『聖なる夜も火者は行く』



 コウヤとの激しい戦いが終わり、ルナシィ事件は一応の決着を見た。
 しかし、だからといって光狩の存在そのものが消えたわけではない。以前ほど活発ではないものの、未だに少なくない数の光狩が残っている。現に、コウヤ戦後も光狩が起こした事件は度々発生していた。
 その都度、あたしたち火者は戦いの場に赴かざるを得なくなる。平日・日曜・祝祭日の隔てなく。深夜でも早朝でも。あたしたちに拒絶することは許されない。
 もちろん、そんなことはとっくに覚悟していた。火者として生きることを決めた時から。
 でも――それでも、

「どうして、よりにもよってクリスマスイブに出てくるのよぉぉぉっ!」

 あたし――七荻鏡花は、叫びを抑えることが出来なかった。
 12月24日。俗に言う聖夜。恋人たちの大切なひととき。一年のうちで一番甘い香りを漂わせる日。
 世の恋人たちと同様に、あたしも静かでムードのある夜を過ごすことになっていた。あたしの最愛のばか男、羽村亮と共に。
 ――にも関わらず凍夜が発生、光狩が出現である。見事なまでに雰囲気ぶち壊し。楽しいクリスマスのはずが、一転して命懸けの戦いに。面白いはずがない。

「まったくですねぇ。ホント、気が利かない光狩です。今日という日の大切さをちっとも理解していませんよぉ」

 あたしと並んで歩いているマナちゃんが、剣呑さを隠そうともしない声で同意してきた。彼女も今日は壮一とのデートの予定だった。きっと何日も前から色々と準備していたのだろう。そのプランを木っ端微塵に破壊されて思いっ切り不機嫌だった。
 怒りの波動を纏っているあたしとマナちゃん。今日現れた光狩はきっと不幸だろう。鬱屈したパワーを全て叩き込まれることになるのだから。
 尤も、あたしとマナちゃんが怒っているのは、なにも光狩の所為だけではないのだが。

「今日の大切さを理解してないのは光狩だけじゃないけどね。亮だって……」

 ため息吐きつつ、あたしは、本来なら横を歩いているはずの男のことを思い返していた。彼は今頃、天文部室でお休みの真っ最中だろう。気絶しているとも言うが。
 事の起こりは数時間前。
 あたしと亮、マナちゃんと壮一は、いつもの訓練を終えた後、天文部室で雑談と洒落こんでいた。
 そして日が落ち、『さて、それじゃそろそろこの場はお開きにしましょうか』『そうですね。これからは恋人同士の時間ですし』『お互いに、クリスマスをめいっぱい楽しんできましょう』と二組のカップル――というか、あたしとマナちゃんが健闘を祈りあった正にその瞬間、空が蒼く染まった。
 それを見て亮が一言。『レストランの予約はキャンセルだな』。次いで壮一が『クリスマスなんかやってる場合じゃねーぜ。すぐに行かなきゃな』。
 亮と壮一の意見が正しいのはあたしもマナちゃんも重々承知していた。頭では理解していた。でも、その素っ気無い態度が妙にカチンときた。自分だけが舞い上がっていたように感じられて気に入らなかった。だからだろう。気が付いたら手を出していた。しかもグーで。結構本気で。
 結果、亮は完全にノックダウン。夢の世界へと旅立ってしまった。でも、あたしはまだ自制した方だと思う。だって、手で殴っただけで済ましたのだから。引き換えマナちゃんなんて……壮一、焦げていたし。取り敢えず、その時の惨劇を目の当たりにして、マナちゃんを怒らせるのだけはやめようと、あたしは硬く心に決めていたりした。
 とにかく、そんなわけで、光狩退治に乗り出したのはあたしとマナちゃんの二人だけだったりする。けど、不安は全く感じていない。あたしは腕に自信があるし、マナちゃんもかなり強くなっている。大抵の光狩なら、あたしたち二人で瞬殺できると自惚れ抜きに確信していた。

「それにしても、亮ってば本当にデリカシー無いわよねぇ」

「モモちゃん程じゃないですよぉ」

 蒼く照らされた街を、あたしとマナちゃんがお互いの彼氏のことをぼやきながら歩く。不機嫌さも手伝って、その口撃は留まる所を知らない。
 だが、そんなことをしつつも、あたしもマナちゃんも周囲への警戒は怠ってはいなかった。一瞬の油断が命取りになる。経験上、そのことをよく知っていたから。

