暗い道を一人の少女が走っていた。
 何かを追い求めるように。
「お父さ――ん、お母さ――ん。待ってよ――!」
 少女から少し離れた場所を歩いていた男女は、その声を聞いて立ち止まり、少
女の方を振り向いた。
「さよならだ」
「あなたといっしょにいるわけにはいかないの」
 追いついてきた少女に語りかけた男女は、再び少女を背に歩き出した。
「どうして、どうして私を捨てるの? お父さ――ん、お母さ――ん!」
 少女は大声で叫んで男女を再び追いかけ始めた。
 だが、男女は一言だけ言い残して少女の目の前から消えた。
「それはお前が――」
「それはあなたが――」
 その瞬間少女の時が止まり、全てが闇に消えた。

「あれ、ここは?」
 暗い道の上、先ほどの少女は大人の女性に成長していた。
 周りを見回す女性の目の前には、一人の男性がいた。
「あれは、おじさま!」
 女性はあわてて男性に駆け寄ろうとしたが、男性に近づくことはできなかった。
「どうして全然近づけないの、どうして?」
 あわてる女性に、男性が話しかけた。
「当然だ、近づけやしないよ」
「どうして、どうしてなの、おじさま!」
「だって、お前は――」
 男性は女性の目の前から消えた。

「そ、そんな……」
 がっくりと肩を落とした女性の前に、三人の女性と一人の男性が現れた。
 やがて三人の女性が、その女性に向かって口を開いた。
「さよなら、千鶴姉」
「千鶴姉さん、さようなら」
「バイバイ、千鶴お姉ちゃん」
 彼女たちの言葉は、その女性、千鶴を驚かせるのに十分な物だった。
「な、何を言ってるの、あなたたち?」
 だが三人は一言発すると、千鶴に背を向けた。
「だって、千鶴姉は――」
「千鶴姉さんは――」
「――だもん、お姉ちゃんは」
  三人は、闇に消えた。
「みんな、いなくなってしまう……どうして、こんなことが……」
 呆然とする女性に、最後に残った男性が話しかけた。
「お別れだね、千鶴さん」
「そ、れって、どういう意味ですか、耕一さん」
「どうって、そのままだよ」
 男性は少し微笑みながら答えた。
「理由を教えてください、どうしてあなたまで私から離れるんです! あなたま
で、あなたまでいなくなってしまったら……私は……」
 女性の叫びに、男性は冷たい口調で答えた。
「それはあなたが……鬼の娘(こ)だから」


-------------------------------------------------------------------------------- 『藤田家のたさい』外伝

柏木家の幸せ〜泣いた鬼が微笑むとき〜

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「うーん、耕一さん……」 「千鶴さん、千鶴さん!」 「行かないでください……」 「千鶴さん!!」 「うーん……は、はい!」  千鶴が目を覚ますと、目の前には心配そうな顔をして彼女を見つめる耕一の姿 があった。 「どうしたの、千鶴さん。うなされてたけど。それに、すごい汗だよ」  心配そうに聞く耕一に、千鶴は引きつった笑みを浮かべながら答えた。 「いえ、そんな心配しないでください。ちょっと怖い夢を見ただけですから」 「怖いって、またなの。この間もうなされてたけど、一体どんな夢なの? なん か『行かないで』って言ってたような気もするけど」 「それは……ちょ、ちょっと忘れちゃいました。あはは、おばかさんですね、私」 「忘れたって言っても……」  なおも気にする耕一をよそに、千鶴はベッドから出て話を無理に切り上げた。 「忘れちゃった物はしょうがないですよ。とにかく怖い夢だったんです。さあ、 耕一さんも起きてください。遅刻しちゃいますよ」 「……うん」  どこかすっきりしなかったが、千鶴に話す気がない以上、耕一は千鶴の言うこ とに従わざるを得なかった。 「耕一、千鶴姉どうだった? やっぱりうなされてた?」 「ああ、まただよ」 「そっか。一体どんな夢なんだろう」 「わからない。けど千鶴さんによれば、すごく怖い夢みたいだけど」 「らしいね」  朝食のときこそこそと会話をしていた耕一と梓の視線の先には、ほとんど食事 に手をつけていない千鶴がいた。 「何を思い詰めてるのかわからないけど、あそこまで悩むなんて心配だよ」  千鶴の様子を、梓は心配げに見つめていた。 