『すーぱーきねんび』



「ねえ、浩之。今日が何の日か覚えてる?」

 麗らかな午後のひと時。
 ソファーに寝転がって本の世界に浸っていた俺に対し、綾香が唐突に問いかけてきた。
 おのれ、俺の高尚な読書タイムを邪魔するとは良い度胸だ。

「高尚って……漫画じゃない」

「お約束なツッコミをありがとう。っていうか、モノローグと会話するな」

「いいじゃない、今更」

 それを言われるとぐぅの音も出ない。
 どういうわけか、我が家の女性陣は俺のモノローグをいとも簡単に読み取ってしまうのだ。
 これはやっぱりアレか。愛ってやつかね、愛。

「浩之のおつむが単純だから思考を読みやすいだけよ。まあ、愛ってのも否定はしないけど」

「嘆くべきか喜ぶべきか判断に困る回答をさんきゅーべりまっち」

「どういたしまして。それにしても、浩之ってば何を読んでるかと思えば少女漫画? 意外なチョイスね」

 俺が手にした本に視線を送りつつ、綾香が言葉どおりに意外そうな顔をする。

「琴音ちゃんに薦められたんだよ。こういうのって今まで読んだことなかったけど、結構おもしろいもんだな」

「ふーん」

 それに、何気に過激な話とか表現とかあったりして、なんというかドキドキだったりするんですよ、ドキドキ。
 素晴らしいね、少女漫画。主にあっち方面の意味で。

「浩之、なんかエッチな目をしてる。何を考えてるか丸分かりね」

 そんな呆れた目をしないで下さい、綾香さん。仕方ないんです。ボクだって健康な男の子なんですから。

「……コホン。それはそうと、だ。さっき何か訊いてきたよな。えっと、なんだっけ?」

「『今日が何の日か覚えてる?』よ」

「そうそう。それそれ」

 あからさまに話題を逸らす俺。そんな俺に、綾香は『しょうがないわねぇ』という目を向けて苦笑しつつも付き合ってくれる。
 この辺のノリの良さとか、空気の読めるところとか、その辺りも綾香の美点だと思う。
 というか、別に疚しいことなんてしていないのに、何故に俺の思考はこんなにも下手に出てるのだろうか。

「調教の成果かしらね」

 サラリと恐ろしいことを言わないでくれ。あまりシャレになってない気がしなくもないから。地味に信憑性があって怖い。

「まあ、それはさておきだ。今日って何か特別な日だったっけ?」

 強引に話を本筋に戻す。いいかげん脱線多いよ。

「やっぱり覚えてないんだ。そうじゃないかとは思ったけどね」

「う゛。わ、わりぃ」

「いいわよ。覚えてる方が不思議なくらいな事だから」

 クスクスと笑いを零す綾香。
 どうやら俺を非難するつもりは無いらしい。寧ろ面白がっている様にすら見えた。

「そうなのか?」

「そうよ」

 俺からの問いに、綾香は微笑を浮かべて頷く。

「ということは、だ。忘れてしまっていてもおかしくない程に些細な事、だと解釈してもいいのか?」

「んー。行為自体は覚えてると思うわよ。ただ、普通はわざわざ日にちまでは記憶してないでしょうね」

 綾香が、出来の悪い解答者にヒントを出すクイズ番組の司会者みたいな表情を向けてきた。

「なんだそりゃ?」

「なんだと思う?」

 質問に質問で返すのは卑怯で御座いますですよ、綾香さん。
 そうは思っても、今現在、この場で主導権を握っているのは綾香の側。俺としては素直に考えるしか道は無いのであった、まる。

「うーん、なんだろうなぁ。今日……今日かぁ」

 女の子ってのはどうも『記念日好き』なところがあるみたいで、いろんな事を本当によく覚えていたりする。
 例えば、初めてデートをした日。例えば、初めてキスをした日。例えば、初めてチョメチョメした日。等々等々。
 以前、あかりや葵ちゃんが手帳を見せてくれた事があったのだが、その時には本当に驚かされたものだ。至る所に赤丸が付けられており、さながら記念日のバーゲンセール状態。よくもまあ、これだけ大量に記念日を作れるものだと呆れ混じりに感心しつつも……俺との思い出を大事にしてくれている事にちょっぴり感動してしまったのはここだけの秘密。

「初めて会った日、じゃないし」

「あら? それは覚えてるの?」

「まぁな。インパクトあったし」

「へぇ。なんか意外」

 綾香が嬉しそうに微笑む。
 好感度パラメータがピロリンと上昇したっぽい。もしかしてフラグが立ったか?

「なに? あたしを攻略する気? 言っとくけど綾香ルートは難しいわよ」

「望むところだ。難しければ難しいほど燃える。それがゲーマーの心意気ってやつだからな」

「ふーん。ならば頑張って口説き落としてね。主人公くん」

「おう、任せとけ。……って、何の話だ!」

「あははっ」

 ノリツッコミは芸人の基本です。つーか、本当に脱線多いってば。

「話を戻すが……うーん、マジでなんだろう。この時期だからなぁ。まだ、あんな事やこんな事はしてるはずないし」

「何を想像してるかは見当付くけど、取り敢えず、そういう方面からは離れなさいね。もっと健全なことよ」

「健全、ねぇ」

 この時期で健全っつーと。

「ひょっとして、俺とお前が初めて戦った日か?」

「惜しいわね。ニアピン賞ってとこかしら」

「初めてラーメン屋に連れて行った日とか?」

「残念。離れたわ」

「じゃあ……」

 次を言いかけようとしたその瞬間、俺の脳裏にパッと閃くものがあった。
 ああ、そっか。アレか。そうだな、きっとアレに違いない。
 俺にとっては些細な日常の一幕。けど、こいつにとっては本当に楽しかった大切な思い出。