「しゃー! しゃっしゃー!」

 そんなあたしたちの元へ、偵察へと出していたチロが戻ってきた。
 空を飛べ、小回りが利き、並みの光狩なら一匹で倒せるだけの戦闘力を持つチロは、偵察をお願いするのにこれ以上はないという程の適任だった。
 ちなみに、チロには『光狩を見付けても手出し無用。すぐにあたしの元へ帰ってきなさい』と厳命してある。いくら強いと言っても、下手に手を出さない方が無難なのは間違いないのだから。
 そのチロが全速力でこちらに向かって飛んでくる。
 ということは――

「どうやら見付けたみたいね」

 あたしはマナちゃんと頷きあった。

「ご苦労様、チロ。後でご褒美にメロンパンを買ってあげるからね」

 差し出した腕に降り立ったチロに労いの言葉を掛けつつ、あたしは彼の頭を指で優しく撫でてあげる。

「しゃー♪」

 目を細めて、気持ち良さそうに甘受するチロ。

「お疲れ様です、チロちゃん。光狩退治が終わったら、クリスマスということで、わたしからもチロちゃんにメロンパンをプレゼントしちゃいますね」

「しゃっしゃー♪」

 マナちゃんからの申し出に、チロが心底嬉しそうな声を上げる。
 目の前にニンジンをぶら下げられたことで俄然やる気が出たのか、チロはあたしの腕から即座に舞い上がると、『着いて来い』と言いたげに誘導するようにゆっくりと飛び始めた。

「それじゃナビゲートをお願いね。本日のスペシャルゲストさんの所まで」

 現金なチロに苦笑しつつ、あたしとマナちゃんは小走りでチロの後を追いかけた。
 さっさと片付けて、とっとと帰りましょ――なんて軽い気持ちを抱きながら。



○   ○   ○




 光狩相手にストレスをぶつけてやる、などという不穏な事を考えて薄笑いすら浮かべていたあたしだったが、誘導役のチロが入っていった場所を見て表情を一変させた。
 その場所とは、どこにでもあるような平凡な公園である。けど、あたしにとってはただの公園ではなかった。

「光狩の奴、ここに居るって言うの?」

 あたしの声に険しさが混じるのが自分でも分かった。無意識のうちに手をギュッと強く握り締める。

「鏡花さん? どうかしたんですか?」

 あたしの変化に戸惑ったのか、マナちゃんが不思議顔で尋ねてきた。
 その問いに、あたしは振り向きもせずに答える。

「ここはね……思い出の場所なのよ。この場所で、あたしと亮は……」

 お互いの気持ちを確かめ合った。あたしが亮に『好き』だと告白し、亮がそれを受け入れてくれた。亮もあたしのことが好きだと伝えてくれた。
 この公園は、あたしと亮の、二人の始まりの場所。大切なスタートライン。そう、言うなれば『聖地』である。
 そこを、光狩によって汚されたという思いが胸中に湧き上がる。絶対に許せない。あたしの全身が怒りの余りに震えを生じさせている。

「この場所で? この場所で何なんです? もしかして、ここで初めてのエッチを!?」

 あたしが途中で言葉を切ってしまった為、マナちゃんが先を促してきた。促すだけでは飽き足らず、余計な誤解まで含まれていたが。

「違うわよ!」

 マナちゃんに一人で勝手に突っ走られる前に、あたしはキッパリと否定した。

「ま、それもそうですよねぇ。だって、外で初体験なんて普通はありえないですから。そんなのするのは変態さんだけですよね」

(あいたたたた)
 マナちゃんの言葉が心にグサグサザクザクと容赦なく突き刺さってくる。
 ゴメン、マナちゃん。あたし、初体験は外だったのよ。しかも、学校の屋上なの。
 予想外の痛恨の一撃を受け、あたしは思わず胸を押さえてよろめいてしまった。嫌な冷たさを伴った汗が背筋をダラダラと流れる。

