『すーすー』



「おや?」

 何か飲み物でも貰おうかと、普段は立ち入ることの無いキッチンに足を運んだ俺を出迎えたのは、

「……すー……すー……」

 テーブルに身を預けて、安らかな吐息を零しているあかりの姿だった。

「あかり? 寝てるのか?」

 一目瞭然のことを態々口にしながらあかりの様子を窺う。

「……すー……」

 どうやら完全に熟睡してるようだ。

「こんな所で寝ちまうなんて。疲れてんのかな? まあ、毎日早起きして炊事に洗濯にと頑張ってるからな。無理も無いか」

 俺は冷蔵庫からよく冷えたスポーツ飲料を取り出すと、物音を立てないように気を付けてあかりの隣に腰を下ろした。
 栓を開け、のどにドリンクを流し込みながらあかりの寝顔を眺める。

「しっかし、可愛い顔して寝てやがるなぁ」

 思わずそんな言葉が口を衝いて出る。
 穏やかで、幸せそうな笑みすら浮かべているあかりの寝顔。俺が言うのも何だがマジで可愛い。贔屓の引き倒しに聞こえるかもしれないが、事実なのだから仕方が無い。
 ときどき、クラスの男共からは『神岸さんって良いよな』なんていう想いが込められた熱い視線が、女連中からは羨望の眼差しが注がれたりするのだが、それも無理からぬことだと思う。
 恋をすると女は綺麗になるというのは昔からの常套句だが、あかりを見ているとそれは本当のことなのだなぁと強く実感させられた。
 あかりの恋の対象が俺だという事実に多少の気恥ずかしさを感じないでもなかったが。無論、嬉しさと誇らしさも。

「……すー……すー……」

 規則正しい寝息を立てるあかり。
 何時しか、俺の目はあかりに釘付けになっていた。
 微かに震える睫毛、小さく開かれた口元、身に纏った柔らかな空気。それら全てが愛しく、俺はあかりから完全に目が離せなくなっていた。手にした飲み物を口に含むことすら忘れるほど、あかり以外のことが綺麗に頭から消え去っていた。

「……あかり」

 強く抱きしめたい衝動に駆られる。触れたい、キスしたい、愛したいという抗いがたい欲求が湧き上がってくる。
 だが、俺に残った僅かな理性がそれを押しとどめる。『せっかく気持ちよさそうに寝ているのに、邪魔したら可哀想だろうが』という思いが。

「寝てる相手に手を出そうなんて最低だぞ、俺。そんなんだから『性欲魔人』なんて不名誉な二つ名が付けられるんだよ」

 暫しの悪戦苦闘を経て、どうにかこうにか苦労しつつ理性を抑え込み、ホッと一息つく俺。スポーツ飲料を一気にのどに流し込んで異様なまでに感じた渇きを癒す。

「……ゆき……ゃ……むにゃ……」

 その時、不意にあかりが小さな声で何事かを口にしたのが聞こえてきた。

「ん? 寝言か?」

 なんとなく、本当になんとなくあかりの口元に耳を近づける。
 すると、その瞬間、

「……浩之ちゃん……大好き」

 狙っていたかのようなタイミングで、あかりがそんなセリフを宣ってくれたりした。それも、とろけそうな甘い声で。尚且つ、心底嬉しそうな笑顔を浮かべて。

「っ!」

 何と言うか、今のは来た。かなりグッと来た。不意打ち故に、ストレートに胸に突き刺さった。
 今の気持ちを一言で言うならば……萌え? あかり激萌え?
 つい先ほどまで抱いていた諸々の衝動が再び襲い掛かってくる。

(だ、ダメだっつーの。静まれ。静まるんだ、俺)

 本当なら『煩悩退散』とでも叫びながら壁に頭をガンガン打ち付けたいところだが、そんなことしたら、あかりのやつが間違いなく起きてしまうだろう。
 その為、俺は叫ばす動かずで何とか気持ちを沈静化させようと必死に努めた。
 無言で身悶える様子は、傍から見ていたならば滑稽な光景であるだろう。やってる本人大真面目だが。
 そんな俺の苦労を知ってか知らずか――無論、知ってるわけはないのだが――あかりは相変わらず幸せそうな寝顔を披露していた。

