ある日の藤田邸のリビングでの事。
「これってば、ゆかりが幼稚園の頃に浩之ちゃんにお風呂に入れてもらってる時の写真だよ。オールヌードだね♪」
「お、お母さん! は、恥ずかしいからそういう言い方しないでよぉ!」
「ハァ。琴美もこの頃は可愛かったのに」
「……ママ? それ、どういう意味?」
「あはっ。この写真の沙夜香ってば木に登ってる。本当にオテンバよねぇ」
「そりゃそうよ。だって、ママの娘だもん」
全員でアルバムを眺めては、笑い合ったりからかい合ったりと楽しい一時を過ごしていた。
「……あっ、これは恵理香たちが中学に入学した時の写真ですね」
「はい、そうです。入学式の後で校門の所で撮った物です」
芹香と恵理香の会話に釣られ、二人が示した写真を食い入るように眺める家族一同。
但し、例外が約一名。
「ん? どうしたマルチ? なんで顔を背けてるんだ?」
「い、いえ……別に深い意味は……」
怪訝な顔をして尋ねる浩之に、マルチが言い辛そうにゴニョゴニョと答える。
その様を見て、少しの間不思議そうな表情をしていた浩之だったが、ふとある事を思い出し納得気に頷いた。
「あ、そうか。マルチには苦い思い出があるんだったよな。中学の入学式には」
「はうぅ。出来れば忘れたままでいてほしかったですぅ」
『これでもお母さん』
中学の入学式当日の朝。
藤田家の娘たちの中には、何度も何度もトイレに足を運ぶ者がいた。
期待と不安の入り混じった何とも表現し難い緊張感に苛まれているが故に。
そして、その感情に襲われているのは彼女達の母であるマルチも同様であった。
マルチもまた――娘たち以上に、自分の事の様に――緊張感を覚え、朝から幾度もトイレに通う羽目になっていたのである。些かロボットらしくない行動ではあるが。
「はうぅ。漏れちゃうかと思いましたぁ」
その後、暫くは落ち着いていたマルチの尿意であるが、式が始まる直前になって、緊張感が高まるにつれて再び襲来。已む無く、式場である講堂から出て、手近にあったトイレに駆け込んだマルチであった。
――とは言ってもそこはマルチ。そう簡単には辿り着けなかった。簡単な作りの校内であるにも関わらず道に迷うこと数度。近くにいた人達に尋ね尋ねしながら、やっとの思いで到着したのである。『手遅れ』になる前にトイレに着けたのは奇跡に近い。
マルチの零した「漏れちゃうかもしれませんでした」は決して比喩でも誇張でもなかった。事実『崩壊』寸前にまで陥っていたのだから。
しかし、神はマルチを見捨てなかった。ギリギリセーフでトイレに駆け込めたのであるから。余裕だろうがギリギリだろうがセーフはセーフである。
中学生にもなる娘を持つ『母親』の行動としては、少々首を傾げざるを得ないものであったとしても。
「ふぅ、危ないところでした」
兎にも角にも――なんともロボットらしくないセリフを放ちながらも――無事に用が足せたマルチ。
晴れやかな顔で個室から出た後、洗面所で丁寧に手を洗い、鏡を見ながら軽く髪を整えると、軽やかな足取りでトイレから廊下へと一歩踏み出し――
「は、はれ?」
そこで、マルチの顔が強張った。
軽く左右に視線を送ってからポツリと一言。
「講堂って……何処ですかぁ?」
マルチ、お約束とばかりに見事に場所が分からなくなっていた。
無理もない。此処に駆け込んでくる時は尿意を堪えるのに必死で、道順など覚えている余裕など皆無だったのだから。
それでなくても学校と言うものは作りが似通っている。マルチが帰り道が分からなくなってしまったのも致し方ないところである。――他の者ならそんな事はないであろうが、そこはやはりマルチであるし。
「ど、どうしましょう。困りました」
誰かに道順を尋ねようにも、既に式が始まってしまっている時間となっていた為に人っ子一人通らない。
思わず頭を抱えてしまうマルチ。
「ううう、こんな事になるのなら、素直に誰かについて来てもらえば良かったですぅ」
実際、あかりたちは「ついていってあげようか?」と言ってくれたのであるが、「大丈夫ですよぉ。わたしだっていつまでも子供じゃないんですから」とお断りしてしまっていたのだ。