「どうしました?」

 急に顔色を悪くしたあたしにマナちゃんが怪訝な目を向けてくる。

「な、なんでもないわ。マナちゃんは気にしなくていいの」

 もちろん正直に答えられるわけも無く、あたしは動揺を押し殺して何気ない風を装って話を逸らした。

「そんな事より、あたしたちにはすべき事があるでしょ!? 一刻も早く光狩を見つけてギッタギタにしてあげなくちゃいけないという崇高な使命が!」

 誤魔化すように大声を張り上げるあたし。

「そうですね。今は、光狩に集中しなければいけませんね」

 コクコクと『尤もだ』と言わんばかりにマナちゃんが頷く。
 なんとか窮地を脱することは出来たらしい。あたしはホッと胸を撫で下ろした。
 ただ、マナちゃんの『今は』という一言が物凄く気にはなったが。さらに、あたしの『サトリ』の力が、マナちゃんの『後でたーくさん追求させてもらいますね』という心を伝えてきていたりしたが。
 ――取り敢えず『気の所為』。あたしはその一語で全てを片付けた。問題を先送りしただけとも言うが。
 でも、先程の言ではないが、あたしたちには先ず何よりも優先してしなければいけない事がある。それは紛れも無い事実である。光狩以外の些細な事に構っていられる余裕などないのだ。と、自分に言い聞かせて必死に精神の平安を保っていたりするのはここだけの秘密である。

「しゃー」

 あたしが頭の中で様々な事を考えて、半ばボーっとしかけた時だった。あたしたちのちょっと前方をゆっくりとした速度で飛んでいたチロが不意に進みを止めた。次いで、注意を促すように一鳴きする。

「えっ? な、なに?」

 意識が内に向かっていたあたしは、ついついマヌケな質問を発してしまった。

「シッ! 誰かいます。おそらくは光狩憑きですね」

 その問いに、マナちゃんが人差し指を口に添えながら小声で教えてくれた。
 言われて慌てて目を凝らしてみると、暗闇の為分かりづらいが、確かに何者かが蹲っている姿が見える。

「あいつ、なにやってるのかしら? あんな所に座り込んで」

「さあ? なにをやってるんでしょうね?」

 声を潜めてのあたしの疑問に、マナちゃんもヒソヒソと返してきた。頭上にクエスチョンマークを幾つも浮かべて首を傾げている。

「ま、傍に行ってみれば分かるかな」

「ですねぇ」

 あたしとマナちゃんはコクンと頷き合うと、物音を立てないように気を付けながらゆっくりと光狩に近付いていった。

『……ク……ス……のだ……』

 相手の姿形がハッキリと目視できる距離にまでやって来たあたしたちの耳に、光狩がなにやらブツブツ呟いている声が飛び込んできた。
 もっとよく聞き取ろうと、歩みを止めて耳に神経を集中させるあたしとマナちゃん。

『クリスマスは苦しみます、サンタクロースは散々苦労する。昔から言われている事じゃないか。クリスマスが何だ、サンタが何だ、キリストの聖誕祭が何だ。どうせ俺は一人身さ、シングルさ、もてない君さ。クリスマスなんて……クリスマスなんて……』

 暗い、暗すぎる。
 思わずこめかみを押さえてしまうあたしたち。聞くんじゃなかったという後悔の念が沸き上がってくる。
 と共にあたしは深く理解した。この光狩は偶然クリスマスに現れた――正確には人に憑いた――わけじゃない。今日がクリスマスだからこそ出てきたのだ。この人の抱く、妬みや悲しみの心に引き付けられて。

『サンタのばかやろー……キリストなんて……』

 罰当たりなことを吐き捨てまくる光狩。それを聞いて、あたしとマナちゃんが揃って深いため息を零してしまう。
 しまった! すぐに我に返って慌てて口を押さえたがもう遅い。あたしたちの発した音は光狩にこちらの存在を気付かせるのに充分な大きさを持っていた。

『……誰だ!?』

 光狩はゆらりとした動きで立ち上がりつつ、こちらへと据わった目を向けながら鋭い声を投げかけてきた。
 無論、あたしにそんな問いに答える気は無い。光狩の声を無視し、先手必勝とばかりに攻撃を……

「よくぞ聞いてくれました!」

 仕掛けようとした瞬間に、隣からマナちゃんのどことなく嬉々とした叫びが聞こえてきた。機先を制され動きを止められてしまう。勢いあまって、数歩たたらを踏んでしまった。

「ま、マナちゃん?」

 怪訝な目で『何事?』と問い掛けるあたし。しかし、マナちゃんはその疑問の篭った視線を全く気に留めずに先を続ける。

「青い地球を守る為、胸の鼓動が天を衝く! 三輪坂真言美、悪の現場にただいま参上!」

 指を光狩にビシッと突きつけて、マナちゃんが気持ち良さそうに言い放った。
 たぶん、本人は頭の中で『決まった』なんて思っているのだろう。あたしにも妙に満足気な心が伝わってくるし。
 けど、光狩の側はおそらくマナちゃんの決めセリフを全く聞いていなかっただろう。

