです。話しかけられた弟子達には永遠の生命が100パーセント確証されたわけです。これはギリシャでの布教にとっての大きな弾みとなったことでしょう。
イーシェから話しかけられなかった人々は、話しかけられた弟子達の言うことを信じるしかありませんでした。
「新約聖書」には、そこにイエスがいるのに気が付かなかったという表現が何箇所かありますが、これはイーシェが霊魂であったため、弟子達の傍に居ても、最初、弟子達は気が付かなかったのです。
イーシェから話しかけられて、初めてそこにイーシェが居られるということに気が付くのであります。(1.20.)

泉津平坂(よもつひらさか)泉津日狭女(よもつひさめ)
次に「泉津日狭女(よもつひさめ)」と「泉津平坂(よもつひらさか)」ですが、これは「ヨモツ ヒサメ ヒラサカ」を一つの文とした解釈は次のようになります。

〔ヘブライ語修復訳〕
「ヨモツ ヒサメ ヒラサカ」
《彼(?)は、貴方(聖徳太子)を弱め、塞ぐ物を、飲み干すであろう。》

この節は、太子に関する預言の言葉であります。貴方とは、この霊示の霊媒に向けられた言葉です。続きは『古代日本とヘブライ一掃政策』のサイトで。(9.27.)

古事記―御刀によりて生りし山津見八神
ザブダイ親族が列島へ移住して来た際、恐らくは刀によって殺された八人を神格化し、神話化したものとして考えられるのが次の神話です。(『壱与―卑弥呼の後継霊媒』に関連の事柄)

《殺さえし迦具土神の頭に成りし神の名は、正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)。
次に胸に成りし神の名は、淤縢山津見神(
おどやまつみのかみ)。
次に腹に成りし神の名は、奥山津見神(
おくやまつみのかみ)。
次に陰に成りし神の名は、闇山津見神(
くらやまつみのかみ)。
次に左の手に成りし神の名は、志芸山津見神(
しぎやまつみのかみ)。
次に右の手に成りし神の名は、羽山津見神(
やまつみのかみ)。
次に左の足に成りし神の名は、原山津見神(
はらやまつみのかみ)。
次に右の足に成りし神の名は、戸山津見神(
やまつみのかみ)。
正鹿山津見神より戸山津見神まで、併せて八神。
かれ、斬りたまひし刀の名は天之尾羽張(
あめのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ。》(「古事記」から)

八神に共通している語句は「山津見(やまつみ)」ですので、訳は「ヤマツミ」から始まります。
〔ヘブライ語修復訳〕
「ヤマツミ」
《(ザブダイ親族ら、イーシェを信じる人々が国造りの為の)芽を出し始めている期間。》
「オク クラ」
《(その人々に)迫害が降り懸かった。(伊都王からの虐待)》
「シギ ハ」
《彼(ダビデ)は貴方(伊都王)に誤ちを犯した。》
「ハラ ト マサカ オド」
《彼(伊都王)は証拠の鋳像を彫り込んだ。》
「アメノイツヲハバリ」
《私達の同族の者伊都王、即ち、不正をした者。》

伊都王はダビデから啓示を受けた記念として、偶像の鋳物を作ったのであります。
その偶像は恐らくは、戦勝祈願のマトゥラを象った鋳物であったと推察されます。
ダビデはマトゥラとして伊都王に啓示を出したからであります。
そして、移住して来たザブダイらを虐待し、神話からすると刀で八人斬り殺したということでしょうか。これは忘れてはならないこととして、邪馬台国に伝承されていたのであります。
そして、記述の封印とヘブライ一掃によって全てが忘れ去られたのであります。(10.18.)

ユダの民の移住
B.C.660年以前に、伊弉諾尊、即ちイザヤの三人の子供達がユダの民を率いて極東の列島へ渡って来た頃には、エドム一族が列島を統括管理していました。
民達はエドムの酷い扱いを受けながらも、エドムの地にユダの王国を徐々に確立していくのでありますが、その時にヤーウェ様は、霊媒としての「月読尊(つくよみのみこと)イザヤの長男ヨサブ」を通して予言を出されました。その一部が今日まで残されていました。
それは「古事記」と「日本書紀」の一番最初の歌謡として録されたものですが、その歌謡の元はヘブライ文であります。「素戔嗚尊・須佐之男命(すさのをのみこと)の歌」として、古代日本の歌謡として隠蔽された形になっていました。

-素戔嗚尊の歌〔紀1〕〔記1〕-
八雲立つ 出雲八重垣
妻籠め(み)に 八重垣作る その八重垣ゑ(を)


「日本書紀」では「妻籠めに」「その八重垣ゑ」とあるものが、「古事記」では「妻籠みに」「その八重垣を」となっています。これはヘブライ語の子音は同じなので、どちらでも良いのです。子音と訳は次のようになります。

yqwmw tht 'dm yhqqw
tsm'w gm'wny yhqqw twkh r' shnh yhqqw ww
('は無子音)

「彼ら(ユダの民)はエドムの代わりに起ち、(主権を)確立するだろう。
彼ら(エドム)は私(ヤーウェ)を貪り続け、干からびた。
彼ら(ユダの民)は憎むべき災い(エドム)の真中に確立するだろう。
彼らは法を制定するだろう。」


直訳すると「ヤヘカキヱ」は「彼らは留め金を制定するだろう」となりますが、この場合の留め金とは法令のことです。
極東の島へユダの王国再建を目指してやって来た民達が、今後の行く末がまったく判らないという時に、ヤーウェ様からこの予言が出されたのであります。そして、民達はこの予言の言葉を励みとして、再建のために日々絶え間ざる努力を続けたのです。そして、後の子孫達がこの予言を実現させたのであります。

三貴子の証言
イザヤの三人の子は、極東の島へ渡って来たことの証人として、めいめいは文書にその様子をしたためました。ヒゼキア王の居るユダ王国へ向けての証言の為です。
三人の書いた文書は、月読尊、即ちヨサブによってユダ本国へ持ち帰られました。
その文書は今日「旧約聖書イザヤ書」の中に収められています。誰が書いたか判らないようになっていますが、間違いなく三人の証言によるものと認められる章が幾つか収められています。
それは「東の地の果ての海の島々」が仄めかされたといった幾分歯がゆいものではありますが、ヨサブにヤーウェ様が関与されて書かれたものであります。
ヨサブ自身の名は象徴が海、「シャルヤシュブ(はみ出し者は帰る)」として記されています。ヨサブは列島のエドムに馴染めなかったのです。
天照大神はヒゼキア王妃「ヘフジバ」としてその名が記されています。
素戔嗚尊「スサナウェ(牧場の馬の意)」は武勇伝と合わせ、象徴は馬、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と記されています。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
ユダの民達が数を増やしていき一つの郡国としてその力を大きく広げていきます。そして、エドムの支配権をユダが得るのであります。これが後の出雲(エドム)の国譲り神話となります。
さらに列島の主権をエドムから譲られた後のユダの最初の王が「瓊瓊杵尊・邇邇藝命(ににぎのみこと)」であったらしいのです。「ニニギ」は「(神の光に)照らされる者」を意味しています。
これが言わば大ユダ(大倭)の始まりであります。
瓊瓊杵尊は伝承では神武天皇の祖先にあたる人です。
「日本書紀歌謡」の中に「瓊瓊杵尊の歌」があります。日本書紀では、この歌は瓊瓊杵尊が歌った事になっていますが、実際はヤーウェ神が(恐らくは聖徳太子を通して)出された瓊瓊杵尊に関する霊示文を歌謡に整えたものです。

-瓊瓊杵尊の歌〔紀4〕-
沖つ藻は 辺には寄れども
さ寝床も 与はぬかもよ 浜つ千鳥よ


歌謡にする際に語順を置き替えていて、元の文は「ヘニハヨレドモオキツモハ サネトコモ アタハヌカモヨ ハマツチドリヨ」となり、その訳は次のようになります。

ヘブライ語修復訳
《信頼できる者(瓊瓊杵尊)は流血(殺人)、接する者(エドム)の迫害を恐れた。
彼(瓊瓊杵尊)は彼ら(ユダの民)の保証を繰り返(念押し)した。
彼は神を起つべく私(ヤーウェ)の財宝に同意した。
彼は神の一族(ユダの民)が花咲くことに熱心になった。》


エドムとの折衝にあたって、ユダの民が迫害されることを、場合によって流血の事態を考え、瓊瓊杵尊はそれらのことを恐れ、心配したのです。ヤーウェ様に対して、ユダの民の安全を何度も要請したのです。
ヤーウェ様の財宝とは、コーランの中の譬えにある宝のことです。(『イスラム教聖典コーランにおける神々』参照)
「神を起つ」とは、ヤーウェ様からの啓示を民に伝えて、ユダの民を導くことを言っています。瓊瓊杵尊はそのことに同意し、ユダの民が国として栄えていくことに熱心になっていった。
当時は素戔嗚尊が移住後、早々にエドムの女性を娶っていましたから、混血も相当に進んでいたことでしょう。まだ小さな郡国が点在しているような状態だったでしょうから、ヤーウェ様の力添えを得て、比較的容易に主権がエドムからユダに移された。このことにより、瓊瓊杵尊がユダ王国の初代王となるのであります。(4.25.)
そして、瓊瓊杵尊が主権を得るべくエドムの民から信頼されるようになるには相当の努力を要したのであります。この瓊瓊杵尊の歌には続きがあって、その一部を伝えています。

瓊瓊杵尊の歌(続き)

-久米歌〔紀13〕〔記11〕-
みつみつし 来目の子らが 垣下に
粟生には 臭韮一本
其のが本 其根芽繋ぎて 打ちてし止まむ


「みつみつし 来目の子らが 垣下に」と「打ちてし止まむ」は他の歌謡で、その合成なのでこの部分は省きます。「アハフニハ カミラヒトモト ソノガモト ソネメツナギテ」が瓊瓊杵尊に関する部分なのでそこを修復してみることにします。

修復訳
《信頼出来る同胞(瓊瓊杵尊)は人の治療を行なった。
彼(瓊瓊杵尊)は人の死絶えを変えた。
彼ら(ユダの民)の敵(エドム)は(瓊瓊杵尊の)威光にへりくだった。》