「そうだな」 二人の会話が続く間も千鶴は下を向き、ずっと暗い顔をして黙っていた。  耕一は、千鶴が心配で少し暗くなっていた梓に、努めて明るく言った。 「とにかく、これで五日。いいかげん千鶴さんの体が心配だ。俺が今日こそなん とか聞いてみるから、心配するな梓」 「……うん」  だが千鶴は、その日の仕事中もずっと沈んだ顔をしていた。  耕一が何を聞いても「なんでもない」を繰り返すだけだった。  五日間、ずっとこの状態が続いていた。  仕方なく、耕一はトイレに行くふりをして、大学にいる楓に電話をした。 「ねえ、楓ちゃん。ちょっと相談があるんだけど」 『はい、なんですか』 「千鶴さんのことなんだけどさ、もう千鶴さん、限界だと思うんだ」 『そうですね、顔色もずいぶん悪いですし、病院にも行こうとしませんし』 「だから、原因を調べたいんだ。協力してくれるかい?」 『わかりました。で、何をするんですか?』 「えっとね――」  十数分後、楓との相談を終えた耕一は会長室で、必死に千鶴に謝っていた。 「だから、浮気じゃないって。信じてよ、千鶴さ――ん」 だが千鶴が元気だったのはこのときだけで、それ以外はやはり千鶴に元気はな かった。  家に帰るなり、千鶴は「気分がすぐれない」と言って部屋に引っ込んだ。  千鶴の様子がおかしくなって五日たつが、食事までとらないのは今日が初めて だった。  耕一は、今日絶対行動しなければならないということを確信した。  夜、耕一たちは千鶴のいない寂しい夕食のひとときを過ごしていた。  そのため夕食中の会話は、どうしても千鶴の事が話題にならざるをえなかった。 「千鶴お姉ちゃん、大丈夫かな」 「どうかな、かなり沈んでるからね。あまり楽観はできないよ」 「耕一、やっぱり理由、聞けなかったんだろ?」 「そういうこと」  全員がはぁっとため息をついた。 「それにしても耕一さん、本当にあんなことをやるんですか?」  楓が複雑な表情をして耕一にたずねた。  耕一も複雑な表情をして答えた。 「うん、やむを得ない処置だよ。千鶴さんには悪いと思うけどね、命には変えら れないよ。千鶴さんには、あとで俺がきっちりと謝る」 「そうですか……では、夜に」 「そうだね」  二人の会話についていけなかった梓と初音が、耕一にたずねた。 「なんだよ、二人して」 「そうだよ、私たちにも教えてよ」  耕一は二人に寂しそうな笑みを浮かべて言った。 「あとで教えるよ」 「あとでっていつなの?」  二人は耕一をにらんだ。 「えっと……ふぅ、わかったよ。二人にも同席してもらおう。いいね、楓ちゃん」  楓はこくりとうなずいた。 「そういうことだから、みんな、午前零時、千鶴さんの部屋の前に集合して。説 明はそのときするから」  梓たちは黙ってうなずいた。  集合の時刻になった。  千鶴の部屋の前に、耕一たちが集合した。  全員を見回した耕一は、声を殺して梓たちに説明を始めた。 「じゃあ説明するよ。千鶴さんにはきっと何か心配事があって、その心配事を象 徴するような夢にうなされていると思うんだ。だけど千鶴さんは、誰にも絶対、 心配事も夢の内容も言おうとしない。これじゃ俺たちは千鶴さんの力になってあ げられない。だから、楓ちゃんの能力を使って、その夢の内容を俺たちが知るん だ。そうすれば、きっと千鶴さんの力になってあげられる。ね、楓ちゃん」  楓はこくりとうなずいた。 「はい。仮に耕一さんの読みが外れていて、千鶴姉さんは純粋に悪夢に苦しんで いるだけだとしても、姉さんを立ち直らせる鍵はきっと夢にあるはずです」  だが、初音はいぶかしげな顔をしていた。 「その鍵が夢にあるっていうのはいいとしても、本当にできるの、楓お姉ちゃん。 人の夢を覗くなんて」 「ええ、できるわよ。要するに、テレパシーの応用みたいなものなの。それでみ んなが私と手をつなぐことによって、私が見た千鶴姉さんの夢をみんなの脳に送 るの」 「そっか。だから千鶴お姉ちゃんに悪いと思ったんだ」 「プライバシーの侵害、だからね。それに、必死で千鶴さんが隠そうとしてるこ とだし。でも、千鶴さんの体はもう限界だ。そんなことを言ってる場合じゃない。 一刻も早く千鶴さんの悩みを解決する必要がある」  耕一は話を終えると、ドアノブに手をかけた。 