『お、おんな……おんな……おんなだ……う、うへへ……きっとサンタからのプレゼントに違いない……おんなだ……おんな……』

 あたしたちの方を、戯けた事を宣いながら、何かに取り憑かれたような――実際に憑かれているのだが――血走った目をして凝視しているのだから。それも、体を異形のものに変貌させつつ。至る所から触手を生やしたおぞましい姿へと変異させつつ。

「恋人たちの大切な夜であるクリスマスを悪く言うなんて、全国のケーキ屋さんが許しても、この三輪坂真言美は許しません!」

 そんな光狩の様子に構わず、マナちゃんは尚も続ける。自分の世界に入ってしまっているようだ。

「サンタさんに代わってお仕置きを……」

『お、ん、なああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』

 ポーズを取ってセリフを叫んでいるマナちゃんに、こちらも負けじと大絶叫を放ちながら光狩が触手を伸ばしてきた。

「ふえ!? ひ、ひえーっ!」

 酔っていた分、マナちゃんの反応が一瞬遅れる。逃げられない、あたしの中の冷静な部分がそう判断を下していた。

「マナちゃん! 危ない!」

 咄嗟だった。無意識に体が動いていた。気が付いたら、あたしは彼女に体当たりするかのようにして突き飛ばしていた。

「きゃっ!」

 悲鳴を上げながらマナちゃんが地面に倒れ付す。その上を触手が素通りしていった。思わずホッと安堵の吐息を零す。
 それがまずかった。あたしが晒した数瞬の隙を光狩は見逃さなかった。

「あっ!」

 あたしの右手首が触手に絡め取られる。次いで左手首、加えて両足首も。

「こ、この! 放しなさいよ!」

 ジタバタと暴れるが触手はビクともしない。
 必死の形相で身悶えるあたしを嘲笑うかのように、光狩は拘束された体を宙に持ち上げた。

「くっ……っ……ち、チロ! マナちゃん!」

「しゃー!」

「は、はい!」

 磔にされながら、あたしはチロとマナちゃんの名を叫ぶ。自分の体が動かせないなら、他者に攻撃をしてもらうのみ。
 あたしの意図を察して、チロは猛然と光狩へと突っ込み、マナちゃんはすぐに呪文を唱えてそれを解き放った。
 ――しかし、

「しゃ!? しゃー!」

「そ、そんな!?」

 チロの突進は蠢く無数の触手の群れによって呆気なく阻まれ、マナちゃんが撃った『ファイヤー』は全く効果を見せなかった。かすり傷すら負わせていない。
 チロとマナちゃんの表情に焦りの色が浮かぶ。チロでは近づけない。マナちゃんは、あたしにまで効果が及ぶのを恐れて強い術を使えない。

「しゃー! しゃー!」

「ど、どうすれば……」

 対処法を思い浮かべない為か、チロとマナちゃんがオロオロし始めた。半ばパニックに陥っているようだ。

「そ、そうだ。センパイとモモちゃんに連絡を……」

 マナちゃんがポケットを弄る。が、すぐに泣きそうな顔に変わった。

「け、携帯を部室に置いてきちゃいましたぁ」

 見ていて可哀想になるくらいに真っ青な顔になるマナちゃん。あたしが捕まったのを『自分の所為だ』と感じているのだろう。その自責の念が、更にマナちゃんの焦りを増していた。

「マナちゃん! 落ち着いて!」

 声を限りにあたしが叫んだ。

「き、鏡花、さん?」

「携帯が無いのなら仕方が無いわ。悪いけど、マナちゃんが一っ走り亮たちを呼びに行ってくれない? それまで……こいつはあたしとチロで遊んでいてあげるから。ねっ、お願い」

