『藤田』
『藤田あかり』
自分でその名を書いた瞬間、あかりの脳裏に甘い衝撃が轟き渡った。
雑誌で見付けた可愛いクマのぬいぐるみ。
それを通販で購入しようと思ったあかりは、お金を振り込む為に郵便局へとやって来ていた。
郵便振替の記入用紙。一枚手に取り、名前の欄を書こうとして、ふと思った。
(うち、表札は『藤田』だから、神岸の名前で申し込んだら、配達の人がちょっと困惑しちゃうかも)
そう考えたあかりは、何気なく名前欄に『藤田あかり』と書き込んだ。その名前を目の当たりにした。
――途端、
「……はふぅ」
あかりは強い喜悦に見舞われた。
思わず艶めいた吐息を漏らしてしまう。
『藤田あかり』
なんと甘美な響きであろうか。なんと甘美な綴りであろうか。
自分で書いた文字なのに、あかりにはそこだけ輝いてすら見える。
それを眺めているだけで、どうしようもなく頬が緩んできてしまう。
「ううっ。だ、だめだよ。この名前は、わたしにはまだ刺激が強すぎるかも」
ドキドキを高鳴る胸を押さえつつ、あかりは『神岸あかり』の名で書き直す為に新たな用紙を手に取った。
「や、やっぱり『神岸』にしとこう。今はまだ、こっちの方が落ち着くしね、うん」
そう言いながらも、
「……ふぅ」
未練有りげにチラチラと『藤田あかり』と記入された用紙を盗み見ては、蕩けきった甘ったるい吐息を無意識に零してしまうあかりであった。
○ ○ ○
最近、セリオにはささやかな楽しみがあった。
「あの、すみません。こちらに告知してある品を注文したいのですが」
それはCDショップでの予約。もちろん、頼むのは専ら特撮系の主題歌やサントラ。
――が、セリオの『楽しみ』に於いて、購入商品の内容はあまり関係がない。
彼女が本当に楽しみにしているのは、
「畏まりました。では、こちらの用紙にお名前とお電話番号、ご住所のご記入をお願いします」
「はい」
『申し込み用紙』に記入することなのだから。
「えっと……藤田、セリオ……っと」
この手の用紙に記入する際はフルネームが基本。そうなると、当然、苗字も書かなければいけない。
そして、今のセリオにとっての苗字といえばもちろん『藤田』。
公の場で、他者の視線がある中で、自分の手で『藤田セリオ』の名を書き込む。自分の目で『藤田セリオ』の名を見る。
ただそれだけの事。
なのに、セリオの全身に恍惚にも似た痺れが走る。
さらに、トドメとばかりに、
「それではご確認させていただきます。お名前は藤田セリオ様ですね」
店員によって音にされる『藤田セリオ』の名。
思わず「はふぅ」と蕩けた吐息を零してしまう事もしばしば。
「はい、承ります。ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」
引換券を手渡しつつ頭を下げる店員。
その声を耳にして、(ええ、必ず。絶対に)と胸の中でどきっぱりと言い切るセリオだった。
○ ○ ○
女だけで設けられたお茶会。
「――ということがあったんだよ」
その席で語られたあかりとセリオの体験談やら何やら。
それを聞いて他の面子も当然のように興味を覚えた。
つまり「そんなに威力があるのか」と。
そして、その興味に導かれ、物は試し、と軽い気持ちで全員で名前を書いてみた。
で……
――『藤田智子』『藤田綾香』
「まあ、悪くはない……かな?」
「そうね。意外と、ね」
淡々と感想を述べる知性派ふたり。尤も、冷静っぽく装ってはいるが、ほんのりと染まった頬が全てを台無しにしている。
――『藤田理緒』『藤田葵』
「な、なんだか、すっごく照れくさいね」
「……は、恥ずかしいです」
羞恥から、思わず顔を手で覆ってしまう理緒と葵。但し、指の間からしっかりと文字を凝視。
――『藤田レミィ』『藤田マルチ』
「MARVELOUSネ! アタシ、今日からこのナマエを名乗ろうかな。アハハ」
「藤田マルチ……藤田マルチ……えへへ♪」
レミィとマルチが楽しそうに満面の笑み。本気でお気に入りの様子。
――『藤田琴音』
「藤田琴音。ああっ、素敵です。琴音という名前にこれほどフィットする苗字が他にあるでしょうか。素晴らしすぎます。やっぱり、わたしと浩之さんは出会うべくして出会った運命だったのですね。きっと、生まれる前から赤い糸で結ばれちゃってたりしたんです。それでそれで……」
頬に手を添えてうっとりとした表情になる琴音。よくわからないが、取り敢えず相変わらず絶好調。
――『藤田芹香』
「…………」
何気に来栖川製の占いゲームなどに『藤田』姓を使って参加・協力していたりする芹香。その分他の皆よりは耐性が付いているが、それでも頬を染めて目をトロンとさせている。
試してみた結果、見事に全員ノックアウト状態。思いの外、威力ありまくり。
『藤田』
あかりたちにとって、それはきっと魔法の苗字。
どんな呪文よりもパワーを持った幸せのキーワード。
皆、近い将来に自分がその苗字に変わることを想像し、また変わった後へと思いを馳せ、瞳を潤ませて恍惚の表情を浮かべてしまうのだった。
ちなみに、この話は瞬く間に友人知人へも広がっていった。
そして、至る所で色々な反応を呼び起こしている。
「千堂瑞希、かぁ。……や、やだ。なんか顔が熱くなってきちゃった」
「長瀬沙織。え、えへへ。えへへへへ」
頬を赤らめて照れまくる者。
「ねえ、冬弥くん。今度からテレビに出る時は藤井理奈にしてもいい?」
「じゃあ、わたしは藤井由綺で♪」
「……本気で勘弁してください。つーか、いじめ? いじめなのか?」
面白がる者。
「柏木千鶴。……もう! どうして耕一さんは柏木なんですか!? これじゃ、ちっともドキドキできないじゃないですか」
「な、なんかよく分からんが、なにやらとんでもなく不条理な文句を言われてる気がするのですがこれ如何に?」
愚痴る者。
まさに種々様々。
けれど、胸の内にある想いは唯一つ。
この愛すべき『苗字』と共に、いつまでもいつまでも。