つまり、瓊瓊杵尊は当時の医者であったのです。
「人の死に絶えを変えた」は「人の死に絶えを繰り返した」とも訳せますので、治療したものの何度も病人を死なせる、それを繰り返すうちに次第に治癒率を上げていったということであろうかと考えられます。つまり、治療によって死ななくてもよい人を死なせずに済むようになった、というような意味でありましょう。
人々の治療にあたることで、エドムの人々の心を動かしたのでしょう。ここには既に、大倭における巴利国(医療府)の萌芽が見られるわけです。(『魏志倭人伝にみる大ユダの官職』参照)(4.26.)
その後、暫くして元北イスラエル十部族が大挙移住してきます。

元北イスラエル十部族の歌
元北イスラエルの移住に関する内容の歌謡は「古事記」では「火遠理命(ほおりのみこと)の歌」として、「日本書紀」では「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の歌」として記載されています。
火遠理命や彦火火出見尊が歌ったというのはあくまで神話の内での話です。
実際はヤーウェ様の出されたヘブライ文の霊示を歌謡に工夫し直し、神話の歌として織り込んだものです。

-火遠理命の歌〔記8〕、彦火火出見尊の歌〔紀5〕-
沖つ鳥 鴨どく島に わが率寝し
妹は忘れじ 世の尽に


「日本書紀」では「鴨着(づ)く島に」「妹は忘らじ」となっていますが、子音が同じなので訳文は同じになります。
「古事記」の「世の尽に」とある部分「紀」では「世の尽も」とあるので、「に」と「も」では訳文も変り、「に」であると「私達の酒ぶね」、「も」ですと「彼らの酒ぶね」となります。

修復訳
《苦難の迫害。彼ら(元北イスラエルの民)は私達(神々)に聞き従い、旅立って(その場所〔ユーフラテス河流域?〕)から消えた。即ち、異邦人は移動したのだ。
貴方の民、即ち、(元北)イスラエルは(島の民から)しばしば震え慄かれた。彼らは暴力を振るい私達(彼ら)の酒ぶねを打ち砕いた。》


元北イスラエルの民が移住して来たことを述べたものです。(『世の終わりの時期における人の子』の「第4エズラ書」の項、『ゼベダイ親族移住後の大ユダ』の「エレミヤの北イスラエル移住の預言」の項参照)
もう一首。

-東征の歌〔紀14〕〔記12〕-
みつみつし 来目の子らが
垣下に 植ゑし 椒(はじかみ)
口疼(びひ)く 我は忘れず 撃ちてし止まむ


修復訳
《彼ら(北イスラエル)が根絶させられたというのは偽りである。
立った彼らは平和裡に離れ去った。(十戒を)唱える者(バビロニア捕囚下のユダヤ教徒)に立ち向かう者として。彼ら(北イスラエル)は敵を予見するのに急いだ。
彼らは湿疹を削ぎ落とした。即ち、震え慄かれた(北)イスラエルの癒し。
彼らは欠陥である救いを相談し(合っ)た。》


日本語の動詞「忘れる」は、「そして、イスラエル」から生れたと考えられます。
「イ」音を「ア」音に変え、接続詞の「w」を充てて「ワ」そして「ワス」。「ラエ」を「レ」一文字で収め、「レル」。「ワスレル」に漢字を充てて「忘れる」。「ビヒク」は「ボハク」の母音を替えたもので「発疹、湿疹」の意味です。
欠陥の救いが何を意味しているのか具体的には判りませんが、計画自体にどこか欠陥があったという意味ではないでしょうか。
北イスラエルの極東の島への移住は紀元前380年頃と推定されますが、その話が神武天皇東征の歌とされているのは、神武天皇の即位年後251年を前660年まで引き上げた事により、東征の歌として加えられることになったのだと思われます。(4.27.)
ここまでが紀元前の話です。

ザブダイの卑弥呼
紀元後、「角がある人」即ちザブダイ親族が移住して来ます。ザブダイ親族は近畿地方に邪馬台国として郡国を形成します。この後暫く、大王が不在になります。(『ゼベダイ親族移住後の大ユダ』参照)
「(178〜183年)倭国が乱れ、歴年相攻伐する(『梁書』倭伝・『北史』倭国伝)」の状況の中、ザブダイの子孫の卑弥呼を霊媒としてヤーウェ様が啓示を出されるのです。
「古事記」には112歌、「日本書紀」には128歌の歌謡が収録されておりますが、古事記歌謡の中には、日本書紀歌謡には無い長歌と呼ばれる歌謡が四篇あります。2番から5番までの長歌です。これは卑弥呼の後継霊媒壱与が出した霊示のヘブライ文を歌謡にしたものです。(内容については『壱与ー卑弥呼の後継霊媒』参照)
邪馬台国の流れを汲む「古事記」編纂者の太安万侶は、それまで保管されていた先祖の壱与が残した霊示文を「古事記歌謡」の一部として残したわけです。(4.22.)

神功皇后
表筒男・中筒男・底筒男の三神でよく知られた人が神功皇后(推定320〜369年)です。
「紀」には神の霊から語りかけられた人であることが記されており、審神者(さには=神の霊によるものかどうかを判断する人)を立てて慎重に対処した人です。この時代にはまだ審神者が充分な判断力を持っていたので誤ることがなかったのであります。
自ら神主となったとありますが、これは神功皇后に神の霊が宿り、神からの啓示を出し、自らが霊媒となったことを意味しているのであります。
最初に表筒男神、即ちガブリエル様が啓示を与えたのであります。淡郡(あはのこほり)のアハは「飛ぶ、飛び去る」の意味で、飛天、即ち天使を指し、コホリは「ガブリ」の濁点を取って母音を替えた形、つまりガブリエル様を表わしています。やり取りの部分は、最初の原型をとどめてはおりませんが、啓示に従って行動が起されたことが窺がわれるのであります。
夫君である仲哀天皇(推定298〜350年)は、妻である神功皇后を通して出る神の啓示や霊示を信じませんでした。ここが神功皇后の不幸であったところですが、神の霊は根気よく神功皇后を通して霊示を出して、仲哀天皇を説得しようとしたのであります。
ガブリエル様のみならず、ミカエル様も霊示を出して、神功皇后の重要性を強調されたのであります。
その辺りの状況を見ていくことにしましょう。(神功皇后と仲哀天皇の生没年については『上古天皇の加増在位年について』を参照)(4.19.)

14代仲哀天皇
「足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」の諡名を持つ仲哀天皇は、推定A.D.298年の生れとしますと、342年が即位元年、44歳(当時は大王)で即位されたことになります。
その当時、朝鮮半島は三韓と高句麗、中国は東晋の時代でした。
仲哀天皇2年の343年に「氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」を后に立てます。神功皇后23歳の時です。
そして、「日本書紀」ではこの2年の条の記録から間を開けて8年の条へと飛んでおり、3年から7年、344年から348年の期間の記録が空白になっています。
ところが、その埋め合わせをするかのように隣の国の「新羅本紀」には、その間、倭について記録している部分があるので挙げてみることにしましょう。

344年 訖解王35年(仲哀3年)倭国は、使者を遣わして、婚姻の要請をした。
辞退するのに、女子が、すでに嫁に行ってしまったことを理由とした。

345年 訖解王36年(仲哀4年)倭王が、書を送ってきて国交を絶った。
346年 訖解王37年(仲哀5年)倭兵が、突然風島にやって来て、辺境の民家を略奪した。さらに進撃して金城を包囲し、激しく攻めてきた。(実聖)王は、兵を出して交戦しようとした。
伊伐サンの康世は、「賊は、遠方からやって来ました。その鋭い勢いには対抗できません。その勢いを緩らげる方が良いでしょう。その軍隊が疲れるのを待つべきです」と言った。
王は、これをその通りだと認め、城門を閉めて兵を出さなかった。
賊は、食糧が尽きたので退却しようとした。康世に命じて強力な騎兵を率い追撃させて、これを敗走させた。
(「新羅本紀」『三国史記倭人伝』から)

そして、349年、仲哀天皇8年の年の9月に神の霊が后に入り、神功皇后を通して語られるのであります。皇后29歳の時です。その時のことを記しているのが仲哀8年の条です。(4.22.)

348年(仲哀8年)《秋九月五日、群臣に詔して熊襲を討つことを相談させられた。
ときに神があって皇后に託し神託を垂れ、「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂えられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝って宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅国という。もしよく自分(神)を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。−略―」と述べられた。
天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。
そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見えなかった。
天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒らに私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」といわれた。
神はまた皇后に託して「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下している国を、どうして国がないといって、わが言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめて孕っておられる。その御子が国を得られるだろう」といわれた。
天皇はなおも信じられなくて、熊襲を討たれたが、勝てないで帰った。》
(『日本書紀』仲哀の項から)

「日本書紀」には、一に曰はく、として次の記述がありますが、この伝承通りならば、翌年の二月五日の事であったことになります。

[350年(仲哀9年)?] 
《ある説によると、仲哀天皇が筑紫の香椎宮においでになった時、神が沙麼県主(佐波)の先祖、内避高国避高松屋種(うつひこくにひこまつやたね)に神がかりして、天皇に教えて、「天皇がもし宝の国を得たく思われるのなら、実際に授けてもよい」といわれた。
またいわれるのに、「琴をもってきて皇后に差し上げよ」といわれた。神の言葉に従って、皇后が琴をひかれた。
すると神は皇后に神がかりして、教えて、「いま天皇の願われる国は、ちょうど鹿の角のようで、中味のない国である。いま天皇がお乗りになる船と穴戸直践立(あなとのあたいほむたち)が奉った水田――名は大田をお供えとして、私(神)をよく祀れば、美女の眉のようで、金銀の多い、眼の輝く国を天皇に授けよう」といわれた。
天皇は神に答えて、「神とはいっても欺かれては困ります。どこに国がありましょう。またわが乗る船を神に奉って、私はどこの船に乗れましょうか。しかもまだどの神ということも分かりません。どうかその名を知らせて下さい」といわれた。
神は名をつげて「表筒雄・仲筒雄・底筒雄[ガブリエル、ラファエル、ウリエル]」と三神の名をいって、またいわれた。「わが名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつおもおそほふいつのみたまはやさのぼりのみこと)である」と。
天皇は皇后に語って、「聞きにくいことをいわれる婦人だ。どうして速狭騰というのだ」と。
神は天皇に語って、「天皇がこれを信じないならば、その国を得られないだろう。ただしいま皇后のはらんでおられる皇子はきっとそれを得られるだろう」と。この夜、天皇は急病によって亡くなられた。》


