『朝・ベッド』



 断言できる。今この瞬間、俺は世界で最も幸福感を味わっている人間であると。
 まさに桃源郷。
 俺は筆舌に尽くしがたい程の心地良さに浸っていた。

 只今の時刻は目覚ましが鳴り出す30分前。まだ暫しの惰眠が貪れるだけの時間がある。
 覚醒しきっていない、半分寝ている状態。
 柔らかく暖かい布団。
 耳に優しいスズメの囀り。
 鼻孔を擽る、秋子さんが用意している味噌汁の香り。トントンと快適なリズムを刻む包丁の音。
 名雪の温もり。
 この状況をパラダイスと言わずに何と言う。
 どれだけの金を積んでも惜しくない程の至極の悦楽。
 もう一度断言しよう。今この瞬間、俺は世界で最も幸福感を……

「おや?」

 違和感。
 先程の自分の思考にとんでもない違和感を覚えた。
 ちょっとだけ意識が覚める。そして、一つずつ思い返してみた。

『覚醒しきっていない、半分寝ている状態』
『柔らかく暖かい布団』
『耳に優しいスズメの囀り』
『鼻孔を擽る、秋子さんが用意している味噌汁の香り。トントンと快適なリズムを刻む包丁の音』
『名雪の温もり』

「……名雪?」

 怪訝に思い、俺はまだまだ閉じたがっている瞼を強引に開ける。
 すると、俺の目の前には、

「くー」

 はたしてその人物の姿が。

「名雪のやつ、また潜り込んできやがったのか」

 よく見知った顔を眼前にし、俺は小さなため息を漏らした。微かに残っていた眠気も一緒に。
 そう、『また』である。最早、数えるのも面倒になるくらいの『また』。
 少ない時は月に2〜3回、多い時は週に4〜5回。
 それくらいの頻度で起こる――既に定例行事化している――名雪の潜り込み。

「ったく、こいつは」

 もう慣れた。今更驚きもしない。けど、それでも呆れるものは呆れる。
 ――と同時に、目視する前から名雪の存在をシッカリと認識し、ごくごく自然に当然の如く受け入れきっていた自分自身にも呆れた。

「ひょっとして、俺も名雪に毒されてきたのか? ま、いいけどさ。……い、いや、この場合の『いい』というのは『別にどうでもいい』との意味であって、決して『名雪のようになるのが構わない』って事じゃないぞ。あまつさえ、『名雪だったらベッドに忍び込まれてもOK』とか『寧ろ望むところ』とか『御希望ならばこちらから』とか、そんなことは全然考えてないからな。ホント、マジで。……って、俺、何を意味不明な言い訳してるんだか」

 ベッドの上での一人ボケツッコミ状態。
 何と言うか、かなり虚しかった。いろんな意味で。

「ま、まあ、それはさておき、だ」

 そう言いつつ、コホンと咳払いを一つ。半ば強引に思考に切り替えた。世間一般の皆々様の間で『ごまかす』と呼ばれ親しまれている高等テクニックである。
 閑話休題。

「名雪、いったいどうやって俺の部屋まで来てるんだ?」

 普通ならば『夜中まで起きていて、俺が眠った頃を見計らって部屋に訪れ、俺が寝ている事を確認した上でこっそりと布団に忍び込んだ』と考えるのが自然だろう。しかし、相手は名雪。あの、『あの』名雪である。俺よりも遅い時間まで起きているだなんて、そんな事は万に一つも無い。ありえない。あるわけがない。あるはずがない。あってたまるか。

「てことは、やっぱ寝たまま?」

 信憑性は一番高い。眠ったままで行動している名雪は今までに何度も目撃しているし。
 眠り姫の異名を持つ、睡眠のプロフェッショナルの名雪である。寝たまま起きるくらいの芸当はお手の物かもしれない。

「なんつーか、無駄に器用な奴だな」

 感心と呆れの入り混じった声色で言いながら、安らかに眠る名雪の顔を眺める。

「……うーむ。それはそうと、こうして見ると、こいつってやっぱり可愛いよな」

 思わずそんな言葉が口を衝いて出た。自然に。感じたままに。
 すると、それに応える様に名雪が柔らかく微笑み、

「祐一ぃ」

 甘い声で俺の名を囁いた。

「う゛っ」

 聞かれた!? そう思い、俺はバツの悪い顔になる。

「な、なんだよ。おまえ、起きてたのか?」

 些かぶっきらぼうな口調で尋ねた。自分で自分にツッコミを入れてやりたくなる程の、絵に描いたようなあからさまな照れ隠しだった。

「……くー」

 けれど、返ってきたのは名雪の寝息。

「……あり? 名雪? おーい、名雪ぃ? なーゆーきーちゃーん」

 耳元でそっと名を呼んでみた。しかし、名雪はスヤスヤと心地良さ気に吐息を零すばかり。

「な、なんだ。寝言かよ」

 ドッと力が抜ける。全身に安堵が広がっていった。

「ったく。紛らわしいことしやがって」

 苦笑混じりに非難の言葉を名雪にぶつける。それに対する返答は、嬉しそうな「祐一ぃ」の声。
 女の子に寝言で名前を呼ばれるというのは中々に照れくさいことだったりする。しかも、それが憎からず思っている相手、異性として少なからず意識している相手なら尚更だったりするワケで。
 何とも表現しがたいこそばゆい物を胸に抱きつつ、俺は名雪の髪を優しく梳いた。