「みんな、千鶴さんはたぶん眠っていると思うけど、用心するに越したことはな い。俺がまず入るから」  耕一ゆっくりとドアを開け、人が動いている様子がないのを確認したあとで、 そっと千鶴の部屋に入った。 「気配を消してっと」  部屋に入った耕一は、眠っている千鶴の顔をのぞき込んだ。  千鶴は朝と同じようにうなされていた。 「千鶴さん、こんなに震えて……」  耕一は千鶴を苦しめているものに対して、やり場のない怒りを感じた。  そのあと千鶴が目を覚まさないのを確認した耕一は、部屋の様子を覗いていた 梓たちに向かって黙ってうなずいた。  それを見て梓たちは部屋に入っていった。  四人は、部屋の中にそろうと互いにうなずきあった。 「じゃあ始めるよ。楓ちゃん、お願い」  耕一が楓に言うと、楓は千鶴の胸に右手を置いた。  耕一は楓の左手を握った。  梓は耕一の、初音は梓の、それぞれ左手を握った。 「千鶴姉さん、ごめんなさい」  楓が目をつぶって精神を集中させると、全員の脳に千鶴の夢のイメージが流れ 込んできた。 「こ、これって……」 「なんて哀しい夢なの……」  目をつぶった耕一たちの脳に流れてきた、千鶴の夢のイメージは、あまりにも 哀しかった。  「鬼の娘」という理由で千鶴が両親や耕一たちから拒絶される夢。  朝、千鶴が見た夢とまったく同じだった。 「も、もう、これ以上は、ダメ……!」  しばらくして哀しさにたえきれなくなった楓が、千鶴の夢を見るのをやめた。  同時に耕一たちの脳からも、千鶴の夢が消えた。  四人は黙って千鶴の部屋を出ていき、梓の部屋に移動した。  しばらく四人は床に座ったまま呆然としていた。  やがて、楓が話し始めた。 「あれが、千鶴姉さんの悪夢。じゃあ、姉さんの悩みって……」 「『鬼の娘』つまり鬼の血が原因で、俺たちが千鶴さんから離れてしまう夢、か。 ということは、今でも千鶴さんは、鬼の血のことを……くそっどうして気づいて やれなかったんだ。千鶴さんがあんなに苦しんでいたのに!」  耕一は悔しそうに床を叩いた。  そんな耕一に楓が優しい声で話しかけた。 「耕一さん、悔やんでも何も変わりませんよ。それよりも、今どうすれば千鶴姉 さんを助けてあげられるのか考えましょう。それが、家族としての私たちの役目 です」 「楓ちゃん……そうだね、ごめん。千鶴さんがこんなときだからこそ俺がしっか りしなきゃいけないのに」  耕一は顔を上げ、 「ちょっと、考えさせて」  と言って黙り込み、再び下を向いた。  その様子を見て、梓たちも黙って考え始めた。  四人はしばらく何も言わずに考え続けた。  やがて、耕一が口を開いた。 「みんな、考えたんだけど、鬼の力を使って心に干渉するような乱暴な解決法は あまりとりたくない。だから、俺に任せてくれないかな」  耕一の言葉に、全員が驚いたように耕一を見た。 「耕一、千鶴姉はかなりまいってるんだ。そんな悠長なことを言ってる場合じゃ ないだろ。多少乱暴でも、鬼の力を使った方がいいんじゃないのか?」  梓がそう言うと、耕一は彼女をじっと見つめて答えた。 「わかってる。だから明日一日だけでいい。明日一日だけでいいから俺に任せて くれ。頼む」 「耕一、あんた自信あるのか。今まで何を言っても、何もやってもだめだった千 鶴姉を、明日一日で本当に立ち直らせることができるのか?」 「ああ。100%ではないにしろ、自信はある。だから頼む、俺にやらせてくれ。 千鶴さんを、俺の大切な人を、あんな鬼の血なんかで死なせたくない。いや、死 なせてたまるか!」  耕一はぐっと拳を握った。  そんな耕一を見て梓はふっと笑った。 「わかったよ、耕一」 「梓」 「あんたがそこまで言うんだ、頼んだよ。二人ともそれでいいね、耕一に任せて」  梓の言葉に楓と初音はうなずいた。 「わかりました」 「頼んだよ、お兄ちゃん」 「うん、絶対何とかしてみせる! ありがとう、みんな……あれ、どうした梓?」  梓は腕組みをして耕一を見ていた。 「いや、別に。ただ」 「ただ?」 「ただ、耕一ってこういうときだけはかっこいいよな、と思って。いつもは情け ないだけなのに」 「……おい、梓。それはどういう意味だ?」 「そのまんまの意味だよ。ほら、お礼は?」 「なんで俺が?」 「かっこいいってほめてあげたんだから、お礼を言うのは当然だろ?」 