350年(仲哀9年の条)
《九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。時に年五十二。
すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことがうかがわれる。》


神がかりした沙麼県主(さばのあがたぬし)の霊媒の名、松屋種は「神を見出し、それを唱えた者」の意味になります。神功皇后のほかに神々によって用意された補助霊媒であろうと思われます。
神功皇后一人のみでは天皇の説得は難しいとお考えになられたのかも知れません。
そして、この「向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつおもおそほふいつのみたまはやさのぼりのみこと)」という非常に長い神の名前についてですが、この長い名前の中で固有名詞は「向(むか)」のみです。
ミカエルのミカをムカと替えて「向」の漢字を充てただけのものです。残りは尊称の「尊」と、ミカエル様が神功皇后を通して出された霊示の主な内容を伝えているのです。
「ひつおもおそほふいつのみたまはやさのぼり」がヘブライ語による霊示文の母音を変えたものです。その意味。

《彼(仲哀天皇)は民を逆らわせた。
純潔な妻(神功皇后)は急ぐべく認識させる者であり、琴はその救いである。》


これは神功皇后を霊媒として、ミカエル様が仲哀天皇へ向けた認識を促がす為の言葉です。
神々は天皇がお考えを改めるよう、度々神功皇后を通して説得しておられたわけです。
神の仲哀天皇に対する要請はだんだんと厳しいものになっているのが分かります。仲哀天皇が何故、船をと、言い出すまでになっています。
そして何故、速狭騰(はやさのぼり)などと言うのか、分からない女性だと、神功皇后をなじっているわけです。
ハヤサノボリは、ミカエル様が霊示として言われた言葉であって神功皇后が言ったのではないわけです。仲哀天皇はそこを混同したのです。
ノボリは「ネベル」の母音を替えたもので「琴」という意味です。「ハ」は定冠詞で「ヤサ」は「救い」の意味です。
「琴はその救いである」といった意味が仲哀天皇には咄嗟には理解出来ずに、どうして琴が救いなのだとなったわけです。
ミカエル様の言われた琴とは、純粋に琴のことではなく、琴を弾く神功皇后を指して言われたのです。つまり、神功皇后がその救いだと言われたわけです。
ミカエル様はそうして仲哀天皇を試みられたわけですが、神々の側も急いでおられたのと、この神を受け入れようとしない天皇に業を煮やしておられたのでしょう。もともと中味の無い国を願う、神々はその足りないところを補おうとされたからであります。
「日本書紀」には「神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことがうかがわれる。」とあります。
そもそも神の側には判り切ったこと、そんな国がどこにあるのかと知らを切ること自体が良くないのであります。
仲哀天皇のその神に対する無礼な姿勢と合わせ、神がこの国を導くという大きな流れが出来ている時にその事に逆らうということは、巨大な流れに逆らうということでもあり、エネルギーを消耗します。ですから、案外、この「日本書紀」の記す通りのことなのかも知れません。(5.4.)
神とは、必要な時に必要なことを必要なだけ行なわれるのであって、不必要なことは一切されません。
それは必要であると神の霊の側が判断され、それを実行に移されようとする時に、人間がそれに逆らうことは、その人にそれなりの大きな抵抗が加わることになります。
「日本書紀」の神功皇后の項には6首、「古事記」には3首の歌謡が収められていますが、神功皇后、仲哀天皇に関わる歌謡は「記紀」共に2首のみです。さかくらの歌(〔記〕酒楽歌〔紀〕酒宴歌)がそれです。

-酒楽歌〔記39〕〔紀32〕-
この御酒(みき)は 我が御酒ならず
酒の司 常世にいます
石立たす 少な御神の
神寿き 寿き狂ほし
豊寿き 寿き廻し
献り来し 御酒ぞ(そ) 
あさず飲せ ささ


「古事記」と「日本書紀」とでは「神寿き 寿き狂ほし」と「豊寿き 寿き廻し」が逆になっているのですが、ヘブライ訳の語の順序としては「古事記」の方が妥当と考え、そちらを基にしました。
「御酒ぞ」は「日本書紀」では「御酒そ」となっていますが、やはり「古事記」が妥当と考えられます。
この「記39」の歌謡で、仲哀天皇について述べていると考えられるのが「イハダタス スクナミカミノ カムホキ ホキクルホシ トヨホキ ホキモトホシ」の部分ですので、そこの修復訳は次のとおりです。
尚、歌謡はミカエル様に関する話しから始まりますが、歌謡中の「ミカ」「ミキ」「ミケ」はいずれも、「ミカエル」の尊名の「ミカ」のみを取って母音を替えたものです。

酒楽歌修復訳
《彼(仲哀天皇)は貴方のミカエルを得た(その守護や助力を得られる確実な機会を得た)。
即ち、威光、私達のミカエル、(サタンを)消滅させる方であり、私達の王位、(終末時における)私の起つ方を。
彼(ミカエル)は征服する者を叩き、しばしば荷を負った。
彼(仲哀天皇)は一度、激しく襲った。(『新羅本紀』346年の条に該当?)
彼(仲哀天皇)は私達(神々)を隠した。[神功皇后を通して出た神からの啓示を隠し、公表しなかった。]
ミカエルは(それを)断わった(拒んだ)。
彼(仲哀天皇)は私(ヤーウェ)の定めた者(王として)を立った。
私の定められた者(仲哀天皇)は(神々と)出会って、黙った。
彼は私の定めに(どうしたらよいか)迷った。
彼は(心が)揺らいで(移り気になり)何もしなかった。》


神々は最初、神功皇后を通して霊示を出し、それを民に公表して神々の啓示に従うようにして欲しい旨を仲哀天皇に要請したわけです。ところが仲哀天皇が神からの語りを隠し通した為に、神功皇后との二人だけの秘密になってしまったのです。当然、ミカエル様がそれを拒否された。
仲哀天皇が黙っているとなれば、神功皇后の方で誰かに話されます。話しは周辺に広まります。仲哀天皇としては周辺の群臣達に対して、神功皇后の言う事を聞くなと釘を差すことになります。臣達は王の指示に従わざるを得なくなります。
これが前出のミカエル様の長い仮名の中の霊示文にあるヤーウェ様の証言「彼(仲哀天皇)は民を逆らわせた」となったのであります。
神々や、ヤーウェ様としては大王、即ち仲哀天皇の口から直々に公言して欲しかったのでありますが、結局は黙り通したのであります。何故、そうした行動に出ることになったのでしょうか?
それとも、神功皇后に対して、かつてのマホメットがそう思われたように、気が狂ったとでも考えられたでしょうか。現代風に言うなら精神分裂病ですが、しかし、神の霊示を出す霊媒と精神分裂病の患者とは外見上似てはいますが、明確に区別しなければいけません。
科学が発達すればする程、その区別はしっかり付けることが重要です。神の霊という存在が肉眼には見えないだけに、こういうことの判断は重要なのです。目に見る事が出来るのなら、その判断は子供にでも出来ることです。(5.5.)
仲哀天皇が黙り通すことになった要因の一つとして考えられるのがもう一つの歌謡の内容です。
この時期に関する歌は他に一首、建内宿禰(たけうちのすくね)の答歌(かえしうた)がありますが、前出の酒楽歌と同じ時期のもので、二つの歌は一つのヘブライ文を二つに分けたものです。

-建内宿禰答歌〔記40〕武内宿禰答歌〔紀33〕-
この御酒を 醸みけむ人は
その鼓 臼に立てて
歌ひつつ 醸みけれかも
舞いつつ 醸みけれかも
この御酒の 御酒の
あやに うた楽し ささ


前出の酒楽歌の未訳出部分と合わせて、重複する語を除いて修復したのが次の訳です。
「マツリコシ ミキゾアサズヲセ コノミキヲ カミケムヒトハ ウスニタテテ ソノツヅミ ウタヒツツ マヒツツ カミケレカモ アヤニウタダノシ ササ」の語順に従ったものです。
「タテ」は「ダビデ」の濁点を取って縮めた形。
「マツリ」は「我がマトゥラ」の意味で、『魏志倭人伝に見る大ユダの官職』の項で説明した軍事府実動部の別称です。
「ササ」は恐らく「サッサー」を充てたもので、追い払いの掛け声。意味を知る書紀者によって書き加えられたものと思われます。

建内宿禰答歌修復訳
《マトゥラ(軍事組織)は集った。
荒々しいミカエルは勢いで踏みつける、即ち、荒れ果てた者である。
彼(仲哀天皇)は(もう一人の)ミカエルを得た。即ち、ミカエルとして貴方を怯えさせる者、私達を踏みつける者、混乱のダビデである。
(ダビデが懸かると)彼女(神功皇后)は変り(人が変わったようになり)、彼(仲哀天皇)は嫌がらせられた。
彼(ダビデ)は隊を組む者を欺いた。
隊を組ませる者(ダビデ)はミカエルとして立った(ミカエルを名乗った)。
私(ヤーウェ)ではない彼(ダビデ)は裁き主(ミカエル)を歪めた。》


このダビデの嫌がらせは、仲哀天皇を黙り込ませることになった一つの原因と思われます。
「私ではない彼」とは、ユダヤ教、キリスト教では今現在も、ダビデがヤーウェ神として信じ込まれていて、混同されています。ですから、ここでは違いをはっきり主張しておられるわけです。
そして、ダビデはしばしばミカエル様の代理を務め、時にミカエル様の名前を用い成り代ってしまったことも。そのことで裁き主のイメージを大きく歪めてしまいました。
神功皇后の時勢にも、それがどうもあったらしいのです。

「古事記」によれば、崩去直前の仲哀天皇が「やはりその御琴をお弾きなさいませ」と建内宿禰大臣に勧められて、しぶしぶ琴を弾き始めるのですが、神功皇后に対して「どうして速狭騰なのだ」と、琴について文句をつけたものの大臣の勧めには逆らえなかったということでしょう。
琴の音が聞こえなくなったので見てみると既に亡くなっていたという話になっています。
「日本書紀」に戻りますと、天皇崩去後、神功皇后は審神者を置いて、神の名前についてお伺いを立てるのであります。

《幣帛(織物)を数多く積んで、琴の頭部と尾部におき、請うていわれるのに、「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょう。どうかその御名を知りたいのですが」と申された。
七日七夜に至って、「伊勢の国の度会の県の、五十鈴の宮においでになる、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」と答えられた。》
(「氣長足姫尊」の項)