「川原でキャッチボールした日だ」

 自信満々に言い切った俺の答えを聞いて、綾香は微かに虚を衝かれた様に目を丸くし、

「そ。正解よ」

 次いで嬉しげに微笑んだ。

「そうか。しっかし、なんだな。女の子ってのはそんなことまで律儀に覚えてるもんなんだな。すげーよ」

 向けられる眼差しがあまりにも優しくて柔らかくて。
 それに照れくささを覚えた俺は、軽く目を逸らして鼻の頭を掻きながら、そんな無粋なことを口にしてしまう。

「決まってるじゃない。覚えてるわよ。全部、覚えてる。だって……」

 けれど、綾香は怒ることなく、嬉しそうな表情を崩さずにこう言った。

「世界で一番好きな人との思い出だもの」

 大変申し訳ないが、ここで先の言葉に一語付け足しさせていただきたいと思う。
 女の子はやはり律儀だ。そして、そのうえ卑怯だ。
 防ぎようがない、防ごうとする気さえ起こさせないセリフを胸の奥へと直接叩き込んでくるのだから。
 ずるい。ずるすぎる。
 そんなことを言われたら、

「……そっか。じゃあ、俺もシッカリと覚えておかないとな。好きな娘との大事な思い出の日なんだから」

 俺もまた一つ記念日を増やさざるをえなくなるじゃないか。
 頭の中の手帳を開き、今日の欄に赤丸を付け加えた。

 ちなみにこの手帳。すぐにページが抜け落ちたり、真っ白に消えてしまったりする優れ物である。耐久性も信頼性も限りなく低く、全く以って当てにならない。
 ――後でちゃんとした手帳なりに書き記しておくことを心に決める俺だった。

「あ。そうだ、綾香」

「なに?」

「せっかくだしさ、行ってみないか、あの川原」

「え?」

「ボールとグローブを持って、さ」

 俺の提案を聞いて、暫し目をパチクリとさせる綾香。
 だが、次の瞬間、

「うんっ!」

 大きく大きく頷いた。
 思わず見惚れてしまう程の、キラキラと輝いた笑顔を浮かべて。
 その顔を見て、『もしかしたら、今日という日は【キャッチボール記念日】に加え、【その記念日が俺に認識された記念日】にもなるかもしれないな』なんて、些かマヌケな考えが脳裏を過ぎった。そして、そんなことを思った自分に軽く苦笑してしまう。

「ん? どうかしたの?」

「いや、なんでもないさ」

 でも……それはそれでいいのかもしれない。
 マヌケでも何でも、記念日が増えるのは良いことだろう。それが笑顔を伴うなら尚更である。
 一日に赤丸は一つまで。そんな決まりがあるわけじゃなし。二つでも三つでも付ければいい。

「それより、早く行こうぜ。善は急げと言うしな」

「そうね。行きましょ」

「俺の剛速球を見せてやるぜ。取れなくても泣くなよ」

「ふふん、それはこっちのセリフよ」

 俺の手帳の365日。
 その全てが二重三重の赤丸で埋まる日も遠くないかもしれないな。
 そんなことを考えながら、俺はソファーから腰を上げた。



「――で。何故か、こういうことになるわけだよな」

「お約束だもんね。ふふっ」

 芝生に座って一休み中の俺と綾香の視線の先では「はわわっ!?」とか「琴音ちゃん、超能力は反則だよぉ」とか「――えいっ、です」といった声を発してはしゃいでる皆の姿があった。
 まあ、ボールやグローブを探してバタバタしてれば、そりゃ皆にも気付かれるわけで。
 結果、全員揃って川原でのキャッチボール大会。
 尤も、一部ではキャッチボールと呼ぶのもおこがましい行為が行われていたりもするが、その辺は見ないふりをしておく。それが優しさというものであり、長生きの秘訣でもある。たぶん。

「なあ、綾香」

「ん?」

「今日は【キャッチボール記念日】に【その記念日が俺に認識された記念日】。そして【初めて皆でキャッチボールを楽しんだ記念日】。赤丸が三つも付いちまう日になったな。これはもうスーパーだぜ。スーパー記念日だ」

「す、すーぱーきねんびぃ? ぷっ。なにそれ。あははっ、あははははっ。変なのっ」

 綾香が大声で笑い出す。

「な、なんだよ。そんなに爆笑するほど変か?」

「変よ。変すぎ。でも……」

「でも?」

「いいね、それ。うん、いいよ。そういう赤丸が何個も何個も付いちゃうようなスーパー記念日がこれからも増えるといいわね」

「増えるさ。間違いなくな。どんどん増える」

「……うん。そうね」

 皆の歓声をBGMにして微笑みあう俺と綾香。
 琴音ちゃんの「なに二人だけでいい雰囲気を作っちゃってるんですかぁ!」の声が届けられるまで、俺たちの視線が逸らされることはなかった。


 因みに、帰宅後、俺が自分の手帳に赤丸を三つ書き込んだのは言うまでもない。


 更に余談であるが、実は何気に、某短髪格闘少女が【ボールをおでこで受け止めた】とか、某メガネ少女が【ボールを踏んで豪快にこけた】とか、記念日になりそうな珍事も多々あったのだが……本人の名誉の為に見なかったことにしておく。まる。