「幸せそうな顔をしやがって。どんな夢を見てるんだか」

「……祐一……野獣だよー」

「……なに?」

 名雪の髪に這わせていた指が動きを止める。
 今、何て言った、こいつ?

「あーん。ダメだよ、祐一、『後ろ』だなんて。まだ早いよー」

「ちょっと待てっ! マジでどんな夢を見てやがりますか!? っていうか、『後ろ』って何!?」

 妙に赤い顔をしてクネクネと身を捩じらせているイトコを見て、ちょっぴり嫌な汗を流してしまう俺だった。

「くー。……いいよ、祐一のなら飲んであげる」

「待て。本気で待て」

「……あん。もう許して、祐一。……これ以上されたら……うにゅ……壊れちゃうよー。お願いだから放して」

「おまえ、実は起きてるだろ。――って、名雪さん!? 放してとか言いながら、何故にしがみ付いてきますか!?」

 俺の身体に腕を回し、名雪がギュッと抱き付いてきた。

「……くー。祐一の……絶倫マン」

「勝手にとんでもないニックネームを付けるな。つーか、離れろ、名雪」

 そう言いながら、纏わりついてくる名雪の腕や足を振り払う。

「こんなところ、秋子さんに見付かったら洒落にならんだろうが」

 何を今更という気もするが。一緒のベッドで寝てるだけで充分に洒落になってないだろうし。
 でも、それだけならまだ、ちゃんと説明すれば理解してくれそうにも思える。秋子さんなら、「俺が寝ている間に、名雪の奴が寝ぼけて潜り込んできたんですよ。まったく困ったもんです」とか言えば信じてくれるだろう。
 だけど、さすがに抱擁はまずいだろ。単に一緒に寝ている所を目にするのと、抱き合っている――実際には一方的に抱きつかれているのだが――姿を目撃するのとでは、受けるインパクトに天と地ほどの差が生じるはず。それは秋子さんでも例外ではなかろう。
 ――となれば、今の俺たちの様子なんぞを見られたならば、秋子さんに間違いなく『あらあら』されてしまう。もしかしたら、何事かを『了承』すらされてしまうかもしれない。そうなった場合、有無を言わせずに『人生の墓場』へと直行急行させられてしまう可能性大。

「そ、それは勘弁してほしいな。別に嫌だというワケではないが、さすがにもう少しくらいは自由でいたい。漢の人生を謳歌したい。ぶっちゃけ、名雪以外の女の子とも仲良く親しくデートなんぞをしてみたり……いだだだっ!?」

 何気に不実っぽいことを口走っていると、それを責めるかのように、名雪の腕に――足にも――力が込められた。絵的にはフロントからの胴締めスリーパー状態。
 ホントに痛い。そして苦しい。陸上部の部長として頑張って鍛えている成果か、名雪ってば意外とパワフル。背骨折れそう。てか、こいつ、マジに起きてないか?

「いたたたっ。ギブ! 名雪、ギブ!」

 名雪の背中をタップして『参った』するが、名雪はお仕置き(?)の手を緩めない。それどころか、更に力を強めていく。
 ――と同時に、身体の密着をも強めていく。

「……え? な、名雪?」

 そうなれば当然、二つの膨らみも押し付けられるワケで。
 名雪が着ているのはパジャマのみ。寝る時はブラをしないので、上半身で身に着けているのは文字通りパジャマだけ。
 感触を遮るにはあまりにも頼りない薄布。ダイレクトに近い形で伝わる柔らかさ。

「む、むぅ。子供っぽい見た目とは裏腹に結構……」

 俺だって若い男である。その触感に気を取られても致し方ない。そう、仕方ない。仕方がないことなのだ、これは。決して、俺が特別スケベだとか、そういうことは断じてない。ないと言ったらない。