と、ここでも長い神の名が告げられているのですが、ここでもやはり「むか」のみが固有名詞で、残りは霊示文です。
「つ」は「荒野の民」の意味の「ツィ」に充てたので、「ムカツ」は「荒野の民のムカ(ミカエル)」の意味となり、前掲の「ダビデ」のことであります。
「ツキサカキイツノミタマアマサカル」が霊示文で意味は次の通りです。

《彼(ダビデ)は武装を叫び、私達の事を計った。民の身を汚させる愚かなことをした。》

聖徳太子を通して出されたこれらの霊示文には、神の側から見た当時あったことの全体から述べられているのであります。ここには神功皇后の新羅征伐からそれ以後のことをも含んでいます。(5.7.)
「日本書紀」氣長足姫尊の項の続きです。

《またお尋ねして「この神の他にまだ神がおいでになりますか」といわれると、「形に現れた吾は、尾田の吾田節の淡郡(あはのこほり)にいる神である」と。「まだおられますか」というと、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)がある」と。》(紀)

この神名の固有名詞は「こほり」であります。ガブリエルのガブリのみを取って、母音を替えゴボリ、濁点を取って「コホリ」であります。霊示文は当時ガブリエル様が何をされたかを告げています。
長い神名の中では、「彦(ひこ、びこ)」のみが日本語としての一般名詞で、残りはヘブライ語の霊示文を組み合わせたものです。何故、組み合わせたと言えるのかと申しますと、語が文法の順序に従っていないためですが、何が述べられているか知ることは出来ます。語の順序を文法に従わせれば良いわけですから。
神名では「コトシロ」が三回出てきますが、「彼は悪を突き砕いた」という意味です。文を「コトシロアメニ」と順序を替えると「彼は私達の民の悪を突き砕いた」となります。
「カム(qm)」は「起つ者、立つ者」の意味で、「カミ(qmy)」は「私の起つ者」という意味です。この語が、「神(シン)」が日本語の「かみ」と呼ばれるようになった最初の由来でありましょう。
まとめると次のようになるでしょう。

《ガブリエル、彼は、私達の民、私達の君主、私達の事を計る者(臣、官他)の悪を突き砕いた。
潔白な厳しい彼(ガブリエル)は、彦に(長とはどうあるべきかを)教え示した。
(終末時に)私(ヤーウェ)の起つ方。》


「悪を突き砕いた」という意味は、当時、神功皇后を霊媒として公衆を前に霊示を出した時に、人々の間違っている思い、行為、誤って抱いている認識、我見に基づく誤った考えを鋭く指摘し、批判し、それらを砕いたということです。
耳の痛い言葉であっても、受け入れる人には二度と同じ誤った考えを抱かないようにされたのであります。(5.9.)

足(タラシ)と酒宴歌
氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)即ち、神功皇后の項に何故、「御酒」に「ミカエル」の神名が充てられ、「酒宴歌」とした内容が残されたのでしょうか。
それは、神功皇后も仲哀天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)も、大王と后になる前に食糧府、それも酒造部の官にあったからに他ならないでしょう。「タラシ」は食糧府の中でも、酒造部の官の名前なのであります。
「魏志倭人伝」での食糧府は「斯馬府(国)」でありました。「タラシ」は葡萄液の「ティロシュ」の母音を替えたものです。昔は葡萄酒をつくる際、岩に掘り込んだ酒ぶねに葡萄を入れてそれを素足で踏んで葡萄をつぶし、その液から酒をつくったのであります。この事から「日本書紀」の編纂者は「タラシ」に「足」を充てたのであります。「古事記」の太安万侶が「帯」を充てたのに対して。
米酒がつくられるようになってからは、この伝統は薄れていき、誰も酒とタラシを結び付けなくなっていったのでしょう。
食糧府での「アヒラ」が主に食膳部であったのに対して、「タラシ」が酒造部。そして、この酒造部から、かつて優秀な人材が現れた。察するに聖徳太子もかつては酒造部に官があった人と思われます。
従って、酒宴歌は酒造部を称えた歌とも言えるのではないでしょうか。(5.10.)

神功皇后の新羅征伐
「新羅本紀」によれば、307年に国号を「新羅」に戻した、とあります。加増年を差し引いて調整された、神功皇后の摂政年は351年から369年ですから、仲哀天皇の頃には新羅は既に国号を「新羅」と名乗っていたことになります。
「日本書紀」によりますと、神功皇后が最初の新羅征伐に向ったのが、仲哀天皇崩去の年、即ち西暦350年のことでした。臨月間近かの神功皇后は後のジャンヌダルクのように男装して新羅へ向ったと伝えられています。
ここで誰しもが疑問に思うのは、妊婦が果して戦争に参加出来るのかという点でしょう。臨月の皇后は石をとって腰にはさみ、「事が終って還る日にここで生れて欲しい」と祈ったとされています。
ここで述べたことは実際にあった話でありましょう。見方を替えるとこの戦争は妊婦でも参加できる戦争であったということです。
新羅への出征は10月3日で、後の応神天皇が皇后から生れたのが12月14日とされていますが、これは加増年調整の関係上、故意に引き伸ばした時期であろうと考えられます。前年の9月にすでに身篭っていたのなら、胎児が1年以上も妊婦の胎の中にいたとは考え難いからです。
9月の時点で妊娠3ヶ月なら、臨月は翌年の3月か4月、1ヶ月なら5月か6月頃、ですから出征は春か夏と考えるのが妥当でしょう。
神功皇后最初の新羅征伐の模様を「日本書紀」から拾ってみることにしましょう。

《[350年]冬十[4]月三日、鰐浦から出発された。
そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚はすべて浮かんで船を助けた。風は順風が吹き、帆船は波に送られた。舵や楫(かい)を使わないで新羅についた。
そのとき船をのせた波が国の中にまで及んだ。これは天神地祇がお助けになっているらしい。
新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。多くの人を集めていうのに、「新羅の建国以来、かつて海水が国の中にまで上ってきたことは聞かない。天運が尽きて、国が海となるのかも知れない」と。
その言葉も終らない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。
新羅の王は遥かに眺めて、思いの外の強兵がわが国を滅ぼそうとしていると恐れ迷った。
やっと気がついていうのに、「東に神の国があり、日本というそうだ。聖王があり天皇という。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことはできない」と。
白旗をあげて降伏し、白い綬(くみ)を首にかけて自ら捕われた。地図や戸籍は封印して差し出した。》
(紀)

新羅征伐は、大自然の悉くすべてが神功皇后に味方したかの如く、順風満帆の船出、何から何まで勝利の条件が整っていた状況下で行なわれたのです。この記述はそれを表現しているのであります。
そして、それが妊婦の戦争参加を可能にさせたのです。神功皇后はすべてそれを知り抜いていたかのように参加したのであります。
この頃にはまだ日本という国号も、天皇という称号も存在しませんでしたから、これは「紀」編纂時に加えられたものであります。
この年、「新羅本紀」にはどのような記述があるでしょうか。

《350年、訖解王四十一年春三月、鸛(こうのとり)が月城の隅に巣を作った。
夏四月、大雨が十日余も降りつづき、平地でも水が三、四尺になり、役所や民間の家屋が流されたり浸水したりし、山崩れが十三ヵ所もあった。》
(『新羅本紀』から)

海水がどうであったかはともかく、神功皇后の率いる倭軍は、この自然災害の時期にうまく乗ったのでありましょう。そして、神々の助けを得て奇跡的な制圧を遂げたのであります。
筆者が最初の出兵が10月ではなく、4月であると見るのはこの理由によります。(5.16.)

新羅王―訖解尼師今(きつかいにしきん)
この時の新羅王は、新羅第16代王、訖解尼師今(尼師今は王の意)であります。
この人は神功皇后を神の人と崇め、朝貢を続け、後の倭人にも慕われた王でした。
奈解王の孫で、例の殺された于老角干(うろうかくかん)の息子(孫?)です。
「新羅本紀」によれば、訖解王の容貌は他と異なってすぐれており、その心ばえは明敏で、仕事も普通のやりかたではなかった。前王基臨尼師今に嗣子がなかったので、群臣が議論をかさねたうえで、訖解には幼少のうちから老成の徳があるので彼を王に擁立しようということになったらしいのです。
つまり、神功皇后の新羅征伐は、相手方の王にも恵まれたという好条件も作用したということです。
新羅王について「古事記」や「日本書紀」ではどう記しているでしょうか。

《そこで皇后は、すべて神が教えおさとしになったとおりにして、軍勢を整え船を並べて海を渡って行かれたとき、海原の魚はその大小を問わずことごとく御船を背負って渡った。
そのとき追い風が盛んに吹いて、御船は波に従って進んでいった。そしてその御船の立てる波は、新羅の国に押し上がって、すでに国の半分にまで達した。
そこで新羅の国王が畏れをなして申すには、「今後は天皇の御命令のとおりに従い、御馬飼(みまかい)となって、毎年船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹や楫を乾かすことなく、天地のつづく限り怠ることなく、貢ぎ物を献ってお仕え申しましょう」と申し上げた。》(記)


神功皇后は神の霊の指示に従って、軍勢を整えて船を並べたその並べ方、実数以上の大軍に見せかけたことが大きな効を奏した一つのポイントだったのでしょう。そして追い風と。
新羅は後になって、見かけほどの大軍ではなかったことに気が付くのであります。

《皇后は男装をして新羅を討たれた。神はこれを導かれた。船をのせた波は、遠く新羅国の中まで押しよせた。新羅王宇留助富利智干(うるそほりちか)は、お出迎えして頭を地につけ、「手前は今後、日本国においでになる神の御子に、内官家(うちつみやけ)として、絶えることなく朝貢いたします」と申し上げた。》(紀)

《ある人は新羅の王を殺そうというのもあったが、皇后がいわれるのに、「神の教えによって、金銀の国を授かろうとしているのである。降伏を申し出ている者を殺してはならぬ」と。その縛を解いて馬飼いとされた。
その国の中に入り、重宝の倉を封じ、地図や戸籍を没収した。
皇后が持っておられた矛を、新羅王の門にたて、後世への印とした。その矛は今も新羅王の門に立っている。
新羅の王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅(うすはた)・かとり絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた。それ故新羅王は、常に沢山の船で、貢を日本に送っているのである。
高麗、百済二国の王は、新羅が地図や戸籍も差し出して、日本に降ったと聞いて、その勢力を伺い、とても勝つことができないことを知って、陣の外に出て頭を下げて、「今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません」といった。
それで内官家屯倉(うちつみやけ)を定めた。これがいわゆる三韓である。
皇后は新羅から還られた。》(紀)