自分の発言を心から後悔してしまうマルチであった。
しかし、いくら後悔しても後の祭り。後悔役立たずである。
それよりも、今はこの状況を何とかするのが先決であった。
どうにかして現状を打開しようと「うーんうーん」と頭を捻るマルチ。
「あ、そうです! わたしにはこれがありました!」
腕を組んで暫く考え込んだ後、ハッとした顔をしてマルチはポンと手を打つと、ポケットからおもむろに携帯電話を取り出した。
「この携帯電話を使って助けを求めれば……って……あうぅ、やっぱりダメですぅ」
一瞬喜色を浮かべたものの、すぐにマルチはガックリと肩を落としてしまう。
既に入学式は始まっている。その最中に携帯の着信音を響かせることなど出来ない。そんな事をしては浩之たちにも、そして家族以外の多くの人たちにも迷惑がかかってしまう。それに、その辺の事は弁えている浩之たちであるから、電源だって当然のように切られている。
残念ながら携帯救援信号作戦は却下である。
「そ、そういえば、以前芹香さんに……」
なにか探し物がある場合はダウジングが有効ですよ、と教えてもらった事を思い出したマルチ。
「こ、これです! この方法なら音もしませんしバッチリ……って……うううぅぅ、やっぱしダメですぅ」
マルチはまたまたガクッと肩を落とした。
ダウジング云々以前に肝心の針金――及びその代用となる物――を持っていないのだから無理なのは当然である。
「い、いいえ、わたしは負けません。まだ何か手はあるはずですぅ」
必死になって、マルチは全身のポケットを弄る。
「……ふ、ふっふっふ、です。天は我を見放しませんでした。わたしにはこのアイテムが残っていました。そう! わたしが迷子になる事を見越して、主任が『常に持っていなさいね』と手渡してくださったアイテムが!」
グッと握り拳を作りながら、嬉しそうにマルチが言う。その内容はなかなかに情けないものではあったが。
「どこでもバッチリ! 来栖川謹製方位磁針ですぅ!」
叫びながら、そのブツを手にして誇らしげに頭上に掲げるマルチ。
そして、その体勢のまま暫し固まる。
「……って、ダメですぅダメですぅ! ここで東西南北が分かってもなんの意味も無いですよぉ!」
思わず滝の様な涙を流してしまうマルチであった。
来栖川が――と言うか長瀬主任個人が――手掛けただけあって非常に高性能かつ無駄に多機能な――時計にストップウォッチ、AM・FMラジオ、温度計・湿度計に万歩計、挙句の果てには痴漢撃退用ブザーまで付いている――方位磁針であったが、この場に於いては全く役に立たない無用の長物である事には変わりがない。
「あうぅ、どうしましょう」
項垂れて、マルチは結構本気で途方に暮れてしまう。
だが、いつまでもクヨクヨしていないのがマルチの美点。
すぐに気を取り直すと、決意に満ちた目をして周囲を見回した。
「し、仕方有りません。こうなったら適当に歩き回るのみです。い、いつかは辿り着ける……はず……です、きっと」
例え道半ばで朽ち果てようとも、此処に留まり続けるよりは有意義ですぅ。
――と、些か大袈裟とも思える程の悲壮の覚悟を固めたマルチ。
「よしっ!」と自分に気合を入れて一歩を踏み出そうとしたその時だった。
「こら! そこの女子! こんな時間に何をやっとるか!」
少し離れた場所からそんな野太い声が飛んできた。
「へ? はい?」
何事かと思ってそちらに視線を送ると、ガタイの良い男性がこちらに怖い顔を向けているのが見えた。
「え、えっと、わたしですか?」
自分を指差してマルチが恐る恐る尋ねる。
「当たり前だ。お前の他に誰がいる」
言いながら、険しい表情をして男――全身から『俺は体育教師兼生活指導だ』というオーラが発せられている――が近付いてくる。
咄嗟に逃げ出そうとしたマルチであったが、足が竦んで動けなかった。
「ん? 見ない顔だな。さては、お前、新入生だな。いきなり入学式をエスケープとは良い度胸をしてるじゃないか。それになんだその服は!? どうして制服を着てこない!? 耳にも変なアクセサリーをつけおって。まったく最近の子は……」
「そ、その……わ、わたしは……」