「……あっそ。ありがとうございます」 「どういたしまして……ふふふふ」  梓の部屋に小さな笑い声が四つ響いた。  翌日も、千鶴は暗く沈んだままだった。  食事こそ、耕一が無理矢理食べさせたためなんとかなっているが、誰の目にも、 千鶴の体の限界は明らかだった。  耕一は仕事を早めに切り上げて千鶴を連れて家に帰り、しぶる彼女を無理に散 歩に誘った。  散歩中も、千鶴は一言も話さなかった。  耕一も何も言わなかった。  やがて家の近くまで帰ってきたとき、耕一が千鶴に話しかけた。 「千鶴さん、そろそろ話してくれないかな」 「何を……ですか」 「千鶴さんの心配事。怖い夢の話だよ」 「……夢は、覚えていないと言ったはずです。心配事も……ありません」 「『鬼の娘』」 「な!」  耕一の言葉を聞き、千鶴は立ち止まった。 「どうして、それを……」 「ごめん千鶴さん。昨日、楓ちゃんに頼んで千鶴さんの夢を見させてもらったん だ」 「そう、ですか……」 「だから、話してくれないかな。千鶴さんが何を心配しているのかを」 「話す必要はない、と思います。知って、いるんでしょう?」 「俺が知っているのは夢の内容だけ。千鶴さんが本当に心配していることや、な ぜ心配しているのかは知らない」  耕一は千鶴に背を向けたまま、あくまで淡々と話を続けた。  少しでも気を抜くと、様々な感情が爆発しそうになっていたからだ。 「教えてくれないの?」 「……言いたく、ありません」 「どうして?」 「……言いたくないからです」 「そう。そうやってずっと自分一人で悩みを抱え込み続けるんだ、夫の俺にも言 わないで。それって夫婦間ですることじゃないよね」 「…………」  千鶴は何も答えなかった。だが、その体はがたがたと震えていた。 「そんなんじゃ俺って、千鶴さんの夫をやってる資格なんてないよね」 「…………いやです」  千鶴はぽつりと小さな声を出した。  聞こえてはいたが、耕一はあえて千鶴の言葉を無視した。 「千鶴さん、俺のこと信頼してくれてないもんな」 「……いやです」  先ほどより少しは大きくなったものの、やはり千鶴の声は小さいままだったた め、耕一は再び千鶴の言葉を無視した。 「千鶴さん……」  耕一は必死で感情を抑えていた。  本当はこれ以上、千鶴に辛い言葉を言いたくなかった。  だが千鶴のためと自分に言い聞かせ、あえて耕一は、あらかじめ決めておいた 最後の言葉を言った。  千鶴が悪夢の中で最も哀しんだ、残酷な言葉を。 「信頼しあってないならいっそのこと、俺たち別れた方が――」 「いやです!」  千鶴は大きな声で怒鳴った。  その声がきっかけとなったのか、頭を振って千鶴は叫び続けた。 「いやです、耕一さん! 別れるなんて言わないで、私から離れないで! 私 を一人にしないで! お願い、耕一さん!!」  耕一は千鶴の様子を見ていて、自分が失敗したことに気づいた。  千鶴をあまりにも追いつめすぎたため、彼女は完全に冷静さを失ってしまって いたのだ。  耕一は千鶴の肩をつかみ、乱暴に揺すった。 「いけない、落ち着いて! 千鶴さん!!」 「耕一さん、私を一人にしないで!! 一人にはなりたくない! いや――!!」  だが、いっこうに千鶴に落ち着く様子は見られなかった。 「千鶴さん!!」 「いや、いや、いや――!! ……ング!」  耕一は千鶴を抱きしめ、その唇に乱暴に自分の唇を重ねた。  これでうまくいくかはわからなかったが、千鶴が自分を想ってくれているのな らもしかして、と最後の望みを託したのだ。 「……ぷはっ、はあっはあっ……千鶴、さん……」  息が苦しくなるまで口づけを続けた耕一は、やがて千鶴から唇を離した。 「こう、い、ち、さん――」  千鶴は落ち着きを取り戻し、力が抜けたように耕一に倒れ込んだ。  耕一はそんな千鶴を優しく抱きしめた。 「千鶴さん、ごめん……ごめん……」  千鶴は幸せそうに目を閉じ、耕一の胸に顔を埋めていた。 「耕一、さん……」  しばらくして千鶴が目を開いた。 「落ち着いた、千鶴さん? 大丈夫?」 「あの、私……その、耕一さんと別れるのがいやで、そのあとは……耕一さん、 ずっとこうしてくれてたんですね」 「千鶴さん、ごめんね。俺、千鶴さんに俺たちを頼ってもらいたくて。あんなこ と言って千鶴さんを追いつめて。