この「日本書紀」に出てくる新羅王の名前ですが、「宇留助富利智干」も「波沙寝錦」も、新羅全56代の歴代王名表の中には出てきません。この王とは訖解尼師今のことですから当然といえば当然です。
「日本書紀」には、一に曰くとして新羅王は殺されたという説もありますが、やはり神功皇后のさとしに従って、新羅王は生き延び、356年に崩じるのです。
では「日本書紀」記載のこの新羅王の名とは一体何でしょうか。ハサムキンやカンキという名前からは韓国語のような印象を受けるのでありますが「宇留助富利智干」も「波沙寝錦」も「微叱己知波珍干岐」も、実は韓国語に見せかけたヘブライ語の母音を変えたものであるのです。ヘブライ語でその人となりを説明した語となっています。
この三つの語の発音に合致する人名は「新羅本紀」を含む「三国史記」の中にはありません。

波沙寝錦(はさむきん)
言うまでもなく新羅王訖解尼師今を説明した言葉で意味は「彼(訖解尼師今)は彼ら(新羅の民)を憐れみ嘆き悲しんだ」となります。
新羅王が民のことを不憫に思うあまり、あっさり降伏することにしたのでありましょう。
そして、神功皇后との出会いから、皇后を信奉するようになるのです。
皇后に神がついておられることを悟ってその神を畏れたのであります。もう一つ。

宇留助富利智干(うるそほりちか)
この意味は「黒い神は(王を)苦しめた」となります。
黒い神とはダビデのことで、新羅王はダビデによって随分と苦しめられた。その苦しみは自分の民への憐れみへと繋がっていったのでありましょう。

微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)、微叱許智伐旱(みしこちほつかん)
別の条で、微叱許智伐旱(みしこちほつかん)としても出てきます。
これは別項『ゼベダイ親族移住後の大ユダ』の中で挙げた「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」と同様のものですが、こちらの場合、少々込み入った工夫が凝らされています。
通常、微叱己知波珍干岐は「新羅本紀」実聖王元年(402)の条にある人質となった奈勿王の子「未斯欣(みしきん)」と同一視され、或いはしばしば混同されています。ですが、二人は明らかに別人です。
皇后の頃には、未斯欣(みしきん)はまだ生れていなかったのです。
つまり、微叱己知波珍干岐は、その母音操作の際、未斯欣に似せた造語構成が採られることになったということです。
「紀」編纂の前段階の際、ヘブライ語の(mose)の母音が(misi)に替えられただけのことだったのです。
「ミシコチハトリカンキ」は、「嘆きが起こる布に包まれた指揮官モーセ」という意味になります。
つまり、新羅からのこの人質とはユダヤ教徒であったのです。この語句はその人質の信仰を表わしたものだからです。
「布に包まれたモーセ」とは、赤子の時に布に包まれ葦舟に乗せられて王宮に運ばれてきた棄児伝説のモーセを表わしており、即ち、ユダヤ教徒を意味しています。
伐旱(ほつかん)は「分かたれた者は嘆いた」で、やはりユダヤ教徒を表わしています。
ジグムント・フロイトは晩年の著書「モーセと一神教」の中で、モーセはエジプト王宮の官史であったと述べているのでありますが、筆者も同感です。ラムセス二世よりももっと古い時代の人であったのです。
話しが逸れましたが、この人質が何故ユダヤ教徒であったのか、これは今日のユダヤ教徒とは少々事情を異にするでしょう。
つまり、極東の島へ向けて移住して来たヘブライ人の中には、ユダヤ教を捨て切れなかった人達もあったということであります。そういう人達は、日本列島へ移住することなく、朝鮮半島ないしは中国大陸に住み着いたのであります。そして、先住民に混じってユダヤ教を護持し続けたのです。
人質はその中の一人であったわけです。(5.18.)

新羅無血征伐
神功皇后のこの新羅征伐は、刀に血をぬることなく、戦闘らしい戦闘も行われることなく、妊婦は流産することもなく、新羅王の全面降伏によってあっけない幕切れとなったのであります。
仲哀天皇8年の条には「もしよく自分(神の霊)を祀った(信じ従うな)ら、刀に血ぬらないで、その国(新羅)はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。」とありますが、これは神の霊による予言の言葉であり、神功皇后の最初の新羅征伐は、その予言の成就、実現であったのです。
神々の側でも、新羅王の人柄はどうであるか、どのような人間か、国情はどうか、今どんな問題を抱えているか、こうしてその時期を誤ることなくこうすれば、血を見ることなく、すぐ落ちるだろうという読みも働いていたことでしょう。
新羅の降伏は後々まで周辺諸国に影響を与えたのであります。それまで、倭(ユダ)と新羅との間では揉め事が絶えず、互いの報復合戦が繰り返されていたのです。それに対する一つの決着が示された事になり、それが後に「神功皇后の新羅征伐」が倭一般に定着することになったのです。
神武天皇の頃からよく出て来る熊襲についてですが、熊襲は固有名詞ではなく一般名詞で、反政府集団のようなものでしょう。大王率いる中央政府が荒れてくると、熊襲の政府に対する不満とその批判も盛んになるのであります。(5.20.)

神への貢物
現代社会からすれば、敵国の王の威光に打たれて相手国に貢物をすることを誓う、他の国もそれに従って貢物をするなどということは想像し難いことでありましょう。
しかし、この時代には神の霊というものがまだよく理解されていたのであります。
神の意向に逆らうことは自分達の自滅に繋がっていくことが良く認識されていたのです。ですから、新羅王は神の霊が宿った皇后の国に貢物をすることは自国のためにもなる、神のために何かをすることは国の安定にも繋がることを悟ったがためにそれを続けることにしたのです。
社(やしろ)に貢物を捧げるように、新羅王は神への貢物と考えたのです。新羅は倭国に貢を続ける間、神々からの諸々の恩恵をも蒙ることになったのです。それは貢を続ける力にもなりました。
大ユダ(大倭)では没収した戸籍や地図から、新羅がどのような統治の仕方をしているのか。
貢物から新羅ではどのような技術が開発されているのかを新たに学ぶことになったのです。

摂政元年西暦351年
「記紀」によれば、神功皇后はこの翌年の二月、仲哀天皇の二人の御子、恍坂王(かごさかのみこ〔記〕香坂王)と忍熊王(おしくまのみこ)の謀反を受けるのでありますが、恍坂王は赤い猪に食い殺され、忍熊王は自殺します。
そして、その年が摂政元年の年となります。
西暦351年のことで、ちょうど神武天皇即位100年後の年にあたります。
では、その後を見ていくことにしましょう。
( )内の摂政年は「日本書紀」の記載によります。〔 〕内は「紀」の西暦年。

352年(摂政2年〔202年〕) 仲哀天皇を河内国の長野陵に葬る。
353年(摂政3年〔203年〕) 誉田別皇子を皇太子として立てる。

これが例え仮に形式な記述であったとしても、実際の摂政在位年の中には収まります。

355年(摂政5年〔205年〕) 新羅王が汗礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを遣わして朝貢した。
そして王は先の人質、微叱許智伐旱(みしこちほつかん)をとり返そうという気があった。
(5.22.)

既にお感じになった読者もおありかと存じますが、この三人の遣使の名前は一つのヘブライ文を構成しています。その内容は、この時に起こった事件に関係しています。
ではこの年、摂政5年の条を続けてみましょう。

《それで許智伐旱に嘘を言わせるようにした。
「使者の汗礼斯伐・毛麻利叱智らが私に告げて、『わが王は私が長らく帰らないので、妻子を没収して官奴としてしまった』といいます。どうか本国に還って、嘘かまことか調べさせて欲しいと思います」といわせた。
神功皇后はお許しになった。葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)をつき添わせてお遣わしになった。
対馬について鰐浦に泊った。
そのとき新羅の使毛麻利叱智らは、ひそかに船の水手を手配し、微叱旱岐をのせて新羅へ逃れさせた。
草で人形をつくり、微叱許智の床に置き、いかにも病気になったように偽り、襲津彦に告げて、「微叱許智は病気になり死にかかっています」といった。
襲津彦は人を遣わして病者を見させた。
そこでだまされたことが分り、新羅の使い三人を捕えて、檻の中に入れ火をつけて焼き殺した。
襲津彦は新羅に行き多大浦(たたらのうら)に陣し、草羅城(さわらのさし)を攻め陥して還った。
このときの捕虜たちは、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海などの四つの村の漢人(あやびと)らの先祖である。》
(紀)

汗礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)の修復ヘブライ語訳は次のようになります。

《(黒い)神は、命令どうりには遂行不可能である欠陥の網を据えた。》

どうも、事の最初の指示はダビデから出たもので、三人の使いがその命令を遂行しようとした結果、前掲の記述にあるような事態に至ったということであるらしいのです。そうした事態に至らせた「欠陥の網」がここに記述されたわけです。
草人形を病人だと偽れば倭人を怒らせることになるのは当然のことであったわけですから、それがエスカレートした結果、こうした事態に至ることになったということでしょう。
「たたらのうら」という名前からして、この事件にはずっとダビデが関与していたらしいのです。(5.23.)