いきなり速射砲の如く浴びせられた説教に圧倒されてしまうマルチ。上手く言葉が出てこない。
「こっちに来い! その性根を叩きなおしてやる!」
「は、はわっ! ち、ちょっと待ってくださいぃ! わ、わたし、新入生じゃないんですよぉ!」
腕を掴まれてズルズルと引き摺られながらも、マルチは何とか誤解を解こうと無理矢理声を張り上げた。
「わたし……今日この学校に入学した娘のお母さんなんですぅ!」
マルチがそう叫んだ刹那、その場の空気がピシッとひび割れた。
「お、お母さん、だと?」
「はいです! お母さんなんです! ママとも呼ばれていますけど!」
数瞬の沈黙が落ちる。
廊下をヒューッと風が通り過ぎていった。
「わーっ! 何も言わずに歩みを再開するのはやめて下さいよぉ!」
「どやかましい! きりきり歩け! ウソをつくならもう少しマトモなウソをつかんか!」
「うわぁぁぁん! ウソじゃないんですよぉぉぉ! 信じてくださぁぁぁい!」
「えーい、黙れ黙れ! 今日はこれから一日中説教してやる! 帰れると思うなよ!」
「あああぁぁぁん! イやですぅぅぅ! 誰か、誰か助けてくださぁぁぁい! ひろ゛ゆぎざぁぁぁん!」
暗転。
――その後、マルチを探し回った浩之たちが目にしたのは、
「わたし、新入生じゃないんですぅ。本当にお母さんなんですぅ」
「やかましい! まだ言うか!」
廊下に正座をさせられて滂沱の涙を流しているマルチと、その傍らで竹刀を手にして仁王立ちしている厳つい顔をした男の姿だった。
「……マルチちゃん、中学生と間違えられちゃってたみたいだね」
「……だな。無理も無い気もするけど」
耳に入ってくる怒号に、ついつい納得顔になって「さもありなん」と頷いてしまう浩之たちなのであった。
ちなみに、誤解の解けた後、この教師がマルチに対して平謝りに謝り倒したのは言うまでも無い。
○ ○ ○
「なーんて事があったんですよね」
「何時まで経っても帰ってこないんやからな。あの時は心配したわ」
葵と智子が顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
「それで探しに行ったら正座。凄いです。さすがはマルチさん、只者では有りません」
「あ、あれはインパクトのある光景だったよね」
「ウン。とってもビックリしたヨ」
褒めているのか貶しているのかイマイチ判断に苦しむ事を口にするセリオ。それを聞いて、理緒とレミィが曖昧な笑顔で相槌を打つ。
面々の言葉に、マルチは思わず「はうはう」状態になってしまう。
目から涙がアメリカンクラッカーの様にブラーンとぶら下がっていた。
「そ、そういえばさ。思い出したんだけど、あの先生って何故かあれから暫くは姿を見せなかったよね。どうしたんだろ?」
記憶を辿りつつ、何気なく理子が疑問を零した。本当に何気なく。場の空気を変える意味も込めて。
それに応えたのは、幾人かの姉妹の声だった。
「……マルチお母様を苛めたのですからそれ相応の罰を……」
「マルチママに酷い事をしたのですから……真・滅殺♪」
「エモノは容赦なく狩るべきネ」
クスクスと楽しげに笑いあう姉妹の姿を見ながら、余計な事を言うんじゃなかった、真実なんて知りたくなかったと心から後悔する理子。
そして、
「み、見ろよ、この写真。みんな可愛いよなぁ」
「ほ、ホントだね、浩之ちゃん」
「わ、わたしはこっちの写真も良いと思います」
今の一連の会話は聞かなかったことにしようと、冷や汗をダラダラ流しながら思う親一同。
但し、
「えっと、もしかして、琴美さんたち、わたしの為に何かをしてくれたんですか? えへへ、ありがとうございます。わたし、嬉しいですぅ♪」
よく分かっていないマルチを除いて。
「いや。ありがとうって……お前なぁ」
「マルチちゃん……それ、ちょっと違う」
この素直さ・無垢さはある意味罪かもしれない。
満面の笑顔で言うマルチを見ながら、ついついそんなことを考えてしまう浩之たちであった。
< おわり >
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