本当にごめん」  千鶴は耕一に抱きしめられたまま、静かに首を横に振った。 「いいんです、私も悪かったんですから」 「千鶴さん、話してくれるね?」  耕一がたずねると、千鶴は小さくうなずいた。 「その、私、怖かったんです。耕一さんや、梓や楓や初音が私から離れてしまう ことが」 「千鶴さん、あなたの夢では鬼の血が原因で俺たちが千鶴さんから離れていって たけど、現実にそんなこと、起きるわけないだろ。どうしてそんなことを?」 「それは……」  千鶴は口ごもった。 「千鶴さん、お願いだ。話してよ、ね」  やがて千鶴は覚悟を決めたようにうなずいて、話しだした。 「耕一さん、あなたもご存じのように、私の父も母も、そして耕一さんのお父さ まも、鬼の血のために命を落としました。呪われた血のために」 「それはそうだけど。え、もしかして、その血が千鶴さんにも流れているって言 いたいの? でも、親父たちが死んだのは千鶴さんのせいなんかじゃない。千鶴 さんが気にすることなんて――」 「わかってます! 頭ではわかってます……けど、どうしても心のどこかで思っ てしまうんです。私の大切な人を死に追いやった原因は、私の、私の体に流れて いる鬼の血なんじゃないかって」 「千鶴さん……」 「人を不幸にする呪われた鬼の血。その血が流れている私は、いつかまた大切な 人を不幸にするんじゃないかって、ずっと思っていました。鬼の血の宿命を知っ たときから、ずっと……」 「ちょっと待って、千鶴さん」  耕一は千鶴の話を止めた。 「千鶴さん。その言い方じゃ、千鶴さんは俺と再会してからも、結婚してからも、 ずっと悩んでいたってことになるよね。俺は、そんなに頼りなかったの? 千鶴 さんの心の痕を、全然癒してあげられなかったの?」  千鶴はおびえるように耕一を見、ぶるぶると激しく首を横に振った。 「違います、違うんです耕一さん。私自身、耕一さんと再会してから、もう悩み は吹っ切れたつもりだったんです。耕一さんに再会して、耕一さんに想いを伝え て、耕一さんに抱きしめられて、本当にうれしかったんです。うれしくて、楽し くて、悩みは吹っ切れたつもりだったんです……」 「千鶴さん」  耕一は手に力を入れ、千鶴を強く抱きしめた。 「吹っ切れたつもりだったのに、五日前、突然あの夢を見ました。そのあとはも う、だめでした。どんなにがんばっても、あの夢の内容が頭から離れなくなった んです。そうしたら、昔の不安が呼び起こされてきました。私がいる限り、みん なが不幸になるんじゃないかって。そんな不安を思い出してしまったんです。だ から何度耕一さんの前から姿を消そうと思ったかわかりません。みんなを、耕一 さんを不幸にするくらいなら、いっそのこと私がいなくなればって。でも、でき ませんでした。どうしても耕一さんから離れることが、できませんでした。一人 に、なりたくなかった……」 「どうして俺たちに何も言ってくれなかったの? 夢のことにしたって、鬼の血 の不安にしたって、一人で悩みを抱え込んでても、なんにもならないじゃないか!」  千鶴は目に涙をためて耕一を見上げた。 「わかってます。けど、そんなことできるわけないじゃないですか! みんな私 のことをすごく心配してくれてるんですよ。そんなときに、私がまだ鬼の血のこ とで悩んでいるなんて言ったら、みんなにもっと心配をかけてしまいます。いえ、 それどころかみんなが……」  千鶴は耕一を抱きしめている手に力を入れた。 「耕一さんを不幸にしたくない。でも、どうしても私には耕一さんから離れるこ とはできない。耕一さんは、私にとって全てなんです。あなたが側にいない人生 なんて、私にはなんの意味もないんです。だから、ずっとあなたといっしょにい たい……」  千鶴は再びがたがたと震えだした。  耕一は目を閉じ、しばらく何かを考えたあと、ゆっくりと目を開いた。 「なるほど、ようやく鬼の血と、俺たちが千鶴さんから離れること、この二つが つながった。千鶴さん、あなたはそんなことを考えているあなたの心を俺が知っ たら、もしかすると自分のことを嫌いになるんじゃないかって思ったんだね」  千鶴はこくりとうなずいた。 「それから、もし俺が千鶴さんのことを嫌いにならないでも、近い将来、千鶴さ んの鬼の血で不幸になることを恐れた俺が、千鶴さんから離れてしまうんじゃな いかって思ったんだね。