摂政5年から46年へ
「日本書紀」では、神功皇后摂政5年の条から、13年の条へと飛びます。
13年の条は、皇后が太子の為に大殿で大宴会を催し歌を歌ったとして、前出二首の「酒宴歌(酒楽歌)」が紹介されています。この部分は歌謡を物語に溶け込ませるための言わば神話でありますから、加増年の中の一つと捉えられるでしょう。
そして「紀」は13年から、39年、40年、43年と条が飛びます。
この39年、40年、43年の三つの条はいずれも、「魏志倭人伝によれば」、として倭国の女王が魏に遣使・朝貢したことが記されたものです。何故、こういうことが生じたのかと申しますと、上古16代天皇の在位年を加増したことにより、351年から369年の神功皇后の摂政期年が、201年から269年のさらなる上古へと繰り上がったためです。
この加増在位年が、卑弥呼の存命時期と重なったため、「紀」では神功皇后の項に魏志の卑弥呼の記事を挿入することになったのです。
ですから、この記事を額面どおりに捉えて、神功皇后とは卑弥呼のことではなかったのか、といった誤った説も出てくることになります。この場合、「魏志」からの条は無視して差し支えないでしょう。
神功皇后の項を読む際、そうか神功皇后は卑弥呼と同時代の人なのか、などと思いながら読んでいると頭の中が混乱してきます。まったく別の時代の人として、区別して認識しておく必要があります。
摂政40年(240)、43年(243)の条は、いずれも「魏志倭人伝」に記載された年と一致しています。39年(239)の条は「梁書倭伝」の記述でやはり、記述、年、共に一致しています。
この後、46年の条へと進みますが、ここからまた皇后の治世へと入ります。つまり、西暦355年が摂政5年目、その翌年356年が摂政46年の条ということになるのです。
何故、そうなるのかと申しますと、5年と46年の間に、空白加増年を40年加えたからに他なりません。ですから、13年、39年、40年、43年の四つの条は、いずれもこの加増年内の記述と見なすことが出来ます。
では46年の条。

356年摂政6年(〔紀〕摂政46年〔246年〕)
《四十六年春三月一日、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳国(とくじゅん)に遣わした。
卓淳の王、末錦旱岐(まきむかんき)が、斯摩宿禰にいうのに、「甲子の年の七月中旬、百済人の久(く)テイ・弥州流(みつる)・莫古(まくこ)の三人がわが国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、われらを遣わしてその国に行かせた。もしよく吾々に道を教えて、通わせて頂けば、わが王は深く君を徳とするでしょう』と。
そのとき久テイらに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。けれどもまだ交通が開けていないので、その道が分らない。海路は遠く波は険しい。大船に乗れば何とか通うことができるだろう。途中に中継所があったとしても、かなわぬことである』と。
久テイらが『もう一度帰って船舶を用意して出直しましょう』という。また重ねて『もし貴い国の使いが来ることがあれば、わが国にも知らせて欲しい』と。このように話し合って帰った」と。
そこで斯摩宿禰は、従者の爾波移(にはや)と卓淳の人過去(わこ)の二人を、百済国に遣わしその王をねぎらわせた。百済の肖古王(しょうこおう)は大変喜んで厚遇された。
五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭・ねりかね四十枚を爾波移に与えた。また宝の蔵を開いて、いろいろの珍しいものを示して、「わが国には沢山の宝物がある。貴い国に奉ろうと思っても道が分らない。志があってもかなわないが、今、使者に託してついでに献上しましょう」といった。
爾波移は承って帰り、斯摩宿禰に告げた。斯摩宿禰は卓淳国から帰還した。》
(紀)

「日本書紀」の記載通りのこの年は246年にあたることになりますが、この時代の百済には肖古王(そこおう)はまだ生れていませんでした。
ところが加増年を差し引いて調整されたこの356年は、肖古王11年の年となり、この条がより現実味を帯びたものとして読めることがわかります。(5.24.)

久テイ(くてい)・弥州流(みつる)・莫古(まくこ)
使者三人の名前は、当時の使者の固有名詞ではなく、当時の状況の一部を説明した言葉になっています。ヘブライ語として修復した訳は次のようになります。

《彼(肖古王)は島がマトゥラ(軍事実動部)をひどく嫌った。そのようなマク(ダビデ)を。》

三人が百済の使者ですから、この場合の彼とは当時の百済王を指すでしょう。
百済王は神功皇后の噂を聞いていて接触したいと考えていたのです。ところが王は、当時、朝鮮海峡周辺に配備されていた誰彼構わず衝突しかねない軍事部マトゥラを嫌っていたのです。
ここで「道が分らない」というのはその事を仄めかしたものであったのです。斯摩宿禰の機転によって爾波移が百済にやって来たことは、王にとっては渡りに舟であったのです。
王が恐れたのは、そのマトゥラの対応如何によっては事態があらぬ方向へ向ってしまいかねないことなのです。
ただ、マトゥラが凶暴性を秘めていたとして、それが海外に噂として広まるようになると当然のこととして外来者を寄せ付けないようになります。その代わりに、朝鮮半島からの侵入者を完全にシャットアウトする、その機能は十全だったということが言えるでしょう。
王同士や側近が電話でコンタクトの約束をとるということが出来ない時代でしたから、接触の仕方も模索されたのであります。友好的な接触の仕方はまず貢物を持っていき、友好の姿勢をしめすということ。ただ、この方法が通じない場合もある。どうするかと。
ここで一つ言えることは、神功皇后は百済王にも恵まれたということであります。(5.26.)

末錦旱岐(まきむかんき)
卓淳の王、末錦旱岐(まきむかんき)はその名、マキム(「彼らのマキ(ミトラ)」の意)が示すように、軍神ミトラ教の信者であったのですが、神に対する恭順の意は持っていた人のようです。

新羅、訖解王の死
そして、この年356年は、新羅王、訖解尼師今が亡くなった年でもあります。

356年 訖解王47年夏4月、王が薨去(こうきょ)した。(新羅本紀)

この翌年、新羅と百済の使いが、倭へやって来ます。日本書紀から。

357年摂政7年 (〔紀〕摂政47年〔247年〕)
《四十七年夏四月、百済王は久テイ・弥州流・莫古を遣わして朝貢した。
そのとき新羅の国の調(みつぎ)の使が久テイと一緒にきた。
皇太后と太子誉田別尊(ほむだわけのみこと)は、大いに喜んでいわれるのに、「先王の望んでおられた国の人々が、今やってこられたか。在世にならなくて誠に残念であった」と。
群臣は皆涙を流さぬ者はなかった。》
(紀)

つまり、神功皇后、誉田別尊は、新羅の使いに対して、亡くなった先王、訖解尼師今のために哀悼の意を表わしたわけです。そして、新羅王の死を偲んで、大倭の群臣共々、皆涙を流した。
これは亡くなった新羅王が、倭人からは好意的に思われていたことが表現されたものであります。新羅王の献身的な姿勢が倭人達の心を動かしていたのであります。
新羅王も百済王も、価値あるものへの献身と考えたからこそ貢納を続けることが出来たのであります。価値なきものへの献身は続かないからです。(5.27.)
「太子誉田別尊」は形式的な記述と思われます。というのは、後の応神天皇となる誉田別尊の方が、神功皇后よりも年長であったと考えられるからです。
誉田別尊は神功皇后の良き理解者で、皇后の摂政を側面から大きく支えてきた人でありましょう。
この年357年は、訖解王の次の王、奈勿尼師今(なこつにしきん)が既にその座にありました。
新羅の倭への貢納はこのあたりから破綻しはじめるのであります。47年の条を追って見ることにします。

357年(続き)
《二つの国の貢物を調べた。すると新羅の貢物は珍しい物が多くあった。百済の貢物は少くてしかも良くなかった。久テイに尋ねられ、「百済の貢物が新羅に及ばないのはなぜか」と。
答えていうのに、「私共は道に迷って新羅にはいってしまいました。新羅人は私共を捕えて牢屋に入れました。三ヵ月経って殺そうとしました。
久テイらは天に向って呪いました。新羅人はその呪いを怖れて殺しませんでした。
そしてわれわれの貢物を奪って、自分の国の貢物としました。新羅の賤しいものを以て、わが国の貢物と入れ替えました。
そして私共に、『もしこのことを漏らせば、還ってきた日にお前らを殺してしまう』といいました。
それで久テイらは恐れて、それに従ったのです。そしてやっと日本(倭)に着いたのです」といった。
皇太后と誉田別尊は新羅の使いを責めて、天神に神意を伺う占いをされて、「誰を百済に遣わして嘘か本当か調べさせましょうか。誰を新羅に遣わしてその罪を問わせたらよいでしょうか」といわれた。
すると天神が教えて、「武内宿禰に議らせるがよい。千熊長彦を使者とすれば願いが叶うだろう」といわれた。
千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物をけがし乱したということを責めた。》
(紀)

そして、「紀」ではこの二年後に、新羅再征伐ということになるのであります。

新羅側の記録
神功皇后の無血征伐や、訖解王の全面降伏から貢納の継続について、新羅本紀では、勿論、一切記載していません。350年の災害の記録から、356年の王の薨去へと飛び、記録は閑散としたままです。
如何に神に敬虔な機微に富んだ王であったとしても、全面降伏して継続した貢納の約束を敵国と取り交わすなどという事は、新羅国全体として見れば屈辱以外の何物でもないわけです。当然、記録は削除の対象となります。
新羅側に記録がないのは当然と考えるのが妥当な捉え方でしょう。(5.28.)

359年摂政9年 (〔紀〕摂政49年〔249年〕)
《四十九年三月、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とした。
久テイらと共に兵を整えて卓淳国に至り、まさに新羅を襲おうとした。
そのときある人がいうのに、「兵が少なくては新羅を破ることはできぬ。沙白(さはく)・蓋盧(こうろ)を送って増兵を請え」と。
木羅斤資(もくらこんし)・沙沙奴跪(ささなこ)に命じて、精兵を率いて沙白・蓋盧と一緒に遣わされた。
ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。
そして比自ホ・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヵ国を平定した。
兵を移して西方古ケイ津に至り、南蛮の耽羅(済州島)を亡ぼして百済に与えた。
百済王の肖古と皇子の貴須は、また兵を率いてやってきた。
比利・辟中・布弥支・半古の四つの邑(むら)が自然に降服した。
こうして百済王父子と荒田別・木羅斤資らは共に意流村で一緒になり、相見て喜んだ。礼を厚くして送った。
千熊長彦と百済王とは百済国に行き、辟支山(へきのむれ)に登って盟い、また古沙山(こさのむれ)に登り、共に磐石の上に居り、百済王が誓いをたてていうのに、「もし草を敷いて座れば、草はいつか火に焼かれるかも知れない。木をとって座とすれば、いつか水のために流されるかも知れない。それで磐石の上に居て誓うことは、永遠に朽ちないということである。
それだから今から後、千秋万歳に絶えることはないでしょう。常に西蕃と称えて、春秋に朝貢しましょう」と。
千熊長彦をつれて都に至り、厚く礼遇した。
そしてまた久テイらをつき添わせて送った。》
(紀)

百済との盟友
新羅を討ち破った後、七ヵ国をも平定する。倭軍はそれを可能ならしめるだけの威力を持っていたのです。
倭(ユダ)は自分達の領土とすることなく、支配権の一部を百済に与えたのです。
百済の肖古王はそれを大そう喜び、倭に対する不朽の盟友を誓う。記述によれば、この年、倭と百済の間にはこのような盟友関係が築かれたのです。そして翌年のこと。