 言いつつあたしが笑いかけると、マナちゃんは即座にきびすを返す。

「わ、分かりました。すぐに呼んで来ますから待っていて……っ!?」

 走り出そうとしたマナちゃんの足がピタリと止まる。否、止まらされる。
 その原因は、

「ぐ、うぐっ!」

『ガアアアアアァァァァァァッ!』

 触手に首を絞められた事によって、両腕が千切れんばかりに引っ張られた事によって生じたあたしの苦しげな声と、マナちゃんとチロを睨み付けながらの空気を震わす程の光狩の咆哮。
 光狩の言葉なんて分からない。でも、言わんとする事は理解できた。
 つまり『動くな。動いたらこいつを殺す』。
 効果は覿面だった。マナちゃんもチロも完璧に動きを封じられてしまった。まるで凍り付いてしまったかの様に。
 完全に制御下に置いた一人と一匹の様子を見て、光狩は甚く満足した雰囲気を纏わせた。

『グアァ』

 楽しげとも表現出来る唸りを上げると、注意をマナちゃんとチロからあたしへと移してきた。光狩の双眸に宿る輝きが途端に淫靡な物へと変わる。

「な、なによ? なにをする気よ!?」

 光狩に険しい目を向け、あたしは『まさか、あたしを嬲りものにでもするつもりなの?』という嫌な予感を振り払うように声を張り上げた。

『ゥガァアァ』

 あたしの叫びを聞いて、光狩は笑った。明らかに笑い声を上げた。
 そして、あたしに対して――見せ付けるように、不安を煽るように、予感を現実のものへと変えようと――ゆっくりとゆっくりと触手を伸ばしてきた。

「や、やめなさいよ」

 声に思わず震えが混じる。
 触手から逃れる為に必死になって体を捩るが、拘束は相変わらずビクともしない。

「や、やだ……っ!」

 あたしの死に物狂いの努力も虚しく、亀の歩みで近付いていた触手が遂にあたしの体に辿り着いた。
 すぐさま、胸やお腹、太股などを緩々と遠慮なく撫で回してくる。

「ぅぐ……っあ……」

 触られた箇所から、吐きそうになる程の不快感が沸き上がってきた。
 気持ち悪い。
 触手があたしの胸を、脇腹を弄る度に、声も出せない位の激しい嫌悪感が襲ってくる。
 でも、同時に心の片隅で安堵感も覚えていた。あたしの体は、亮以外の者から施される愛撫を受け入れない、あまつさえ拒絶すらしている。その事実にあたしは少なからず満足感を抱いていた。
 けれども、あたしがそんな安心を感じていられたのはそこまでだった。光狩が、明らかにあたしの下腹部に狙いを定めたように触手を構えたのだ。

「っ!? だ、ダメ! いや! いやぁ! そこだけはいやぁ!」

 それに気付いたあたしは暴れまくった。今まで以上に。力の限りに。
 触られても快感を得ることはない。決してないと断言できる。しかし、かといって触れられても構わないというわけではない。その場所は、愛する人――亮以外には死んでも許したくない。

『グァッァ』

 あたしの抗いを嘲笑するかのように、くぐもった声を漏らし体を振るわせる光狩。
 獲物の抵抗を楽しむように、形相を面白がるように、先程以上にゆっくりゆっくりと触手を伸ばしてくる。

「やだっ! いやっ!」

 無茶苦茶に体を動かす。けれども、あたしを拘束する触手は揺るがない。近づいて来る魔手から逃れる術もない。

「た、たす……たすけ、て」

 あたしの口から無意識に情けない言葉が漏れ落ちるが、そんなことを気にする余裕など既に無かった。
 もっとも、助けなど無いことは自分でも分かっている。チロもマナちゃんも動けない。亮も壮一もこの場にいない。分かっている。分かっているが故に――あたしの心に絶望感が広がっていった。

「亮……亮……」

 だけど、それでも諦めることなど出来ようもなく、愛する人の名を唱えながら必死で身を捩らせ続ける。
 でも、そろそろ限界に近い。あたしの体力も、気力も……僅かな希望も。

「亮……亮ぉ……」

 触れるか触れないかの地点にまで迫ってきた触手。
 そいつが発する熱を感じながら、あたしはギュッと固く目を瞑り、

「りょおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 声を限りに思いっ切り叫んだ。あたかも断末魔のように。

「鏡花!」

 応える様に返ってきた声。あまりにも聞きなれた愛しい声。
 ハッとして見開いたあたしの目には、怒りの形相を浮かべて物凄い勢いで走ってくる亮の姿が飛び込んできた。ついでに、その後ろの壮一も。
 駆け寄りながら、護章を剣――ナイト・オブ・ナイト――に変える亮。彼の全身から激しい怒りのオーラが漂っているのが目に見えるようだった。