だから俺たちになんにも言わないで、一人で悩みを抱え 込んだんだ。そうすれば、俺たちが千鶴さんの心や、鬼の血の悩みを知ることは できないから」  千鶴は寂しげに微笑んだ。 「私、わがままですよね。口では家族の幸せを祈る、なんて言っておきながら、 結局は自分のことしか考えていないんですから。鬼の血の悩みにしたって、結局 は自分のことだけ。本当はみんなを不幸にするかも、ということを一番気にしな いといけないのに……。こんな私なんて、嫌われてしまい――」 「千鶴さん!」  耕一は千鶴の話を遮るように、その肩を叩くように両手を置いた。 「は、はい?」 「自分のことを考えても、いいんじゃないかな」 「で、ですが」 「自分の幸せを考えない人が、他人の幸せを考えることなんてできないと俺は思 う。それに自分の幸せが他人を幸せにすることだってあるんじゃないかな」 「そんなことが本当に?」 「千鶴さんは俺のことを愛してくれていて、俺と離ればなれになりたくないと思っ てくれている。それは俺にとってとてもうれしいことだ。大好きな人にそこまで 想われているんだから。ほら、千鶴さんが自分のことを考えただけなのに、俺の 心まで幸せにしてくれている」  耕一は優しく微笑んだ。 「耕一さん……」 「世の中の人は知らないけど、少なくとも俺たち夫婦は、誰かの犠牲の上に成り 立つ幸せなんてやめよう。千鶴さんが幸せで俺も幸せ。梓も楓ちゃんも初音ちゃ んもみんな幸せ、そうなるようにしよう。だから千鶴さん、俺とずっといっしょ にいよう」 「え……ですが、やっぱりいっしょにいると……」 「それからさ、千鶴さん。あなたがそんなふうに考えなければいけなかった原因、 鬼の血なんだけど、その、月並みな言い方だけど俺を信じてよ。俺は確かに頼り ないかもしれないけど、それでも千鶴さんの鬼の血が引き起こす不幸ならどんな ことがあっても、みんな俺がぶっつぶすから。そうすれば、いっしょにいたって なんの問題もないだろ?」  千鶴は一瞬うれしそうにしたが、すぐにすっと耕一から目をそらせた。 「確かに耕一さんなら、鬼の血の不幸は防げるかもしれません。でも……」 「でも?」 「私といっしょにいてくれるっていうのは、本当なんですか? 私は梓みたいに スタイルはよくないし、料理もできない。楓のように頭も良くないし、器用でも ない。初音のように明るくて、元気なわけでもない。そんな私を、本当に嫌いに ならないんですか?」  不安げに耕一を見上げた千鶴に、耕一は優しく微笑んだ。 「千鶴さんは、確かに味音痴だし、早とちりだし、不器用だし、貧乳だよ。今日 のことだって、一人で悩みを抱え込んだりして。でも、笑顔がとっても素敵で、 側にいるだけで俺の心を暖かにしてくれる、俺の心を優しく包んでくれる。なに より俺のことをとても愛してくれている。そんな千鶴さんが、俺は大好きなんだ。 だから、そんな心配しないで」  耕一は真剣な目で千鶴を見つめた。 「だから千鶴さん、いっしょにがんばろう。すぐには無理でも、きっとその不安 が不安でなくなる日がきっと来るから。ね、俺は千鶴さんのためならなんでもす る。だって千鶴さんは大切な人なんだから。千鶴さんが不安な気持ちになったと きは、その不安が消えるまで俺がずっと抱きしめてあげる。他にも、千鶴さんが 困ってるときは俺が絶対力になるから。だから俺を信じて、ね」  その言葉に千鶴は、ぽろぽろと涙を流し始めた。 「耕一さん、本当、ですね……?」  耕一はゆっくりと念を押すようにうなずいた。 「それから覚えておいて。俺にとっての最大の不幸は、みんなと、千鶴さんと離 ればなれになることだ。それ以上の不幸はない」 「こ、耕一さん。あり、がとう……」  千鶴は耕一の胸に顔を埋めた。 「ありがとう、ありがとう、耕一さん……じゃあ、証拠を、見せてください」  千鶴は耕一を見上げて目を閉じた。 「千鶴さん……」  耕一はゆっくりと千鶴と唇を合わせた。  舌を絡めあい、ひたすら互いの唇を求めあう、恋人同士だけに許された深く激 しい口づけ。 一分、二分、それとも十分続いたのだろうか。  千鶴は今までの不安から逃れるかのように一心に耕一の唇を求め、耕一もまた 千鶴の気持ちを受け止めた。  やがて、二人は頬を紅く染めながら唇を離した。 