「おのれ、無邪気な顔しおって。人も気も知らんで」

 八つ当たり全開のセリフを宣う俺。
 ところが、その不条理極まりない発言に返ってきたのは、

「……えへへ……浩之ちゃ〜ん♪」

 陰りを欠片すら感じさせない、幸せ百点満点の寝言。

「ったく、しょーがねーなぁ」

 毒気を抜かれ、ついつい顔が綻ぶ。

「夢の中でまで藤田浩之大活躍ってか? お前の頭の中は、本当に俺のことで一杯なんだろうな」

 起こさないように注意しながら、手をポンとあかりの頭に添え、そっと撫でさする。あかりのサラサラとした髪の感触が心地良い。

「……むにゃむにゃ……浩之ちゃ……」

 寝言で俺の名を呼び続けるあかり。夢でも俺のことを一心に想ってくれるあかり。
 その様を見ているうちに、胸の内が――口にするのは恥ずかしいが――慈愛と優しさで満ちていくのが自分でもよく分かった。
 だからだろう。

「あかり。いつもいつも、俺なんかの為に頑張ってくれてありがとうな。俺のことを好きになってくれてありがとう。
 俺もあかりのこと大好きだぜ。お前が俺を想う気持ちに負けないくらい、俺もお前のことを想ってるよ」

 こんなセリフを自然と口にすることが出来たのは。

「……浩之ちゃん……浩之ちゃん……」

「あかり」

 俺たちの周りに穏やかな落ち着いた雰囲気が漂う。
 ――漂うのだが、

「そういう言葉は、あかりさんが起きてるときに言ってあげなあかんで」

「……同感です」

「ヒロユキってば照れ屋なんだからぁ♪」

 そんなマッタリした時間が藤田低に於いて長続きしないのは最早定説と言えよう。
 声の方に振り返ると、ニヤニヤとした何とも表現し難い笑みを浮かべたいいんちょ、もとい、智子に芹香、レミィの三人の姿が。

「うっせーよ。巨大なお世話だっつーの」

 気恥ずかしさを隠すように、俺は殊更ぶっきらぼうな物言いで返した。

「うくく。ホンマに照れ屋さんやねぇ」

「浩之さん、可愛いです」

「そんなヒロユキが大好きネ☆」

 もっとも、俺の内心など彼女たちには筒抜けなのだろう。更なるニヤリ笑いで返されてしまった。

「ったく。勝手に言ってろ」

 少し憮然とした口調で俺がボソッと呟く。
 それが、完全に見透かされている俺に出来る唯一の抵抗だったから。

「……ん。……あふ」

 俺が智子たちと不毛で非生産的な言い合いをしていると、周囲に集まった多くの人の気配を察したのか、あかりが目を擦りながら身体を起こしてきた。

「あ、わりぃ。起こしちまったな」

 あれだけ近くで騒いでおいて『起こしちまった』もへったくれもないが。
 取り合えず、あかりに軽くペコリと頭を下げて謝った。

「ううん、気にしないで。こんなとこで居眠りしちゃったわたしが悪いんだし」

 小さく左右に手を振ってあかりが応える。

「ん?」

 その時のあかりの表情を見て、俺はちょっとばかり違和感を覚えた。

「なあ、あかり。お前、妙に嬉しそうな顔をしてないか?」

「え? そ、そうかな?」

 俺の質問に対して、あかりはあからさまに目を逸らしつつ問い返してきた。
 怪しい。限りなく怪しい。
 まさかとは思うが、こいつ、俺が言ったあのこっ恥ずかしいセリフを聞いていたんじゃ? 実は途中からは寝たフリだったんじゃなかろうか?