「よくも俺の鏡花を! 許さねぇ!」

 『俺の鏡花』。こんな時にも関わらず、あたしの胸に嬉しさが溢れてしまった。
 普段の亮は、恥ずかしがってあまりそういう言葉を口にしてくれない。その亮が心から『鏡花は俺のものだ』と叫んでいる。不謹慎とは思いつつも、嬉しくならないわけがない。
 嬉しいだけではない。亮のセリフを聞いて、あたしの背筋をゾクッとする程の快感が走り抜けた。触手にどれだけ弄られても感じなかったのに、亮の声だけで……。その事実に、あたしは深く満足した。それだけあたしが亮の事を愛している証拠だと思えたから。

『ッゲァア』

 あたしが幸せを感じている間にも場は急速に展開していった。
 亮は光狩との距離を縮め、光狩は亮への敵意を膨らませていく。

『ガアアア!』

 淫劇の場への突然の乱入者の出現に気を悪くし、冷静さを欠いた――あたしを人質に使うということにすら思いが回らなかった――光狩は『邪魔するな』と言わんばかりの咆哮を上げ、向かってくる亮に対して、怒りに任せて数え切れないほどの触手を撃ち放った。あたしやマナちゃんへ向けたものとは違う、殺気の篭った触手を。
 しかし、そんな力任せの攻撃が『重ね』の能力者である亮に当たる訳が無い。亮は飛んでくる触手の全てを避け、アッサリと斬り捨てた。

『グァアアアガアッアァァアアアァァァアア!』

 襲ってくる激痛に、光狩が身を震わせて絶叫する。
 だが、亮の攻撃の手は緩まない。当面の触手を片付けた亮は、勢いをそのままに光狩の本体との間合いを詰めると、剣を振りかぶって袈裟斬りに一太刀入れた。

『アアッッアッァアグアアアア!』

 痛みと怒りの入り混じった悲鳴が更に迸る。
 与えられた痛撃に、あたしを拘束していた触手から力が抜けた。

「きゃああ!」

 重力に引かれ、落下していくあたしの体。けれど、地面に叩きつけられる衝撃はやって来なかった。

「ふぅ。危機一髪ってとこだったな」

「りょ……亮」

 お姫様抱っこ。それが今のあたしの体勢だった。亮が落ちてくるあたしを受け止めてくれたのだ。

「も、もう! なにをやってたのよ! 遅いじゃない!」

 彼に抱かれる嬉しさ、助かった安心感。それらがあたしの憎まれ口を復活させた。もっとも、顔には隠しきれないほどの満面の笑みが浮かんでいたはずなので、あたしの本心はバレバレだったが。

「そうか? ナイスタイミングだったと思うけどな。絶体絶命の時に現れてこそのヒーローだろ?」

 亮も負けじと軽口を返してきた。でも、あたしの力は、彼の言葉とは裏腹の亮の安堵感を読み取っていた。

「それもそうね。じゃ、許してあげるわ」

「そりゃどうも」

 笑い合うあたしたち。

『グ、ガアアアアアアアアアアアアア!』

 そんな幸せ空間を形成しているあたしと亮に、光狩が怒声と共に触手を放ってきた。
 亮はあたしを地面に降ろすと、左腕であたしの身体を守るように抱いたまま剣を振るった。

「汚い手で俺の鏡花に触れようとするんじゃねぇ!」

 一閃するごとに触手が斬り捨てられていく。
 亮のセリフに、あたしが再びゾクゾクッとした快感を得ていたのは言うまでも無い。

『ガァア! グオオオオォオオォォォ!』

 もはや数え切れないくらいの触手を葬られているにも関わらず、それでも尚も伸ばしてこようとする光狩。しかし、この光狩があたしたちに触手を振り上げる機会はもう二度とやって来なかった。

「余所見禁物です! カラミティ!」

 全ての意識があたしたちの方に向いていた光狩に、それまで動きを封じられて耐えに耐えていたマナちゃんが最高最大最強の術を撃ち放った。
 ついで、壮一が『金属バット』で、チロが牙で追い討ちを掛ける。