360年摂政10年 (〔紀〕摂政50年〔250年〕)
《五十年春二月、荒田別らが還った。
夏五月、千熊長彦・久テイらが百済より還った。
皇太后は喜んで久テイに尋ねていわれるのに、「海の西の多くの国をすでにお前の国に与えた。
いま何事があってまた来たのであるか」と。
久テイらが申し上げるのに、「帝のお恵みは遠い国々にまで及んでいます。わが王は押さえきれぬ程の喜びに溢れています。それで還る使いに託して誠心を表わしたものです。万世に至るまで朝貢を怠たることはございません」といった。
皇太后は勅して、「よい事をいってくれた。それはわが願いでもある」と仰せられた。
多沙城をつけ足し賜わって、往還の道の駅とされた。》
(紀)

神功皇后は、制圧した国を自分の領土にしようというお考えは、無かったようなのです。翌年。

361年摂政11年 (〔紀〕摂政51年〔251年〕)
《五十一年春三月、百済王はまた久テイを遣わし朝貢した。
皇太后は太子と武内宿禰に語って、「わが親交する百済国は、天の賜りものである。人為によるものではない。
見たこともない珍しい物など、時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私と同じく私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられた。
この年に千熊長彦を、久テイらにつけて百済国に遣わされた。
そしていわれるのに、「私は神のお示しに従って、往き来の道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよう」と。[恐らく、千熊長彦は神功皇后の言葉を記した書状を百済王父子の前で読み上げた]
このとき百済王父子は、共に額を地にすりつけて拝み、「貴い国の大恩は天地よりも重く、何れの時にも、忘れることはないでしょう。
聖王[神々の霊]が上においでになり、日月のごとく明らかです。
いま私は下に侍って、堅固なことは山岳のようで、西蕃となってどこまでも二心をもつことはないでしょう」と申し上げた。》
(紀)

359年の倭が新羅を討ち破ったことに関して、「新羅本紀」では、359年、360年、361年と続けて三年間は、いずれの条も空白になっています。記述して残しておくべき事柄が無かったのです。(5.29.)

神功皇后にお出になる「聖王」
ところで読者は、百済肖古王の発言の中にある「聖王」に注目して下さい。
この「聖王」とは神功皇后を指しているのではないことは明らかでしょう。神功皇后が上においでになるのは明らかである、とするのはおかしいからです。
ですから、この「聖王」とは神功労皇后にお出になる神の霊を指したものであるのです。
即ち、聖ミカエルや、聖ガブリエル、ヤーウェ神のような聖なる霊の王を言ったものであるのです。
神功皇后にお出になる聖王は目には見えないが、お出になるのは太陽や月を見るように明らかであると、肖古王はそう述べたのです。
これは神功皇后には神の霊が出る、つまり神の霊が発言するということの百済王による証言であります。
この肖古王の忠誠の言葉は、神功皇后や倭に対して向けられていると同時に、聖王、即ち、神の霊に対する誓いの言葉でもあるのです。
「日本書紀」の編纂者は書き加えるところは加えて、その当時の記録を記載して残したのであります。
肖古王は、新羅の訖解王同様、神功皇后の身辺に起こる出来事や噂から、皇后への神の霊の関与を常々感じ取っていた人でありましょう。二人とも法に帰依する僧侶のように、皇后に従うことを決めたのであります。
訖解王のように、自分の父親(祖父)が無惨な殺され方をしているにも関わらず、倭への朝貢を続ける決心をしたのは、神への畏敬、誠心からに他ならないでしょう。(5.30.)

摂政51年から62年へ
この後、「日本書紀」は51年の条から、52年、55年と続きますが、摂政51年が361年、翌年の362年は摂政62年の条へと飛ぶのです。これは摂政51年から62年の間に、10年の加増年数が加えられたためです。
加増年数は前の40年と合わせ、合計50年となります。
52年の条は編纂者が、皇后崩去の条からの一部をこの加増年内の条へと移動したものです。
55年の条は、肖古王の薨去を伝えたものですが、摂政55年とは、「日本書紀」の西暦年では、255年乙亥の年です。
伝えられている肖古王の薨去の年は乙亥の年ですが、実際の薨去の乙亥の年、西暦年は375年です。
神功皇后の治世中、肖古王は存命であったのです。ですから、55年の条は皇后の治世とは関りがないと見なせます。即ち、加増年内の記述といえます。

362年摂政12年 (〔紀〕摂政62年〔262年〕)
《六十二年、新羅が朝貢しなかった。その年襲津彦を遣わして新羅を討たせた。》(紀)

この条はこの後、壬午の年のこととして、沙至比跪(さちひこ)の出来事が述べられるのですが、この場合の壬午は、382年のことですから、皇后の治世とは別と見ます。
62年の後は、64年、65年、66年と続きますが、この三年のそれぞれの条はいずれも、前出の「魏志」からのもの同様で、皇后の治世外のものです。

摂政64年(264年甲申)百済王貴須王薨去の記述は、384年の甲申の年の出来事を加えたもの。
摂政65年(265年乙酉)百済王枕流王薨去の記述は、385年の乙酉の年の出来事を加えたもの。
摂政66年(266年丙戌)晋の武帝の泰初二年(266年)十月、倭の女王(壱与?)が何度も通訳を重ねて貢献した旨の記述。266年の出来事を加えたもの。
と、いうわけで、こうしたやり方は事実を眩ましてしまう、敵をも味方をも欺く、良くも悪くも攪乱であります。
編纂者は何故、このようなやり方を採ったでしょうか。16代上古天皇の神格化が目的の一つであり、眩ますことはそのための手段の一つでした。それでいながら史実も保持していて、歴史的記述の断片をあちらこちらへと移動させ、巧みに整えています。実際に読む側からすれば、時代錯誤が生じているにも関わらず、神格化のための技巧はそれを感じなくさせています。ところが、謎を解く鍵、糸口を掴まえるとするすると解けるようにもなっている、その意味では誤魔化しがないのです。
あと残るのは、摂政69年の皇后崩御の年のみとなりますが、それを述べる前に、「新羅本紀」364年の条では、倭について記述していますので、そちらから。

364年 奈勿王9年、《夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。
王はこの報告を聞いて、〔倭軍の勢力に〕対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて、吐含山の麓にならべ、勇士一千人を斧ケンの東の野原に伏せておいた。
倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをかけた。
倭軍が大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。》
(新羅本紀)
366年 奈勿王11年、《春三月、百済人が来訪した。》(新羅本紀)
368年 奈勿王13年、《春、百済は使者を派遣して、良馬二匹を奉った。》(新羅本紀)

皇后の治世のもの、362年以降、368年にまで該当する記事は「日本書紀」には見当たりません。
そして、皇后崩御の年となります。

皇后崩御西暦369年
369年摂政19年 (〔紀〕摂政69年〔269年〕)
《六十九年夏四月十七日、皇太后が稚桜宮に崩御された、年一百歳。》(紀)

加増年が50年加えられているので、実際の崩御年齢は、五十歳ということになります。
皇后の訃報は百済国に伝えられます。この年、肖古王24年、百済の貴須王子は、後の応神天皇、誉田別尊の旨に従って、七支刀を製作し始めます。作成後、刀に銘文を刻み記します。その内容。

369年摂政19年 七支刀(七枝刀)銘文
《泰和四年(369年)五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。
すすんでは百たびの戦いを避け、恭しい候王にふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。
百済王の世子貴須は、特別に倭王[誉田別天皇]旨のために造って、後の世に伝え示すものである。》
(七支刀銘文)

製作された七支刀は、遣使によって倭へ齎されます。それを記したのが、摂政52年の条であります。

369年摂政19年 (〔紀〕摂政52年)
《五十二年秋九月十日、久テイらは千熊長彦に従ってやってきた。
そして七枝刀(七支刀)一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。
そして、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と[肖古王の言葉を伝え]申し上げた。
そして[王が]孫の枕流王(とむるおう)に語って[言うには]、「今わが通うところの海の東の貴い国[倭]は、天の啓かれた[神に導かれた]国である。だから天恩を垂れて、海の西の地を割いてわが国[百済]に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産地を集めて献上することを絶やさなかったら、[自分は]死んでも何の悔いもない」と[王は]いった[と使者は伝えた]。
それ以後[百済は]毎年相ついで朝貢した。》
(紀) [ ]内は筆者。

肖古王が、孫の枕流王に言い聞かせた話しが伝えられているのは、神功皇后が亡くなったとはいえ、天恩を忘れず、孫の代まで朝貢は欠かさないようにするから、心配しないで欲しいというような主旨であったであろうと推察します。百済はこの後、高句麗から攻め入られるのですが、撥ね返すのです。(5.31.)

神功皇后の最初の新羅無血征伐は、捉え方によっては出来合いの八百長戦争のように感じる人もあることでしょう。神功皇后という教祖と、新羅の訖解王、百済の肖古王という二人の信者による出来合いというような。
しかし、三人共、同じ宗教の信者であったわけでもなく、最初は互いに見ず知らずの他人同士であったのです。
全世界に布教された巨大宗教の信者が互いに王になって、見かけの戦争をしたというわけではなかったのです。そこにあるのは、純粋に「聖王」、即ち、神の霊と人との関わりのみであったのです。
無血戦争のあった350年の三月の条の「新羅本紀」には、コウノトリが月城の隅に巣を作った、として良いことの起こる前兆が記されているのです。察するに新羅王も、百済王も、神の霊を感じ取っていた人で、倭軍が新羅へ来る前には、神からの何らかの囁きかけが、新羅王にあったことでしょう。
妊婦が軍勢を率いて海を渡ってくるから、大人しく降伏した方が新羅のためである、というような。
そして、倭軍による演出効果は100パーセント以上に発揮され、新羅王にとって、倭軍はそら恐ろしいものに感じられたのです。
神功皇后も新羅王も百済王も、通常の出来事の成り行きはこうだが、神が介入するとこうなり、通常起こりえないことが起こる、通常とは異なる成り行きになる、ということをしっかり区別して認識していた人です。つまり、神の霊による働きかけを感じ取っていた人なのです。
神功皇后の発言の中にある「人為によるものではない」とは、そのことを言っています。(6.1.)

