『小鳥と忠犬』



「んーと、そろそろ千早ちゃんが来る頃かしら」

 愛機であるM○○2+のキーボードから指を離し、なんとはなしに時計へを視線を送るとそこに表示されている時間は午後1時59分。
 確認の為にスケジュール表を見ると『如月千早:午後2時からボイスレッスン』の文字。

「時計ではあと10秒ね。……8、7、6」

 なんとなくカウントダウンなんかしてみたりして。

「3、2、1、0」

「おはようございます」

 私が「0」と言うと同時に、事務所のドアをガチャッと開けて入ってきたのは誰あろう千早ちゃん。
 ……えーっと。
 お姉さん、ビックリ。まさか本当に2時ピッタリに来るとは思わなかったわ。
 前々から時間には正確な娘だとは思っていたけど、まさかここまでだなんて。
 巷で囁かれているメカ説を少しだけ信じてみたくなっちゃったかも。

「音無さん? どうかしたんですか、なにやら呆けた顔をしてますけど?」

「えっ? あ、ううん。なんでもないの。おはよう、千早ちゃん」

「はい。おはようございます、音無さん。てっきり、また何か危険な妄想でもしているのかと思いました」

「ひどいなぁ、千早ちゃん。私、妄想なんてしないわよ。……たまにしか」

 ごくごく稀に『人類滅亡』とか考えちゃったりしますけど。
 でもでも、それくらい可愛いものですよね。その程度の想像、誰でもしますよね。
 だから、千早ちゃん。その物言いたげなジトーッとした目はやめて欲しいなぁ、なんてお姉さん思うの。

「たまに、ですか? まあ、いいですけど」

 あと、できればため息もやめて欲しいなぁ。お姉さん、ちょっぴり傷つくから。

「……それはさておき。音無さん、お一人なのですか?」

 千早ちゃんは事務所の中を見回して尋ねてきました。

「あの、プロデューサーは?」

「プロデューサーさん? それが、まだ帰ってきてないのよ。レコード会社に打ち合わせに出てるんだけど、少し長引いてるのかな? ホントだったら、もう戻ってきていてもいい時間なんだけど」

「……そうなんですか」

 私からの回答を受け、明らかに気落ちした声を出す千早ちゃん。
 ええ、それはもう見事なまでに声のトーンがガクッと急降下しました。

 如月千早は常に冷静で落ち着いていてクール。

 ファンも同業者も、千早ちゃんに対してそういうイメージを持っている人は多いです。
 けど、実際はそうじゃないんですよね。千早ちゃんって、何気に感情が物凄くハッキリと表に出る娘だと思うんです。
 現に今もそう。あからさまにガッカリオーラを纏っちゃってます。
 寂しさに彩られた、捨てられた子犬の様な表情が……何と言いますか、とっても萌え萌え。ギュッと抱き締めたくなる可愛さです。
 そんな顔を見ていると思わずムラムラと……もとい、イタズラ心なんかもちょっぴり湧き上がってきちゃったりして。

「まあ、さすがにそろそろ帰ってくるんじゃないかしら。お茶を淹れるから、それでも飲んでゆっくり待っててね。千早ちゃん、コーヒーでいい?」

「あ、はい。ありがとうございます」

「それにしても……」

「なんですか?」

「千早ちゃん、ものすごく残念そうな顔と声をしてるわよ。ほんと、よっぽど好きなのね」

「え? ええっ!? な、なな、なにを言ってるんですか、音無さん。す、好きだなんて……違います、違いますからね。へ、変な勘違いしないで下さい」

 顔を朱に染めてアタフタする千早ちゃん。期待通りのリアクションをしてくれて、お姉さんとってもとっても嬉しいわ。

「勘違い? そうなの? なんで? 千早ちゃん、好きなんでしょ。『歌』」

 自分で言うのもなんですが、今の私は邪悪な笑みを浮かべてると思います。

「……へ? う、歌?」

「あら? あらあら? ひょっとして、千早ちゃんは『好き』という言葉から違うものを連想したのかしら?」

「……あ、うう……ぁぅ」

 千早ちゃん、既に全身が真っ赤です。おもしろ……じゃなくて、可愛すぎてニヤニヤが止まりません。

「なるほどなるほど。私はてっきり、大好きな歌のレッスンが遅れることが残念で気落ちしてるんだと思ってたんだけど……どうやらそうじゃなかったみたい、ね」

「そ、それは……その……」

「ねえねえ、千早ちゃん。『歌』じゃないのなら、何のことだと思ったの? 『歌』より優先されちゃう千早ちゃんの『好き』。お姉さんに教えて欲しいなぁ」

「そ、そんなの……言えません。言えるわけないじゃないですか。音無さん、いじめないでください」

 千早ちゃんってば羞恥で涙目になっちゃってます。その表情がまた萌えで、『いじめてオーラ』が漂っていて嗜虐心がくすぐられまくりだったりするのですが、さすがにこれ以上は可哀想かしら。