『グフ、ガ、ァガガ』

 立て続けに痛撃を受け、光狩の動きが完全に止まる。力なく立ち尽くし、苦しげな呻きを吐き零すのみとなった。

「さ。後はお前の分だ。きっちりお返ししてやれ」

 完全に虫の息と化していた光狩に視線を送りながら、亮があたしの肩をポンと叩く。
 マナちゃんと壮一もあたしの方を見て頷いていた。

「分かったわ。みんな、ありがとね」

 ウインクしつつ答えると、あたしは精神の集中を始めた。
 目を瞑り、体の中で力を練っていく。

「十二翼よ」

 そして、溢れんばかりに膨らんだ力を、あたしはチロを介して一気に解き放った。

「光となれ!」



○   ○   ○




 光狩との戦いが終わり、あたしと亮は帰路についていた。触れ合う肩から伝わってくる仄かなぬくもりが心地いい。
 取り憑いていた光狩は殲滅。憑かれていた人は……そのままにしておいた。一応、警察に『人が行き倒れています』と連絡を入れておいたから凍死する事はないだろう。
 然るべき場所にまで連れて行っても良かったのだが、亮が「こんな奴、放っておけばいいって」と強行に主張した為、放置という結果となった。あたしに酷い事をしたのが余程頭に来たらしい。あたしとしては嬉しくもある。

「ところでさ、亮? あたしたちの場所、よく分かったわね」

 愛する人の顔を見上げてあたしが尋ねた。

「別に分かったわけじゃないぞ。目が覚めた後、モモの奴を叩き起こして急いで飛び出したんだ。それから何時間も散々走り回ってさ。そんでもって、やっと見付けたと思ったら大ピンチに陥ってるし。まったく、間に合ったから良かったものの、もし目覚めるのが少しでも遅れてたら今頃どうなっていたか……」

 ジト目であたしを見ながら亮が説明する。というか非難してくる。気絶させた張本人であるあたしは、視線を逸らして「ごめん」と一言。今回は全面的にあたしの方が悪かったので謝るしかない。深く反省。

「ま、ギリギリでもセーフだったんだからいいけどな。しっかし、それにしても、とんでもないクリスマスになっちまったな。どうする? 今からでもどっかの店にでも行くか?」

 慰めるようにあたしの頭を優しくポンポンと叩きながら、亮が話題を楽しい方向へと変えてきた。

「それもいいけど、どちらかと言うと、ケーキとシャンパンを買って亮の部屋で静かに過ごしたい気分だわ」

 彼の腕を取りながらあたしが提案する。
 マナちゃんと壮一はデートのやり直しとばかりに街へと繰り出していったけど、あたしは亮と二人きりでいたかった。多分、思いっ切り甘えたいんだと思う。今のあたしは『俺の鏡花』発言ですっかり参ってしまっているから。

「そっか。俺としてもそっちの方が助かるけどな。走り回ったり戦闘したりでもうクタクタだし」

 言葉通りに亮が疲労を滲ませた顔をした。

「クタクタ? そうなんだ。残念ねぇ。今日は助けてくれたお礼に、亮の言うことを何でも聞いてあげようと思っていたのになぁ」

 冗談半分本気半分で言うあたし。
 だが、それに対する亮の反応を見て、とても「ウソよ」とは言えなくなってしまった。

「なに!? マジか!? そ、それってあんな事やこんな事も!?」

 心底嬉しそうに確認してくる亮。
 能力を通じて伝わってくるプレイの過激さに思わず赤面してしまうが、女に二言は無い。

「ま、まあね。今日は特別サービスよ。けど、クタクタなんでしょ? そんな体力は残ってないんじゃない?」

「大丈夫だ。そっちの体力はバッチリ。ほら、甘いものは別腹って言うだろ。あれと同じようなもんだよ」

 あたしの問いに亮がどキッパリと返してきた。
 その様子を見て、あたしは呆れを通り越してついついプッと吹き出してしまう。

「了解了解。分かったわ。それじゃ、部屋に帰ったらたっぷりとご褒美をあげるからね。今日はどんな事でも許しちゃうから」

「おう! それじゃ、すぐに部屋に帰ろう!」

 期待で顔をニヤけさせる亮。

「うん」

 彼の腕に頬を摺り寄せ、負けじと満面の笑みを零してしまうあたし。
 ――が、ある事に気付き、あたしはハッと身を起こした。

「いっけない。亮に言い忘れていた事があったわ」

「俺に? なんだ?」

「内緒で大事な話なの。耳を貸して」

 そう言うと、亮は不思議そうな顔をしながらも、足を屈めて素直に耳を傾けてくれた。
 あたしは、亮の首に腕を回すと、彼の頬に一つ口付け。
 そして――

「大好きよ。愛してるわ、亮。メリークリスマス♪」









< おわり >


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