「だったら、きっとわたしが見た夢の所為だよ」

「夢? それってどんな内容だったんだ?」

 嫌な予感をビシバシ感じつつ俺は尋ねた。

「それはね。浩之ちゃんがわたしのことを大好きだって言ってくれた夢」

 言いつつ、えへへ〜と照れた様に笑うあかり。

「さ、さいですか」

 間違いねぇ。こいつ、絶対に聞いてやがった。百パーセント黒だ。
 あかりからの答えを聞いて俺は確信した。

 だけど、

「うん。とっても嬉しかったよ♪」

 自分の言葉を証明する様に、心からの笑顔を浮かべるあかりを見ていると、

「そっか」

 ま、いっか……なんて気持ちになってくる。吹っ切れたとも言うが。
 別に、聞かれて困るもんでもなかったしな。どうせ本心なんだし。
 しかし、そうすると、なんか『夢』で終わらせてしまうのが少しだけ惜しい気がしてきた。
 『夢』の一言で誤魔化したくなかった。また、誤魔化されたくもなかった。

「でもさ、夢だけじゃいまいち物足りないだろ。いくら嬉しかったとしてもな」

「え?」

 だから、俺は『現実』とした。

「あかり。俺だってお前のこと大好きだぞ。夢に出てきた俺よりも、現実の俺のほうが何倍もあかりのことが大好きだからな」

 先程と同様のセリフを再度繰り返す。より想いを込めて。あかりの華奢な身体をギュッと抱きしめながら。

「ひ、浩之ちゃん」

 余程予想外の行動だったのか、目を見開き、耳まで真っ赤に染め上げながら硬直するあかり。
 しかし、そんな凍り付きも束の間。

「浩之ちゃん……浩之ちゃん」

 次の瞬間には、あかりは甘えるように俺の胸に頬をすり寄せつつ、腕を遠慮がちに俺の身体に絡み付かせてきた。

「浩之ちゃん……浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん」

 夢見るようなトロンとした顔をして、あかりは何度も何度も俺の名前を連呼する。
 それに応えるように、俺はあかりを抱き入れる腕に更に力を加えた。

「あかり」

 強く強く抱きしめ合う俺たち。俺はあかりを求め、あかりは俺を求めた。

 ――と、ここで終われば、自分で言うのも何だがそこそこの名シーンだったと思う。
 だが、我が家でそんなことが許されるわけがない。
 つーか、あかりだけに意識が向かってしまい、三人のことを見事なまでに失念してしまっていたのは藤田浩之一生で32回目の不覚だった。

「せっかくのラブシーンに水をさすのも悪い気がするんやけど、あかりさんの後で、当然わたしらにも同じセリフを言ってくれるんやろうなぁ?」

「あかりさん一人だけラブラブ。ズルイです。浩之さん、わたしも……」

「ヒロユキ、アタシのこともギューッと抱きしめてほしいネ」

 物欲しそうな視線を送ってくる智子、芹香、レミィ。
 あかりと同じくらいに大切にしている娘たちからこの様な目を向けられて、俺に断ることなど出来ようはずが無い。

「分かってるであります。もちろん了解しているであります」

 結果、俺、即時無条件降伏。
 ただし、ちょっぴりトホホ気味。
 だってなぁ。あんな恥ずかしいセリフをこれから繰り返さなきゃいけないんだぜ。
 こういうのは一回でも素に戻ると辛いんだよ。

「うふふぅ。頑張ってね、浩之ちゃん」

 満面の笑顔で声援を送ってくれるあかりに対して、困った様な照れくさい様な何気に喜んでる様な、いろんな感情が入り混じった複雑な顔を向けてしまう俺なのであった。
 ま、なんのかんのと言っても、俺自身も嬉しかったりするんだけどな。
 俺を求めてくれることが、俺の言葉で幸せを感じてくれることが。


 余談だが、芹香を抱き締めているところを理緒ちゃんとセリオとマルチに見付かったりしたのは既に『お約束』なのだろうか。
 でもって、セリオを抱き締めているところを葵ちゃんに、更にはタイミング良く現れた綾香と琴音ちゃんにまで目撃されてしまったのは……。
 そんなこんなで、結局全員に等しく歯の浮くセリフを言わされたのだが、これもやっぱり『お約束』というものなのだろうか。

 誰か一人だけが著しく得をすることもなく、誰か一人だけが著しく損をすることもなく。
 バランスが取れていると言うか何と言うか。
 なんか、俺らの関係って上手く出来てるもんだなぁと少しだけ感心した今日のこの日。







< おわり >


戻る