神功皇后と関わりのあった近肖古王
百済の歴史には肖古王は二人居て、先代の王(在位166〜214)と区別してこの時代の肖古王を近肖古王(在位346〜375)と呼んでいます。察するに、この王の時代の百済の国威は比較的旺盛であったのです。

《(346年)近肖古王は、比流王の次男である。体格や容貌が奇偉で、識見が深遠であった。契王が薨じて、王位を継いだ。
(347年)二年春正月 王は天地神明に祭祀した。真浄を朝廷佐平に任じた。浄は王妃の親戚で、性質が残酷で事に臨んでは苛酷で権勢をたのんで、わがままにふるまうので、国の人たちは彼をいやがった。》
(百済本紀)

そして、この後、大倭の神功皇后との交流が始まるわけですが、百済本紀にまだ触れたことのない読者は、近肖古王の神功皇后との交流がどのように記録されているかワクワクされることでしょう。
ところが残念なことに、神功皇后を解明する上で、最も重要で最も肝心なこの時期の記録が、すっぽりと抜け落ちているのです。記録は二年(347年)から突然、二十一年(366年)の条へと飛んでいるのです。
即ち、神功皇后との関わりにおける最も重要な時期と考えられる、約20年間の記録が白紙なのです。
近肖古王は30年間の在位にあった人ですが、その在位年間の約3分の2が削除されたということです。
「新羅本紀」のみならず「百済本紀」よお前もか、といった感があります。
何故、削除されたと言えるのかと申しますと、百済ではこの近肖古王の頃から記録が残されるようになったからです。近肖古王の項には次のようにあります。

《古記にいうに、百済は建国以来、まだ、文字をもって事を記録したものがないが、この時代になって、博士高興がはじめて、事を記録した。しかし、高興はいまだかつて他の書物にはあらわれていないので、彼がどういう人物か分らない。》(百済本紀)

恐らく当初は、近肖古王の在位年内の殆どは記録されていたのであります。後になって、348年から365年の間の記録が削除されたのであります。その殆どは大倭に関する事柄であったのではないでしょうか。
「百済本紀」によれば前出の近肖古王の孫、枕流王(在位384〜385)は在位2年のみでしたが、前王の時に果たせなかった晋への朝貢をし、百済に仏法を導入した王として記されているので、祖父の血を良く受けた信仰の厚い人だったのでしょう。(7.19.)

仲哀天皇、神功皇后ー加増年を除いた修復歴年表

西暦年 「日本書紀」から 「新羅本紀」 「百済本紀」 「高句麗本紀」
342 仲哀天皇(推定298〜350)即位元年44歳 燕に攻め入られる。
343 仲哀二年気長足姫尊(推定320〜369)を皇后とする。推定23歳 王は燕に弟を入朝させる。
344 倭が婚姻の要請 比流王薨去、契王即位
345 倭が国交を絶つ 燕王攻め入り南蘇を陥す。
346 倭が激しく攻め入った 契王薨去、近肖古王即位
347 近肖古王二年、真浄を佐平に任じた。
348 宮殿の井戸水が急に溢れ出した 記録空白(後世に削除?)
349 仲哀八年 神功皇后を通して、ガブリエル、ヤーウェ、ミカエルの三神が霊示を出す。ダビデも加わる。仲哀天皇神々を拒む。 王は宋晃を燕に送る。
350 仲哀九年 天皇薨去。
神功皇后新羅無血征伐(4月初旬?)。名声が百済にも及ぶ。
新羅王(訖解尼師今)、百済王(近肖古王)、共に皇后を認識し畏敬するようになる。新羅王継続した朝貢を約束する。
三月コウノトリが城の隅に巣をつくる。
四月大雨が十日余りも降り続く。
351 神功皇后、摂政元年(皇后摂政元年の条) 記録空白(後世に削除?)
352 仲哀天皇を葬る(摂政2年の条)。
353
354
355 新羅王遣使朝貢。皇后、新羅からの人質を返すことを許す(摂政5年の条)。 王は使者を燕に派遣し王母を帰すことを請う。
(ここで40年の加増年)
356 斯摩宿禰を卓淳へ遣使。百済の肖古王と接見、貢を受ける(摂政46年の条)。 四月訖解王薨去。奈勿王即位。
357 百済、新羅の遣使朝貢。倭の群臣達、新羅王の死への哀悼の意を表す(摂政47年の条)。 使者を派遣して慰問。
358 王、始祖廟を祭る。
359 新羅を再征伐。
百済と共に諸国平定(摂政49年の条)。
360 百済遣使。
百済の使者のための駅を置く(摂政50年の条)。
361 百済朝貢。肖古王の神功皇后に宿る聖王(神の霊)に関する証言(摂政51年の条)。
(ここで10年の加増年)
362 新羅朝貢せず。襲津彦を遣わして新羅を討つ(摂政62年の条)。 始祖廟の庭の二本の木が枝を一つに連ねた。
363
364 倭兵が大挙して侵入。追撃して殆ど殺した。
365
366 百済人が来訪した。 使臣を新羅へ遣わして修交。
367
368 百済が良馬二匹奉った。 新羅に良馬二頭をおくった。
369 四月神功皇后薨去(摂政69年の条)。
九月に百済から七支刀奉納。肖古王、孫への言葉の伝言(同52年の条)。
九月高句麗が民家を侵し掠奪した。太子(後の貴須王)兵を率いてこれを破る。 百済を南伐、敗れた。

表修正’05.2.14.

時期が重なった
何故、妊娠中の神功皇后が新羅出征に臨んだことが事実であったと、筆者が考えた理由でありますが、神が神功皇后を通して霊示を出そうとされた時期と、皇后の妊娠の時期が重なったことが第一に挙げられるでしょう。
神々の側で、この時期にこの人を通して霊示を出してこうすると決められていた以上は、神々はそれを実行に移されます。ですから、神功皇后の側からしますと、神々に対して、出産後にして欲しいなどと言うわけにはいかなかったのです。
物事には、時宜というものがあって、一度そのチャンスを失うと二度とやって来ない、そのタイミングを失うことを皇后は恐れたのでありましょう。それが敢えて妊娠中であるにも関わらず、新羅へ臨んだ理由なのであります。
神功皇后を通して霊示が出された時期は、壱与を通して出された時期から、ちょうど100年後のことでした(8.16.)

鳥人神話で天使、飛天を仄めかす
淡郡(あはのこほり)、即ち、飛天ガブリエルについて語られている箇所をもう一度取りあげて見ることにします。
太子は、鳥人神話を作ることによって天使や飛天を仄めかし、それを表現しています。気長足姫尊の項から。

《またお尋ねして「この神の他にまだ神がおいでになりますか」といわれると、「形に現れた吾は、尾田の吾田節の淡郡(あはのこほり)にいる神である」と。−略―
審神者(さにわ)のいうには、「今答えられないで、また後にいわれることがありますか」と。答えて「日向国の橘の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちている神――名は表筒男(うわつつのを)[ガブリエル]・中筒男(なかつつのを)[ラファエル]・底筒男(そこつつのを)[ウリエル]の神がいる」と。―略―
荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲(はしろくまわし)という者があり、その人となりは強健で、翼がありよく高く飛ぶことができる[この部分、天使、飛天を仄めかしている]。皇命に従わず常に人民を掠めている。
十七日に皇后は熊鷲を討とうとして、香椎宮から松峡宮に移られた。そのときつむじ風がにわかに吹いて、御笠が吹きとばされた。ときの人はそこを名づけて御笠(みかさ)といった。
二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵をあげて羽白熊鷲を殺した。そばの人に「熊鷲を取って心安らかになった」といわれた。それで、そこを名づけて安(やす)という。》
(「日本書紀」から)

「海藻のように若々しく生命に満ちている神」「強健、翼がありよく高く飛ぶことが出来る」。
これは天使、飛天を表現したものです。天使は齢を重ねて老齢であるにも関わらず常に若々しく、自在にどこへでも移動できます。
ただ、この話の場合、人ということになっていますから、翼のある人とは架空の存在でしょう。
従って、この神話では、皇后に退治、討伐された化け物ということになったのだと考えられます。
太子はここで、母音を変えたヘブライ文を封じ、天使、飛天を表現して、鳥人神話を作り、「みかさ」「やす」という日本語を造語するということを一度にやってのけたのであります。
「ノトリタノフレ ハシロクマワシ ソソキノ ミカサ ヤス」の意味は次のようになります。

《彼ら(大天使達)は、その神(エル)を唱える者を見守った。
その長(ミカエル)は起つ方であり、即ち火(としての霊)である。
彼らは、王座からくる彼の嘆き(新羅王)を救いへ導いた。》


言い換えると、神々、当時の大天使方は、神功皇后や神を唱え求めようとする倭人達を守っていた。
その長は当時の大天使長ミカエル様であり、終末時に証言に起つ方であり霊としての火である。
大天使方は、王座にあることから来る嘆きの渦中にあった新羅王訖解尼師今をその救いへ向けて導いた。
おおよそこのような意味になるでしょう。(9.8.)

何故、削除されたか?
加増年を差し引いた神功皇后の修復歴年表の中で、神功皇后が大いに活躍されたであろうと考えられる時期の記録が、何故、「新羅本紀」「百済本紀」共、削除されたのでしょうか。
新羅王訖解尼師今と百済王近肖古王の部分です。
前述のように、この二人の王は、神功皇后の支持者で、皇后に絶大な信頼を寄せていたのであります。何より、皇后に宿って居られた神の霊の存在を重視していたのであります。それ故、将来、倭に対する朝貢は神に賭けて欠かさず行なうことを誓っていたのです。
何故、そう言えるのかと申しますと、「日本書紀」の側には、新羅が朝貢をしてこない、という記述が多いのであります。これは、二人の王と、倭の側で朝貢の約束が取り交わされていたからです。
ところが、後の新羅、百済からしますと、これは王の個人的な信仰の領域に基づくものであって、国とは関係がないと見なされたことが、削除の理由になったと考えられます。削除された部分にはそうした信仰に基づいた王の考えの反映された事柄が記録されていたと筆者は見るのであります。
神の霊が宿る倭王の居る国への朝貢は、国レベルから離れて、個人レベルの領域で、大倭存続中は続けられたのであります。それ故、新羅からの朝貢という記録は、ごく当然のように記録されたのであります。(5.11.)

次の応神天皇についてはその項、『(続)上古天皇の加増在位年について』参照

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