「……くー……にゅ……」

 俺が抵抗をしなくなったことに満足したのか、名雪が手足の力を緩めていく。無論、体勢はそのままであったが。

「……うにゅ……」

 コアラみたいな格好で抱き付きながら、笑みすら浮かべて幸せそうな寝息を零す名雪。

「ったく。人の気も知らんで、安らかな寝顔をしやがってからに。この無自覚無意識天然お騒がせ娘が」

 その様に、俺はため息と共に愚痴を漏らす。
 けれど、名雪の満ち足りた表情を目にして俺はこうも口にした。「でもまあ、いっか」と。
 悪い気はしない。
 俺といることで、名雪はこんなにも穏やかな寝顔を見せてくれる。
 悪い気はしない。
 俺といることで、名雪はこんなにも安らいだ微笑を見せてくれる。
 ――ああ。やっぱり悪い気はしないな。

 起きた時、俺は自分の事を『世界で最も幸福感を味わっている人間』だと思っていた。
 それは間違っていないだろう。しかし、今のこの瞬間なら、その時の俺ではきっと世界で1番目にはなれないと思う。
 何故なら、更に幸福な者が存在しているのだから。

 柔らかく暖かい布団。
 耳に優しいスズメの囀り。
 鼻孔を擽る、秋子さんが用意している味噌汁の香り。
 名雪の温もり。名雪の柔らかさ。名雪の存在。
 名雪を愛しいと感じる己。触れ合う身体と重なり合う心。

 目覚ましが鳴るまで、まだ若干の余裕がある。
 それまで堪能するとしよう。
 世界で最も幸福感を味わっている人間の栄誉を。

 俺は、そっと目を閉じた。



 もとい。
 俺は目を閉じる事が出来なかった。
 閉じようとしたまさにその瞬間、階下から声が聞こえてきた為に。

「すみません、秋子さん。朝早くから押しかけてしまいまして……って、栞!? 待ちなさい!」

「栞さん、抜け駆けだなんて酷な事をなさらないで下さい。人として不出来ですよ」

「早い者勝ちです! 祐一さんはわたしが起こしますので、お姉ちゃんと美汐さんは後からゆっくりやってきて下さい」

「あらあら、祐一さんってば相変わらずモテモテですねぇ」

 そう、よく知っている聞き覚えのありまくる声が。

「か、香里に天野に栞!?」

 先程までの幸せ気分など一気に吹き飛んだ。
 やばい。やばすぎる。
 断っておくが、俺は別にあいつらを嫌ってるワケじゃない。迷惑にも思ってない。むしろウェルカムだ。
 いつもなら。普通なら。
 けど、今は普通じゃない。
 聞こえてきた会話から判断するに、あいつらはどうも俺を起こしに来たらしい。
 起こしに来た、ということは当然俺の部屋にやって来るワケで。

「……くー……くー……」

 激やば。
 あの3人にこんな状況を見られたらどうなることやら。
 秋子さんの『あらあら』以上に危険な事態になりそうな気がする。特に肉体的に。

「ど、どうするどうする!? と、とにかく名雪を起こさないと。おい、名雪! 起きろ! 名雪!」

「うにゅー」

 焦る俺を余所に、名雪はスヤスヤと睡眠真っ只中。目を覚ます気配ゼロ。

「ちっ! やはりそう簡単には起きないか。じゃあ、どうする? 仕方ないからベランダにでも放り出しておくか? ……いや、さすがにそれはまずいだろ、人として。つーか、そんな事をしたら後で絶対に痛い目に遭うだろうし。金銭面でも精神面でも肉体面でも。具体的にはイチゴサンデーとか生姜とか」

「ま、待ちなさい、栞!」

「くっ。栞さん、歩く足が速いですね」

「それはね、胸に重りを付けてないからよ。あと、身体に凹凸が無いから空気抵抗も受けないし」

「なるほど。深く納得しました」

「え、えぅー!? そんなこと言うお姉ちゃんと美汐さんなんてだいっきらいですぅー!」

「あらあら」

 お互いに足を引っ張り合っている所為か、三人組の歩みは亀の如くだった。
 余所様の家でドタバタと走るような無作法な面々でもないし。特に香里と天野は。
 とはいえ、さして広くも無い一般住宅である水瀬邸。

「さて、それじゃ早速♪」

「こーら。待ちなさい、栞。まずはノックしてからよ」

「そうです。親しき仲にも礼儀ありです」

 大した時間を掛けずに――俺の考えが全く纏まらないうちに――三人は目的地である俺の部屋の前にまで到達した模様。
 三人の会話の後、コンコンとノックの音が室内に響く。

「……おぅ、じーざす」

 俺は神に祈った。思い付く限りのあらゆる神々に。
 だが、それが届く事は無く。
 願い空しく、カチャッという妙に軽く感じられた音と共にドアが開かれた。



 嗚呼、今日もいい天気だ。
 素晴らしい朝を迎えられた事を感謝し、大きな声で唱えよう。
 おはようございます。今日という日にこんにちわ。


「ま、待て! 話せば分かる! まずは話し合おうじゃないか! 誤解なんだ、これは誤解なんだ! だ、だから、ちょっと、待てって、待……にょええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっっ!」


 そして、さようなら。