「ふふ、ごめんなさい。あまりにも千早ちゃんが可愛いから、ついついからかっちゃった」

「も、もう。ひどいです、音無さん」

「ごめんね。もうしないから許して。……それにしても、千早ちゃんも大変よね」

「大変? なにがですか?」

「だって、プロデューサーさんは人気者だもの。ライバル多いじゃない」

「そうなんですよね。春香とか萩原さんとか水瀬さんとか、あずささんに美希、それから……」

 深々と吐息を零す千早ちゃん。――が、すぐにハッとした顔になりました。

「ち、ちち、違います。違うんです。私はそんなの気にしてません。べ、別にプロデューサーのことなんて……」

 ごめんなさいね、千早ちゃん。お姉さん、アッサリと前言撤回しちゃう。

「ふふっ。千早ちゃんってば可愛い」

「な、なに言ってるんですか」

「千早ちゃんモエモエー♪」

「そ、そういう言い方はやめてください。あーん、もう。からかわないでくださいよ、音無さーん」

 ごめんね。それ、無理。



○   ○   ○



 コーヒーを飲みながら千早ちゃんをオモチャにして遊んで……もとい、私と千早ちゃんが楽しく戯れ合っていると、

「ただいま戻りました」

 待ち人来る、です。

「あっ。お帰りなさい、プロ……」

「プロデューサー! お帰りなさい。お疲れ様でした」

 遮られる私の言葉。吹き抜ける風。
 たった今まで目の前で座っていたはずの千早ちゃんですが、気が付けばプロデューサーさんの隣に。
 は、はやっ。

「うん、ただいま。遅くなってごめんな、千早。待たせちゃったか?」

「いいえ。私もついさっき来たばかりですから」

 千早ちゃん、デートの待ち合わせじゃないんだから。
 ちなみに、今は2時35分。ちっとも『ついさっき』じゃないのですが、その辺を突っ込むのは野暮の極みなので黙っておきます。
 それに、わざわざ言うまでもなく、プロデューサーさんだってきっと分かってるはずですしね。この事務所の誰よりも千早ちゃんのことを理解している人なのですから。――但し、恋心は除く。

「そっか。それならよかった」

 そう言いつつ、千早ちゃんの頭をポンポンと撫でるプロデューサーさん。

「も、もう! やめてください、プロデューサー。子供扱いしないでください」

 言葉とは裏腹に、千早ちゃん、ものすっごく嬉しそうな顔です。溢れんばかりの笑顔です。
 ついでに言うと、尻尾もブンブン振られてます。とってもご機嫌ですね。
 ――って、尻尾!?
 あ、あれ? 千早ちゃんのお尻から犬の尻尾が……。え、えっと、きっと気の所為ですね。幻視です、錯覚です。……うん、そういうことにしておこう。『忠犬』なんて単語が脳裏に浮かんでしまったのはここだけの秘密です。

「はは、ごめんごめん。さてと、それじゃ早速レッスンを始めようか。いいかな?」

「はい。ご指導、お願いします」

「よしっ。今日も頑張ろうな」

「はい!」

 気合を入れるプロデューサーさんと千早ちゃん。
 そんな二人に私からも激励を。

「プロデューサーさん。レッスン、頑張ってくださいね」

「はい。ありがとうございます、小鳥さん」

「千早ちゃんも頑張るのよ。いろいろと、ね♪」

 千早ちゃんに向けてパチッとウインク。それはもう意味ありげに。

「お、おおお、音無さん!」

「ん? いろいろと? どういうことですか、小鳥さん?」

「ぷ、プロデューサーは気にしなくていいんです! さあ、行きましょう! 早く行きましょう!」

「へ? ち、千早? なんでそんなに急いでるんだよ? お、おい、押すなって。ちょ、危な……」

 騒々しく事務所を出て行くプロデューサーさんと千早ちゃん。
 そんな二人を見送ってクスッと微笑。

「ふふっ。ちょっといじわるだったかな。千早ちゃんってば、からかうと可愛くて面白いんだもん」

 千早ちゃんの照れた顔を思い浮かべつつ、私は小さく小さく呟きました。

「ライバルが多いけど頑張ってね、千早ちゃん」

 誰にも聞かれないように、細心の注意を払って。

「本当に頑張ろうね……お互いに」