「千鶴さん、証拠になったかな」 「はい……あの……でも、まだ不安で……その、もう一度」  千鶴は再び耕一を見上げて目を閉じた。 「ふふっ。甘えん坊だな、千鶴さんは」 「いいんです、甘えん坊で」  千鶴は目を開けてにっこりと微笑んだ。 「だから、耕一さんに、ずっとずっといっぱい甘えるんです」  千鶴は再び目を閉じた。 「うん」  耕一は千鶴に唇を近づけた。 「きゃっ」  唇がふれあう瞬間、千鶴が叫んだ。  彼女にばらばらっと何かが投げつけられたのだ。  その声を聞き、耕一はキスを途中でやめた。 「ねえ、どうしたの千鶴さん。ん? これは、豆?」  耕一は千鶴に当たって地面に落ちた物を拾った。 「…………」  千鶴と耕一は、しばらく顔を見合わせて唖然としていた。 「だ、誰!? せっかくのムードをぶちこわしにして!!」  千鶴は豆が飛んできた方向を見て怒鳴った。  そんな千鶴の前に、鬼のお面をかぶった梓たちが出てきた。 「はいはいはい。ラブシーンは終わり! ほんとにもう、妬ける妬ける。見てる こっちの身にもなってほしいよ、まったく……今日は節分だから、鬼の娘の千鶴 姉に豆をぶつけに来たんだよ!」 「そうだよ、福は内!」 「福は内!」  梓たちは再び千鶴に豆を投げつけ始めた。 「痛い、痛いってば! 何するのよ、私のことを鬼、鬼って。そう言うあなたた ちだって鬼じゃないの!」  千鶴が叫んだとき、梓たちはお面を外して千鶴を見た。 「そうだよ、あたしだって鬼だよ」 「私も鬼です」 「わたしもだよ」 「あ、あなたたち……」 「そして、俺も鬼だよ、千鶴さん」  千鶴の背後には、鬼のお面をかぶった耕一が立っていた。 「耕一さんまで……」  呆然とする千鶴に梓が話しかけた。 「千鶴姉。鬼だからどうしたって言うんだよ。そんなの関係ないだろ! 鬼の血 が流れてるから幸せになれないなんて、他人を不幸にするなんてそんなのあるも んか!」 「梓……」 「千鶴姉さん、私たちに嫌われたくないなら、もう少し私たちを頼ってください。 それに鬼の血が呼ぶ不幸なら、私たちみんなの鬼の血の不幸で、うち消しあいま しょう」 「楓……」 「お姉ちゃん、悩みを一人で抱え込む癖、いいかげんやめよう。そんなふうに苦 しんでいるお姉ちゃんを見るの、本当に辛いんだよ」 「初音……」 「千鶴さん、あなたが鬼の血を嫌うのはわかる。俺だって昔は好きじゃなかった。 親父たちはそのせいで死んだんだからね。でもその鬼の血があったからこそ、俺 たちは今こうしていっしょにいるんだ。だから俺は今、鬼の血に、感謝してる」 「耕一さん……みんな、ありがとう……」  千鶴はぽろぽろと涙を流した。 「へへへ、さあ豆まき再開だ! 鬼に豆をぶつけろ! それ!」  梓が千鶴に再び豆をぶつけだした。 「痛いわよ、梓。やめなさい」  千鶴はやんわりと言ったが、梓は千鶴に豆を投げつけるのをやめなかった。 「痛い、痛いってば。梓、いいかげんにしなさい! いた! やめない気ね…… ようし、見てなさい!」  千鶴は家に走って帰ると、大きな袋にいっぱいの豆を詰めて戻って来た。 「ち、千鶴姉。それってまさか……」 「ふっふっふ。さっきはよくもやってくれたわね、覚悟なさい梓! それ!」  千鶴は袋の中から豆をとりだし、すさまじい勢いで梓にぶつけ始めた。  その威力はすさまじく、外れた豆が辺りの木を穴だらけにしていった。  おそらく昔話に出てくるような鬼ならば、一秒もたえられないだろう。 「いて、いて、いて! くそー、本気でやったな! さっきまで取り乱してたく せに!」 「さっきまではさっきまで、話は別よ。こんなこと、本気でやらずにどうするの よ」 「なにを、この年増貧乳寸胴偽善者、お返しだ!」  梓は千鶴に再び豆を投げつけたが、千鶴がそれをよけたため、豆は全て楓に当 たった。  もちろん、その威力も千鶴に負けず劣らずであった。 「あ……ご、ごめん楓」  梓が謝ったが、楓は表情一つ変えずに袋の中の豆をつかんだ。 「許しません」  だが、楓が梓に向かって投げつけた豆は、お約束のように初音に当たった。  言うまでもなく、その威力も半端ではなかった。 「グスッ、ひどいよ、楓お姉ちゃん……」  豆をぶつけられた初音は、目に涙をため始めた。  楓は申し訳なさそうな顔をして、梓を指さした。 「ごめんね、初音。でも本当に悪いのは、よけた梓姉さんなのよ」 「ちょっと待てよ、楓! 元はといえば千鶴姉が悪いんだろ!」 「何を言ってるのよ、あなたの投げた豆に私が全部当たれって言うの? そもそ もあなたが……あ、初音!」  千鶴の視線の先には、耕一に介抱されている初音がいた。 「耕一お兄ちゃん、みんなひどいんだよー」 「大丈夫、初音ちゃん? どれどれ……」 「顔に豆をいっぱいぶつけられたんだよ、ほらー。傷になっちゃうよ。ね、だか ら、キスして治療して!」  初音は耕一を見上げて目を閉じた。 「そ、それ、治療って言うの……え、そう、愛があれば大丈夫? うーん、まあ、 いっか。じゃあいくよ……う、うわわわわわわ!」  耕一の全身に、機関銃で発射されたかのように豆がぶつけられた。  それでも初音にまったく豆が当たらないようにしたのは、さすが耕一である。 「あ、ぎゃが、が……い、痛、い……。み……み、みんなして、何するんだ!」  耕一は自分に豆をぶつけた千鶴、梓、楓の三人に怒鳴ったが、彼女たち三人の 迫力の前にはまったく無意味だった。 「あたしたちが必死で言い合ってるときに、何やってるんだ耕一!」 「耕一さん、本当に私とずっといっしょにいてくれるんですか? 信用なりませ ん!」 「耕一さん、私だって梓姉さんに豆をぶつけられたんですよ。私も治療してくだ さい!」  耕一は三人の剣幕に押されてよろよろと後ずさりした。 「え、そ、そんなこと言ったって……ご、ごめんなさい! 許して!」  耕一は全速力で逃げ出した。 「待ちなさい、鬼――!」  千鶴たちはあわてて耕一を追いかけ、豆を投げ始めた。 「それ――、福は内! 鬼も内!」 「痛い、痛い、痛い!! なんなの楓ちゃん、鬼も内って!!」 「耕一さんも家にいないといけませんから! それ!」 「その通りだよお兄ちゃん! 鬼は内! 福も内!」 「だから痛いってば!! 誰か助けて!!」  このあと一時間もの間、四人の女性のかけ声と、一人の男性の叫び声があたり にこだましていたという。  ――ありがとう、梓。ありがとう、楓。ありがとう、初音。あなたたちが私の 妹で、家族で本当によかった。そして、ありがとう、耕一さん。私の大切な旦那 様。あなたが側にいれば、私はきっとどんな不安でも大丈夫。だから、いつまで も、いっしょに―― <完> --------------------------------------------------------------------------------  〜あとがき〜 真面目な話は疲れる――!! 考えれば考えるほどドツボにはまっていき、自分 が何を書いているのかもわからなくなっていき……。  そこまでしてこの出来か、とは言わないでくださいね(笑)  でも、一番疲れたのはなんといっても柏木千鶴嬢。彼女の苦悩というものを描 きたかったんですが……いやはや。  私は本当に千鶴を描くのが苦手なんです(まあ、今まで梓以外ろくすっぽ描か なかったし)そこで色々考えた結果、彼女の性格をゲーム本編よりも少し自己中 心的な女性として描いてみました。私は千鶴に少しは家族だけではなく、自分自 身のことも考えてほしかったので……。  うーん、こんなので千鶴という女性をうまく描けたかどうか? あんまり自信 がありません。  千鶴ファンの人、何かご意見、苦情などがありましたら掲示板かこちらまで。  もちろん、そうでない人もOKです(笑)  それでは。  あ、楓のせりふ「鬼も内」とは、日本のある地方で本当に言われていることで す。私のオリジナルではありません、念のため。
 だーーーーーーっ(T-T)(滝の涙    ううっ、感動ですぅ。  やっぱり『柏木家の幸せ』は最高ですね。  シリアスな展開にドキドキしながら読み耽ってしまいましたよ。  そして、計算し尽くされた様に的確に散りばめられたほのぼのシーン。  この辺の硬軟自在さは流石です。  ラストの楽しい雰囲気も非常にGOOD♪  まさに大団円って感じですね(^0^)  それにしても……  >年増貧乳寸胴偽善者  容赦ないな、梓(−−;  つばささん、素晴らしいSSをありがとうございました\(>w<)/
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